EX03「はぐれエルフ 街デビュー」
「ほぇー」
あの杭のあった二又の道を、とりあえず右に進んだ先に街があった。
俺の住んでいた小さな村とは何もかにもが違っている。
あんなそびえ立つ石の壁なんて、森じゃあちょっと見かけない。
森の東の向こうに『ペルネグーレル』という、ドワーフの住む国があるが、あそこなら作っているかもしれないな。
きっと俺達エルフ族ならば木で作るだろう。
外敵から身を守るための備えにしては強固過ぎる気がするが、これだけの堅牢さがなければ侵攻を受け止められない証明かもしれない。
しかも、人間の兵士らしきのが弓を持って壁の上から見張っている。
つまり、戦争になれば上から矢を大量に放つわけだ。
防衛に特化した作りか。
無いわけではないが、これも確実に持ち帰るべきなのだろうな。
道は、外壁真ん中に設えている門へと続いている。
そこには何やら通行人が沢山並んでいて、驚いたことに人間以外の種族も居た。
アレはホビットや獣人か?
ホビットは子供みたいに小さい奴で、力がない分知恵が回る。
似たようなのに妖精が居るが、あっちは悪戯好きで背中にトンボみたいな羽があるという。
獣人は分かりやすい。
何せ獣そっくりの耳と尻尾が生えている。
初めて見たのは、なんだか狐っぽい奴だった。
「むっ」
そこで、俺はエルフやダークエルフが混ざっていることに気がついた。
つまり、俺でも入れてもらえるかもしれないってわけだ。
話を聞きたいが、彼らは遥か先に並んでいる。
しょうがない。
追いつくことが出来れば話を聞いてみよう。
しばらく並んでいると、ようやく俺の番が来た。
前の連中は荷物を検分されながら目的を聞かれていた。
敵対する意思など無いから適当にやり過ごそう。
「よし、次!」
「む、顔を見せろ」
二人の門番が腰元の剣に手を掛ける中、ふっくりと外套のフードを下ろす。
「これでいいか」
「ほう、珍しいな」
「森の生活に飽きてね。見聞を広めるために街に来たんだ」
荷物袋の中身を見せる。
「金は持っているのか?」
「一応、金になりそうなものは用意してある。どこで換金すればいい?」
「この道を真っ直ぐいくと、暫くすれば店が多く並んだ区画がある。そこでしろ」
「面倒は起こすなよ。行ってよし!」
中々親切だ。
陛下曰く、通行料を取るところがあると聞いたがそうでもないのか。
これは幸先が良さそうだ。
しかし、言われた通りに歩いているわけだが中々驚かされる。
やはり、まずは人の多さが目に付く。
森の中とは活気が違いすぎて眩暈がしそうだ。
家も立派だ。
石と木を組み合わせて作ったような家や、石だけを積み上げて作ったような家まである。
家だけ見てもこのバリエーション。
屋根の色も違うな。
統一感がまるでないぜ。
形も違うし、敷地の大きさだって違う。
好みに合わせたということか?
