第五十七話「夢追う遺産」
「くぁぁぁ。やっと一息つけるなぁ」
「ん」
ラグーンの風呂で両手両足を伸ばす。
やはり風呂は良い。
そのまま全身の力を抜いて、レヴァンテインさんと朝風呂を満喫する。
勿体無いことに、シュレイク城の浴場は怪魚の腹の中に消えていた。
リスベルクが「また風呂か貴様ぁぁぁ!!」などと叫んでいたが、俺は両耳を塞いでイシュタロッテの空間転移で離脱した。
後始末はあいつらの仕事だ。
ついでに、民に説明するのも今後のことを話し合うのもあいつの仕事だ。
何やらエルフ主義者や議会の有力者が城ごとほとんどまとめて怪魚に喰われたらしく、独立派それ自体が崩壊しているような有様だそうな。
というか、面倒な連中がほとんど怪魚にまとめて飲み込まれたようだ。
地と風の戦士団の一部は投降し、それ以外は捕らえられるか怪魚のドサクサに紛れて雲隠れした。
しかし、これ以上大きな戦力は無いだろうというのが投降した戦士からの情報である。残党の壊滅も必要だが、ラグーン攻めという話しも捨て置けない。
結局、まともな活動もできないだろうと判断され、小規模の捜索部隊が組まれることになった。
残りは首都機能の復旧や森の防衛のための戦力として再編されることだろう。
その間に、熱狂覚めやらぬベルライクの住民たちは宴に入っていた。
さすがにこれを止めることは誰もしなかった。
できなかったというべきか。
それに戦士たちにも休息は必要だ。上の方はそうはいかないだろうが、リスベルクを擬人化したままにしてきたからなんとかなるはず。
きっと、多分、おそらく。
気になる問題と言えばクルスからの防衛についてだが、アクレイが確認してきた範囲ではまだどこの集落も攻められてはいないようだ。
ディリッドも転移で送った戦士たちを戻すと、すぐに情報収集のためにイビルブレイクに向かった。
そんな状況なわけなのだが、生憎と俺だけはやることがない。
だから昨日の疲れを癒すために、はぐれ風呂エルフとしての職務を全うしているわけなのである。にしても、クロナグラ中に風呂を普及させて叫んでみたいぜ。
『戦争なんてくだらねー。風呂に入って忘れてしまえ!』、と。
まぁ、実際にそんなことを叫ぶ勇気は俺にはないが。
と、そうやって眠気と格闘しているとナターシャの声がした。
振り返れば、呆れ顔の彼女が居た。
「入り口の札を見たときにまさかとは思ったんだけどね。本当に居るとはねぇ」
「よっ、久しぶりだな」
寝起きなのか、ラフな服装の彼女は軽く欠伸をかみ殺していた。
「もういいのかい」
「それがな、もう一騒動ありそうなんだよ」
「忙しい男だねぇ」
「悪い。しばらくこんな感じになるかもしれない」
「しょうがないさね。私もまだレベルが足りないし……カンストだっけ? 99になったら手伝うよ」
「ん、助かる」
人手があるってのはそれだけでありがたいことだしな。
神宿りやアフラーが出てくるかもしれないが、その時はイシュタロッテの結界に閉じ込めて俺が相手すればいいだろうし。
それにしても、あのエロ悪魔様はことごとく俺の欠陥を埋めてくれるものだ。
相性が良すぎるせいか何だか怖いぐらいにしっくりくるしな。
まるで昔からずっと世話になってたような錯覚さえ感じる程だ。
「それで、クルスが攻めてくるってのは本当なのかい?」
「どうかな。実際に今攻められてるって話しはまだ聞いてない」
「……同盟を理由にロロマが動くと思うかい?」
それが聞きたかったのだろう。
少しだけ真剣な顔で、彼女は問うてくる。
「悪い。それも分からない。中央四国の同盟内容次第だろうとは思うんだが」
元々は対アヴァロニアのための同盟であるはずなのだ。
それ以上のことを織り込んでいるかで、流れが変わってくるのは間違いない。
もしエルフの森攻めにも機能すれば厄介だが、中央四国で森と国境が隣接しているのは森の西にあるリスバイフと南西のロロマだけ。
リストル教の大半が逃げ込んでいるって言うクルスは、中央四国の西の国だから、攻めてくるなら国境を跨いだ上での遠征になる。
そしてその場合は侵攻ルートが問題だ。
だからナターシャには分かっているのだろう。
峻険で険しい山々が繋がるリスバイフ方面から侵攻するよりも、ロロマから攻め入る方が無難であると。
「気になるなら後でロロマに行ってみるか?」
「良いのかい」
「アクレイに頼めば、魔法ですぐに連れて行ってくれるはずだ」
レジスタンスなら情報を掴んでいるかもしれないし、パイプが作れるなら食いつくだろう。
「アンタは……そっか。さすがにおいそれと動けないかねぇ」
「まぁ、そこも含めてアクレイに確認をとっとけばいいだろ」
居ない間に奴らが魔法で転移してきました、なんてことがあったら洒落にならないからな。空間転移の魔法が存在するということは、味方だけでなく敵も使ってくるってことだ。
そう考えれば、やはりダロスティンを仕留められたのはラッキーだったように思う。
最悪、ここに居ればピンポイントで襲いに来たとしてもなんとかなるかもしれない。
つまり、俺がここの風呂に入ることに意味が出てくるわけだな。
これで誰にも文句を言わせない理論武装が出来たぜ。
『で、それはそうとこの人間の女は何者ぞ』
「ん? あー、ちょっと待て」
「アッシュ?」
腕輪にツクモライズを掛けて、悪魔を擬人化して起こす。
「なんだい、また新しい嫁の紹介かい」
もはやナターシャは達観しているようだ。
「こいつは俺が前に手に入れてたアーティファクトだ」
「イシュタロッテという。よろしく頼むぞ人間よ」
脅かすつもりなのか、バサリと翼を展開するエロ悪魔。
が、翼ではなく別の意味でナターシャは驚愕していた。
「イシュ……って、アンタそれ悪魔じゃないのかい!?」
ナターシャが、一瞬何かに葛藤するような素振りを見せる。
だがため息を吐くだけでやめた。
というか、驚愕を通り越して諦めたような顔である。
「そういえばナターシャはロロマ生まれだったもんな」
「昔はそれなりに敬虔なリストル教徒だったよ。トレジャーハンターになってからはすっかり拝んでないけどねぇ……」
ついでに「今はアンタしか拝んでいないよ」、などと言ってくれる。
これは喜ぶべきなのだろうか?
