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第七十ニ話「転戦」

 リスバイフには悪魔に魂を売った復讐者が住んでいる。


 夜に溶けそうなほどに黒い鎧に、返り血で描いたと思えるような紅のライン。兜の目元から見えるその碧眼は、夜闇の中でひたすらに復讐するべき獲物を探して不気味に輝くという。

 その背中には、悪魔と取引して手に入れた蝙蝠の如き翼を持ち、体には見る者の魂を闇へと誘う光を纏っている。恐ろしいことに、悪魔の騎士が持つ武器で死ぬと対峙した者は死体さえ残らずに消滅させられてしまうという話しだ。


「へぇぇ。それが悪魔の騎士っすか」


「噂話さ。なんでも、そいつに四千近い兵を殺されたんだと」


「はぁ? いやいや、その言い訳はアホすぎて笑えないっすよ」


 スペンジ砦へと補充人員として回された新米の兵士は失笑した。

 相手が竜ならまだ分かる。だが悪魔のような騎士などと言われては笑うしかなかった。


「コイツがありゃ、きっと悪魔だって殺せるはずっす」


 若い男は、貸し与えられている魔法銃<ライフル>を構えてみせる。

 もはや戦場で敵を斬り、突き殺す時代は終った。新しい時代にはレベルさえ必要とせず、遠距離から狙い、ただ引き金を引くだけで決着が着く時代が到来していた。


 吐き出される魔力の弾丸は鎧兜さえ貫き、弓と違って魔力せえあれば何発でも撃てる。

 常人では切り払うことさえできない弾速に、飛距離。

 そして最低限度の殺傷力に連射性能は脅威の一言だ。


 若い兵士はその強力な新兵器を貸し与えられた幸運に感謝さえしていた。

 と同時に、敵に同情した。

 魔法銃を手に、ずらりと隊列を並べた兵士たちが発砲する姿を想像すれば気の毒でしょうがなかったのである。


「なにせ高レベルホルダーだろうと、こいつなら仕留められるんすよ」


「――だったら、どうして俺達がここに派遣されたんだろうな?」


「先輩?」


 冬までに時間が無い。

 一向に進まぬ進軍状況に痺れを切らしたクルスは、援軍として更に五千の兵と教会の助っ人を派遣した。その事実がどうにも先輩兵士の不安を掻き立ててくる。


 それは彼のジンクスだった。

 嫌な予感は良く当たる。

 なんとはなしに感じた嫌な空気が、その男の胸中をかき乱す。


「いやいや、冗談キツイっすよ。竜は人に化けられるって聞きますぜ。きっとその噂の悪魔ってのも連中が人型で戦っただけなんじゃないですかね」


「だと良いがな」


 スペンジ砦に満ちる先任の兵士たちの顔は何かを恐れるように暗い。冬の前に片付けるべき仕事として、彼らはグロウスター侯爵の領地を落とすはずだった。しかしそれは失敗で終っている。だからこその彼らだった。


 確かにクルスの軍は竜殺しを成した。

 しかし現実として新兵器を擁してなおこの地での進軍は止まっている。他のルートは順調に目標をクリアし冬に備え始めているというのにだ。


(もうすぐ国がなくなる連中だ。必死に抵抗した結果ならいいが……)


 一抹の不安を胸に、男は防壁の上から北へと続く街道を眺める。


「ん? 斥候が戻ってきたみたいだな」


「あれ? 戻ってくるのが早くないっすか」


 二人は揃って顔を見合わせた。






「敵が進軍だと!?」


 スペンジ砦の総指揮官ガットルは、斥候の報告を聞いて青ざめた。


「奴は、悪魔の騎士は居たのか!?」


「……残念ながら最前列にそれらしき人物が発見されています」


「――ッ。全軍に通達。すぐに防衛体制を整えろ!」


「了解!」


 唾を飛ばす勢いで伝令を出し、守りを固めるべく指示を飛ばす。


「なんてこった!」


 八つ当たりするように机に握りこぶしを叩きつけるガットルは、この先に待つ悪夢ような結末をただ恐れた。


「何故だ、何故こんなことに……」


 新兵器は絶対の武器ではなかった。

 連日のように行われた夜襲。それによる物資の奪取と攻撃に耐えかね、後退を余儀なくされたのが数日前だ。更なる戦果を上げるチャンスだとそそのかした副官は、夜襲で既にこの世を去った。