くっ、短い耳族<にんげん>め。
家でも我等を圧倒する気かっ。
「人間とは恐ろしい連中だな」
野蛮人らしき場面はまだ見ていないし、それ以上に文明的な側面ばかりを見せ付けてくる。それどころか、この活気に満ち溢れた笑顔はなんだ。
皆が生を謳歌している。
顕著なのはやはり、子供だろう。
子供が元気だと村も明るくなるが、ここの子供たちも元気一杯に走り回っている。
やはり、安全があの大仰な石壁で守られているからだろうか。
無論、それだけでもないはずだ。
何かきっと秘密があるに違いない。
それを調べるためにも、まずは換金を急がなければいけないな。
俺は早足に店があるという区画へ急いだ……のだが、途中で何やら身なりの悪い男たちに囲まれ、裏路地へと消えていく人間の少女を見つけた。
彼女は見たこともない珍しい服を着ていた。
膝上の腰巻のようなモノがちょっと短すぎる気がするが、とにかく黒い。
ついでに髪も黒くて長い。
上から下までとにかく黒いのだ。
ありゃあ目立つ。
周囲で見ている人間たちが居たが、皆何かを恐れるような顔で怖気づくばかり。
「これは、アレか? アクシュルベルン陛下の行ってたアレをやれってことか」
精霊様の導きか、それとも我等が始祖神様の加護か。
どちらかは知らないが、きっと俺に助けろと言っているのだろう。
気がつけば俺は、躊躇なく駆け出していた。
途中で何人かにぶつかったが、平謝りして路地裏へと急ぐ。
「あーあ可哀想に」
「あいつら、スラムの連中でしょ」
「兵隊共に賄賂贈って、いつも見逃されてるって話だぜ」
「見ろよ。自警団さえ見てみぬ振りだ。きっとあの子も売り飛ばされちまうんだよ」
聞えてくる野次馬の声から、大よその事情を理解する。
しかし、悲嘆する癖にどいつもこいつも他人ごとのように動かない。
なんだ。
エルフも人間も、こういうところは大して変わらないんだな。
きっと保守的なだけではないのだ。
自分の身を守るために、自分以外の犠牲を許容しているだけに過ぎない。
別にこいつらが特別に冷たいわけじゃないんだろう。
ただ熱くもなく勇気もないだけの話で、それはきっと俺だって変わらない。
違いがあるとすれば、下心があるかないかだけ。
けれどまぁ、これはちょっと不味いな。
チラッと見えただけで敵の数は五人を越えていた。
最低でも一対五。
しかも全員キッチリと武装している。
主に剣やナイフだったように見えたが、あの子を守りながらじゃあ明らかに分が悪い。
逡巡は一瞬。
走りながら肩に引っ掛けていた弓を取り出し、背中の矢筒に手を伸ばす。
右手で取り出した矢を弦に番え、一気に路地裏に飛び込む。
「その娘を解放してやれ! でなければ射るぞ!」
路地裏に響き渡る俺の声。
視線の向こうには、驚いて振り返る人間が七人。
その真ん中に、彼女は居た。
「――」
その、黒い瞳と視線が絡まった瞬間。
俺の意識は弦を引く手が震えたのを感じ取った。
素直にビビッたといっても良い。
――なんだ、アレは。
人間の、年端も行かぬ少女のはずだ。
耳は短いし、顔つきや衣服がこの街の連中とはちょっと違う。
でも、だったら。
――ナゼ、リスベルク様よりもオソロシイと感じたのだろうか。
「なんだてめぇは」
「おいおい、正義の自警団ごっこかぁ」
「俺達を誰だと思ってやがる」
凄むならず者が可愛く見えるぜ。
こりゃ、最初から選択を間違えたな。
唾を飲み込み、想定外の事態になった今を呪う。
この状況は当然俺の勘違いだって可能性もあるわけでありますが、手っ取り早く必要なのは事実の確認であることには違いないね。
だったら問えばいい。
そう気がつけば、自然と口が開いていた。
「そこの猫かぶり娘。通りすがりの手助けはいるか?」
「別に?」
「あ、やっぱりか」
弓矢を下ろし、更に続ける。
「ちなみに、そいつらが何をしようとしているかも理解してるよな?」
「うん。でも、おかしいよね。ボクはもう、いい加減我慢の限界だよ――」
両肩を抱くように手を添え、震える体を押さえつける。
そうして、黒の少女は腹を抱えて笑い出した。
