第五十六話「感染拡大」
魔女による大規模な空間転移による奇襲は、それこそ完璧と言って良いほどに嵌った。
空間獣『ダロスティン』とは違う方法でのそれは、確かな効果を発揮したのである。
そこには民の決起や、アフラーを城から遠ざけて押さえているアッシュの力もあっただろう。何もかにもが即興ではあったが、それでも驚くほど順調に進んでいた。
その、はずだったのに。
ディリッドは最後の最後でどうしようもない壁にぶち当たっていた。
「――何これ。解除が、できない……」
相貌を蒼白に染め、ディリッドが呻いた。
人間の司祭と、それに付き従う者たちが行う奇妙な儀式。
庭園の隅でのその儀式場は、パワースポットを完全に掌握し儀式時の安全策まで完璧に備えていた。
パワースポットは星を巡る魔力の吹き溜まり。
それを魔術で制御し、利用しただけならばロウリーと共に奪取すればいい。
既存のそれなら対応できるはずだった。
だが、それは魔術神でさえ手に余る術式で制御されていた。
割り込みをかけようにも、その糸口がディリッドには与えられていなかったのである。
『……すまないディリッド。これは完全に我の系統外だ。そもそも根本的に術式の論理が違いすぎる』
「そんな、ロウが理解できない魔術が存在する訳がっっ!!」
知らない魔術など腐るほどに有る。
知らない魔法など吐いて捨てるほどに有る。
けれど、こんなにも早く白旗を揚げる魔術神をディリッドは知らなかった。
『これは奇跡のような魔法だ。まるで奴のツクモライズのような。何をしているのかは知らんが、もはや止める時間がない。解除できないとは言わない。ただし、そのためには膨大な時間が必要だ』
「そんな、そんなことって!?」
パワースポットの魔力の励起が止まらない。
結界の向こうにあるリスベルクを前に、魔法陣を疾走する魔力がついに飽和し始めた。
それは起動の予兆だった。
下手をすれば、城ごと吹き飛ばしそうなその力が何に使われるかさえ分からない。
ディリッドは焦りながら、それでも一からの解析を試みる。
「――だから言っただろうはぐれ魔女。お前らでも解除できない魔法があるってよぉ!」
仲間の神宿りをことごとく彼女に倒されながらも、せせら笑うのを止めないその男。
額に傷の有る、リストル教徒としてその場に立つハーフエルフだった。
男は聞くに堪えない音域で嘲笑しながら、狂ったように剣を振るう。
左手にはナイフ型のアーティファクト『毒霧神サシアン』。
右手に魔術で強化した長剣を握った彼は、ひっきりなしに打ち合って火花を散らす。
ラルクを少しばかり凌駕するその速度は、神宿りと自前の魔術による身体能力の底上げによる恩恵か。
男の名はサイラス。
リストル教の異端審官でもあるハーフエルフであった。
ラルクが来るまで、精鋭を率いて連携でディリッドを阻んでいた使い手だ。
「死にたいなら中途半端に邪魔すればいいぜ。そら、もっと踊って見せろ風使い!」
「ッ――」
魔法の光を纏う長剣で連続で突きかかり、邪魔するラルクをあしらいにかかる。
身体を掠めていく無数の突き。
それを薄皮一枚で避けて少年剣士が二刀を振るう。
点と線。
掠れる刃の火花が咲いて散る。
「――いや、いっそ邪悪なエルフ共なんぞ死に絶えてしまえばいい。そしたらきっと、世界はちょっとだけ平和になる」
「言わせておけばっ――」
周囲に散布される魔法の麻痺毒の霧を、ジンの風で空に吹き飛ばしながらラルクは応戦。
迸る怒りが、沸点を超えて彼の剣戟を殺意で更に研ぎ澄ます。
冷たいその眼光は、役々少年剣士を高みへと導いていく。
だが、それでもまだ拮抗以上には持っていけない。
「ハハッ、気に触ったか? だがどれだけ否定してもお前らは邪悪だよ。奴らダークエルフを邪悪な存在だと、ラグーンズ・ウォー以前から森の外に吹聴してたのはお前らエルフだろう? 広く知らしめろと交渉に来た記録が、我等が教会にはしっかりと残ってるんだぜ同族殺し」
「――黙れぇぇぇ!!」
ただの挑発か、それともエルフ主義者の流言政策の結果か。
そのどちらであったとしてもラルクは構わなかった。
ただ、今は目の前の不愉快な男の口を閉じねば気が済まない。
シャムシールとレイピアを操り、剣士は限界以上に力を欲した。
(どうして、こんなことになったのだ)
城の喧騒は留まることを知らない。
エルフ主義者とそれを否定する者たちの争いは止まらない。
後一手、ただ誰かが自分を抜けば声が届けられるというのに、最後の一手がリスベルクには与えられなかった。
目前に迫った希望が叶わないことで、怒りが絶望へとすり替えられる。
冷たい地面に突き刺さったまま、殺しあう子供らの顔を見続けさせられるこの苦行。
それを阻むための手も、足も、アーティファクトに身をやつした神には与えられない。それどころか、導く役目さえ果たせていなかったのだとただ知らされる時間だけが経過する。
(何時だ、いったい何時から私は間違えたのだ)
あの白と黒の争いを収め、必要以上の犠牲を出さぬようにと恭順させたときか。
それとも、存在の維持限界まで無理にラグーンズ・ウォーで粘ったときか。
彼女には分からない。
膨大な過去の中で、そこに埋没した小さな悪意の萌芽を見逃した瞬間が。
(いや、獅子身中の虫さえも飼いならせると思ったのだったか)
