第六十八話「偽りの勢力図」
――神滅暦1016年秋。
クルスとリスバイフの戦争の決着が着くまでの間、アッシュはレベルアップのために戦士たちと共にモンスター・ラグーンへと繋がるゲート・タワーの拠点へとやってきていた。
一月半ほど放置されていたせいもあり、一日目は清掃や物資の運び込みなどに追われていく。その内にシュレイク側からもレベル上げの人員やイシュタロッテに魔術伝授をされる者たちが送られてくることになっている。それらは珍しくやる気にを出したシルキー将軍が指揮してくるのだが、一月は先になるだろうと言われていた。
ラグーン組みはやはり、レベル上げの機会に飢えている者が多いことからこの機会にと張り切っているものが多い。勝手を知っているために再びラグーン勢の指揮を任されているドレムスも、彼らの気持ちを察しててきぱきと仕事を進めていく。
と、そんな中一人だけ団体行動の枠外に居るはぐれ男が居た。
「何故、廃エルフはあんなに風呂に拘るんだ?」
「ここまで来ると信念というよりはもう執念よね」
「アッシュだからねぇ」
イリス、イスカ、ナターシャの三人は、一人だけ明らかな別行動を取っているアッシュを生暖かい目で見ながら宿舎の清掃活動に勤しんでいた。
件の男は、他の戦士たちからの好奇の視線さえを気にせずに、精霊モドキやレヴァンテインと一緒に風呂の再設置を行っていた。
インベントリからまず収納していた風呂を設置。
そうして、その間にストーンウォールを展開させて仕切りにすると、今度はもう一つ新しい風呂を新たに作らせ始める。
「うっ。新しく作るらしい男湯の管理も私の仕事になるのだろうか」
イリスがげんなりしながら問うも、二人ともその質問には答えられない。
「前はアッシュか入りたい人が適当に掃除してたけどねぇ」
「そうだったかしら。ほとんどあいつじゃなかった?」
何にしても、誰かが管理をするしかない。管理候補筆頭にされるだろうことが分かっていたイリスは、深いため息を吐きながら浄化魔法を繰り出した。
当たり前だが風呂の再建だけがアッシュの仕事ではない。
「俺は上で掃除をやっとくから、ここは頼むな」
「ん」
浴槽造りをレヴァンテインに任せると、彼はゲート・タワーを登っていく。
上のゲート・タワーへの入り口がノームの石壁で閉じられているため、魔物が住み着いているはずもない。サクサクと上がったアッシュはゲートを超えた。
「……こっち側の掃除も必要か」
『本当に上に住むのか?』
「下より住みやすいんだって。むしろなんで下に住むのかが分からん」
移動は面倒ではあるが、冬の寒さを考えたら下で寝泊りしたくもない。
タケミカヅチを片手に、一先ずイミテーション・コアを設置。ゲートを再稼働させる。
「ん、ゲートも問題なしだ」
魔法陣<ゲート>にも不具合がない事を確認したアッシュは、最上階の窓から外を見る。それなりに草が復活している光景の中、ゲートの周囲に六匹の竜が居るのを見つけた。
「ルーレルンたちはさすがに逃げなかったか」
『お主に睨まれたくは無かろう』
「そんなもんか」
逃げようと思えばラグーンに穴を掘って逃げられるはずだったが、その気配は彼女たちにはない。律儀に留まる理由こそアッシュには分からなかったが、都合が良いことには違いなかった。
さすがに魔物たちも竜に襲い掛かるチャレンジャーはいない。魔物たちは周囲から一定以上離れた場所で活動している様子だった。けれどこのまま竜の姿で居てもらっても塔にまったく近づかれないのではレベル上げの妨げになるかもしれない。
(夜はともかく、昼間は人の姿で闊歩してもらうべきか)
気配に気づいたのか、塔を見上げる竜たちに手を振ってアッシュは竜たちと合流する。
「問題は無いか」
「はい。ここは喰いでのある魔物が多い良いラグーンですね」
答えたのは白銀の竜ルーレルンだった。
ウォーレンハイトと比べても遜色がないその大きさは、かなりの迫力がある。他にも五匹の竜が付き従っているが、竜たちの顔からはさすがに表情が読み取れない。人間と竜では、あまりにも表情に違いが在りすぎるからだ。だが、アッシュにもなんとなく分かることがあった。それは、竜たちの腹具合である。
どうにも竜たちから腹の音が聞えてこないのだ。
相当に食い散らかしたのだろう。それぞれ、赤、青、緑、黄、黒、白の鱗を持つ竜たちは、地面に伏せてまったりしていた。
アッシュはとりあえず現状の方針を伝え、竜たちには明日からのレベル上げの手伝いを依頼。同時に、ルーレルンたち自身のレベル上げを頼み込む。
「全員レベル限界に至れ、ですか」
「ついでにこのアーティファクトを渡しとく」
インベントリから取り出した鉄扇を掲げ、人化したルーレルに預けておく。
「まだ覚醒していないはずだが、一応は気をつけてくれ」
「もし覚醒した場合はどうしましょう」
「共生してくれないか交渉だな。できないなら封印するしかない」
そのつもりで周りに監視しておいてくれるように頼むと、アッシュはゲート・タワーの掃除を始めるべく最上階へと戻る。
『チマチマやっても時間の無駄ぞ。妾に任せよ』
アッシュが擬人化してみれば、イシュタロッテは魔法の光をドントンと放ち砂埃や汚れを消し去っていく。
「こりゃ楽だな」
清掃を彼女に任せると、アッシュはゲート・タワーの周囲の畑に向かう。ほったらかしにされたせいで、草がかなり生い茂っている。しかしそんな中でもちゃんと実っているものがある。