「アハハハ。ほんと何なのこれ。ちょっとバグ潰しに降りてきただけなのに、こんなテンプレイベントが入ってくるなんてさ。おまけに都合よく君みたいなのが出てくるし、もうおかしくて涙がでちゃうよ」
「いや、実際に涙でてるからなお前」
訳の分からない単語が混ざるが、とにかくおかしくて笑っていることだけは間違いないな。
そう。
この娘はこの状況にまったく微塵も危機感を抱いていない。
徒手空拳で、周りにはそこそこ鍛えているような感じの男共に囲まれているにも関わらず、怯えずに笑えるというのだ。
これが異常でないわけがない。
俺なら怖くて泣く所だぜ。
「参ったな。俺の出る幕はないわけじゃん」
「そういうことだね」
「じゃ、早いとこ俺を安心させてくれないか」
「なに、見たいの?」
「見たい見たい。援護は任せろ。一人ぐらいは相手してやるぜ」
言うが早いか、俺は手近な一人に向けて矢を放つ。
その、少女の様子のおかしさに気づいた連中への奇襲攻撃は、狙った獲物を軽々と外して少女に迫る。
次の瞬間、矢は何か見えない壁のような物に弾き飛ばされた。
そうして当たり前のように地面に落ちた矢は、虚しくも街の景観を損ねるゴミとなる。
「よく避けたなチンピラ! まぁ、俺は絶対に当てられないエルフだから当たるとは思わなかったがな! そしてすまん少女よ。当たるとは思わなかった!」
言ってて虚しくなるぜよ。
種族的に弓自慢の多いエルフとしてのアイデンティティが泣き叫んでいる。
どうしよう、通りから人間の呆れる声が聞えてくるせいで羞恥で死にそうだ。
つか、あの娘が生きてて良かった。
助太刀に入ろうとして射殺したりなんかしたら、申し訳がたたなかったぜ。
「ぷっ、もうやだ。ぷくく。弓が満足に使えないエルフってなに?」
「止めてくれー。自分で言ってて虚しいんだ」
「適性因子を組み込んでるはずなのにそれって、よっぽど才能が無いのね」
「あー、あー、聞こえなーい」
前の言葉の意味は分からないが、人間に弓の腕を笑われるなんて最悪だ。
エルフの風上にも置けないエルフ。
それが俺だ。
そりゃ、戦士たちからも白い目で見られるわけですよ。
これはもう適当に生きるしか道は無いねっ。
脅し用の弓を投げ捨て、路地裏へ走る。
「こうなったら、どいつもこいつも生かしておけないなっ!」
右手は腰から長剣を抜き放ち、失笑して声を上げかけた近くのチンピラへと駆け寄る。
「くたばれっ!」
剣を振るう。
しかし切っ先はチンピラに楽々と受け止められてしまった。
「弱っ、こいつ力までねぇぞ――」
「いや、力は並だぞ」
言いながら、俺は再び剣を振るうと見えかけて右足で死角から蹴り上げる。
「■■■!?」
油断して男のどうしようもない弱点を蹴られた男が、声にならない悲鳴上げて泡を吹く。
ならず者たちの仲間が、一瞬裏切り者を見たような目で俺を見たが知ったことではない。
「よしっ、俺のノルマは終わった。あとよろしくっ!」
援護を終えた俺は、意気揚々と後退を開始する。
少女の周りに厚い布陣を敷き、迎え撃つ大勢を整えた連中がそろって憤るがそれも無視。
全力で弓を捨てた場所まで戻り、振り返るとすぐさま右に一歩移動する。
そこへ、何やら人間大の物体が通り過ぎて往来へと転がっていった。
空を飛んだ奴は、何が起こったか分からないような顔をしていた気がする。
信じたくはないのだが、よく見ればならず者が五人にまで減っているので現実らしい。
「そこの面白いエルフさーん。そのまま特等席で見てればどうだい?」
「あいよー。俺は応援に回るわ」
「な、舐めやがってこいつらっ」
「ええい、野郎供やっちまえ! アイツも売り飛ばすぞ!」
そして始まるは大喧嘩未満の何かである。
少女はすぐさま後退。
最後尾に居たリーダー格へと距離を詰め、小柄な体を独楽のように回転させたかと思えば、そのままの勢いで回し蹴りを放つ。
振り上げられる華奢な足と同時に、一瞬めくれ上がる腰元の布切れ。
その奥で何やら白いものが見えた気がした次の瞬間には、路地裏に鈍い打撃音が響く。