ちょっと微妙な気分になる殺し文句だった。
「拝まれても何もご利益なんてやれないから困るんだが……」
「アタシの気分の問題さね。でも妙だねぇ」
「なんだ。何か言いたそうな顔だな人間よ」
「どうも聞いているイメージと違うような気がしてね」
腑に落ちないという顔でイシュタロッテを見るナターシャは、彼女の蝙蝠のような翼をおっかなびっくり突っついている。
「それは忘れるが良い。思い出したくも無いのだ。まぁ、新しく想念で上書きでもされない限りはこのままよ」
「良く分からないけど、まぁ悪さしないなら好きにすればいいさね」
なんだか拍子抜けするぐらいに軽く受け止めるナターシャである。
これはロロマでのリストル教の信仰がそれだけ落ちている証明か。
そういえば、レジスタンスの拾ってきた政治研究家が寄付金やら異端審問が鬱陶しいとか言って愚痴ってたな。
適当に面白半分で「じゃ、政治と宗教を分ければ良いじゃん」などと吹き込んでみたが、彼はどうしただろうか――などと考えている間も二人の交流が続く。
「ちなみに、妾はこやつの嫁ではない。愛剣にして愛人のような相棒じゃよ」
「別に嫁でいいじゃないかい。アッシュだったら誰も気になんてしないさね」
「ぬふふ。妾はまだ死にたくないのでな」
訳の分からないことを言うなり、イシュタロッテは衣服を消し飛ばした。
どうやら、あの衣類は魔力か何かで出来ていたようだ。
一瞬で脱衣<キャストオフ>すると、風呂に向かってダイブする。
「おわっ」
当然のようにお湯が飛び散るが、奴は悪魔らしく気にしない。
しかし彼女の暴走もここまでであった。
黙って入浴していたはずのレヴァンテインさんが、顔に跳んで来た湯を無言で拭うと立ち上がる。そうして、気持ちよさそうにぷかぷかと浮かぶ奴に接近。おもむろにツインテールの片方を引っ張った。
「こ、こら紅い嬢ちゃん。髪を引っ張るでない!」
「お前は邪魔」
そうして、二人して何故かキャットファイトを始めた。
さすがに止めようとしたら、すぐさまレヴァンテインさんのチョークスリーパーが炸裂。
「調子に乗るな」
「うぐぐぐぐ。分かった。分かったから止めぬかっ」
俺は喧嘩から芽生える友情があるかもしれないなどと考え、生暖かく見守っていた訳だがさすがレヴァンテインさんだぜ。新入りの教育も一瞬とは。
「ん。風呂の秩序を乱す悪が滅びた」
「ぜぇ、ぜぇ。馬鹿力過ぎるぞこやつ」
「先に出る」
「おう」
その小さな背中には、何故か勝者の貫禄があった。
「アタシもせっかくだし入ろうかねぇ」
ナターシャも脱衣所に戻るわけだが、イシュタロッテが険しい顔でよってくる。
「――アッシュ、お主の持つあの武器はなんなのだ?」
「なんだって言われても俺の武器だとしか言えないぞ」
それ以上でもないし、それ以下でもない。
二次元嫁ではあるが。
「どこで誰に貰ったのだ」
「なんだ、あの子たちに興味があるのか」
「そうだが……待て、もしやお前が使っていた奇妙な武器は全部あの紅い嬢ちゃんのようにツクモライズで擬人化されるのか?」
「当然だろ。俺のツクモライズはそういう技だ」
「……ありえん。ツクモライズはアーティファクト化した念神にのみ作用するのだぞ。だいたい、お主のツクモライズはさっきの嬢ちゃんにはまったく作用しとらんではないか」
「はぁ? いや、擬人化されてるじゃないか」
「よく聞け。あの紅いのは作用した振りをしているだけぞ」
真剣な顔で悪魔は俺に告げた。
だが、そんなことを言われても困るだけだ。
そもそも。
「――何のためにそんなことをする必要が有るんだ」
「それは知らん。が、お主の精霊も含めて一番近い力を放つ存在を妾は知っておる」
「……」
これ以上聞くべきか、聞かないべきか。
一瞬迷ったのは確かだった。
が、ありえない想像だけは一笑した。
「聞くだけは聞いといてやるけど、告げ口は気分が良くないな」
仮にそれが本当だったとしても、それは本人の口から聞きたいことだ。
「じゃがその時はいつか来るはずじゃよ。だからこれだけは覚えておけ」
俺に甘えるようにもたれかかる素振りを見せながら、イシュタロッテは肉声ではなく加護ラインによる声で直接脳裏に囁くように続けた。
『アレの気配はテイハ嬢ちゃんの持つレーヴァテインに極めて酷似しておる。おそらく、奴らの正体は――』
「アッシュ」
その先を聞く前に、後ろから聞える声があった。
振り返れば、いつもの無表情を浮かべるレヴァンテインさんが居た。
「どうした」
「アクレイが呼んでる」
「分かった。すぐに出る」
「妾はもう暫くここに居るよ。用があれば呼ぶが良い」
湯船を出て、脱衣所に向かう。
しかし、気のせいだったのだろうか?
今さっき、レヴァンテインさんが怒っていたように見えたのは。
「――調子に乗るなと言った」
「それは喋られたら困るということかのう」
脱衣所に向かったアッシュに聞えないようにするためか、小声で告げたレヴァンテインにイシュタロッテが面白そうに言葉を返した。
「じゃが今のタイミングは良くないのう。アッシュが疑心暗鬼になるぞ」
「……」
「その様子では加護ラインでの妾たちの会話まで聞こえておるな?」
浴槽にもたれかかるイシュタロッテは、無表情の中に隠された少女の苛立ちを確かに見た気がした。
その苛立ちが、力の発露による無言の警告に変わる。
だがイシュタロッテが一瞬眉根を寄せるだけで唇を歪ませた。
「その態度は悪手ぞ。あれを盗聴できる相手は限られておる」
「お前には隠す意味がない」
「ふむ? ならば問おう。何故あのアッシュは何も知らず、念神として致命的な欠陥を持っておる」
「そちらは答える義理が無い」
「……妾はアッシュのためを思って言っているに過ぎん」
「でもお前はアッシュの敵だ」
「馬鹿な。いったい何を言っておる?」
イシュタロッテもさすがにそれは聞き捨てならなかった。
前も、そして今も味方のつもりなのだ。
そのために神としての致命的な欠陥を埋めたのである。
忌み嫌われる悪魔としてではなく、イシュタロッテという一個の人格を持つ者として振舞っているのだ。
けれど、レヴァンテインは冷ややかな視線を変えなかった。
いっそ何か感情が発露していればまた感情的な否定だと受け取れる。けれどそれさえもない。それは正に、確信的な断定の元に結論付けられたものだった。
「またアッシュの身を脅かしている奴に教えることは何も無い」
紅の少女が背を向ける。
が、一度だけ振り返った。
「でも心外だから一つだけ訂正しておく。アッシュをあんな状態にしたのはボクたちじゃない。彼を盗んであんな欠陥品にしたのはエルフ族」