神故の驕りか。
力は神並でも、人格はそれに比例していただろうか。
能力は足りていたか。
暴走する子らの気持ちを、分かってやれたか。
考えはひたすらにループを刻む。
「もう一息だ、耐え忍べ戦士たちよ!」
「リスベルク様はすぐそこだっ!」
かつて勇猛に戦った偉丈夫と、その友が声を振り絞る。
彼らを彼女は知っている。
まだ覚えている。
いや、彼らだけではない。
一度出会った子らを、彼女は記憶している。
「諦めるな! この一戦にエルフ族の未来がかかっているのだ!」
「賊を斬り捨てなさい! 奴らにこの森に住む資格はない!」
次代を託すに値するほどにまで成長した兄とその妹。
近衛に、戦士団に、かつて神滅の時代に共に戦った仲間たちも居た。
仮に思い出せないのだとしたら、それは繋がりを自ら断った者だけ。
信仰を捨てた相手は、時の濁流に押し流されて消えていく。
その集積の果てに今がある。
「!”#$%&’――」
得たいの知れない儀式は続いていた。
クロナグラに存在しない言語で、アーティファクト状態の神に干渉するように術式で、リスベルクの存在を雁字搦めにしてくる。
儀式の遂行者を狙って矢が飛ぶも、儀式に張られた結界が全てを阻む。
たとえ、戦士たちが万と集まってもこの守りは破壊できないだろう。
パワースポットの魔力とは、それほどまでのエネルギーがあるのだから。
(……)
ここで縋れる者は少ない。
ディリッドでさえ、最後の壁が破れない。
頼みの綱の廃エルフは、善神と共に気配を消した。
相打ちになった可能性は否定できない。
だが、それはまた死んだということを意味していた。
(なぁアッシュ。死ぬとは、いったいどんな気分なのだ)
リスベルクは神として死んだことがまだない。
死に掛けたことはあったが、それでもその先はまだ知らない。
(苦しいなら、もう止めて良い。私ではお前の望む安住の地を用意してやれそうもない)
どうしようもなく弱気になっていた。
だからあの風呂での契約を思い出し、後悔した。
どうにかできると思ったのは、どうにかしようと決めたのはやはり、軽挙だったのかもしれないと。
生まれるはずの無い者に出会ったあの瞬間、少しだけあの懐かしいはぐれエルフのことを思い出した。
かつて、知らぬ間にどこかで死んだ子が居た。
自分の命令の果ての死だからこそ、余計にむしゃくしゃしたことは覚えている。
他にも大勢、神だからこそ殺してきた者たちがいただろう。
それでも、彼は死を忘れられない数少ない者の一人であった。
――神滅への引き金を引いたらしきはぐれエルフ『アーク・シュヴァイカー』。
彼の嘘は、しかし同時に警告であったのだと後になって理解した。
――何か在ったときに逃げ込むためじゃないですかね。
――ほう、何かあったときか。
おかげで救われた命があった。
(あの女にそんな可愛げなど無さそうだからな。だったらやはり貴様だったのだろう?)
エルフ・ラグーン。
それのおかげで、後のことを気にせずに未来のために戦えた。
避難させる決断をもたらせた男はしかし、小さな約束さえ守れずに消えた。
(死ねば終わり。それが普通なのだ。そういえばアーク・シュヴァイカー……アッシュよ。後にも先にも、私に森の外を案内すると言ったのはお前だけだったな)
――命じて下されば、外の案内ぐらいはしますですよ。
――……森で迷う貴様がか。
――あー、まぁ、でも知ってるところなら迷わないんで。
(アッシュ、貴様は奴に似ている。見た目、ではなく中身が。だから、はぐれになどもうさせるつもりは無かったのだが――)
今、取るべき方法が一つだけある。
(――やはりお前は、はぐれの方が似合っているのかもしれんな)
自身からあの契約を破棄すれば、居る理由も無くなるだろうと夢想する。
周囲の人間が何をしようとしているのかを、奴らの呟きから彼女は知っていた。
その要<かなめ>が自分であるとも。
その前提を壊すことならば、辛うじてこのままでもできる。
覚醒している今ならばこそできるのだ。
単純な話だ。
アーティファクトライズを解除しさえすればいいのだから。
そうなれば、元の体で人間の一人や二人は殺して儀式を中断に追い込めるだろう。
ただし、当然の帰結として想念の欠乏から存在を維持できなくなり、完全に消滅することをも意味していた。再度アーティファクトライズを使うような余裕があるとも思えない。だがそうして消えてしまえば、二度と好きに使われることもない。
(……構うまい。役に立たない神など存在する意味が無い)
念神は願いの果てのその具現であり、知的生命体の生み出した共通魔法。
そのイメージによって形作られた架空の存在でしかない。
自らがそうだと知っている以上は、その価値もまた初めから無い。
ただ生まれて、願われてしまっていたからこそ、そのために生きてきたのだ。
(嗚呼。だが――)
もう二度と子供たちに会えなくなるのは寂しいなぁと、始祖神は思った。
時間はもうない。
人間が完全な神を制御してしまったら、その後はきっと地獄絵図に変わる。
それが必要ならば、躊躇はなかった。
彼女こそハイエルフ。
始祖として、森の子<エルフ族>らを導く役割を未来永劫に背負わされている者。
(アーティファクトライズ……解――ッ!?)