「このまま放っておいたら増えるかな?」
腕を組んで考える彼は、ここで育つのだからエルフ・ラグーンでも育つはずだと結論を出す。
「もっと増えたら向こうにも植えてみるか」
丁度、無駄に開拓した土地もある。
薬草の栽培地にされるかもしれなかったが、食糧の種類が増えるなら良いだろうと考えてしばらく様子を見ることに決める。
彼は先に自分の寝床を作るべく準備を始めた。
リスバイフに探りを入れていたアクレイは、ジーパングへの寄り道を終えハイエルフに報告に向かった。
ツクモライズ状態でシュレイクとハイシュレイク、そして館跡を縮地で移動するリスベルクは、丁度クレインと共にハイシュレイク城でカミラと話していたところだった。
「失礼しますよ」
「どうだった?」
一端会話を止めて尋ねるリスベルクに、アクレイはニッコリを頷く。
「はい。『竜神』さんと『妖精神』さんも魔法銃にとても驚いていましたよ」
「肝心の神魔再生会は動かせそうか?」
「そこはまだ何とも。しかし、リストル教とクルスへの警戒心は確実に上がったはずです。また、妖精神さんには妖精忍者<フェアリーニンジャ>を数名借り、クルス国内の内偵を個人的に依頼してきました」
世界最小の人類種にして最強の隠密種族。それが妖精である。
彼らは息を吸うように姿を消し、魔力反応さえも容易く消してしまう。よほど勘が鋭い者か、鼻が効くものでなければ中々見つけられない上に、彼女たちは竜と同じく魔法が使えた。その魔力はエルフ族にも引けを取らない。それどころか凌駕する場合さえ有る。反面、肉体的には強靭ではないものの空を飛べるため機動力もある。
「下手をするとアヴァロニアの利になりかねないが、な」
「そこはネックですが、おそらくは悪神も魔法銃には否定的だと思いますよ」
「へぇ……それは何故だい?」
クレインが意外そうに尋ねる。
「アレは必要以上に殺し合いを加速させますからね」
「……戦乱が誘発し安い方が、彼らにとって良いことなのではないのかい?」
「統治することを考えれば、反抗勢力が容易に力を手にしうる武器は論外です。彼が目指すのは、世界征服の果ての世界平和なのですから」
まだそれならば被害が拡大し辛い剣や槍や弓の方が良かった。
しかし魔法銃には、そんな今までの常識を超える破壊力を一兵士に持たせるほどの力がある。
「特にこのバズーカ型とアッシュが名づけた銃は危険です。対人、対集団、対城などどれでも確実に成果を出せる。無論、ライフル型とやらも極めて危険ではありますが……」
「アヴァロニアが開発したという大砲はどうなんだい?」
「危険視はしているでしょうね。取り入れることに積極的ではないところに、彼の心情が見て取れます。開発したのが自国でなければ抹消しようと動いていたはず」
弾薬が無ければ撃てないという制約が有る限り、まだ管理はしやすい。
現状では雨に弱いという問題や、連射性能などの低さもあってそれほど脅威とは見られていない。
だが魔法銃は魔力が有る限り撃ち放てる上に、その魔力は放っておけば補給という工程を踏まずとも時間さえあれば回復してしまう。そして最悪なことに、人類種の全てが魔力を保持している。
「ホビットに持たせれば、戦力に成らないとされている彼らでさえも化けるでしょう。妖精ならサイズを合わせれば恐ろしい暗殺者を生みます。あの性能は脅威ですよ」
自国だけならともかく、諸国に広められては困るのだ。
「大砲と銃も危険ではあるが、今はあれの方がより危険というわけだね?」
「そういうことです。なので――」
悪戯をしてきたというような顔で、アクレイは言う。
「先ほど千人の人間に持たせ、一斉に対竜用に威力調整した銃で攻撃したらどうなるのか? などという呟きで竜神さんを煽っておきました」
「……貴方は本当に食えない人だね」
クレインは肩を竦めて冷や汗を拭う。
ラグーンズ・ウォー以前には、彼の兄クルセルクがよく愚痴っていたことはまだ覚えていた。
気性の荒い彼とは馬が合わなかったが故に反面教師にしていたクレインは、飄々と嫌味を躱すアクレイを内心で感心していた。立場上表立って仲良くはできなかったが、上に閉じ込められた後は彼の手腕に舌を巻いたものだった。
「竜翔の援護に竜を動かせば良し。神魔再生会経由で裏から攻撃させても良し。あるいは、他の中央四国と同盟し、抑止力として機能させても良し。貴方のことだ。何もせずに静観する場合のデメリットも当然吹聴してきたのでしょう?」
「ふふふ。私はただ、知り合いの身を案じて呟いて来ただけですよ」
ただ、その過程でエルフ族が間接的に良い目にあったら嬉しいだけだった。
ジーパングはジャングリアンの南方の海にある。
クルスがジャングリアンを押さえることがあれば、対アヴァロニアのために竜の力を手に入れようとする可能性も皆無ではない。或いは、リスバイフとの戦いを考えてジャングリアンが先に交渉団を派遣する可能性もある。その時の判断材料になれれば、ただそれだけでも何かが変わるかもしれない。
今求めるのは時間。
現状を変える特効薬など存在しない以上は、自ら変革するための時間の捻出こそが至上である。アクレイにとっては、その時間が稼ぐことばできれば態々忠告しに行った甲斐が有るというものだった。