 眼の前で消えた副官がガットルは恨めしい。

 守りの厚い場所だったためか、偶々見逃された彼は翌日に軍を引いた。上には竜の奇襲を受けたと報告して誤魔化し、増援を要請していたがまさか打って出てこられるとは夢にも思って居なかった。いや、考えたくなどなかった。


「――失礼。我等にも参戦許可を頂きたい」


 と、必死に知恵を働かせる彼のところに四人の騎士が姿を現した。

 磨きぬかれた鋼の鎧に、清涼を思わせる青いのマント。防具に刻まれたリストル教会のシンボルたる銀十字は、彼らがいったいどこの所属なのかを一目で看破させるほどに目を引いた。


 彼らは増援と共に派遣されてきた四人の教会からの助っ人であり、屈強な教会騎士である。また王都侵攻において、竜の動きを止める活躍をした神宿りたちという触れ込みの者たちでもある。

 敵が悪魔の加護を得ているのなら、神の使徒たる彼らは相克する天敵のはずで、彼らはガットルにとっての光明であった。


「おお、出てくれるか!」


「勿論。そのための我々です」


 リーダー格の青年は人を安心させるような顔で微笑む。その自信ある表情に、ガットルはようやく安堵の表情を浮かべることができた。


「しかし、この砦で妙な噂を聞ききました」


「う、噂ですと?」


「何でも、異教徒共に悪魔の力を振るう敵が居るとか……」


 探るような言葉には、有無を言わさぬ冷たさがある。

 ガットルは機嫌を損ねないためにも隠さずに頷いた。


「そうなのだ。奴は竜共々我等の前に立ち塞がっている。おかげで副官もやられた」


「なるほどなるほど。それは気の毒な話だ。許せません。ええ、許せませんなぁ……」


 青年は残りの三人に問う。


「邪竜と悪魔に異教徒。我等の敵に相応しい大敵だと思う。諸君、良いな?」


「勿論ですとも」


「当然だな」


「神の名の下に返り討ちにして上げましょう」






 翌日。

 完全に迎え撃つ体勢で待ち構えていた彼らの前で、敵軍が何やら穴を掘り始める姿が見えた。


「アレは、なんだ。進攻速度を落とすためのものか?」


 まだ魔法銃の射程距離ではない。攻撃するなら砦の外に出なければいけないが、悪魔の騎士が姿を現し睨みを利かせている。悩むガットルの側で青年が言った。


「なるほどね。確かに強力な悪魔の力を感じるようだ」


 教会騎士の持つアーティファクトは天使である。

 悪魔の気配には一等敏感だ。おかげで敵陣を見据える教会騎士の顔は険しい。


「強敵だ。僕たちのアーティファクトが、天使様がそう警告しているのだから間違いないようだね」


「……か、勝てるでしょうか」


「無理だね」


「は?」


 教会騎士は呆気に取られたガットルに告げた。


「申し訳ない。僕たちは帰るよ」


「そうね。お腹痛いし」


「くっ、胸の古傷が疼きだした」


「……お前たち、うそ臭い芝居は止めろ。神宿りならともかく、念神との交戦ならば教皇様の支持を仰がねばならないだけだろうが。さっさと帰るぞ」


 教会騎士は口々に言うや、ガットルの目の前で光を纏う。その背には穢れを知らない純白の翼を広げていて、当たり前のように浮遊していた。神々しい光景ではある。しかし、 いきなり背を向けられた彼は気が気でなかった。