「な……んじゃと。だとしたら、だとしたらここはっ――」
「そう。ここは敵地」
イシュタロッテの肌から、当たり前のように血の気が失せた。
圧倒的な力の本流にさえ涼しい顔をして見せた悪魔が、今度こそ狼狽した。
するしかなかったのである。
(ま、ままま不味い。だとすれば、アッシュがやろうとしていることはっ――)
火に油を注ぐどころではない。
唯一神に喧嘩を売るとか、回帰している全ての念神をまとめて相手にするとかそういう低次元の話しでさえも無くなってしまう。
「長耳の奴らめ。初めからどうしようもなく詰んでおるではないか……」
恐る恐る天を見上げて、悪魔は思わずリストル教の聖地を一つだけ残して焼いた光を思い出す。同時に、彼女の対念神戦における戦績も思い出してしまって、考えることさえ放棄したくなってしまった。
(いかん。嬢ちゃんは念神である限り絶対に止められん……)
念神に対して無敗。
それが、イシュタロッテの知る念神殺しのキルスコア。
「作るよりぶっ壊す方が得意だからボクって破壊神枠だよね」、などと豪語していた知り合いの言葉が、いよいよ冗談に聞こえなくなるから始末に負えない。
アレは、少なくともクロナグラでは他人の迷惑など一切考えない存在なのだ。
そもそもクロナグラに存在する全てに対して、平等に無慈悲であろうとしていた者だ。その不文律を犯す唯一の例外存在は既に死んで久しく、前でさえ完全なストッパーにはなれていなかった。
「できれば仲良くしたいんじゃがのう……」
「アタシもそうしたいけどね」
「おおう!? ななな、なんじゃ人間か」
いつの間にか、レヴァンテインは去っていた。
その代わりに現れたのは人間の女だった。
「できれば名前で呼んで欲しいね」
「それはすまなんだのうナターシャよ」
掛け湯して、軽くタオルで垢を落とすとすぐに彼女は身を浴槽へと沈める。
しばらく無言の二人であったが、すぐにナターシャの方から問いかけた。
「にしてもだ。なんでレヴァンテインはあんなに怒ってたんだい?」
「……聞いていたのか」
「いや、顔を見たら分かるさね。顔に出やすいタイプだろあの子は」
「そんな馬鹿な。アレは顔色だけはほとんど変えんタイプじゃろう」
顔ではなく、寧ろ言葉と態度で示すようにしか悪魔には見えない。
「そうかい? まぁなんでもいいけど、喧嘩ならさっさと仲直りしておきな。困るのはあんたらだけじゃなくてアッシュもだろう?」
「まぁ、アレよ。見解の相違という奴じゃな」
きっと、それ以外の何者でもない。
結局は彼女だって些細な認識の違いだとは思うのだ。
どちらも間違いではないけれど、譲れないモノがあっただけのこと。
「長い付き合いになりそうだし、言ってくれれば相談ぐらいには乗るよ」
「そうだのう。ならば相談でもしてみようかのう」
過去は変えられない。
けれど未来は変えられるはずであると、そう願って彼女は問うた。
人間だった破壊神と、同じ種族のはずの人間に。
「自分の背にどこのだれとも知らん別種族の子供を守るために、やせ我慢をしながら神の力に抗おうとした戦士が居たとしよう」
「ふーん。武器は?」
「勿論あった。その当時で持ちえる最高の武器。アーティファクトという名の魔剣だ」
しかし、その神の持つ剣には絶対に抗えぬと定義された身の魔剣だった。
それを握る戦士は、逃げろという魔剣の忠告を無視した。
その結果として、子供を一瞬だけ助けて死んでしまった。
「一瞬っていうのは?」
「耐えられたのは数撃だ。命を掛けて守ったが、その後すぐに流れ弾で殺されてしもうた。それを見た戦士の恋人は、その意思有る魔剣を詰った」
――つまり君は、アッシュと見知らぬ子供二人を天秤にかけてあの二人を取ったんだね。
「どうして、オマエは彼を助けられたはずなのに助けなかったのだと。最後の最後で魔剣は、自分も子供も助かる未来を掴もうとする戦士の意思しか守れなかった」
歪めたくなかったのだ。
担い手の意地を。
そのときにはもう、その戦士のアホさ加減が大層気に入っていたから。
「なるほど。戦士の命を助けられなかったから仲違いしたんだね」
「そうなるのう。魔剣だって、気持ちは分からんでもない。だが、アレはもう聞く耳など持たなかった……」
――命は、命は一つしかないんだよ……。
耳にこびり付いて離れない声がある。
たった一度だけ、恐らくはもう二度とないだろう搾り出したかのような泣き声。
やがてそれは怨嗟などではなく、ただの純粋な悲しみはそこで完全なる関係の断絶へと走らせた。
言葉は届かず、言い訳の一つも出来ない。
そうして、きっと最後には感心さえ消え失せた。
「相棒としての悔いは魔剣には無い。けれど、人格を持つ一個人としては違う」
ただただ楽しかった。
振り返れば、宿命さえそっちのけで想念の呪縛からさえも解き放たれていた。
悪魔は忌み嫌われる否定されるべき者。
それは肯定されて生まれ、やがて敗北し否定信仰枠で取り込まれ、そうあれかしとされた架空伝承の産物に刹那の安息を与えた。それがもう一度欲しいと、願うからこそ勝負に出たが、垣間見れたのは拒絶の意志。
こんなことならば、踏み出すべきではなかったのかもしれないとさえ思う。
けれどそれでも、取り戻したいものがあった。
「できれば仲直りしたいと思うた。さて、魔剣はどうすればいいかのう」
「そりゃ、とにかく話し合うしかないねぇ」
「相手が完全に聞く耳を持たないどころか、殺す勢いで構えているとしたら?」
「そりゃもう諦めた方がいいだろうけど、そこで諦めたらきっと二度と関係の修復はできないだろうから、死んでも良いと思えるなら踏ん張るしかないんじゃないかい?」
「苦しいものよな」
「そりゃそうさ。魔剣と人間じゃあ認識が違うじゃないかい。その差をどうやって埋めるかが主題なら、下手をすると永劫に不可能じゃないか」
だって、どちらも相手の気持ちが完全に分からない場所に居るのだから。
けれど、だからこそ。
「分からないからこそ、余計に苦労を背負って知ろうとするべきなのかもね」
「ほう?」
「これは例えでもなんでもないから言うんだけど、アタシにはアッシュが分からない」
「アレほど適当で単純な奴も早々居ないと思うがのう」
「どうだろうね。相手は神様だけど、本人はその気が無いって変り種だよ。おまけに別種族の神様で、異常に風呂好きだ。嫁も一杯居て、武器も居れば神様や悪魔だって居る。正直、この関係だってどこかおかしい気がする時もあるさね」
少なくともスタンダードではない自覚はある。