そうして、彼女の意識は、それを行使する寸前で彼の帰還を感じ取った。
確かに、一瞬の躊躇があった。
それは小さな執着となって彼女自身の決意を裏切った。
直後、儀式場に光が落ちる。
だから、彼女は気づけなかった。
刹那の躊躇のその意味を。
それもまた、彼女の在続を願う者たちの意思であったことを。
光で、彼女の意識が断絶した。
「成功だ……」
頭上から、荘厳なる光の柱が落ちてくるのを見て司祭の男が歓喜の声を上げる。
『――ッ駄目! もう間に合わない、城から逃げて!!』
拡声魔法で声を伝える魔女は、召喚魔法の解除を諦めて一目散に距離を空へと上がる。
その切羽詰った声は、戦う者たちを戸惑わせる。
だが、彼女はひたすらに警告。
敵味方を問わずに異常を告げる。
しかし、その警告を当然のように彼は無視した。
それは彼が異世界にて記録映像で見せられたものと、寸分違わないものだったからである。異界の知識を持ち帰りながらも、自身ではそれを行使できないという制約を刻まれた彼にとってそれは、この現実は無上の喜びとなっていた。
この瞬間のため、彼は枢機卿にまでに上り詰めたかつての教え子と共にそれの構築に勤しんできたのだ。
その成果が今こそ試される瞬間がやってきた。
――司祭の名はメルヘブ。
彼こそは異世界『レグレンシア』に召喚されたことで、その脳髄に召喚魔法を刻まれてしまった召喚幻想の感染者。
「――退避だ、王都へと退避せよ!!」
ルースがディリッドのただならぬ様子に息を呑み、警告の声を張り上げる。
「退避しろだってよ少年剣士。遊びはここまでだ。それじゃあなっ――」
「遊びだと!? 貴様、どこまでオレたちを愚弄するつもりだ!!」
「引きなさいラルク!」
「アクレイ王……ちぃっ――」
風の将軍を担ぎ上げているダークエルフが警告し、ディリッドと共に退避を促す。
逃げるサイラスに追撃をかけようとしたラルクは、歯噛みしながらも身を翻しルースたちを追って城門へと走り出す。
庭は混乱していた。
ただただ危機感だけが募るその場所に残る者は、エルフ主義者ぐらいだろう。
そしてまた一人、城から撤退する影がある。
「やばっ。廃エルフ君以外の神が来るって洒落にならないんだけどっ――」
悪態を吐くシルキーだ。
後一歩でスイドルフを守るドラスゴルを倒せるというところで、水精の警告に従い壁をブチ抜いて無理矢理に外に飛び出してきた。
幸い、ドラスゴルたちも状況を理解しておらず追撃は無い。
平等主義者たちが撤退していく。
「ふむ。これで万が一にも邪魔はありえない」
その様を一度だけ一瞥した司祭は、廃エルフの気配が魔女を追っていくのを感じ取る。
「さぁ、エルフ共にも見せてやろう。レグレンシアの秘奥を――」
レグレンシアという世界は特異である。
かの世界は、そこに居るだけで異世界の存在を召喚する術を幾通りも無理矢理に覚えさせられてしまうように魔改造されていた。
それは、言葉を知らぬ赤子であっても、化け物であっても変わらない彼の星限定のワールドルール。
「嗚呼、お許し下さい異界の聖女よ。我等にはどうしても必要だったのです。失われて久しい神の力が――」
光の滝に向かって懺悔するかのように、送り返してくれた金髪の少女へと司祭は一度だけ祈りを奉げる。
だが彼の正体は、異端審問官としてリストル教に殉教する道を選んだ狂信者。
神のためであれば、誰かを裏切ることに何の躊躇も無かった。
「仕上げだ。やれっ」
「「「!”#$%&’」」」
儀式を執り行う教徒たちの詠唱が大きくなる。
皆がトランスしたままで唱和し、異界の言語を重ねて祈る。
儀式の最終手順のために、地面に突き刺したままのアーティファクトが抜け、一人でに天に昇っていく。
それに呼応するかのように、ゆっくりと彼方よりその巨体が光の柱に影を生み出す。
途端に、矮小な精神が湧き上がってくる畏怖の感情。
いつの間にか、メルヘブの体は当たり前のように震えていた。
気がつけば、当たり前のように両膝が落ちていた程である。
それは最後の詠唱を終えた召喚を代行した者たちも同じだ。
彼はその様を見て確信する。
確実に、強大な力を持つ異界の念神<カミ>を呼んだはずだと。
「生臭い……水?」
ポツポツと、何か雫のようなものが上から落ちてくる。
待ち焦がれるように天を仰いでいたメルヘブは、遂に現れたそれの巨大すぎる頭を見た。
彼は咄嗟に、それを形容する言葉が見つからなかった。
そも、全容さえまだ分かっていないのだ。
ただ、蛇と魚とカバをあわせたような顔だけは見えた気がした。
その怪物の額に、光を纏ったリスベルクが制御剣となるべく突き刺さる。
「――oooonnnn!」
痛みか、それとも困惑か。