皮鎧に守られたはずの男の体がくの字に曲がり、悲痛なる顔を浮かべて宙を舞う。
「ア、アニキぃぃ!?」
「てめぇ、よくも!」
近くの男が長剣を振り上げて切りかかる。
それを皮切りに、連中は三人ほど少女へと殺到。
もはや連中は何のために彼女を連れ込んだかさえ覚えていないのだろう。
真っ赤な顔が、青ざめるのはきっとそう遠くはない。
そう確信しながら、俺は構える。
「二人目は予定外なんだが……なっ」
すぐそこにある未来への確信と共に、俺はせっかく拾った弓を投げつける。
一人だけ俺の所へと向かってきたその男は、左手でそれを払いながら手に持っていたナイフで突っ込んで来た。
閃くは鈍い鋼鉄の輝き。
俺は、首に向かってくる刃を半身になって避けると、その腕を取り、踏み込んで懐に潜りこむ。
「よっと」
そのまま背負うようにして地面へと叩きつける。
「ぐえっ」
背中から叩きつけられた衝撃でむせる込む男。
そこへ、足で後頭部を蹴っておくが、まだ元気そうなので回りこんで股間を一撃しておく。
「!”#$!?」
男の喉から奇声が上がった。
可哀想だが、やっぱり男相手なら急所を狙うのが効率的なんだ。
白目を剥いた男が痙攣し、もんどりうって倒れる。
もはや、こいつにはいろいろな意味で戦闘を継続する力はない。
どうやら、アクシュルベルン陛下との修行の成果が出たようだ。
こいつらがただの威張り散らしているだけで、訓練して無い奴だってのもあったのかもしれない。
一対一なら怖くない。
ふっ、雑魚戦士卒業か。
などと感慨に浸っていると、倒した男の上に別の男たちが次々と吹っ飛んできた。
「ぐぇっ」
「どぅふっ」
「あべしっ」
なんだか個性的な悲鳴と共に、男共が山積みにされていく様は、見ていてなんだか滑稽だ。それを成した黒の少女は、両手の平をパンパンと叩きつけて払い、続いて運動で靡く前髪を鬱陶しげにかきあげる。
「はい、お終い」
髪の下から現れたその眼は、驚くべきことに何の感情も宿していなかった。
命の危険に晒された恐怖もなければ、敵を撃退した歓喜もない。
言うなれば究極の無頓着。
少し前に、おかしそうに笑っていたのが嘘のようだ。
それは全ての色を飲み込む瞳の色と合わさって、寒気がするほどに透明で。
そして何よりも、ちょっとだけ寂しそうだった。
「い、いいのかコレ」
「ボクから色々奪おうとしていたんだから、奪い返されても文句は言わせない」
「な、なるほど」
乱暴な論理だが、殴ったら殴り返されるのと同じってことか。
納得し、俺はならず者たちの懐から財布を抜き取る。
その間、少女は少女で連中の武器を奪い取って不思議な力で消し去っていた。
「なぁ、その物が消える奴ってなんなんだよ。魔術とか魔法って奴か」
「似たようなものかな。アイテムボックスでもインベントリでも好きに呼べばいいよ」
「テムボックス……ベントーリ?」
少女はそれ以上説明せずに路地裏の奥へと向かって歩いていく。
通りから出ないのは、こちらを覗き込む野次馬たちの目があるからだろうか。
俺もあの保守的な癖に興味本位な連中の山を突っ切るのはちょっと嫌なので、少女の後を追っていく。
「……君、なんでボクに着いて来るのさ」
「少し君の事が気になってな。……そうだ。これ、戦利品の分け前だ」
財布を二つだけ残し、残りを差し出す。
眉を少しだけ動かしつつも、彼女はそれを受け取ってくれた。
「君、人間のお金が欲しかったんじゃないのかい」
「おお……なんでそれを知ってる」
「こう見えてボクは神様だからね。調べればある程度は分かるんだよ」
「そりゃすげぇな」
なるほど、神なら理不尽でもしょうがないな。
「ハイエルフ様や精霊様以外を見たのは初めてだ。けど、あの馬鹿力を見れば納得だぜ」
「そう素直に信じられても困るんだけど。えーと君は……ああ、アーク・シュヴァイカーっていうんだね。外に出てくるエルフにしては若いね」
チラリと、俺を見ただけで名前と歳まで把握するとはさすがだ。
もしかしたら、何でも知ってる知識の神様とかって奴かもしれないな。