「か、帰る? て、敵前逃亡ですぞ!?」


「違うな。これは戦略的撤退という名の兵法だよ」


 置き土産のようにリーダー格の青年は告げる。


「残念だが、今の我等では準備が足りないのだ」


「そんな!?」


「だから貴方も撤退したまえ。今の戦力ではアレの撃破は難しい。ああ、そうだ。無事に帰ってこなければ、君たちは悪魔を前に勇敢に戦ったと言っておいてあげよう」


 南の空に消えようとする教会騎士。がっくりと膝を突いたガットルは、次の瞬間に雷鳴を聞いた。ハッと彼が空を仰げば、紫電の輝きと共に血の雫が降り注ぐ。


 顔に飛散してきた死の匂い。

 見開いた目の先には、一刀の元に両断された青年の体が上下に分断されていて、彼の元にまで落下するよりも早く消えた。


「あ、悪魔だ……」


 ガットルの声が掠れた。

 空を飛ぶ悪魔の御使いが、二人目の教会騎士へと攻撃を仕掛ける。手にするのは長大な直刀と大槍。咄嗟に戦闘態勢に入った二人目が大剣のようなアーティファクトを抜くも、槍で一突き。鎧ごと当たり前のように体を貫き串刺しにされてしまう。


「ひぃぃ!?」


 消える二人目の騎士に頓着せず、悪魔の騎士は更に獲物へと猛然と喰らいつく。

 教会騎士は二人とも逃げられぬと悟ったのか、応戦の構えを見せるも三十程の数を数えるより早くこの世から消えてしまう。


 それは、とても現実感が無い光景だった。


 確かに神宿りの戦闘能力は普通のレベルホルダーを遥かに超える。だからといってここまで一方的だと絶望さえ生温い。だが生憎と男はそんな理不尽な光景はもう何度も見せられていた。故にガットルは、その恐怖を振り払うためにも選ぶしかなかった。

 悪魔の騎士が夜だけではなく真昼にまで徘徊するというのなら、もうここで仕留めるしかない。勝てる勝てないではなく、やるしか生き延びる術が見出せなかった。


「総員魔法銃を構えろ! 目標は悪魔だっ!」


 ガットルは空を見上げ、棒立ちの兵たちに叫ぶ。


「撃ち殺せ! 敵を生かして返すな!!」


 逃げるよりも戦うことを選んだ彼の野太い声に、兵士たちの銃を構え次々に銃弾を撃ち込んだ。それに釣られて声が届かなかった兵士たちも自然と空へと発砲を始める。

 悪魔は動かない。

 最後の一人を倒した後、悠然と光を纏ったまま銃火に晒されながら砦を泰然と見下ろしている。


「決して砦の土を踏ませるんじゃない!」


 自ら肩にかけていたライフルを構え、自ら空に向かって引き金を引き絞る。

 覗き込んだスコープの映像が、手の震えのせいで揺れて照準がぶれている。


 しかし、今撃たなくて何時撃つというのか?