可聴域を超えた化け物の叫びと共に、それが真下へと更に落下を開始。
真っ直ぐに、タダひたすらに大口を開けて。
唾液と体表の鱗を滴る水が、雨のように落ちてくるその中でメルヘブは神を制御するために魔法陣から念を送る。
「止まれ!」
果たして、彼渾身の使役術式によって怪物が制止した。
かに見えたが――。
「――ooonn!」
怪物が身を捩り、怪しい光の輝きを纏う。
それを封じ込めようとでもいうのか、儀式によって即席のコントローラーとされているリスベルクが、静止の念を中継し怪物の頭で眩く輝く。
けれど。
怪物の光が、制御剣の光を苦もなくかき消し、使役のために形成した術式の何もかもを一息に弾き飛ばしてしまった。
「……ふむ。許容限界を超える程の存在だったか」
怪物の瞳が、ギョロリと彼に向けられる。
そして、当たり前のように身を捩らせた。
まるで空を泳ぐように落下を再開。
そのまま、山ごと飲み込んでしまいそうな大口を開けて迫ってくる。
冷静にそれを理解したメルヘブは、実験の失敗を悟って逃げる決断をした。
だが空間転移の魔術を実行しようとして、そこで彼はおかしなことに気づく。
「――あ?」
背中から衝撃。
気がづけば、彼は仰向けに倒れていた。
(な、何がどうなっている?)
瞼が落ちていく。
意識が朦朧とする。
その怪物が放つ怪しい光から目が離せず、抵抗できない程の圧倒的な眠気に襲われた。
そうして、遂に怪物が意識を失った彼らに城ごとまとめて喰らいつく。
――それは、千夜一夜に神の子が見たという怪物か。
彼の者を見て、気絶したその聖人が目覚めるまでに要した時間は三日。
それでもまだ怪物は海を通り過ぎている最中であったという程であるから、それは桁違いの大きさを持っていたのだろう。
けれど、今現れたそれがその伝承そのものを体現する存在であったかは定かではない。
何故ならそれは、空にも適応して泳いでいたのである。
「やけにでかい魚<カミ>だ。んー、ネットワークにさえ該当情報は無しか」
黒の少女は適当に情報を収集しつつ、類似幻想に検索をかけてみる。
「お、こっちはあるや。えーと該当は一件。名前は――ってバハムートォォォォ!? アレって無駄に偉そうな竜じゃなかったっけ?!」
それは、日本において最後の幻想シリーズが振りまいたイメージか。
国民的RPGのスライムのようなものである。
原典のイメージは、デフォルメや改変を経た後には、時として壮絶な乖離を生む。
TSさせられた戦国武将などのように。
「ま、まぁ、一応は報告メール出しとこう。こっち側の編纂は……帰ってからでいっか」
出番は無いと確信した彼女は、そのまま迷わず直帰した。
「――おいディリッド」
「なんですかアシュー君。私は今、あの怪物のせいでとても困っているのですがー」
「奇遇だな、俺も実は困ってるんだ」
『あそこまで巨大な奴を地上で見るのは久しぶりだのう』
空の上で、合流したディリッドに話しを聞こうとしていた俺はその巨体に呆れるしかなかった。
「だいたい、山ごと城を齧るなんて有りか」
夢であって欲しいとさえ思うのに、現実は非常識だ。
そいつは庭園の一角ごと城の一部を抉るように貪り、そのまま空へと上がっていた。
『もっとエグイのも居るぞ。伸びたら世界の端まで届くとかそういう伝承の奴が』
「……そういう念神って、昔はどうしてたんだ」
『無形想念界……つまりは天国やら地獄じゃな。現れたらとんでもない騒ぎになりおるから、大抵は理由をつけて引きこもっておる。偶に姿を見せて存在を主張したものだがの』
「無難な判断だな」
しかしこいつ、やたら長いぞ。
空へと上がったのはいいのだが、さっきからずっと光の向こうから体を出している真っ最中である。
王都の上で蛇のようにトグロを巻いているが、一考に尻尾が見えない。
そもそも、顔だけ見れば蛇なのか魚なのかよく分からん。
背びれや尾びれがあるから、魚に分類するべきだとは思うのだが、その癖エラが見えなかった気がするので実は肺呼吸しているのかもしれない。
『召喚魔法で開かれた向こう側に、まだ体が続いておるようだの』
「暫く出てくるのに時間が掛かりそうだな」
「ということはー、今こそチャンスですよー。完全に出てくる前に始末しましょー!」
「気楽に言ってくれるけどな。サイズ差をまず考えろって」
顔だけで高さが百メートル以上はありそうだ。
そんなのに剣を突き刺したとしても、蚊に刺されたくらいのダメージだろう。
「だいたい、あいつの方が俺たちより絶対に強いぞ。刺激せずにお帰り願いたい」
大きさだけが凄いのではない。
こっちの力を凌駕して余りある魔力をイシュタロッテが感知している。
五倍以上は当たり前みたいにあるんじゃないか?