一人エルフ族の住むラグーンに居るのも、それこそ人間の尺度で考えれば異常極まり無いのかもしれない。
「でもね、じゃあ別の奴だったらどうだろうって考えてみたら、冗談じゃないと思った」
「……結局はノロケか」
「違うよ。これってつまり、少なくとも今現在はアタシにはあいつの代わりなんて居ないってことの再確認だよ。だったら、その魔剣も同じじゃないかってことさね」
戦士の恋人にとっての戦士。
ナターシャにとってのアッシュ。
そして、魔剣にとっての戦士と魔剣にとっての戦士の恋人。
どれも違うようで同じだ。
「代わりなんて居ないんだからしょうがない。だからそのたった一人のために苦しい思いをしても良いとさえ思える。そうなったら後は行動だ。向こうが折れるまで押していく。だって、そもそもそう思ったのは魔剣の意思だ。なら魔剣は魔剣の意思のために行動して、その結果納得するべきなんだよ。相手の迷惑にならない範囲でね」
どうせ、したいことしかできないのだ。
行動しなければ結果が出ないように。
問題は行動の仕方だが、それはもう自分で考えるしかない。
誰も正しいやり方なんて知らないのだから。
もし知っていると嘯く者が居るのだとしたら、そいつはきっとペテン師だ。
そんな知ったかぶりの詐欺師の言うことに頼ったら、後はもう全てを自分では無く詐欺師に依存して解決するしかなくなってしまう。
でもそれは詐欺師の紡いだ他人の結果で、それはきっと本人の望むそれと差異があるから、よほどの強運にでも恵まれない限りは後悔を生むことになるだろう。
「――参った。いきなりやらかした後よ」
「そりゃあ、また遠ざかっちまうね。分かった上でやらかしたんならさっさと謝らないと終っちまうよ」
「うむ。嬢ちゃんは敵に容赦しないからのう」
風呂から上がり、魔法で水気を飛ばす。
すぐに纏った魔力の輝きの後には、白と黒の服が彼女の身を彩った。
銀の瞳に銀の髪。
作り物めいた愛らしさと蟲惑的なまでの色香を融合させたその相貌は、忌むべき姿に苦しむ彼女に、最初に彼女がくれた偶然の贈り物。
それへの感謝の念も含めて、代替など存在しないと心に刻んでもう一度会いに行く決心をした。いずれ来るだろう担い手の未来に便乗するのではなく、自身の願いを叶えるために。
「ナターシャとやら」
「なんだい」
「ありがとう。問題の解決には成らぬが、腹は決まった」
自分で決めたのだから、後はもう結果を受け入れるしかない。
目を背けていたのは、自分だったのだと悪魔は自らの弱さを認めた。
「よく分からないけどがんばりな。でないとアッシュが困るだろうしねぇ」
「はっ、結局はそれが理由か。じゃが、お主もまた嫌うべき者ではないようだのう」
「……正直、悪魔にそう言われるとすっごく違和感があるね」
「それはお主の思い込みに過ぎぬ。悪魔も嫌いな者は嫌いで、好きな者は好きなだけなのだ。そこらの人間と何一つ変わらぬよ。伝承と想念に左右されることはあるがの」
場所は分かる。
一度認識し、更にずっと側に居た。
それと酷似しているのだから、分からないはずがない。
「ところで分からないんだけどさ」
「なんじゃ」
「その話とレヴァンテインは関係ないんじゃないかい?」
「直接はな。しかし、きっとあやつは戦士の恋人と同じことを言うと思うたのだ」
翼を広げ、気配がするゲート・タワーへと悪魔は飛んだ。
「――そうか。リスベルクがな」
「何やら貴方を婿として国民にお披露目しようと企んでいたそうですがね。貴方がここに逃げてきたせいで延期になり地団駄を踏んでいましたよ」
「駄々っ子じゃないか。偶にあいつが本当にエルフ族の神なのか疑わしい時が有るぞ」
「何を言うのです。可愛いらしいので大変よろしいではないですか」
「そういう問題か?」
「強がるだけの母よりも、弱さを出してくれた方が子は支え甲斐があるというものです」
「……お主らは何を話しておるのだ」
窓から侵入したイシュタロッテは、さすがに突っ込まずには居られなかった。
男二人が、真面目腐った顔でどうでもいい話をしているからである。
その側では、興味がなさそうなレヴァンテインが突っ立っている。
「我等がハイエルフ様の近況をな。まぁ、それはジャブで本命があったわけだけど」
「勿論です。コレは至極単純なことなのですが、対クルス、対アヴァロニアを見据えて抑止力を作ろうという動きがようやく現実味を帯びてきまして」
「ふむ?」
「ペルネグーレルとヴェネッティー、そしてバラスカイエンとこの森で大きな同盟を組めないかな、と」
「これまでは森が纏まるまでは無理だったんだろうしなぁ。でも、そうか。打てる手があるならやっとくべきだろう」
「アッシュが妙な縁を持っている話を思い出しましてね。是非ともそのツテが使えないかと先を見据えて相談に。知っての通り、シュレイクは閉鎖的でしたから繋ぐところから始めないといけないのですよ」
「そういう話ならその紅い奴……レヴァンテインを借りていいかのう」
「別に俺は構わないが……」
「……」
「暫く付き合ってくれんかの」
返答は無い。
見かねたアッシュが声を掛ける。
「こっちはいいから行ってくれないか?」
「……」
「頼む、大事なことなのだ。それとさっきはすまんかった。少しばかり早まった。アッシュをダシに使ったのは謝るでな、妾に時間をくれぬか」
「行ってやってくれないか」
「……ん。これで最後」
「最後にはしたくない。これを始まりとするぞ」
レヴァンテインがしぶしぶ窓へと歩み寄る。
「少し転移で移動してくる。妾が戻らなければ、こやつに頼れ。きっと、この娘は妾と違って最後までお前の生命だけは守るじゃろう」
「良く分からんが……」
チラリと、一度だけ二人を見たアッシュは降参するように頷いた。
「分かった。今日は好きにしてくれ」
「うむ。よし、行くぞっ」
差し出した悪魔の手を、レヴァンテインが無言で掴む。
そうして空間転移で二人が消えた。
「仲が悪かったかと思えば、今度は手を繋いでおでかけか。分からん。さっぱり流れが分からないぞ」
「それはそうですよアッシュ」
したり顔でアクレイは言う。
「男である我々に、女性のことが理解できる日など永劫に来ませんよ。我々はただ、一日一日晒されていく彼女たちの素顔に気づいて、それに一喜一憂するだけです」
「……もし、喜べない顔が出てきたらどうするんだよ」
「関係が破綻します。なに、良く有ることですし喧嘩の一つや二つ良い刺激ですよ。できないよりもできる幸福を享受なさい」
「なんだろうな。お前に言われるとどうにも癪に障るぞ」
