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きっとこれが始まりってやつなんだろう

「ここか……」

 春の麗らかな陽気に晒されながらも、私こと、山茶花椿姫の心中は毎度穏やかではない。当たりだといいけど、そう胸中で愚痴るのは毎度のことだ。

 グルメ雑誌の記者なんぞをしている私だが、一番の悩みと言えば美味しい料理に巡り合えないという何とも皮肉なものだ。もしかしたら、私の舌が肥えていて、ワガママを言っているだけなのかもしれないけれど。

「さて、と」

 マップを頼りに教えられた住所へと進んでいると、かぐわしい香りが漂ってくる。もうすぐ店が見えてくるはずだ。そう判断したのは、視覚より先に嗅覚だというのだからお笑い種である。

「ああもう……」

 最近買い替えたばかりのスマートフォンは、私の意思を無視してコロコロと画面を変えていく。そろそろ人生の四半世紀を迎えようとしている私だが、どうにもこういった電子機器の扱いにはいつも苦労する。携帯電話なんて、最低限の機能を備えているパカパカケータイで良いのに……と、スマートフォンを勧めてきた後輩の顔を思い浮かべてはグチグチと苦言を溢す。

とまあ、そんなことばかりに気を取られていても仕方ないので、スマフォの画面を暗くしてから、私は嗅覚を研ぎ澄ます。

「あ」

なんと簡単なことだろう。匂いで探した途端に、目的の店は見つかったのだ。あはは、などと乾いた笑みを浮かべて、すぐ止める。香りから判断するに、三つ星(私基準)の評価は出しても良いレベルだと思う。それに、これは仕事なのだから。襟を正していざ店内へと歩を進めるとしますか。


***


カラン、と軽い音が店内に響く。白をベースとした店内の様子は、落ち着いている、その一言に尽きるものだった。そこから、店主の顔を思い浮かべる。きっと、この店の雰囲気以上に落ち着いた方、長年の経験から腰の据わった老年の相貌を思い浮かべる。

じゅるり。

あ、いけない。期待だけでお腹が空き、自然とよだれが溢れてしまう。今までこの仕事を続けてきた意味がやっと叶うのかと思うと、そういった生理現象を抑圧出来ないのは自然でしょう……なんて、自分に言い訳しても仕方ないのだけど。

「あの……」

「……あ!」

「もしかして、取材の方ですか?」

「あ、あの!」

いけない。トリップしていた時間が長いせいか、平静を取り戻すのにも手間が……。

「あ、えっと!」

「大丈夫ですよ」

あ、と思わず見惚れた。ふわりと香ってきたのは、バターのそれだったのだが、彼の纏っている雰囲気が周囲の空気まで暖かくさせた。それが、白を基調とした店内の様相に怖いくらいマッチしている。まるで雪原だ。

「唐突に声をかけてすいません。僕は、この『Piccola Felicita』の店長を務めさせてもらっている春日井透といいます。えっと、お電話くれた……」

年は、多分私とほとんど変わりないと思う。想像と違っていて残念というわけではない。ただただ、彼の雰囲気が不思議だったのだ。

「椿姫さんでしたっけ?」

「……はい」

咄嗟に口角がわなわなと震える。正直なところ、下の名前で呼んで欲しくはないためだ。理由については、まぁ、機会があれば話そうか。とりあえず、私はその場をなんとか苦笑いで乗り切った。

「……はい。週刊ぐるスポの山茶花……椿姫と申します。今日はよろしくお願いします」

名字の部分をワザとらしく強調して、名刺を差し出す。どうもこの名前には良い思い出がない。大好きだった父のつけてくれた名前だけど、自分の名前だけは未だに受け入れられずにいた。

「はい、よろしくお願いしますね」

ふわりとした笑顔が返ってきた。きっと、こんな男に世の女性達はメロメロになってしまうのだろうな、と取材とは全く関係のない事を考えていた。それに、私には所詮縁のない話なので、すぐに頭を切り替える。

「あれ? 店長さん1人ですか?」

ここで初めて気付くが、ホールの店員が1人も見当たらない。

「はい。実は今日、お店自体は休みにしてあるんです。取材に来られることなんて、今までなかったもので」

そうなると、このお店の知名度は決して高くないということか。私の勤めている会社も大きくないが、課長の鼻はよく効く、と評判だった。なるほど、私のセンサーにも引っかかったのだから、その点は認めておいてやろう。などと考えている場合ではない。せっかく丁寧に応対してくれたことに感謝しなくてはいけない。

「わざわざありがとうございます。ここはレストランでよろしいのですか?」

「レストランというよりは、洋食屋さんの方がしっくりきますね。店名にある通り、少しでも幸せを感じてくれたなら、それに越したことはないので」

聞きながらメモを取る。少々謙遜が強い気もするけど、自身の腕を過信されるよりはマシだ。

「あと……」

グキュルルル……とお腹の音が鳴る。

「えっと……」

もちろん、私のお腹だ。

「とりあえず食べさせてもらってもいいですか?」

「ふふ……し、失礼」

さすがに、こんな大音量で空腹の音を鳴らされては緊張の糸も解けるのだろう。彼の表情も緩み切っている……とは言っても、すぐに元の表情に戻ったが。あ、でも、まだ緩んでるな。

「かしこまりました。今から調理始めますので、どうぞそちらのカウンター席にてお待ち下さい」

「……はい」

私は、少々バツの悪さを残したまま背中を小さくして席に着いたのだった。

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