「まぁ、竜神は静観し続けるような気もしますね。竜翔が全滅でもしない限りは」
「……貴様の顔に全滅しそうだと書いてあるが?」
「ウォーレンハイトさんはアーティファクト魔法で魔法を反射することができます。魔法銃に対しても有効なのも確認済みです。ですが、彼だけで押さえきれる物量であるとは楽観しないだけです」
そして、だからこそクルスは厄介だった。
彼らは既に量産し使っているのだ。
アクレイが軽く様子を伺って来ただけでも、ほとんどの兵士がそれを所持し、破竹の勢いで侵攻している。一月もあれば、王都さえも落としてしまいそうなほどに勢いがある。その矛先がエルフ族へと向けられるのは当分先だろうとは思うアクレイだが、備えないわけにはいかない。
「だからこその魔術……か」
「そうなりますね」
魔導の力の産物を、同じ魔導に属する力で阻む。少なくとも同じ土俵に立てる程度の力が無ければ危うい。
「魔術神さんや探究神さんが複製の協力を拒んだ以上、こちらは魔術を覚えるか、ドワーフの方たちの大砲や鉄砲、あるいは彼に期待するしかありません。そしてシルキー将軍が遭遇したという賢人の言葉も気に掛かる。本当か嘘かは分かりませんが、仮に本当であれば森は必ず混乱します。それへの備えも考えなければなりません」
「イシュタロッテに確認したがな。できてもおかしくはないそうだ」
「だとしたらまるで念神……いえ、それ以上の存在ですね」
「……かもしれんな」
アクレイの腰元の剣神も、ただ担い手に忠告するのみ。
さすがに長年に渡って手を貸してもらっていた相棒の言葉だ。アクレイも忠告は聞かない訳にもいかない。
――絶対にあのお方とは戦うな。
その一言に集約された意味がアクレイには分からない。分からないが、剣神の忠告を伝えた時のリスベルクの苦い顔が、結局は答えだと悟るしかなかった。
「全盛期の精霊と私が全員揃って完敗した相手だ。くれぐれも妙な気は起こすなよ?」
「勿論です。リスベルク様と彼の結婚式に出席するまで絶対に死ねませんとも」
「……本当に良い根性をしているな貴様は」
「まったくだね。その余裕には心底敬意を評するよ」
当分は忙しすぎてそんな余裕も無い。それが分かっていての発言に、クレインはリスベルク共々大きなため息を吐いた。
「しかし、良いのですか? アッシュに教えなくて」
「それは裏が取れてからで良かろう」
「……彼の生まれ変わりだから、ですか?」
「そうだ」
それ以上以下でもないと、言葉だけでリスベルクは切り捨てた。
そこある歯痒さと、僅かな恐怖をアクレイは見逃さない。だがクレインは違った。訝しげに二人のやり取りを見ている彼は、聞くべきか迷い結局は聞かなかったことにした。
深刻な顔のリスベルクを見れば、問わずとも分かっていたのだ。
そう簡単に触れて良い話題ではないのだ、と。
夜。
色々と考えた結果アッシュは竜たちに森側で寝るようにと頼み込んでいた。
必要なら天幕でも宿舎でも用意するつもりだったが、本人たちが外で良いと言ったので下のゲート・タワーの周囲で好きに休んでもらうことになっていた。
「そろそろ行きますか」
竜娘たちは戦闘用の着流し姿ではなく、ジーパングの姫たちが愛用する着物姿で人化するとゲート・タワーを登ってゲートを越えた。
彼女たちには、ウォーレンハイトから賜った任務があったのである。
最悪を考慮したとき、近場で逃げられる場所を確保しておきたかったのだ。ましてやそれが念神の庇護化であるというならそれ以上の条件はない。
当然だがリスベルクも、そしてアクシュルベルンもダメだという結論が竜たちの間では出ていた。当初はアクレイにと考えていたウォーレンハイトだったが、彼だとてハイエルフには逆らえない様だと理解した。だが、そのハイエルフでさえも廃エルフには甘い。なので必然的にアッシュしか居なかった。
そのため、仲良くなっておけとというつもりで命令していたのである。勿論仲良くの定義は竜娘の常識に左右されるのだが、揃って深読みしていた。
しかしゲートを超えた瞬間、尋常ではない力が広がるのを感知した彼女たちはそのことを忘却し咄嗟にその場に身を伏せた。
「な、なんなのですかこれは」
竜はどちらかといえば念神寄りの感覚を持っている。
魔力に敏感であり、力の流れを読み取る竜眼と呼ばれる魔眼さえ持つからである。そんな彼女たちは、竜翔での活動の中で研ぎ澄ませた感覚により恐慌に陥いりかけていた。
ルーレルンでさえもそうだった。
見渡せば、鱗の色と同じ髪の色をした仲間たちが歯をカタカタと震わせていた。
中には腰を抜かした者も居り、しきりに一時撤退を具申。近づかない方が良いと首を横に振るっている。
「……貴女たちは戻りなさい」
言い捨て、コクコクと無言で頷いた五人の竜娘たちをそのままに、ルーレルンはなんとか立ち上がる。
無理も無いと彼女は思った。
アッシュとウォーレンハイトとの最後の一騎打ちを遠目に観察していた彼女だったが、黒炎を使っていた時でさえこれほどの恐怖は感じなかったのだ。
(力を隠していたということですか)
手加減していたのは殺されなかったことからも分かっていた。しかし、今感知した力はそういう次元ではなかった。アッシュという力の塊の所有するエネルギーさえ軽く超えるほどの力だったように思うのだ。
(むっ、周囲から魔力反応がことごとく消えた?)