「そう言わずに覚えておいてください。既婚者になれば、嫌でも分かりますから」
そこは空の上だった。
ラグーンの航路よりも更に上に、その浮遊島は在る。
千年経っても変わらずに存在するそれは、ラグーンとは比べ物にならない程に小さい。
けれど、他にはない物がそれにはあった。
それは庭付きの一戸建て。
野宿と宿の使用を絶対拒否するべくレイエン・テイハが用意していた、彼女だけの活動拠点である。
「まだ存在したか」
転移でその島に直接跳んで来た二人は、すぐさま手を離す。
「お前は本当に碌なことしない奴」
「ええい、妾に敵意以外を向けられんのかお主は!」
「――そりゃそうだよ。その子は君とは絶対に相容れない立ち居地に居るんだから」
強固な不可視の結界に覆われ、不可思議な魔術文様を隅々まで刻まれたその家の中から、不機嫌そうな表情を貼り付けた少女が現れる。
黒い、黒い少女だ。
彼女をイシュタロッテは知っている。
彼女こそ、この星の所有権を持つと嘯く最強の念神殺し。
「やはりそういうことか」
「久しぶり。そして始めまして。なーんて、心地良い歓迎はしてやらないぞ。招かれざる客。大公爵イシュタロッテめ――」
もはや関係者でもなく、ましてやアッシュのオプションでもない。
彼女にとっては、イシュタロッテという存在はただの実験体<サンプル>でしかなかった。
冷ややかに一瞥した彼女だったが、近寄ってくる紅の少女をみるとすぐに表情を笑みに変え抱擁を交わす。
「ごめんね。君には予定外に辛い思いをさせちゃった。よく我慢でしたね」
「気持ちは同じはず。だから、終ったら報復」
「オッケーオッケー。条件付きだけど、悪神に焼きを入れるのには現時点ではボクも賛成だぜ」
小さなお願いに快く頷いて、そうして浮かべていた笑顔をすぐに消す。
視線は再びイシュタロッテへと向けられ、寒々とした気配だけが周囲を侵した。
「なんていうかさ。久しぶりに怒りも振り切れれば意外と冷静になるってことを思い出した感じだよ。あの時もこんな感じだった。アーティファクト計画の遅延理由が無くなったあの日みたいにさ――」
黒の少女は、抱きしめていたレヴァンテインを離して前に出る。
「あれ、どうするの」
「どうもしないよ。こいつにはお茶もお菓子も何も必要ない。仮にボクがくれてやれるものがあるとすれば、それはお茶漬けと念神殺しの鉄拳。そして極大の敵意ぐらいなものさ。嗚呼、とっておきのバーニンキックでもいいぜ?」
炎が踊る。
紅が燃える。
アッシュが纏うレヴァンテインの炎を遥かに凌駕する火力が、戯れのような意思で当たり前のように顕現する。
その灼熱を前にして、しかしイシュタロッテは引かない。
神気を解放し、熱波を魔法障壁で防ぎながら対峙を続ける。
「妾は別に喧嘩を売りに来たのではないがのう」
「ふむん。それはとても残念なことだぜ。今度は手加減抜きでやってやるのに」
「じゃがベッドの上でなら戦ってやっても良いぞ」
「はっはっはー。寝言は寝てから言うといいぜっ」
おかしそうに笑う彼女は、何のきまぐれか炎を消した。
「それなら何をしに来たんだい? 君と話すだけでボクたちの不快指数が軽く限界を突破するんだけど」
「率直に言えばテイハ嬢ちゃんと仲直りがしたくて来た」
「はぁ……なんでそう不可能に挑みたがるかなぁ」
「妾の嘘偽りの無い本心を不可能とか……」
「そんなの時間を戻すぐらいの奇跡を起こさないと無理だってば。あの時、リストルをテイハが完全に殺し切ったあの時、ポイ捨てにされたお前ならそれぐらい分かるでしょ」
「き、きつい事をサラリと言うのう」
分かっていたことであっても、彼女の声で言われると辛かった。
心が軋ませ、幻痛でひたすらに苛む。
それを、タダひたすらに黒瞳は飲み込んでいく。
「言っておくけど、サンプル如きに慈悲などくれてやらないんだぜい?」
「でもアッシュは除く」
紅の少女が補足する。
「その露骨な特別扱いも相変わらずか。それはお主らの中の輝きがそうさせるのだな?」
「当然でしょ。彼だけはサンプルを逸脱してしまったんだから」
それ以外の理由は、彼女たちには要らない。
「君も知っている通りアッシュはクロナグラよりもテイハを取った。レーヴァテインに常時守られていたテイハを唯一殺せたのに、そのチャンスさえ放棄した。だから特別だ。特別でないわけが無かったんだ……」
ただの偶然の出会いであっても紡がれた縁が確かにあった。
それを彼女は記録している。
他の誰もが知らなくても、彼女だけは残している。
「あの瞬間、そこに打算なんて欠片もなかった。態度や行動だけじゃない。苦しんで悩んだその後に決めたんだ。実際、後で手に入れたコードを隅々まで暴いても、テイハへの想いしかなかった。一部の隙もないぐらいに、幸せを願ってくれていた。アッシュはね、テイハを夢の呪縛から助けたかったんだよ。だから当然のように特別になれたんだとボクは思う。だったら、未来永劫にそれは変わらない。僕たちはただ踏襲するだけだ」
「では何故思いだしていない。思い出させることは可能だと、あの時嬢ちゃんは戯れに妾に言ったはずだ。いや、そもそもなぜ一緒に居ないのだ」
「それはアッシュが盗まれたからだってば」
仕様のせいで最初だけは弱いにしても、あんな不完全な状態で意図的に放り出す意味なんてない。
そもそも、念神如きに殺されないための今の体。
回帰神などという存在は、当初の計画では存在していない。
それでも、万全であれば問題は無いはずだった。
しかし、彼は結局未完成のままで彼女たちの前から姿を消した。
「だーから、お前みたいな奴の誘いにホイホイ乗っちゃうのさ」
「じゃが、お主らはそれが分かっていて放り出しておる」
「簒奪者共の想念で足りない分を補って、念神として稼働してたんだ。その辺りは頭に来たけど、ようやく動いたならって感情もあった。実験にイレギュラーは付き物だ。けど、最後に帳尻が合えばいいかなってその時は思ってたよ」
だから表向きには性能試験と、この世界のチュートリアルも兼ねてプレイヤー気分で遊ばせてあげていた。その後に続くはずの最後の実験のために。
「実はさ、今の状態でも思い出せるはずなんだよ。だからボクたちはそれを気長に待っているだけなのさ」
「実際、戦い方を思い出した」
だから当たり前のように彼はイシュタロッテを使えたし、信じられた。
使い慣れた相棒だから、怪しい悪魔の甘言にさえ乗れたのである。