 自らが指揮官だということを忘れ、狂ったように彼は引き金を引いた。

 その度に魔力の弾丸が銃身から吐き出され、兵の銃撃に混ざった。


 光の残光が逆しまに弾雨となって空を昇る。だがそれさえも相手の纏う寒々しい光に弾かれて消えていく。

 そこへバズーカ型の弾丸が命中。爆煙で空が覆い隠した。常識で考えればオーバーキル。けれど援軍以外の兵士たちは、それでも執拗に撃ち続けるのを止めなかった。


 彼らは知っていた。

 その程度でそれが倒れるはずがないということを。


「撃て! 撃って撃って、撃ちまくれぇぇぇ!!」


 やがて、一際強烈な閃光が登る。

 一部の兵士たちが抱え上げるようにして構えている対竜用魔法銃<ドラゴンバスター>だ。


 粉煙さえも貫く光の線。

 それを合図に兵士たちは自然と撃ち方をやめる。その頃にはもう、悪魔は空にはいなかった。


「やった……のか?」


「そうだ、やったんだよ!」


「いくらなんでもアレだけ撃ち込めば生きてるはずがないっす!」


 増援組から沸き立つ歓声。だが、先任たちはひたすらに敵を探していた。


「まだだっ!」


「見ろ。街道に!」


 悪魔の騎士は、何事もなかったかのように街道の向こうに当たり前のように居た。

 何故かしゃがみこんでいるが、それを見た兵士たちは黙り込み、誰もが自らの眼を疑った。


「くっ、やはりこの程度では……」


 その不気味な事実を前にガットルは決断する。

 彼には国に妻と子が居た。そして恐らくは、彼の部下たちにも家族が居た。木石から生まれたのでなければ、誰にだって帰るべき場所があるのだ。指揮官とは、ただ任務をこなして勝つだけが仕事ではない。預かった兵士の命を出来うる限り生かすのも仕事だった。


(無能の烙印を押されるのは間違いない。だが――)


 あんな訳の分からない者と戦って、無為に命を散らせるのはゴメンだ。

 これが祖国に攻め入られているのであれば是非もない。けれどこれは侵略である。それに何よりも持ち帰らなければ成らない情報があった。

 異教徒共の神、そして魔法銃を装備した一万を超える兵でさえ妥当しうる存在が敵に回ったという事実。この二つは何が何でも戻り伝えなければならない。


「本格的に仕掛けてくる前に砦を放棄する! 総員撤退急げ。責任は私が取る!」







『のうアッシュ。敵が砦から離れていくぞ』


「……なんでだ? あそこにはまだ兵が沢山居たぞ」


 砦の上からも相当に多くの兵を残っていたのが見えていた。

 おかげでアッシュはまた夜中に奇襲するかどうかを考えていたのである。

 ネットゲーム特有のしゃがみ回復――で、消耗していたMPの回復速度を上げながら首を捻る。


『あの神宿り連中が切り札だったのかもしれぬな』


「にしては手応えが無かったが……」


 アフラーにウォーレンハイト。そして訓練したリスベルクとイシュタロッテ。

 ここ最近、普通の神宿りの規格を大幅に超えるものたちとの訓練や戦いを経た今のアッシュにとって、普通の人間素体の神宿りなど脅威ではなくなっていた。


 ましてや今はイシュタロッテの加護がある。

 彼女はリストル教の唯一神を殺した神殺しの悪魔。彼の信仰において彼女は後天的に強力な対神属性を得ており、神とその部下である天使の天敵である。それが念神に振るわれているのだから鬼に金棒であった。

 おかげで逃げようとした神宿りが、戦闘が苦手なただの連絡役だったのではないかと結論付けてしまう程に。


「いったいどうしたのだ」


「悪い。神宿りが逃げようとしてたんでな。それより奴ら後退してるみたいだぞ」


 やってきたウォーレンハイトに砦の異常を報告。すぐさま確認のために竜翔が空を飛ぶも、どうやら本当に撤退しているらしいことが判明する。


「塹壕作りは中止だな。しばらく様子を見てから砦に攻めるのが良いだろう」


「罠かもしれないか。ん、じゃあ俺が見てこよう」


 しゃがみ回復を中断し、アッシュはもう一仕事するべく立ち上がる。


「神宿りと一戦してきたのではないか」


「いいって。その代わり勝手に動いた罰にでもして体裁を整えといてくれ」


 ヒラヒラと武器を片手に要塞へと向かう廃エルフ。だが、それに呼応するかのようにスペンジ砦に変化が起きているのをイシュタロッテは感じ取る。


『むぅ? 更に連中の撤退速度が上がったぞ』


「……連中、いったい何を企んでいるんだ?」


 まさかペルネグーレルの時のように爆破装置でも設置しているのではないかと邪推したアッシュは、念のために左手に盾を取り出して装備。用心深く接近していく。

 だが結局要塞にはトラップも何も無かった。おかげで諸侯軍は一戦もせずにスペンジ要塞を押さえたばかりでなく、敵兵が置いていった物資を回収することにも成功。その中には対竜用の魔法銃も数台あり、諸侯軍の顔を綻ばせた。