その証拠に、大量の魔物が一斉にラグーンに再召喚されたのをルーレルンは感知した。
恐る恐る窓辺に近寄り、念神の力が感知できる方向へと目をやる。
すると、再び力が放射されるのを感じ取った。
人影から炎が広がる。
それは彼を中心に全周囲へと広がってラグーンの大地を舐めるように奔り抜けていく。当然、炎に飲み込まれた魔物たちがことごとく消えていく。
炎の後には何も残らない。
ただ、灰燼と化した大地が威力の爪痕を残すのみだ。
(しかし、まさか――)
このラグーンを見たとき、木が一本もまともに生えていなかったのをルーレルンは思い出す。
数々のモンスター・ラグーンを見てきた竜たちは違和感を覚えたが、生い茂っていた草を見て、そういうラグーンなのだと最終的には気にもしなかった。
(――まさか、廃エルフの所業だったとは)
ゴクリと唾を飲み込んだルーレルは、今日は声をかけるのは止めるべきかと思案する。
と、廃エルフが白い光を纏って消えた。
「――悪い。気づくのが遅れたわ」
ルーレルンは咄嗟に背後を振り返る。
すると、空間転移で移動してきたアッシュが右肩に紅の剣を担ぐようにして構えていた。
一瞬、殺られると思ったルーレルンはすぐさま謝罪した。
「も、申し訳在りません。盗み見るような真似を……」
平謝りするルーレルンの様子に、アッシュは首を傾げる。
彼からすれば、見られて困るというよりも巻き込んだら洒落にならないという意味だった。しかしルーレルンからすれば、見られるのが困ると言う風に聞えていた。
「あー、いいっていいって。別に大したことじゃないし」
(そんな、更に奥の手を隠しているとでも?!)
戦慄するルーレルンは、眩暈を覚えながら尋ねる訪ねる。
「その、他にももっと凄いことができるということでしょうか」
「んー、都市を焼き尽くすぐらいならできると思うぞ」
試す予定はまだ無いが、などと軽く言うアッシュ。しかしラグーンを焼き払ったことだけは確かである。顔を引き攣らせたまま、彼女は念のために確認した。
「殿はその、ジーパングに攻め入るとかそういう気はないのですよね?」
「変なことを聞くんだな。別に竜とは敵対していないだろうに」
「……そう、ですか」
予定があったらやるということかは、付き合いの浅いルーレルンには分からない。ただ、想定していたよりも色々と難易度が上がったことは気に留める。そして、一考に構えを解かないアッシュを見て逃げられないこと悟った。
「それで俺に何か用か?」
「い、いえ、その少し夜食でもと」
「あー、そっかそっか」
竜の食欲は半端ないんだなと、妙な納得をしたアッシュ。夜食の邪魔をしないように今日のレベル上げはこの程度にすることにして、加護を切り剣を仕舞いこむ。
「明日から忘れずに警告要員を置いとくわ」
危うく魔物と一緒に焼き殺すところだったことを詫びると、アッシュはそのまま寝床へと向かって降りていった。途中まで一緒に向かったルーレルンは、中層に置かれたベッドまで一緒に降りると分かれた。その際、「一応これからは気をつけてくれ」という言葉が、次は無いという忠告に聞えたルーレルンは、一つ下の階層に降りた瞬間にペタンと床石に座り込んでしまった。
「ウォーレンハイト。し、心臓に悪い任務になりそうですよ」
竜は強い。
少なくとも人類種最強なのは間違いない。
しかし、そんな自分を苦も無く捻り潰せそうな念神の相手をこれからしなくてはならないことに、ルーレルンは早くも自信を失くしそうだった。
ハイエルフに意趣返しをしたときの余裕は、もはや彼女にはなかった。
此度のレベルホルダー育成計画も、基本は前回と同じである。
精鋭部隊とそうでないグループを作り、質と数の両方を育成する方針で始められていた。
最初はビギナーにとってもっとも危険度が高いため、アッシュたちは魔物を半殺しにしてから止めをビギナーに任せる方針を取る。
武器娘と竜娘、そしてアッシュの戦闘能力は彼らからすれば悪夢であったが、味方であると逆に頼もしく見える。一部の自信家が最初は不満を抱いていたが、その力を見せ付けられれば口に出すこともできなかった。同じことができると言い切れるほどの者など居なかったからである。逆に、日を重ねるに従って憧憬さえ抱く者が出始めていた。
ウィスプの治癒魔法による恩恵を受ける精鋭たちを見れば、自分たちがどれだけ恵まれているのかを感じずにはいられなかったのである。彼らを指導していたベテランの戦士たちは、魔物との戦いの悲惨さを口酸っぱく訴え続けていた。
何か在ったときにああして治療してもらえるという事実は、精神的な余裕を作り出しビギナーたちを必要以上に緊張を強いずに済む。しかし、逆に隙にもなりかねない。
「貴様らはヒヨッ子に過ぎん。その事実を考慮しての修行だと肝に銘じておけ!」
ドレムスは過保護に育て過ぎるのもいけないと分かっている分、容赦なく叱咤する。