「アッシュって呼んでくれ。それで、人間の神様がなんでここに?」
「んー。ちょっとね」
「ははぁ、分かったぞ。悪党を懲らしめに来たんだな」
「はぁ?」
自分を囮にするとは大したもんだ。
しかし、なるほど。
だから子供たちも安心して遊べるんだろう。
「そのために襲われやすいようにそんな細い足を見せ付けるような奴、えーと、そのヒラヒラしたのを着ているんだな。他の連中と違って異様に目立つ服だし……納得したぜ」
「ヒラヒラって……これはミニスカートって言うんだよ。後、この服はセーラー服だい」
「……セーラー? まぁいいや。森を歩くには適さない感じだが、街中だと男の視線を集められる。さすが知識の神。ついでに脚にも自信があると見たぜ。背低いけど」
「低いは余計だいっ」
ふむん。
こういうのが街の人間の好みって奴なのかね。
そりゃ、悪い奴らもホイホイと引っかかるってもんだ。
……ちんまいけど。
「でもまぁ、どっか神秘的で似合ってるぞ。さすがは神様のチョイスだぜ」
「君、適当なこと言ってるよね」
「勿論だ。適当が信条なエルフだからな。あ、でも似合ってると思ったのは本心だぜ」
神様に隠し事をしても無駄だろうから、正直に話しておく。
「多分バレバレだと思うから言うんだが、俺ははぐれエルフと見せかけた諜報員なんだ。だが残念なことに人間の世界での正しい振る舞い方ってのが分からなくて困ってた。良かったら、しばらく一緒に人間を諜報させてくれないか? な、この通りだ」
「お断りだよ」
すぐさまつれない返事が返って来る。
思考時間が瞬きの瞬間よりも早いが、俺はこの程度では諦めない。
「そこをなんとか。ほら、分け前は全部あんたに……えーと、失敬。貴女様に差し上げますのでどうかご再考を。勿論その間は犬のように扱き使ってくれて構わないです、ワン」
「いきなり下僕に志願するって何なのさ。頭おかしいんじゃないの?」
「よく言われます。そのついでに、貴女様の諜報活動もしてみたいと思ってます」
これでも世間じゃ無能エルフとか呼ばれてますが、忠誠心だけは負けませんですぜ。ついでに人間の神様もチェックだ。くくく、我ながら完璧な作戦だぜ。
「もっとおかしいのは、自分から堂々と諜報させろってのたまって着いて来るとこだけどさ。普通、そういうのは喋っちゃダメでしょ」
「しかし人間の神とはいえ、その、神様に隠し立てするのはどうも……」
罰が当たるよな。
神ってのはそういうもんだ。
天災と同じで、機嫌を損ねると容赦が無い災害となる。
けれど、だ。
上手く付き合うことさえできれば、それは頼もしい守り神となって下さる。
自然の代弁者が精霊であるとするならば、神はそれを望む者たちの願いの形なのだと俺達は生まれたときから知っている。
誕生したときから言葉と同じように刻まれている。
だから、まぁ、なんとなく分かるような気がするのだ。
このチャンスをものにしない手は無いと。
「はぁ……」
大仰なため息と共に、神様が天を指差す。
無関心な瞳が僅かに揺れ、どこかあどけない顔が見た目不相応な冷たさを纏う。
「ボクと一緒に居るとさ、あんなのに良く合うことになると思うけどいいのかい?」
「あんなって……はぁ!?」
はたして。
見上げた空には、リスベルク様よりも更に濃い気配を持つ神らしき何かが居た。
黒い翼に黒い服。
口からは何故か途切れる事無く血を滴らせ、首筋から爪先まで一本の線のように液体を撒き散らしている。
気のせいか、こちらに降りてくるのだが、同時に酷い悪臭が漂ってくる。
「な、何だありゃ……って、それもなんだ!?」
思わず鼻を摘む俺の横では、妙なマスクのような物を被ってシュコーなどと音をさせている少女神が居た。
く、対策道具まで持っているとはさすがだ。
これが、知識の神の一旦って奴か。
あらかじめ用意していたとはずっこい奴だぜ。
「あれは君が信仰しているハイエルフと同じ念神だよ。名前は……イシュタロッテだったっけ。ここらで偉そうにしているリストル教に悪魔指定された奴だ。うわっ、こいつやっぱり想念の上書きに抗ってるじゃないか。念神の癖に自意識強いなぁ」