「あれが正真正銘の念神か。神宿りとはまったく別物じゃないか……」
『今のおぬしも他人から見ればあんな感じだがのう』
やばい、恐怖を通り越して笑うしかない。
あんなのとまともに戦って勝てるわけがないだろ。
挑もうっていう気さえ、見ただけでへし折られる程に存在感がある。
せめてもの救いは、向こうにすぐにこちらをどうこうする気がないらしいってことだけだ。
様子を伺っているような感じだ。
「でもリスベルク様が突き刺さっちゃってますし、この場合やるしかないですがー」
『大変だのう。まぁ、死なぬ程度にがんばってみよ』
「……あ、あれ?」
「ディリッドッ!?」
突然、浮遊するディリッドの体が浮力を失う。
慌てて追いかけると、その体が再度浮遊した。
「ちっ――見ているだけでこれか」
「ロウリーか」
「ディリッドの意識が落とされた。それより、下を見ろ廃エルフ」
「これは……不味いな。洒落にならないぞ」
喧騒に悲鳴が混じっていた。
無理も無い。
彼らにとってはいきなり現れた化け物だ。
城から逃げる王都の民は、恐慌に来たした顔で王城から離れていく。だが、怖いもの見たさか振り返って化け物を仰ぎ見る者たちから順に、意識を失っていくのが見て取れた。
中にはいきなり倒れこんだせいで、人々が将棋倒しになったところもある。
正に大混乱といった有様だ。
こうなれば敵も味方もありはしない。
「奴の放つ光を長く見たらこうなるようだ。ディリッドが抗えない時点で、普通の連中には到底耐えられまい」
「イシュタロッテ、声を頼む」
『うむ』
王都全域に化け物を見ると眠らされると警告。
ウィスプを召喚し、シルフと共に負傷者の救助に当たらせることにする。
が、限りがない。
見るなと言われても見る者はいる。
ましてやそいつは、もはや空一杯に広がろうとしているのだ。
「せめて正体が分かればいいんだが……」
識別も効果を発揮せず、ログには『該当情報無し』という文章だけが返ってくるのみ。
アレを召喚した奴らを捕まえて詳しい話しを聞こうにも、連中は城ごとまとめて食われてあの世行きだ。もはやそれさえもままならない。
「廃エルフ」
「なんだ」
「基本、神は想念さえあれば存在を維持できる。だが、仮に奴に飯を食らう伝承があったとすると、このまま放置すれば奴は目に付くものを喰らい尽くすやもしれんぞ」
「そんな馬鹿な」
否定したいが、完全にはそれができなかった。
城ごと食っちまうような奴だ。
その体躯を維持するために喰うと仮定すれば、否定したくてもできない。
「不本意だが手を貸してやる。ついて来い」
体を空へと倒し、高度を落としながらロールしてロウリーが齧られた城へと降下する。彼を追って俺も降りると、そこへアクレイが顔を出してきた。
「どうしますか」
俺の警告を聞いていたらしく、見上げずに彼が尋ねてくる。
さすがにアクレイも良い手が浮かばないのだろう。
「有象無象など邪魔だ。剣神の担い手よ、お前は避難誘導でもしておけ」
「……勝算があるのですか」
「廃エルフ、あの紅い奴を出せ。パワースポットの残留魔力で気休めだが強化してやる」
「それは構わないんだが……」
イシュタロッテを腕輪に戻しつつ、インベントリから魔剣を取り出すが俺には懐疑的である。
「人化して奴に消し炭にさせろ。勝機があるとすればもはやそれしかあるまい」
「……付喪神顕現<ツクモライズ>」
「ん」
『むっ? なんじゃこやつは』
まだ武器娘さんたちを知らなかったイシュタロッテが、合点が行かないとばかりに疑問符を挟む。が、今はスルーだ。