「こんな生温い環境でレベルを上げる機会など普通はない。すぐに貴様らも数名で魔物の群れに突っ込むことになるだろう。それまでに貪欲に鍛え上げろ! あそこに居るヨアヒムを見ろ。奴は二年前までは戦士として未熟極まり無かった。しかし今は立派な戦士として成長している。貴様らも奴を見習って力に飢えろ!」
またしても志願していたヨアヒムは、イスカ、イリス、ナターシャに遅れつつも血みどろになりながら戦っている。元々のレベルもさることながら、周りが自分よりも強いため、三人の中に混ざっているとあまり調子に乗る暇がない。
普段は気さくなその男が、飢えた獣のように狩りたててていくのは新人たちにとって驚きである。
同時に、レベル上げの先輩であるために良き目標となった。
また、レベル上げの協力依頼なども竜翔は受けることもあったせいか、竜たちも指導には馴れていた。その竜たちがアッシュを前にすると嫌に馬鹿丁寧なせいもあって、意図せずともアッシュの株が上がっていく。
「なんだろう。最近、周囲の俺を見る目がまた変わったような?」
『竜共は特に凄いのう。お主の機嫌を損ねないように必死ではないか』
「殿呼ばわりされるのはどうにも調子が狂うんだが……てか、俺なんかしたか?」
ギスギスするのも嫌なので、できるだけフランク交流するように心がけてはいるアッシュだったが、どうにも上手く行かない。
『ぬふふ。いっそ本当に夜伽にでも呼んで大人の付き合いでも初めれば良かろうに』
「馬鹿を言うな。俺はパワハラの誘惑になど屈せぬわ!」
妙に理想が高いその男は、もうアレはリスベルクに対する嫌がらせだろうと割り切っていた。
「中々打ち解けるきっかけが掴めませんね」
「夜は締め出されてますし」
「昼間はレベル上げの手伝いがある。長時間の接触は難しい」
竜たちも困っていた。
相手は念神である。竜神と同じで争いを好まぬ性格であるし色々と甘いのだが、夜の一件以来その力は竜たちを心底恐れさせていた。
「毎夜毎夜ラグーンを焼くなど、殿はどれだけ力を持て余しておられるのか……」
「無理。アレを思い出すとまともに目も合わせられない」
敵対した上で、ウォーレンハイトが無茶な頼みをしたという負い目もある。この上更に図太く立ち回って大丈夫かという不安が、竜たちに二の足を踏ませていた。
しかしその一方で、翼を預けることに不満を持っている者は居ない。
念神であるというだけで存在の格は十分である。その上で実際に力を見定めているのだから、そこは誰も問題になどしていなかった。
「色々と予定もあるようですし、今の内に確固たる関係を築く必要がありますが……」
ルーレルンは黙考する。
別段、竜たちの間に先の戦いでのわだかまりはない。それは自分も含めて変わらないとは理解していた。傭兵家業に身をやつしていた以上、恨み恨まれるのにも馴れている。その上で、今の境遇を生み出したリスベルクへの意趣返しは終っている。今彼女たちに有るのは、遠慮と恐怖の感情である。
「ぬっふっふ。アッシュが篭絡できず困っておるようだのう」
と、そこへいやらしい顔をした悪魔が忍び寄ってくる。
「ッ――何のことでしょうか」
「隠さずとも分かる。黒銀はいざという時の保険が欲しいのであろう?」
退路として、援軍として。動かせるならば、アッシュとのコネを強化するのはトリアスを守るために有益である。ウォーレンハイトがそれを至上とするのなら、残った竜たちの仕事など推察するのは容易い。咋に残した竜全てを雌竜で構成したのも、傭兵時代に人間たちを見て学んだ結果だろう。
男であるアッシュを誑かすなら、今の竜翔には色ぐらいしかないのだから。
「何なら妾が策を授けてやっても良いぞ。ただし、代償は貰うがのう」
秘密を握られ、ぬっふっふと笑う悪魔の誘惑に竜たちは屈した。そのせいで、全員が円周率を蹂躙される憂き目にあってしまう。
(まったく、しっかりと首輪をつけんお主が悪いのだぞ)
釣った魚に中途半端に餌を与えないのはよくない。
こっそりと趣味と実益を兼ねて立ち回る悪魔であった。
(どうしてこうなった)
何故か、アッシュは日替わりで湯浴み着を着た竜娘に背中を流されることになってしまっていた。
「加減はどうでしょう」
「い、良い感じだ」
拠点に男湯と女湯を設置したアッシュは、ラグーンでかつて作っていた調理場の側に、自分専用の風呂を設置していた。
ドワーフの名工が作った見事な個人風呂である。
足が伸ばせるほどに広く、浴槽の一部が斜めになっているためにゆったりとできる。これで温泉であったなら、魔物の返り血で汚れるアッシュの入浴回数は更に増えていたかもしれない程に気に入っていた。
娯楽という娯楽が存在しない今、風呂を嗜むのは彼の精神安定に相当に寄与している。しかし今、そんな彼の風呂神話にも変化が訪れていた。
(……イシュタロッテの奴、いったい何が狙いなんだ?)