「危険物はなかったぞ。井戸に毒を混入したわけでもなさそうだし……」

 

「不気味極まりないですね。長いこと傭兵をやってきましたが、こんな策は聞いたこともありませぬ。敵よりも兵数が多く、砦を押さえているというのに物資まで放棄して下がるなど……」


「ここは無理に追撃はせぬほうが良いかもしれぬな。どのような意図かまるで見えん。一先ず、こちらは守りを固めよう。鬼才なる軍師が居るのかも知れぬ」


 慎重に、敵の攻撃に備えることにした一同はしばし疑心暗鬼に囚われた。







「あの傭兵の予定外の行動には驚きましたが、これほど早くスペンジ砦を押さえられたのは大きい」


「ですな。しかも彼は神宿りとして凄まじい戦闘力を持っているようだ。頼もしいことだよ」


 遠くから見えた行く筋の光の線。

 それが魔法銃による総攻撃であることは誰の眼にも明らかだった。その火線の中、敵側の神宿りを四人も倒して戻ってきたと言うのだから文句の付けようがない。


「案外、敵は彼に怖気づいたのではないか?」


「はっはっは。さすがにそれは考えすぎであろうよ」


「どうだろう諸君。このままの勢いで王都まで攻めるというのは」


「……欲張りではないかね」


「南側の防壁の補修も必要である。あのままだとさすがに心もとないぞ」


 砦ではかつてクルスとリスバイフの軍が一戦しており、南側の防壁が破壊されていた。補修は進められていたようだったが、それも完全ではない。このままでは敵に楽に攻められてしまう。


「ならば苦戦している場所へ援軍を送り、押し返すのはどうだ?」


「ウォーレンハイト殿はどう思われるかな」


 諸侯の一人に話を振られた黒銀竜は、ジッと睨んでいた地図から視線を上げた。


「我は現状ではこれ以上前に出るべきではないと考えている」


「と言いますと?」


「この砦は中央盆地の北口だ。その中央盆地の外。つまりは山を越えた側から今もクルスの軍は侵略してきている。攻めるなら少なくとも迂回してこの砦を後方から押さえられぬよう、東と西を押さえを磐石にするべきだ」


「では部隊の分割を?」


「するしかあるまい。当初の目的を考えるのであれば、東側に竜翔と部隊の一部派遣して置くほうが得策だろう。少なくともせっかく手に入れたこの場所を守らぬ理由はない」


 もっと兵力に余裕があれば一気に攻め入ることも考えたが、さすがにそんな余裕はない。

 また、ウォーレンハイトには懸念があった。


(確かに魔法銃を幾許か手に入れた。しかし錬度は奴らと同じではあるまい)


 ここまでまともに戦ってさえいないのだ。アッシュのおかげで敵の進軍を挫き、この砦も手に入れた。しかし実戦経験を碌に積ませることができていない。対魔物戦の経験は当然あるだろう。けれどここまで大規模な戦いなど、今の諸侯軍はほとんど経験してはいない。


 確かにアヴァロニアへの警戒のために、同盟を組み部隊を派遣したことはある。その時に派遣され、戦場の空気を味わった諸侯は居るだろう。だが侵略し、既に戦ってきたクルスの軍勢に一戦もせずにあたるのは色々な意味で恐ろしい。本来はここで一戦積んでおくべきだったのではないかと思わないでもない。


(なんとなれば、冬が来る前に防衛という形で経験しておいて経験を積ませるべきかもしれぬが)