「なぁ、アレを燃やせると思うか?」
果たして、巨大な魚を見上げたレヴァンテインさんはこっくりと首を縦に振るう。
「分かった。世界ごと消し炭にする」
胸を張り、ムンッとばかりに気合を入れるレヴァンテインさんであった。
頼もしいが、聞いていた俺達は気が気ではない。
中でも過剰に反応したのは悪魔と魔術神である。
『ま、待たぬか!!』
「待てい!!」
血相を変えて止めようとするが、レヴァンテインさんはガン無視の構えを崩さない。
「――いけない。ここを離れなさい!」
アクレイの叫びと同時に、真上から怪しい光が迫ってくる。
見上げれば、パックリと口を開けた大怪魚の顔があった。
「ええい、そいつの力に引き寄せられたかっ」
「マジかよっ!?」
ロウリーが箒で飛翔。
アクレイはすぐにその場から消え、俺も咄嗟にレヴァンテインさんを抱えて地面を蹴った。だが、奴は俺たちだけを狙って軌道を変えた。
狙いは確かにレヴァンテインさんだったのだろう。
咄嗟に俺は、悪魔の眼でこの先を垣間見る。
――逃げ場が無い。
間一髪ロウリーが逃げ切るのを横目に、安全圏へ滑り込めないことを悟った俺は覚悟を決める。
「障壁任せた!」
『ええい、ままよっ――』
翼をはためかせながら反転。地面を蹴る。
そうして、レヴァンテインさんを抱いたまま自ら奴の口に飛び込んだ。
「――だぁっ、この悪食め。また山ごと飲み込みやがって!」
世界がデタラメに動き続けている。
当然か。何せ奴はずっと泳いでいるのだ。
おそらく体を引き起こしたとき、飲み込んだ土砂ごと俺は腹の奥へと運ばれた。
イシュタロッテが張った魔法障壁がなんとか俺達を守ってくれれているおかげで助かったが、正直やばかったかもしれない。
が、賭けには勝った。
歯ですりつぶされていないんだから結果オーライだ。
それにしてもだ。
怪魚にも困ったものだが、考えてみれば自らの意志で彼(?)が現れたわけではない。単純に自らの身を守るために動いただけだとしたら、余り悪くは言えないような気もする。全ての被害は、召喚した連中やそれを招いた連中によって生まれたはずだ。
「――っと、大丈夫か?」
「ん」
腕の中に居るレヴァンテインさんが、微かに身じろぎする。
HPを一応確認してみるが、ダメージらしきものはない。
ただ飲み込まれただけだから、寧ろ飲み込んだ土に生き埋めにされた今の状況の方がやばいかもしれない。
『ふぅぅ。妾に感謝するのだぞ。そのまま土葬されるところだったのじゃからな』
「分かってるさ。無事なのはイシュタロッテのおかげだ」
魔法障壁が無ければ、土砂や瓦礫の重みでどうなっていたかさえ分からない。
「とはいえ、どうしたものかな」
ここがどこかは分からないが、まだ胃ではないことを祈りたい。
とにかく土の中から出ないと。
「もうちょっとだけ障壁を広げられるか?」
『かなりきついが、やってみようかのう』
スペースが僅かに広がったので、ノームさんLV1を召喚。
彼女の力で少しずつ穴を開けてもらい、土砂の中から二人して脱出を果たす。
まだ胃には到達していないらしく、空洞が広がっているのが見えた。
「ありがとう」
はにかむノームさんにお礼を言ってから帰還させると、障壁を解いて周囲を軽く確認するわけだが、とにかく生臭い。
「むぐ、鼻が曲がりそうだ」
「出たらすぐにお風呂入る」
「だな、匂いが付く前に出ようか」
不幸中の幸いとでも言うべきか。
デカイ奴というのは、昔話の頃から一寸法師戦法が対処法だと相場は決まっている。
外側からなら勝てる気がしなかったが、内側からならどうだ?