軽く振り返れば、白い湯浴み着を纏ったルーレルンが居る。
一周して順番が戻ったので二回目ではあるが、妙に慣れなかった。昔、カミラに背中を流さなくて良いのかと訪ねられたとき、突っぱねたのは正解だったと改めて思うアッシュ。彼は何故、憩いの場所である風呂で緊張を強いられなければならないのかという葛藤と、視線誘導の狭間で戦っていた。
まず、湯で艶かしく張り付く湯浴み着がけしからん。
どちらかといえば格好良い竜姿と、今のたおやかな人間姿のギャップもけしからん。
そして一々お伺いを立ててくる奥ゆかしさもけしからんのであった。
振り返れば、彼の周囲には前や隣を歩く女性は居ても三歩下がって歩くようなタイプが居なかった。おかげで妙に新鮮な気分にさせられてしまっていた。
(押せ押せのユグレンジ大陸に控えめなジーパングか。ドラゴナデシコ恐るべし)
この状態の元凶はやはりあの悪魔だ。
イシュタロッテが、「連中を掌握したければ背中を流させてやれ」などと言ったので冗談で「それで済むなら楽なもんだ」と返したのが不味かったのだ。何故か聞いていたルーレルンが、止める間もなく他の竜も巻き込んだのである。
相棒の企みの一環であるとは知らず、アッシュは一人悶々としていた。恨めしげに黒白の腕輪に目をやるも、こんな時に限って相棒は何も言わない。ついでに背中を流されることに関して悪い気がしないのも性質が悪かった。
「今更なんだが、肌を晒すのはジーパングの文化的にありなのか?」
「私たち竜は基本裸ですからね」
「おおう、そういう切り返しは想定してなかったよ」
相手は大雑把に言えばでっかいトカゲの人である。言われてみれば、元の姿で服を着ている竜など見たことがない。アッシュとしては妙に説得力がある話に聞こえた。
「所詮、服などは他の人類種の価値観に合わせてのものなのです」
「今の姿だと力は落ちるんだよな?」
「ですがこのままでも並の巨人になら負ける気はありませんよ」
「そいつは頼もしい」
巨人の神宿りを思い出し、アッシュは感心した。話しの種にと、巨人の大陸ティタラスカルについても聞いてみる。だがルーレルンは詳しく知らず、言葉を濁す。
「あそこは、竜の力が余り必要ではありませんので」
「必要ない?」
「竜翔は竜の力を喧伝するための傭兵団です。しかし巨人は自分たちの強さに自信を持っている方が多いので彼らだけで事足りるのです。ですが人間は違います」
竜と交渉しようなどという発想が出てくるのも彼らだった。
そして実際、魔物退治に戦争にと、竜の力を振るうことができる場所にも事欠かない。いくつもの小国を転戦し、そのほとんどを勝利に導いてきたことさえ竜翔はある。しかし、それにケチがつき始めたのはアヴァロニアの躍進からだとルーレルンは語った。
「昔は、もっと竜翔にも仲間が居たものです」
「……アリマーンか?」
「はい」
頷くルーレルンが、桶で背中を流しながら淡々と続けて見せる。
「六魔将も危険ではありますが、彼はもう対処方がありません。出会ったら逃げるか降伏するかしか生き延びる術がない。元々相性が良くないというのもありますね」
悪神アリマーンはこの世全ての悪を生み出したとされる幻想<カミ>。その教義を生み出した人間は、人間を傷つける者全てを悪とした。その中には竜も含まれており、悪を支配するアリマーンは伝承的に考えれば彼らに強い特性があるという。
「あの体が聖人であるというだけなのかもしれませんが、いずれはユグレンジ大陸での竜翔の活動も終わるかもしれませぬ」
確かめる術はないが、アリマーンと聖人のどちらであっても竜にとっては脅威。情勢を見定める一方で、本国では趨勢が決まっていると判断する者もいた。
「……これは言うべきかどうかは迷いますが、敢えて言っておきましょうか」
「ん?」
他言無用だと念を押し、ルーレルンはアッシュの気を引くために告げた。
「ジーパングは、既にアヴァロニアに降伏しているに等しい状態です」
聖王国クルス。
その国のとある宿の一室で、バスローブ姿のアリマーンが客と談笑していた。
「アクシュルベルンちゃんがね。お爺ちゃんの家で過激な発言してたよ」
「フッ。奴らしい動きだな」
宿の部屋で、妖精神『ドテイ』の報告にアリマーンは苦笑する。
「余との関係が無くとも、竜神の翁は動かぬだろう。クルスだけではなく、アヴァロニア戦でもジーパングを担ぎ出そうという意図が透けて見えるのだから」
大陸の情勢に竜を巻き込もうという魂胆はあからさまに過ぎた。一応は煽っているが、これは分かってやっているのだろうと彼は当たりを付ける。或いは、彼の意思を超える竜が現れることを期待してかもしれない。だがどちらにせよジーパングの最大戦力である竜族の大半を竜神が押さえている限りジーパングは動かない。
土着の人間も居るが、支配階級の大名と呼ばれる者たちは皆竜である。それらを掌握しているのが竜神なのだから、動きようが無い。
「妖精と竜はもう、悪神ちゃんが天下統一したら降る密約結んでるしねぇ」
無邪気に笑うドテイである。彼女はアリマーンが賢人から貰ったポテチの袋に頭ごと突っ込んでいた。