「訳知り顔で仰ってますが、つまりなんなんですかね」
「彼女はボクが探してたバグだ。それと、言っておくけどボクは基本、人間だからね」
シュコー。
「はぁ? でも、神様って言っただろ。それにその馬鹿力はなんなんだよ」
「とりあえずは神様より強い人間だって覚えててくれたらいいよ。ほら、君は邪魔だから隠れてな。巻き込まれたら死んじゃうぜい」
シッシッとばかりに犬を追い払うように手を振る仕草をする自称人間。
逃げろと言ってくれるのありがたいが、俺はその前に問いかけた。
「あんた、いや、君は神じゃなかったら一体何なんだ?」
「賢人だよ。ドリームメイカーの方が響きがいいかなぁ」
返事は、どこか喜びを感じる弾みさえ含んでいた。
声に引きずられた表情が、透明なガラスのマスク越しに誇らしげな笑顔に変わる。
「君にこの肩書きを言っても訳が分からないと思うけど、それでも聞いたのは君だ。だからケチらずに教えてあげようじゃないかっ」
コロコロと変わる表情は、まるで子猫のように気まぐれで、そして妙に愛らしかった。透明で無垢なる微笑みを浮かべ見上げてくる黒の少女は、そうしてはっきりと己が名を告げる。
「ボクの名は『レイエン・テイハ』。この世界クロナグラに残った最後のドリームメイカーにしてクリエイター。そして、この八つ目の実験惑星『チトテス8』の正当なる所有権を持つ者。――つまりは、造物主的な神なのだよ」
相変わらずシュコー、シュコーとマスクから妙な音させながら、自己紹介を終えた彼女は悪魔の方へと歩いていった。
「所有権……だって?」
俺は当たりを見回すと、家の影に隠れてこっそりと様子を伺う。
とりえあず、もしもの時のために剣だけ抜いて、いつでも切りかかれるようにしておく。
それが、今の俺にできる精一杯だったのだ。
――ドクン、ドクン。
心臓の鼓動が加速し、全身から滝のような冷や汗が出る。
肩書きはよく分からなかったが、この世界を所有しているとか抜かしやがったことだけは理解できた。
しかもあいつ、最後にそれが当然だと信じきった顔で言いやがった。
人間が神とかそんなの、信じられる訳が無いだろうに。
なのにどうして、それが嘘だと思えないのだろう。
「この光景だ。これのせいだ。一体なんなんだよ……」
左手で鼻を摘みながら見守れば、降りてきた悪魔とやらがいきなり淡い光を纏っていた。
神々しいというよりも、むしろ寒気がする冷たい光だ。
光が質量を持ったかのように空気を乱し、路地裏に戦慄と共に吹き抜けていく。
同時に、テイハもまたそれに対抗するかの如く全身に炎を纏っていた。
赤くて紅い炎が、路地裏をゆっくりと染め上げていく。
風に乗る熱量が、熱波となって冷たさと共に席巻する。
これを見て、あいつをただの人間だなんて思える訳が無いじゃないか。
対峙する淡い輝きにさえ負けぬ紅に、落りてきた悪魔とやらが亀裂のような笑みを浮かべてみせる。
きっと笑えば、当たり前のように美しいのだろう。
けれど、その作り物めいた美しさが、今は無残にも残忍さへと摩り替えられている。口元から垂れ流す血がまるで、その悲しみに押しつぶされまい食いしばった果てに生まれた涙のようだ。
「ヨ■セ――」
「嫌だね。規格が違うし、これはボクが受け継いだ物だ。君にはあげられないよ」
「想念……穢れ■き人のネガイ。透明なソレを、お前のそれを寄越■ぇぇぇっ!」
馬鹿げた声量の咆哮だった。
可聴域さえ逸脱しそうな叫びが、遂には物理的に物体に干渉を始めた。
贅沢な窓ガラスが付近で一斉に割れ、それだけでは飽き足らずに地面や家の壁にまでヒビ割らせる。
二人から感じる強烈な気配がますます強くなり、恐怖で縮こまる心臓が息苦しさを助長する。
――そして、今日この日に俺は知ったのである。
この世界クロナグラには、神様に平気で戦いが挑めるデタラメな人間が居ることを。
これはもしかして新たな神話の始まりか、それとも終わりへの道程なのか。
無知蒙昧な俺はまだ、それを知らない。