 欲を出すならば、冬に到るまでにハルケブンへの障害を排除しておくという考えが彼の脳裏を過ぎる。だがそれをするなら相当な無理を兵士たちに強いることになる。


 占領軍を追い払って終わりではないのだ。

 その後に守備することも考えれば、戦力を分散させる必要はどうしても出てくる。スペンジ砦の守りもある。こんなにも早く勝ってしまったせいで頭を悩まされるなど、想定外にも程があった。


「どうやら、反対する者は居ないようですな」


「ではその方向で」








 砦を死守する側に回るか、それとも遊撃か。

 ウォーレンハイトはアッシュに問うた。


「だったら攻める方がいいな。守るのは正直得意じゃない」


 アッシュは遊撃を選び、竜翔の竜を数騎と、何故か志願したミハルドの侯爵軍。そして僅かに抽出された諸侯軍の兵士とで東周りに進軍していく。

 一つ、また一つと東の前線を押し上げていく廃エルフ。


 その間にも冬への時間だけが磨り減っていった。

 それは同時に、リスバイフ南部の制圧のために広域に展開されていたクルス軍が被害を増やしていく始まりである。

 やがて正体不明の黒鎧の男に襲撃される事例が報告され始めた頃。諸侯軍の想定さえも超える程の出血をアッシュは敵に強いていた。おかげでクルスの軍に悪魔の騎士の噂が広がっていく。


「――奴だ。あの悪魔の騎士が本気になったんだ」


 防戦せずに撤退を決意したことで更迭されたクルスのとある将校は、ただただ事実を述べ、たった一人の馬鹿らしい戦果を淡々と語った。交戦を避け、兵力の温存を図った彼の判断が間違いではなかったと知る頃にはもう、クルスの侵略軍は遅すぎた。


 怒涛の勢いで進軍するミハルドたちは、ハルケブンと中央盆地の東口を結ぶ街道に近いベルミラ砦まで取り戻してしまっていたのだ。そしてその被害報告を責任者は自らの保身のために渋っていた。それが余計に被害を生むとは知らずに。


「うぬぅ。頭が変になりそうだ」


 ミハルドは薄々件の傭兵の正体に気がついていたが、理由など問い詰めずに口を噤んだ。

 せっかくの空気に水を刺す真似など出来ないからである。そんな中、リスバイフの地理に詳しい逃亡将軍が、鎧男によく相談されているのを目撃されていく。

 その戦果の影に彼の影がちらつくようになった頃には、兵士たちからさえ向けられていたミハルドへの侮蔑の視線が随分と和らいでいた。


「どうしたんだ? なんだか苦い顔をしているぞ」


「いやなに、過去の自分の振る舞いに少し恥を覚えただけだ」


 青き血により保たれる権威など、戦場には無かった。階級にだけ表面的に向けられる敬意のなんと侘しいものか。常勝を繰り返す内に、東進勢力の指揮階級の采配に満足を覚えていた兵士たちは彼にも敬意を向けてくる。ミハルドはどこか憑き物の落ちたような顔で答える。


「俺はただ、お前の相談に乗っているだけだったというのにな」


「よく分からないが。確かに調子が良さそうだな。最近良い顔をしてるぜ」


 規格外の戦闘力を振るうにしても無作為では意味がない。傭兵として培ってきた経験でアッシュを補佐するのがルーレルンなら、貴族として知りうる情報を開示するのがミハルドである。屈辱を胸に、ルルブリア領へと北上した経験も役に立っていて、彼らの関係はよく嵌っていた。


「まっ、これからも良い情報を頼むよ」


「任せておけ。俺は絶対に逃亡将軍のままでは終らん」






 だが、進軍は順調でも確実に損耗する者は居た。

 夜襲を繰り返す度、単独での襲撃に慣れていったアッシュはピンポイントで敵の拠点へと攻撃を仕掛けていく方向へと切り替えていた。日和っていた一部の諸侯も、クルスの攻め手の鈍りを感じて少しずつ参戦を決意。それにより兵力が増え、住民の中からも祖国のためにと志願して兵になる者が増えていった。