羽がつっかえて奥に入れないせいか、一端外に出て袋を揺さぶるその姿は愛らしい。だが、愛らしいだけではないのが妖精である。
「奴には分かっているさ。だからクルスの情報しか貴公に求めなかったのだ」
「……悪神ちゃんはさ、随分と辻斬り剣神の担い手を買ってるよね」
「奴は話の分かる男だからな」
「懐かしそうな顔だねぇ。それ、イビルブレイク繋がりってことでいーの?」
「なんだ、貴公はそんな昔のことまで調べたのか」
「当然でしょ。組む相手のことは調べないとねっ♪」
久方ぶりのポテチに挑みかかっていたドテイは、手帳を取り出すと新作お菓子の味をメモするのではなく、情報を読み上げた。
「――イビルブレイク傭兵団。対魔物を専門とする大傭兵団であり、その初代団長アクシュルベルンは何者かの潤沢な支援を受けて団を設立。散々勇名を馳せた後、後任に後を託して傭兵団から消えた。狙いは……色々あったのかなぁ。種族を問わずに団員を募集し、建前で名声を得る。そうやって随分と間接的に動いていたみたいだね」
アリマーンはグラスにワインを注ぎながら続きを促す。
「裏の活動目的は分かるか」
「んー、エルフ族を良く扱っていなかった国の、その周辺国ばかりを狙って活動していたような節があるね。それと自分を前面に出していた時期もある。だからアレでしょ。ダークエルフの地位回復と、厄介な思想の国をぶっ潰すためだ」
「その通り。そうやってパワーバランスを意図的に崩壊させていたのが奴だ」
魔物の被害を減らすということは、当時は国力の温存に繋がった。そうして、力を温存した国々はその力を他国へと向けたのだ。
成功した国もあれば、そうでなかった国もあっただろう。
しかし、ラグーンズ・ウォー後の混沌とした時代に、先を見据えて活動していた一人のダークエルフの地道な努力は、決して無駄ではなかったのだということをアリマーンは知っていた。
「出資者は?」
「今は沢山。で、最初の一人であり、今も続く最大の支援者が悪神ちゃんだ」
「素晴らしい。今は団長の白金竜などの長命種ぐらいしか知らぬだろうに」
「ふっふーん。あ、でもディリッドちゃんは気づいてるみたいだったよ?」
「奴はしょうがあるまい。何せはぐれ魔女だからな」
それだけで流し、アリマーンはアスタム教の未完成である新約聖書と一緒に鞄から缶コーヒー『親分』を取り出す。
「わっとっとっと」
両手で投げられた缶を抱えてキャッチした彼女は、懐かしい絵柄を見て破顔した。
「うわぁ。これもね、中身をどうやって作ったのかサッパリなんだよねぇ」
「となれば余が接触した女は賢人で決まりか」
「ぶーぶー。賢人ちゃんもどうせなら私のところに顔を出してくれたらいいのにぃぃ」
ガコンと音を立てて缶をテーブルに置くと、ドテイは答え合わせを続ける。
「でも大変だね。自分の国がゲートの守りを壊してる被害を裏で補填するのって」
「馬鹿共は分かっていないのだ。占領した後のことなどな」
必要以上に恨みを買う気は無いが、さりとて戦争という手段が手段である。中には、ただでくれてやるまいと、自分たちで壊して他国に亡命する勢力さえあった。
いつしか、風の噂でそれら全てがアヴァロニアのせいにされていた。独裁者であるアリマーンはそれを黙殺した。有効な手でもあるからだが、同時に非難を理由に言いがかりのような戦争の口実にさえするためである。
「だから意図しない悪評もぜーんぶ悪神ちゃんが背負い込むの? 馬鹿だと思うなぁ」
「悪など生まれた時から背負わされている。今更一つ二つ増えたところで何が変わる」
グラスを煽り、舌で味わい嚥下する。
血の色をしたワイン。
今まで飲み干して来た血と悪を思えば、その程度で彼を酔わせることなどできるはずもない。静かに次の一杯を注ぐ彼は、顔色一つ変えずに涼しく酒を嗜んでみせる。
「……本当に馬鹿だなぁ。悪神ちゃんは」
言い捨てた妖精神は、哀れみの顔で彼を見た。
「どれだけ強がってもさ。きっと世界は貴方を許さないよ?」
「そうでなくては困る」
テーブルに持ってきた聖書を、ドテイに向かって滑らせる。
特に何も興味は無かったが、最後のページを開けという悪神の言葉に従って捲って見た。
そこにあるのは空白。だが、最後の最後に僅かばかりの文字があった。
「――悪神は目覚めた聖人に殺され、悪の時代が終わりを告げる?」
「そして人類に世界平和が訪れる。良いフィナーレだろう。尚更背負い込む意味が出る」
「……呆れた。どこまで自分勝手な悪を貫くつもりなんだよぉ」
「この覇道<ユメ>を実現して世界平和を成すまでだ」
その果てに、アスタムは真の救世主となる。
争いの時代を終らせた希望として。
きっと種族を問わず力を集束し、究極の悪を超える究極の善として後の世を眩い光で照らし出すだろう。
その礎となるのが悪神の最終計画。死後に発行予定の新約聖書に刻んだ最後の文字は、その不断の覚悟の表れだった。
「アフラーは余を超越したなどと言うがな。実は、余にはその実感が未だないのだ」
アスタムと対峙して勝てるか?
