異変:2
ユーカと喧嘩別れをした夜。シドはいつもの様に晩御飯を食べ、歯を磨き始めていた。
一月に一度取り替える歯ブラシは、毛先が柔らかく小回りの効く小さいサイズを使用する。
前歯から磨き徐々に奥歯へと、最後には水を含み舌を重点的に洗うのが日課であり一種のルーチンと言えるものだ。
「にしても、今日殴られたとこ全然腫れ無かったしラッキー」
アイスで一悶着起こしユーカに殴られた右頬は、痛みが出ても腫れること無く、今では元通りである。
なんだったんだろうな。そんな事を考えながら、やる事もなく自室のベットへと向かう。
ユーカとは小学校からの腐れ縁だし、明日アイス買って行ってやって仲直りしよう。
そんな事を思いながら、目を瞑ろうとした矢先、右頬に痛みが走る。
「?」
突然の事だったので状況が飲み込めない。
尋常じゃないほどの痛みが右頬から伝わる。殴られた痛みじゃない。何かを引き抜く様な痛み。意識を保つのがやっとだった。なんとか痛みに堪えながら、鏡で自分の姿を確認する。
鏡の自分は痛みを堪える様な表情はなく、飄々としている。おかしい。鏡の前のシドは痛みのあまり絶叫を上げそうなのに、映っている姿はまるで自分の姿をした他人。
「なんら、こへ痛え。くほ」
痛みで呂律も回らない。何かがおかしい。感覚が徐々に鈍くなる。しかし痛みだけは治らない。
あまりの痛みにを上げる。もう我慢していられない。きっと叫んでいれば家族の誰かしらが走ってくる筈だ。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
頭の中は三文字で覆い尽くされている。
痛い。上から読んでも下から読んでも イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。
どうして誰も心配しに見に来ない。こんなに騒いでいるのに。普段ならこんなに騒げば、鬼の様に怒りにくる母親も、いつも抜けた様な表情をしてる父もこんなにうるさければ、走ってやってくるのに。
そんなことを考えながら痛みと格闘しているうちに、気を失う様に目を閉じ寝てしまった。
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首がヒリヒリする。カーテンの隙間から溢れる燦々とした太陽の光。それに頬を伝う嫌な汗。
そうかあの痛みの中、こと切れて寝落ちしてしまったのか。実際気を失ったのか寝ていたのかは分からないがシドの体感からは寝た時と同じ満足感を感じたためどちらでもよかった。
それよりも、昨夜の右頬の痛みが嘘かの様に消えている。それに鏡で確認しても、写っているのは反転した自分。
なんだよ悪い夢かよ。安堵しながらも。鈍く痛む首をさすり、今朝自分が起きた場所が床であることに疑問を覚える。そして、もし夢じゃなかったとしたらなぜ親は心配しに来ないのだろう。
シドは自分を心配しに来ない親が気になり、下の階へと降りていく。階段がギシギシと音を立て軋む。普段なら下のリビングから朝の気象予報やら昨今のタレントの不倫から政治家の汚職に渡るまでまるでバラエティ番組の様なニュースが流れているのだが、今日に至っては全く聞こえない。それにいつもなら母の朝食を作る流しの音が聞こえるのだが、今は足元の妙に耳につく軋みの音しか聞こえない。
それにこんなにも、うちの階段は長かっただろうか。どんなに降りても終わりが来ない。下を見ればずっと深い闇に続いている。そんな不安さえ覚える。
必死の想いで降りるシドは、むかし母から聞いた『蜘蛛の糸』を思い出す。
確か暇を持て余した仏様が天界の蜘蛛から取った糸を地獄に垂らし地獄を彷徨う亡者にチャンスを与える話だ。
たまたま糸を一番最初に見つけた、カンダタが地獄にいる奴全員を出し抜いて一人、極楽を目指そうとする物語。しかし、カンダタの想い虚しく糸には多くの人が登りだし、終いには糸が切れてしまう。そんな話だった筈だ。
シドはその話を思い出し、今の自分は正にそれとは逆じゃねぇかと呟きながら、下へ下へと降りていく。
どれだけ降りただろうか、普段なら10秒以内で降りきれる階段を10分、いや1時間とも言える長い間下っている。いつの間にか時間の感覚すらない。ずっと長いこと足を動かしている様にも感じるし、降り始めてからまだ間もなくとも感じる。ただ一つ言えるのは。「異質」であること。自分の家ではまるでないことだけは理解できていた。