「悪いな。お前はきっと召喚魔法で拉致されただけの被害者なのにな」
だが、放置するという選択は取れない。
ならばせめて、ここで介錯して元の世界へと返してやろう。
これだけの存在を維持する信仰があれば、縁の有る地で復活するはず。
「力を貸してくれ」
「ん!」
レヴァンテインさんを剣に戻した俺は、一寸法師気分でスキルを使った。
「――廃エルフが食われただとっ!?」
主だった者を集めたアクレイは、現状を包み隠さずに伝えた。
周囲が一瞬沈黙に包まれるが、その中で当然のようにラルクが声を上げた。
「どうにかして助けるしかないだろう。魔法で攻撃するか?」
「やめておけ。無駄死にするだけだ」
その横柄な言い様に、魔女を知る者たちが一様に首を傾げる。
「皆さん、今は魔術神のロウリーさんです」
「お前たちではアレを長時間見れぬ。ヒトの精神を直接シャットダウンさせるような伝承でも持っているのだろう。今はただ待つが良い」
「待つ、だと? そんなことで事態が好転するのか!?」
「するんじゃない? ほら、さっそく化け物がのたうちまわり始めたわよ」
シルキーが、苛立ちを隠そうともしないラルクを宥めるように根拠を示す。
「ディウン様が言ってるわ。今、廃エルフ君が怖いぐらいにあの中で暴れてるって」
「……ジン」
風精は、言いたくなかったのかラルクにしぶしぶ答えた。
そこでようやく安堵のため息吐いたラルクは、剣を鞘に仕舞い込む。
「当然といえば当然だ。あんな奴を食ったら腹の一つも壊すだろうよ」
人知れず安堵のため息を付いていたルースが、フンッと鼻を鳴らしながら怪魚を見上げる。すると、怪魚が口から紅い炎を何度も咽るように吐き出すのが見て取れた。
それで王都を攻撃してこないことから、怪魚の意志ではないことが分かる。
すぐに目を逸らした彼は、訳が分からんとばかりに眉間を押さえるしかなかった。
「いかんな、幽閉されていた間に疲れがたまっていたようだ。空飛ぶ魚が火を吹き始めたように見える」
「兄上、幻覚ではないようですよ」
ケーニスからも同じような光景が見えていた。
幻でもなんでもないのは明らかだ。
「奴は火の精霊『フリッド』の力でも借り受けているのか?」
もはや、その光景はキリクの想像さえも超えている。
「違うわ。精霊様っぽい感じが全然しないもの」
「何はともあれアッシュ様々です。アレは我々にはどうにもならない相手です」
やがて、空の向こうで炎を吐き続ける怪魚の断末魔の叫びが轟いたかと思えば、その体を構成している魔力が、空気に溶けるようにして消えていく。
その煌く魔力の残滓の中で、一際強烈な神気を纏った光だけが空に残った。
それは背中に翼を生やし全身鎧を纏っている何かだ。
けれどその人物が怪魚を倒したことには間違いはないのだろうと嫌でも分かる。
多くの民たちはその人物がいったい誰なのかを知らない。
けれど、やがて彼がハイエルフを腕に抱いたことで、王都の民たちは正体に気づいた。
それは夜更けに始まり、夜明けよりも早くに終った短き争乱。
しかしそれは、分かれたはずの者たちを一つの勢力として統合させる始まりであった。
「おーい。頼むから起きてくれって」
肌寒い風が撫でる感覚の中、リスベルクは男の声を聞いた。
揺さぶられているのだと気づき、目を開ければ霞む視界の向こうに居なくなった男を幻視する。
「んん……アーク……シュヴァイカー?」
「人違いだ」
「……あ、ああ。貴様かアッシュ」
額を押さえながら、彼女は寝台に手を着こうとして夜空に落ちた。
「ど、どこだここはぁぁぁっっ!?」
「うおっ! 危ないから暴れるなっての!」
夜明け間近の王都の空。
見知ったはずの場所だと彼女が気づくことができたのは、辛うじて足を掴んだアッシュによって宙吊りにされてからである。
「はぁ。まぁ、元気そうで何よりだ」
再び胸元に抱き上げるアッシュは、目を白黒させているハイエルフの姿に苦笑した。
「善神にやられたって聞いて心配してたんだが、その様子だと大丈夫そうだな」
アッシュは宿主が生きている時点で、死んで居ないとは思っていたがようやく無事な姿を見れたことで安堵していた。
「善神? ッ――あれからどうなった!?」
「思い出したか? だったら、下でお前を心配してる奴らに無事な顔でも見せてやれよ」
言いながらアッシュは高度を落とし、ゆっくりと王都の空を遊覧する。
歓喜に沸く民衆にはきっと分かっていた。
想念により繋がっているために、彼が抱く彼女が自らの信仰する神であるのだと。
「ほら笑って手ぐらい振ってやれって。こういうの大事なパフォーマンスなんだろ」
いつかヴェネッティーの王子に言われた言葉を投げかけ、アッシュは呆然とするリスベルクを促す。
リスベルクは初めはおずおずと、しかしすぐにしっかりと手を振るって健在な姿を衆目に晒した。
「リスベルク様だ!」
「我等の始祖が遂に姿を現して下さったぞ!」
「嗚呼、姿が変わってしまっても分かる。なんという神々しさよ」
見上げる子らの声が、耳に染みこむ度に彼女は我慢が出来なくなった。
自然と零れ落ちる涙を拭うことも忘れて、ただ笑顔を保つことに努める。
油断したら、どうしようもなく笑顔が崩れてしまいそうだった。
「――なぁアッシュ」
「ん?」