『アッシュ』


「どうした」


『本当に大丈夫なのか? 休んだところで誰もお主に文句など言わぬぞ』


 睡眠時間が激減し、昼夜を問わず戦場に立ち続けるのを見かねてイシュタロッテは言い募る。だが彼は首を横に振るった。


「もう慣れた」


 その体は、相変わらず疲れなど知らなかった。

 肉体は取り込む想念でひたすらに存在を拡張し続け、彼を緩やかに強化していく。戦果を上げれば上げるほど、人の常識から乖離するのを自覚する日々。そうして、敵からの怨嗟と憎悪を向けられる日々を超えていけば、自然と強靭になっていく肉体に置き去りにされたままの心が凍結していく。なのに、彼はそのまま頑なに戦場に出続けることを選び続けていた。


 彼自身、それは不思議な感覚だった。

 まるで他人事なのだ。自分が自分ではないのではないかと錯覚する程に。

 けれどふと、その理由に思い当たった。 


「そうか。俺はさっさと終らせて、ゆっくりと休みたいんだな」


 黒い兜に覆われた素顔を強張らせたまま、兵士が居なくなった砦をアッシュは見渡す。

 悪魔の知覚は、少なくとも普通の兵士は居なくなったと感知している。だというのに誰も居ないはずの戦場跡は未だに鼻腔をくすぐってくる。


 こびり付いた戦場の匂い。

 すぐには消えないそれは、血の匂いが移っていないかと風呂を出る度に確認してしまう程になっていた。


(自業自得か)


 熱に火照った体は、一層冷たくなってきた夜風に体温を奪われてひんやりと心地よい。 しばし戦闘の熱を冷ますと、思い出したかのように徘徊。蓄えられた敵軍の物資を漁る。


 敵の戦力を減らせば減らすほどに戦いは楽になる。

 その覆りようのない論理を前にして、それが出来てしまうどうしようもない現実があった。

 その冷酷な論理は、選んだ戦いからアッシュを安易には逃さない。


――味方の犠牲を減らすためにはどうすればいいか?


 その解を、アッシュは単純な方法で実行した。味方が戦う前に敵を間引き、戦うにしても最前線に立って誰よりも真っ先に攻め込んで蹴散らす。元が劣勢だった分、巻き返すために必要なエネルギーは膨大だ。その帳尻を合わせられる程度の力が彼にはあった。


 それは自ら唾棄する程の傲慢には違いない。なのに、その独り善がりなだけの結論は、求める結果を生み出しているから性質が悪かった。


「そうだ。久しぶりにお前も風呂に入るか?」


 殺戮に鈍化した精神が安息を求めていた。中途半端な休息など必要ではなくて、何にも煩わされないで済む場所が欲しいのだろうとイシュタロッテは理解はしていた。だが、だからこそ心配させまいと強がる彼の提案に乗って見せる。