自問自答すれば答えは否だった。
どれだけ想念を喰らい尽くそうが、未だにそれができると思えない。であるならば、この悪の道のその先で自分を倒すのはアスタムで在って欲しいと彼は願っていた。
――悪とは、善に倒されなければならない存在であるが故。
――善とは、悪を否定しなければならない存在であるが故。
他の誰にも負ける気などしない。
ならば、やはり。
その役目を果たせるのは彼しかいない。
宿命を超越できるのであれば、そうでない結末もありえるかもしれない。
しかし不思議とそのビジョンが浮かばなかった。
ここまで来てなお、アヴァロニアという大国を擁してなお抜け出せないその妄念は、果たしていったい何を意味していたのだろうか。
悪を背負って走り続けるアリマーンは、時折その意味を考えずには居られない。
「アスタムは良い夢を見せてくれた」
勝てないはずの悪神に勝利の美酒を味あわせ、あろうことか善に成れと言ってくれた。
嫌われて当然の、唾棄すべき否定信仰の塊に。
存在せざるべき悪に。
「とはいえ、やるからには余も勝ちを目指す。覇道を偉業にすり替え、善と成すべく最後まで振り返らずにやってやる。だが、それが許されないのなら、その最後の文字通りの結末を辿るだろう。クク。どちらに転んでも楽しみだ。嗚呼、嗚呼、嗚呼……実に楽しみだ――」
それら以外の結末など許さない。
誰が相手でも叩き潰し、隷属し、力でねじ伏せる。
回帰神最強は伊達ではない。他の回帰神とは違って延々とアーティファクト姿で力を蓄えていたのもそのためなのだ。
「はぁ。賢人ちゃんに会ってなおそういうことが言える君は、相当に図太いなぁ」
「でなければ悪など背負えるものかよ。だいたい、奴は俗世に興味などないだろう」
勝って善の華を咲かせるか、それとも悪の華を咲かせるか。
もうこの二つしかアリマーンの頭の中には結末が存在しないのだ。
故に止まれない。
止まれずに走り続けるしかない。
「あー、この雰囲気だと聞き辛いなぁ」
「どうした。余は恭順した者には寛大だぞ」
「そう? じゃあズバリ聞いちゃうね。賢人ちゃんがエルフの森に新しいゲート・タワーを設置したらしいんだけどさ。悪神ちゃんはこの行動をどう思う?」
「……貴公。何故それを真っ先に言わなかった」
「や、だってそうしたら悪神ちゃんのすっごい顔が見れるからって、アクシュルベルンちゃんが言ってたからねぇ。悪戯ついでについ……てへっ♪」
舌をペロリと出して悪びれもせずに妖精神は姿を消した。
ちゃっかりしたもので、ポテチの袋と缶コーヒーも消えている。能面のような顔で席を立ったアリマーンは、グラスの中身を飲み干してすぐさまアヴァロニアに転移した。
一つ、例外があった。
アスタムが危険だと言うあの少女。
賢人と名乗る、どの勢力にも属さない完全なるイレギュラー。
彼女こそ全てを零に戻す最凶最悪にして、この星に隠れ住む知られざる暴君。
支配を明言せずとも、全てを支配し終えている本物の征服者の真実だ。
だがアリマーンはそれを知らない。
知らな過ぎた。
――だから。
「きししし。悪戯成功!」
姿を消したまま潜んでいたドテイは、聖書の上に缶と袋を置いた。
(面白い話だったけど、早すぎるよ悪神ちゃん。勘違いは困る。私はまだ貴方の下に付いたわけじゃない。だって悪神ちゃん、まだ世界征服終らせてないもんねー)
故に、このまま傍観者を気取るスタンスで行く。
そもそも、ドテイにとってアリマーンという掛札は反則存在が居ないが故の代替だ。
今の回帰神ならそれができるのが彼だったというだけの話しで、掛けたい札は最初から一枚しかない。
「結局さ。賢人ちゃんが居る限り何をしようが砂上の楼閣なんだよねぇ」
それにドテイは知っていた。アヴァロニアも完全な一枚岩ではないのだと。今回の観光での炙り出しもかねていたのかもしれないが連中は人間だ。念神とは違う弱者である。
見ている視界が違えば価値観も違う。
もし第二、第三の賢人を生み出したらと思うと彼女は気が気ではない。
「本当に世界平和を実現するなら賢人ちゃんを征服しないと始まらない。でもそんなこと、いったいどこの誰にできるんだろ?」
ラグーンズ・ウォー。
それは悪神でさえ止められない神滅の呪い。
他の回帰神もきっと同じで、だから掛けるならドテイは賢人に全額単勝でぶち込む。オッズの倍率が例え極限まで低くても、それ以外の札はきっと紙くずになるだろうから。
「いっそのこと賢人ちゃんが世界征服やってくれたらなぁ。そしたら私は降伏してお菓子大臣に志願しちゃうのに。もーう。賢人ちゃんのいけずぅぅ!!」
お土産ごとまとめてジーパングに転移したドテイは、貪るように残りのポテチをカッ喰らってふて寝した。
「ジーパングは世界征服が成った時点で降伏する密約を交わしています」
この時、竜が獅子身中の虫になりかねないのではないかアッシュは懸念した。振り返ったアッシュは、険しい目でルーレルンを見た。彼にとって、これ以上の不安要素はお腹一杯なのである。
「誤解しないで下さい。それまで竜は中立で在り続けることになっております」
「中立ね。そうか中立か」
「竜翔はクライアントの意向によって代わるので例外ですが、竜神の判断には最後には従います」
世の中には敵と味方だけが存在するのではない。どちらでもないものだって存在するのだ。当然のような事実を反芻しながら、アッシュはルーレルンからタオルを回収。前を自分で洗って垢を落とすと湯船に浸った。
その間、ルーレルンは立ち去ることなくその場でアッシュの言葉を待っていた。
「――で、その情報の対価として望む見返りはなんなんだ」
まさかタダというわけではないだろうとは、アッシュにも分かる。どこか冷めたような彼の黒瞳は、ぼんやりと夜空を見ている。
しばしの沈黙。
その静寂の間が、ルーレルンにとって何よりも恐ろしい。
「あれ? 俺の思い違いだったか」
「いえ。その通りなのですが……」
「じゃあ、もう一つだけ聞かせてくれ。それは、俺じゃないとできないことなのか?」
「はい。きっと」
「……ったく、俺はもう面倒ごとは満腹だってのになぁ」
ザパァンと勢いよく湯船から立ち上がったアッシュは、一先ずルーレルンに詳しく聞くことにした。