「君を当然のように使いこなしていただろう? 空の飛び方も、あの中途半端な眼の使い方もそうだ。体に染み付いていたその記憶を解放したことに関しては素直に礼を言ってあげよう。けれどそれだけだ。それ以上をボクに求めらられても困るってもんだ」
「……思い出させることはできぬのか?」
「できるよ。無理矢理に思い出させるのは簡単さ。修正パッチを当ててアップデートでもするとか手はいくつかあるからね。でも、ボクから動くのはなんだか盗人共に負けたような感じがして嫌じゃないか。最後に勝つのは、悪でも正義でもなくて、いつだって『愛』であって欲しいと思ってる」
だから彼女は待っている。
辛抱強く、待ち焦がれた相手がその段階に達するのを。
彼女の千年越しの夢の続きのために。
託された夢の成就のために。
「思い出したらきっとアッシュはボクを探してくれるだろう。そうでなければならないし、それがテイハの最後の夢に繋がる。まだギリギリ許容範囲内である今、彼に会うわけにはいかない。テイハの夢から生まれた彼だからこそ余計にね」
「嬢ちゃんの……夢?」
「そう、夢だ。望まぬままに一人ぼっちに戻ってしまったテイハが見た夢。かつてループマンとその仲間たちが、ネットワークで実証した転生理論に手を出したのもそのせいだ。でも皮肉なものだよ。テイハを一人ぼっちにした理論がまさか彼女の最後の夢になるなんてさ」
訳知り顔で言われても、イシュタロッテには分からない。
だから問うた。
何故か彼女が隠さない内に。
「テイハ嬢ちゃんの目的は、アッシュの完全な転生体に会うことではないのか」
「少し違うな。そもそも転生だけならもう終ってたよ。君が察しているかは知らないけれど、アレはアーク・シュヴァイカーの次の彼だ。完全な本人のコードが良かったんだけれど、どうにも彼のしか手に入らなくてね。だからコードを見つけたって言う昔のアルバイト先のツテを頼って手に入れた。その後は君の想像通りかもしれないね?」
「……嬢ちゃんは、本物の神にでも成るつもりだったのか」
慄く悪魔は、禁忌の先さえも侵されたことを知った。
生命だけではなく、流転する命の流れにさえ干渉することができる者。
それがドリームメイカーであり、この世界の支配者だった女の力かと。
「神……ね。そんな下らないことテイハにはどうでも良かったさ。コレはただの、一人の女の子がクリエイターとして掴もうとしたただの我侭だ。彼女は自らに課した責務を果たしながら、それに手を伸ばそうとした。たった一人で、死んでしまうその瞬間までな。自分自身は間に合わないって知っててそれでもずっと楽しみにしていたよ。運命だとよく言っていたっけ」
間に合わないと知りながら、残りの生涯をそれに奉げて、自分ではもう二度と叶えられない夢を彼女に託した。
元よりこの世界の住人の誰にも理解されるはずのない女は、そうしてひっそりと生涯を終えたのだ。
「そうか。だから――」
「――そう、だからもうお前の望みは永劫に叶わない。仲直りなんて不可能さ」
死んだ相手との仲直りなんてできる訳が無いないのだから。
「……墓は? 嬢ちゃんの墓はどこにある」
搾り出すような声で尋ねるも、帰ってくる答えはどこまでも冷淡である。
「ないよ。遺言通り、アッシュと同じようにボクの炎が跡形も残さずに焼いたから」
「嬢ちゃん……」
自然と両膝を折ったイシュタロッテは嗚咽した。
もはや、記憶の向こう側にしか求めた居場所が無いのだと突きつけられて。
「もしかして君、テイハがアーティファクトで延命してるとでも思ってたのかい? だとしたらお前には想像力が不足してるぜ。考えてもみな。アッシュを殺して、見殺しにした連中の力なんかに彼女が縋るわけがないじゃないか」
「妾は見殺しにしたのではない!!」
「君の真実なんてボクは知らないな。ただテイハの記憶上はそうなってるってだけの話に過ぎないのだよ。で、まぁ、そういう訳だからさ。君への肯定的な興味関心は本当に今のボクたちにはないのさ」
そもそも。
前提が間違っていた。
「それに今のボクたちは君とは初対面だからね。そしてこうなった理由や、受け継いだ意思を考えれば当然のように良好な関係なんて築こうとも思わない」
同情する感情など当然そこに有るわけも無かった。
ざっざっと地面を踏み鳴らしながら、少女は慟哭する悪魔へ近寄っていく。
「ああもう、さすがにこれは処置なしだぞ」
「ぐっ――」
服を掴んで無理矢理にも立たせた彼女は、強引にイシュタロッテの視線を後方へと向ける。そこにはパノラマに広がる空があるだけのはずだった。
けれど空の青しかないはずの空に次々と照る輝きが生まれていた。
それは、空間転移で跳んで来た神宿りたち。
「うわーい。お前の仲間の悪魔たちがテイハの遺産を狙いに来たぞ。――これで満足かド畜生。オマエ、本当はボクたちに喧嘩を売りに来たんじゃないだろうな?」
「ち、違う! これは妾の企みではっ――」
「確かに君なら無駄だと分かるのは分かるぜ。でもさ、コレは間違いなく連中に補足されていたオマエのせいでしょうが」
纏う燐光の質から、リストル教に取り込まれた同胞の悪魔たちだとイシュタロッテは嫌でも気づいた。
召喚王の悪魔たちが居た。
地獄に君臨するという悪魔王が居た。
その他諸々。
彼女の同類たちが、おこぼれを狙うハイエナのように集って来ていた。
「昨日アッシュがお前の力でアフラーと戦った。更にそこに、異世界の念神までやってきた。その結果の今だ。迂闊としか言い様がないな。意思を守るためって詭弁で、たった一つしかない命を当たり前のように危険に晒す。だからお前はボクたちに嫌われるんだ」
「神魔再生会の『堕天使』が居る」
レヴァンテインが、輝く六対の翼を展開している美少年を指差す。
「元々こいつを探してた奴だからね。むしろ来るのは当然でしょ」
「燃やそう。あいつはリストルとやり合ってた記録がある」
「こいつ引き渡したらすぐ帰るような気もするけどなぁ。まっ、この場所を知った奴らを生かしておく理由も無いか。よーし。奴らはインベントリ送りにして、次のオークションに出品しよう。ネットワークの皆、きっと新しい玩具が手に入るって喜ぶぞ!」
掴み上げていたイシュタロッテから手を離し、少女はレヴァンテインを近くに呼んだ。
「そうそう。レグレンシア帰りが居たしさ、この先のことを考えて君たちの制限を一部解除しようと思うんだけどどうかな」
「いいの?」
「勿論だとも。後で詳しく詰めたいと思うけど今日のところはお姉ちゃんと共同戦線だ」
「ん」
こっくりと頷き、レヴァンテインが剣に戻る。
それを右手に握ると、今更のような言葉を彼女は投げた。