「私は守りきれなかったのに、ちゃんと、導いてもやれなかったのに。無能な神にも、まだ必要としてくれる者たちがこんなにも大勢居るぞ……」
「あのなぁ。本当に無能な奴が、こんなにも必要とされるもんかよ。お前、そんな大事なことも忘れちまったのか」
アッシュは続けた。
「お前ははぐれの俺と違って、正真正銘エルフ族の神なんだろうが」
「そう……だったな。確かにそう……だったのだな」
流れ込んでくる想念を噛み締めるかのように、ハイエルフはその意味を理解する。
求められるからこそ、そこに在った。
かつて白と黒で争いが始まった。
終ることの無い戦いの中で、灰色を掲げる者たちにより新しい願いが生まれた。
その切なる願いに答えるために、彼女は森の中に顕現し、神話時代を超えて未だに存在を求められている。
やがて神滅の世界の中でアーティファクトとなり、満足に顔を見せることさえできなかったこともあったけれど。
それでも、消えずに信仰が残り続けたのは存在を確かに願われたからなのだ。
「――本当はな」
「ん?」
「私は彼らの母ではなく、始祖でさえないのだ」
「……」
「不老長寿故に、自らの一族をより高等な種族だと箔付けするために捏造されただけの存在だったのだ。だが――」
「阿呆か」
そんな過去なんてアッシュは知らない。
だからこそ言えた。
「嘘から生まれたってことが事実だとしても、それはもうエルフ族の真実になっちまってるんだろ? それぐらい俺にだって分かるさ。だからそれはお前がそうなるようにがんばって積み重ねた信頼の証で、そう在って欲しいと願った連中と一緒に作った文化だ。だったら、いつもみたいに偉そうな顔でそれを誇ってりゃいいんだよ」
「貴様……」
「まったく、本当はこんなの俺の柄じゃないのに――」
廃エルフが悪魔の翼をはためかせる。
それは扇動し、危険の只中に住民を放り込んだ責任を取るためにであり、そして。
腕の中に居る、彼らの母の弱気を吹き飛ばすためであった。
鳴り止まぬ歓声。
歓喜の声が木霊するその空は、そうしてゆっくりと夜明けの光に塗れていった。
また一つ、新しい伝承をハイエルフ信仰に刻みつけながら。
額に傷のあるハーフエルフ――サイラスは、帰還するなり上司に全てを報告した。
夜明けに起こされたというのに、対応したその男は嫌な顔一つせずに熱心にサイラスの報告に耳を傾ける。
見た目は十台後半の若い男だった。
レベルホルダーとしてのレベルを考えればそれは当然か。
既に、規定されている上限一杯のレベル99であったから。
「――報告は以上だ。グレイス枢機卿」
「ご苦労様でした。疲れたでしょう。貴方はもう休みなさい」
「はっ――」
慇懃に礼をし、部屋を去るサイラス。
一人寝室に残されたグレイスは、屋敷の窓を開け放ち空を見た。
「――恩師メルヘブ。貴方の残した物は、私が有効に使わせていただきます。安らかにお眠り下さい」
紡がれた穏やかな言葉には、何もおかしなところはない。
ただ、その後の言葉をメルヘブが聞けばどう思っただろうか。
「やはり、あの術式で神を制御するのは無理だったのですね」
そもそも人々の共通幻想を、神を挟んだとはいえ十人にも満たない人間如きで押さえ込もうというのが土台からして間違っている。
それでもやると言ったのを止めなかったのは、コレが実験であるからである。
そしてその結果を、確かにサイラスが確認してきた。
ならば司祭メルヘブは、この先に至るための役目を全うしていることになる。
教会のために。
彼のために。
己の体験が事実だったのだと証明するそのために。
「貴方が見てきたという異界の技術、戦闘技法、武器。その開発と習熟運用のための休戦協定。そして召喚魔法。これだけの事実があれば教皇様は貴方に祝福を下さるでしょう。しかしメルヘブ先生。私はその更に上に行きたいと思います」
――真なる神は死んで久しく、その座は未だ空白であるという確信があるが故。
「やはり貴方は恩師だ。私の不安を取り除き、隠れ蓑になって下さり、そしてこうしてチャンスまで与えて下さった。この犠牲、無駄にはしませんとも。そのためには――」
出会わなければならないと彼は思った。
全てはそこから。
逆に言えば、その瞬間こそ手に入れることさえできれば、グレイスはそこへと至ることができると、今日この日に確信を得たのである。
(――やはりお前は、私のものとなる運命だな)
何度と無く夢に見たからこそ、嫌でも分かる運命がある。
サイラスが持ってきた情報は、彼にまだチャンスがあることを確信させた。
であれば、計画は続行だ。
寧ろ、より成功率を高めるチャンスを増やすためのヒントまで手に入れた。
(しかし解せない。廃エルフのアッシュなる存在がエルフの森に居るという情報を知れたのはありがたい。しかし念神であるというのはいったい何の冗談なのでしょうか)
たった一つだけ、彼に理解できないことがあるとすればその一点。
ただの気まぐれか。
それとも何か予期せぬ不具合でも起きたのか。
(まぁいい。未だに夢に溺れたままであるというのなら、まだ付け入る隙があるということだ。ゆっくりと餌を垂らして待てばいい)
最後に神が彷徨うだろう空をもう一度見上げて、彼は静かに窓を閉めた。
今日は良い夢が見れそうだと呟きながら。