『ならばあの個人風呂で良い』


「アレは一人用だぞ」


『何を言うか。妾ならすっぽり納まるぐらいはあるじゃろうて。ついでにボディーソープとやらで背中でも流してやろうぞ』


「そいつは楽しみだな。ん? 何か飛んで来る……か?」


『む? こいつは……奴だ!』


 空を睨みつけるように仰げば、燐光を纏った神宿りが飛んでくる。


「――悪魔の気配。やはり貴様かっ!」


 それは、七つのアーティファクトを持つ神宿りだった。

 宿主の名はアスタール。

 善神アフラーの宿主にされているアヴァロニア王アスタムの異母兄弟。


『これはまた面倒なのが来たのう』


「アフラー……ハッ。風呂の前にハードな運動になりそうだな」


 両手に聖剣と魔剣を抜いたアッシュは迎え撃つべく飛翔する。


「何故ここに居る廃エルフ!」


「人違いさ。今の俺はしがない傭兵、アルス・シュナイダーだっ――」










「――なるほど。そこまでして都合の良い玩具<カミ>が欲しいか」


――侵食。侵食。侵食。


 エラーコードは絶えず吐き出され続け、起動したあの日から彼を蝕んでいる。

 念神としては正常で、だからこそ彼にとっての異常なエラー。

 膨れ上がり続けていくその文字列は、無色故に染められていく彼の障害の記録であり、アッシュという存在<システム>の上げる声無き悲鳴だった。


「適応や進化。あるいはただの逃避だったらまだ良かったのにねぇ」


 途中下車など許さないほどに、想念の呪縛が重くなっている。

 度を越して酷いのは、通常の念神はそれを理解して有る程度感度をコントロールしているのに、不完全な彼にはそれができないということだった。


 まるでそれは、ファイアウォールやアンチウィルスソフトを機能させないまま無防備にネットワークに接続しているコンピュータのようなものだ。


「だから想念が要らないって突っぱねてたのか。んー、無意識に気づいていたのかな?」


 その自己防衛機能さえも陥落間近かと、モニターを横目にレーヴァテインは朝食の準備を進めていく。彼への興味が薄れ、かつて育んだはずの熱が消えていく。記録から薄れていく。

 その熱量が完全に枯渇してしまえば、その後にはきっと何も残らない。


――だが、それについての結論はずっと昔に既に出ていたから動じるまでもない。


 求めるべき解はただ一つ。

 彼女と決めたプランこそが最後の要だ。だからまだ希望が残る現状において、基本方針について変更点は何もない。


 何も無いはずだがしかし、と黒の少女は思考する。


「だからってこのままは気に食わないよなぁ」


 誰かの弱さが彼に強いているだけだったとしても、彼がそれを許容していたのだとしても、彼女には関係がなかった。


 ただただ現状が気に入らない。

 両手でひたすらに朝食用のおにぎりを用意しながら悩むこと数分。予想以上に理想から外れていく現状を前に、軌道修正をするべきだと遅まきながら結論を出す。


(しょうがないか。これ以上はさすがに看過できない)


 認識を変更する。

 状況は既に許容限界を超えていると判断。

 対策を打つことにする。


「よし、データはもういいや。いい加減介入しよう。まったく、どれだけ筋書きから乖離すれば気が済むんだか――」


 それもこれも、初っ端の躓きが全てであることは考えるまでもない。

 ただ、それでも信じたかった。

 それが彼女の求めた幻想だから。








「善神が出てきたのですか!?」


「すぐに逃げてったけどな」


『潔い逃げっぷりじゃったのう』


「……であれば、殿を倒すことが目的ではなかったのでしょう」


 基本は依頼の達成を優先するそうであり、アリマーンが絡まなければ余計なお節介を焼く人物だとアッシュは聞かされる。色々と傭兵同士の付き合いもあるのだろうが、戦場で出会えば敵同士だ。

 それは、それぞれの雇い主の意向によって容易に敵味方に分かれてしまう傭兵の常。故にウォーレンハイトもまた、全力で相手をするだろうとルーレランは語る。


「奴の目的は俺の妨害かな」


「一先ずは戦力の確認ではないかと。殿の夜襲は度を超えておりますので」


 普通は夜襲毎に一部隊、一拠点を全滅させたりなどはしない。

 頼もしいやら恐ろしいやらで、さすがの副団長もそれ以上は言えなかった。

 しかも本人はそれが当然だろうという調子で言ってくるし、手伝いも頼まれない。


 彼女にできることは、出来うる限りアッシュの負担を減らすべくミハルドと共に進軍のサポートをすることのみだった。


「しっかし、気が滅入るなぁ。あんなのが何人も出てきたらさすがに体が足りないぞ」


「その、彼ほどの使い手は早々居りませぬが……」


「だといいんだが」


 ため息を残しつつ、アッシュはしばし命の洗濯に向かった。

 その日、悪魔は廃エルフにバブルアタックを繰り出した。


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