「そういえばお互い、知っているからって自己紹介をしていなかったっけね」
今更、必要ではないだろうけれど。
それでも律儀に――というよりは、嫌がらせのように彼女は名乗る。
「ボクはこの星の支配剣であり、ユーザーの守護や実験体共の反乱鎮圧、文明の破壊用にと開発された概念神武装『レーヴァテイン』の改良型だ。初期の開発コードは最初の概念神、『悪意の魔神』のそれを踏襲したせいで『終焉の魔神』とかその界隈では呼ばれているね」
それは、自然には顕現するはずの無い人工の想念神にして超兵器。
伝承など関係なく、想念の欠乏にさえほぼ無縁な、ただ一色の念で染まりきった莫大な想念の集束点。
「今はテイハが自身の転生コード<魂の波動>を埋め込んで、この星の次の後継者として残した言わば人工の転生体でもある。正直、今のボクがテイハなのかレーヴァテインなのかは自分でもちょっと良く分からない。けれど、分かっていることはある。念神如きじゃ――」
堕天使が何かを言おうとしていたが、聞く耳持たず無造作にレヴァンテインに炎を纏わせ無造作に構えてみせる。
「――ボクは絶対に倒せないってことだ」
一閃。
斬閃の軌跡に炎が追従する。
その色はイシュタロッテの視界一杯を当たり前のように黄昏に染め上げた。
見る者の視界さえ焼く紅。
その一撃で空が燃えた。
アッシュが振るったそれとは比べ物にならない力で、当たり前のように終らせて見せるレーヴァテイン。もはや燃やしたというよりは、無理矢理に終らせたとでも言うべきだったかもしれない。
通常の念神とは力の桁が違いすぎた。
「あ、嗚呼……」
紅が通り過ぎたその後には何も残らない。
空の青だけ残して、そこに在ったはずの全てが当たり前のように焼失した。
それこそが、イシュタロッテが最後に得た神殺しの魔炎の、その原型<オリジナル>。ただただ凶悪な出力に支えられたその一撃に抗える念神など、この星には存在しないのだ。
「うげっ。そういえば光ってるときに倒すと今のあいつらは死ぬんだっけ。あちゃー、手加減し損ねてインベントリに一本も入ってないや。ア、アハハ。相当溜まってたんだなぁボクのストレス」
失敗失敗、などと誤魔化すように笑いながらレーヴァテインが振り返る。
「それで君はどうする? 死にたいならいつでも言いたまえよ。昔のよしみで跡形も無く終らせてやってもいいし、希望するならドリーマーたちに売ってやってもいい。これからもずっとアッシュを危険に晒したいというなら彼のところに帰ってもいいぞ。まぁ、今ので悪魔勢力の中核は一掃しただろうから、手を出してくるのは天使系だけになったかもしれないけど。まっ、精々考えな。次のアーティファクト計画が始動するその時までまだ猶予はある」
「つ……ぎ?」
「うん。次だよ次。クロナグラは剣と魔法と念神の実験場だから、その枠を超えるのはルール違反なのだよ」
粗末な銃や大砲程度なら別に彼女は気にもしない。
けれど、蒸気機関がついにクルスで開発されてしまった。
それは、今ある世界観の更に先へと進むその入り口である。
「文明が少し進歩しすぎたんだね。このままいくとすぐに産業革命が、大量生産時代の幕が開けると予測されている。けれどそんなものボクは認めない。ここは実験のために永久にファンタジーレベルの文明でいいんだから」
タダ一人の一存は、しかしこの世界では絶対になる。
それがこの星の支配剣を手に入れるということ。
馬鹿げていると悪魔は思う。
だが現実に目の前にたった一人でその他大勢をねじ伏せる力を持つ存在がそこにいる。
ガックリと膝を付いたまま表情を蒼白で染め上げるしかない。
もはや、イシュタロッテにはどうすることもできなかった。
「でもこれは丁度良いタイミングだったかもしれないね。アーティファクトを量産して欲しいっていうリクエストの声が結構あったんだ。だからね。この機会にどうせなら一度全部初期化しようかなって考えがある。ほら、前にテイハが教えただろう? 君たち念神はお手軽なチート武器<英雄量産ギミック>だと。まっ、つまりはそういうことさ」
前はただの実験だった。
量産工場を作るとして、『その』アプローチで本当に良いのかという命題への。
チトテス8『クロナグラ』はそこで、ラグーンズ・ウォーの中で証明して見せた。
先代たちの用意した大掛かりな計画が正しく機能しうることを。
「馬鹿な! また繰り返すというのかっっ!?」
「その予定だと言ったんだよ。今度は量産だからまぁ、定期的にサンプル共を間引くようになるのだろうね。手間がかかるけどやりがいもある。どんな力を持つ念神が欲しいか、どんな伝承を植えつけて嘘を本物に変えてしまうか。嗚呼、きっと手が回らないぐらいにに要望が沢山来るぞ!」
「嬢ちゃん。お主はもう、狂っておるよ……」
「失礼な奴だな。ボクは正気だ。正気のままでやるさ。そんな精神異常者を装って、罪を軽減しようなんて屑共と一緒にしないでほしいな。本物の異常者に失礼ってもんだぞ」
彼女にはサンプルたちの都合など関係ない。
ここは実験場であり、彼女の箱庭。
生かすも殺すも、生殺与奪の全てを彼女が握っていた。
ラグーンズ・ウォーが終息する前からずっと。
その事実を、そのことの意味を、真にイシュタロッテは思い出して身震いした。
けれどそれでも、声を搾り出すように反論した。
自分のためではなく、今の彼のために。
「あやつは、アッシュはそんなこと絶対に認めぬぞ……」
疲れ果てたような声で言う悪魔に、彼女は「そうだろうね」と否定せずに頷いた。
分かっているとでも言いたげな顔だからこそ、余計に悪魔はやるせない。
分かっていても、やる相手だと知っていたから。
事実、前回はそうだった。
彼でさえ止められず、結局そうなってしまっていた。
「うん。今のままではそうだろうね。でも、思い出した後ならどうかな?」
かつて一つの選択が在った。
どれだけの葛藤を彼が抱え、その中で最後のチャンスさえ不意にして見せたことか。あの苦しみがまた繰り返されるというその事実に、再び全身が震えた。
「また、また強いるのかお主は!! お主はまたっ!!」
「だってさ。愛って奴は計量ができないじゃん。さすがのボクにも愛センサーは搭載されていないんだぜ?」
それこそが彼の回帰の証明であるとテイハは定義したことがあった。
そもそも、完全なアッシュなどどう定義すればいいのか?
彼の完成を待つ間に、彼女が思いついた方法の一つが再現だった。
誰がどうみてもそれ以外には説明ができない様な現実が目の前にあれば、それが証明であるはずだと。
そのためにはどうすればいいか?
答えは単純明快だ。
再び、世界と自分を天秤に乗せて確かめればいい。
それができるというのなら、たった一人と世界を引き換えにさえできるというのであれば。それはもう、愛以外の何だというのだろう。
「――」
もはやイシュタロッテは声さえも出なかった。
狙いを隠す必要が無いのは当然だったのだ。
誰に言っても無駄なのだ。
誰にも止められなくなった女の後釜は、やっぱり誰にも止められないままなのだから。
アッシュは待たせすぎたのかもしれない。
何も知らずに盗まれて、不安の只中に置き去りにしたまま、彼女に余計なことを考える時間を与え、行動によって疑念を与えた。そして今もずっとそれを知らずに続けている。
――彼と、彼を利用する者たちと一緒に。
「当然だけどボクはアッシュモドキに用は無い。時間はたっぷりと有るから、君たちは好きなだけ柵の網で彼を捕らえ続け利用するといい。その分、彼は捨てる苦しみを多く背負って、最後の瞬間には輝かしい愛として昇華してくれることだろう」
にっこりと、陽だまりにまどろむ子猫のような顔でレーヴァテインは微笑んだ。
一点の曇りも無いその無邪気な笑みは、かつてアーク・シュヴァイカーが彼女をそう呼んでいた通り真っ黒で透明で。
――そして、悪魔でさえも目を背けたくなるような、純粋無垢な狂気に彩られていた。
「だからほら。彼の相棒を名乗るのであれば、ちゃーんと最後までまた彼の意思を守ってやるんだぞ? そうしてくれたら、ボクはアレを失敗作だと認定しよう。何、心配しなくてもいいよ。今回取得したデータを次に生かして、諦めたらそこで試合終了ってノリで挑戦してさ。完遂まで何度でも諦めずにテイハの夢に挑んで上げるさ。だって――」
この一人ぼっちの空の上。
彼女が真の意味で一人ぼっちでは無くなったあの時のように。
こんな頭のおかしい女でも、救いたいと願ってくれた彼に見た夢を実現するためであるのなら。
「――この体を得たボクにはもう、時間制限なんてないんだからな」
「それじゃあ妹よ。この思い出の家は君のインベントリに仕舞っておいておくれ」
「ん」
お土産に大小二つの木箱を貰ったレヴァンテインは、虚空に浮かぶ姉を名残惜しそうな顔で見上げる。
「そんな顔しなくても、ボクはこの世界のどこかに居る。何か在ったらいつでも来るか連絡しな。お姉ちゃんはね、いつもどこかで君たちのことを見守っているんだからね」
手を振って消えたレーヴァテインを見送り、レヴァンテインは言われた通りに浮遊島を収納。すぐさま転移する。
場所はハイエルフの屋敷跡。
またぞろ良い様に扱き使われているアッシュが、整地のために精霊さんと共に如意棒を転がして奮闘しているところである。
「ただいま」
「お帰り――って、イシュタロッテは?」
「ここで問題」
何故か脳裏に響いた、デデンッという効果音。
まるでクイズ番組で聞くようなその音に、アッシュは思わず周囲を見渡す。
当然、そんな音を出した者も装置も見当たらない。
「問題」
「お、おう?」
「アッシュが失ったのはこの大きな箱に入っている雑魚悪魔?」
その木箱を乱暴に地面に落とした拍子に、何やらうめき声が漏れ出してくる。
「んむむー!!」
それがイシュタロッテの声であるのはどう考えても明白であったが、レヴァンテインはそのまま続ける。
「それとも、こっちの小さい箱に入っている、無くしてしまった最強の武器?」
少し離れた位置に置かれる小さな木箱。
生憎とそちらは中から何か音が聞えたりもしない。
が、それは九つの鍵で施錠されており、剣が入りそうな形をしていた。
「開けられる箱は一つ。さぁ、アッシュが無くしたと思う方を開ける」
「お土産ってことか」
「ん」
「また随分と手の込んだ遊びだな。えーと、一つしか開けられないんだよな?」
「ん」
「じゃ、考える必要はないな」
大きな木箱に近寄り、アッシュは木箱の蓋を開ける。
すると、中には魔術文字が掘り込まれたらしき縄で厳重に拘束された悪魔が居た。
「……罰ゲームか何かは知らないけどな。今日のお前は体を張ってるな」
「んむむぅ、んむむむぅっ!」
「じゃあこっちは処分する」
「んむむぅぅぅ!?」
驚くアッシュの隣で木箱を開けずに焼却処分したレヴァンテインは、梱包されていたイシュタロッテを取り出す。
地面に無造作に転がされた悪魔の背には、何やら『反省中』という張り紙が張られていた。
「んむむんむむむー!?」
「はぁ。仲直り失敗か。いがみ合われると俺が困るんだがなぁ」
アッシュが適当なナイフで縄を解くと、イシュタロッテはすぐさま彼にすがり付く。
「うう。妾のために最後の希望を捨ておってぇぇ。ぐす。ええい、こうなったら脱げいアッシュ! どうせ死ぬなら、妾の胸の中で腹上死させてやるぅぅぅぅ!」
「ちょっ、何をトチ狂ってやがるテメェ!?」
「遠からず世界の終わりが来る! だからせめて最後の思い出ぐらい作っておけい!」
真昼の下で、アッシュの身ぐるみを剥がそうと悪魔が暴れだす。
それはまるで、世紀末にノストラダムスの予言を信じてやんちゃしてしまったかのような有様だった。
両手でズボンを押さえて抵抗するアッシュは、「せめて夜にしろ!」と抵抗を試みる。
「夜なら良いのか! ならば妾が絶対に明けぬ夜にしてくれようぞっ!」
「お前、泣くか脱がすかどっちかにしろ! つーか、破ける。破けるから止めろって!」
「本当に度し難い奴」
「こら離せ、離すのだっ。アッシュと妾には時間が、ない、の、だぁぁぁぁ――」
見かねたレヴァンテインが、無理矢理にも引き剥がして悪魔をジャイアントスイング。
森の彼方に向かって、遠心力をたっぷりと乗せた上で投げ捨てる。
そうして放物線を描いた悪魔は、それでもめげずにアッシュを襲った。
「アハハハハ。最初期の計画であんなに動揺するなんて。随分と紛い物に執心してるじゃないか大エロ公爵!」
元より、その反応もまた分かりきったことであったが久しぶりに愉快な気分になったことは確かだった。レーヴァテインは、衛星軌道上にあるラボのシステムを立ち上げながらただ笑う。
「そもそも転生ってのは別人になるってことだぞ。前の記憶を思い出そうが、前世の人格を取り戻そうがそれは変わらない。そんなことはテイハだって気づいたさ。だからテイハは自分が会えるように敢えて立ち回らなかったんだ。オリジナルの転生コードが手に入らなかった時点で、どこまで行っても作れるのは偽物だけ。いや、手に入れても偽物しか作れない。だからボクにこの実験を託したんだ」
だとしたらやるべきことは何か?
望むべき状態とは何か?
「本当、お前はテイハを理解していないな」
想定外はあったけれど、まだ修正は効く範囲内。
だからこその続行である。
この実験は、どんな結果だろうと見届け無ければならなかったから。
「というわけで今はまだ好きに遊べばいいぞアッシュ。ただし何事にも限度はある」
何の代償も無く手に入る力なんてない。
念神の力が信仰により生じた想念であるように、彼が力を振るい続ければ何れそのツケを返済する瞬間がやってくるというだけのこと。
返済の瞬間、どれだけの負債を抱え込んでいるかはアッシュと彼を利用した者たち次第である。
「さーてと大事なお仕事に戻ろう。次はどの依頼をこなそうかな」
服だけ溶かすスライム作成という無理難題への挑戦補助か、はたまた伝説の剣<アーティファクト>で倒されるべき悪役的存在の性能テストか。
また或いは、人手が足りないからとバイトを募集している実験世界への助太刀か。
夢を現実に実装するためには超えるべき壁が無数に有る。
その壁をちからずくでぶち壊すのがドリームメイカーでありクリエイター。
そのためには適性な状態での実験場が必要で、クロナグラにはそれが完備されている。故に彼女はクロナグラに生きる全ての存在に慈悲がない。
良心の呵責に押し潰されたりもしないし、必要だと思うことなら躊躇もしない。
もしかしたらイシュタロッテが恐れるべきはその根底を支える力ではなく、夢を実現しようとする頑強な意志そのものだったのかもしれない。
「あ、お休みしてのんびりするのもいいかな? それとも最後に聖人の直接調査ってのもアリかもなぁ」
そして彼女は今日も追う。
託された夢を。
この星の誰にも理解されないそのままで。