現実
連続失踪事件の犯人を見つけて欲しいと先生に言われた時、私は高校三年生になったばかりで、風に舞う染井吉野の花弁と夢中で戯れていた。
先生から学生便覧と事件のファイルが入った紙袋を投げ渡された私は、そのモーメントに負けて薄紅色の桜の絨毯に倒れた。どうにか抱えきった紙袋の中から紐で閉じられた分厚いファイルが勢いよく飛び出し、私の鼻は強打される。一時的に機能麻痺から脱した嗅覚は、先生の吸う煙草の匂いと、春の息吹で踊る生き物たちのステージの香りを一緒くたに感知する。
土を払いながら立ち上がった私は、桜の幹に寄りかかり、その調査ファイルを開く。
写真がいくつか貼られていて、その中の一人に私は目を釘付けにされた。
「好きな男のタイプはと、聞かれちゃ困る君だけど」
俳句のように歌う先生は、煙草に火を付けて、私の耳元に副流煙を吐き付ける。
私はいやいやしながら、ファイルを抱えて逃げる。
「女の子、君のタイプだと思ってね。紹介さ」
私は横目で先生を睨み、先生はそれが堪らないのか嬉しそうに微笑んだ。
「奥手の君だから、こういう斡旋が適当だと判断したんだよ」
そう云って、先生は私の肩を軽く叩いた。
「卒業までに解決しとけばいいや。それじゃあ、よろしく」
立ち去る先生を尻目に、私はもう一度、先生がマークした最もあやしい容疑者の顔写真を見た。つぶらな瞳、その上の睫毛はよく手入れがされていてくっきりとしている。髪は少し肩にかかる程度で、その先端は軽くウェーブがかかっている。とても柔らかい印象を受ける。鼻は小さく、口元はしっかり引き締まっていて、穏やかさの裏に鋭い意志と知性を隠し持っているように思える。
もちろん、私は彼女に見覚えがあり、彼女の事は噂レベルでよく知っている。同級生で、私と同じ学科の子だ。今までクラスは一緒になることはなかったが、今年の春から席が前隣になる。私の初恋の人で、その恋はまだ終わっていない。
小学生の五年生の頃だったろうか。私の両親は夫婦揃って市内の水族館に飼育係として勤めていたが、水槽の破裂事故で一瞬にして他界した。少額の保険金が下りたが、全て借金に充てられた。その後、私は先生に引き取られて今の生活が保障されているが、働かぬ者喰うべからずの教育方針で、随時発生する先生の本職の手伝いをしなければならない。
先生の本当の仕事は、職業上、人には言えないらしい。私も教えてもらっていない。仕事内容は多種多様で、子供の私には完遂できないものが圧倒的多数を占める。もともと頭の弱い私が先生の仕事を手伝える訳がないのだが、幾度と無く失敗する私を大目に見て、仕方なく衣食住を提供してくれる。だから、私は先生に感謝しなければならない。今後も、頭が上がることはないのだろう。
始業式の日に先生から渡された書類は、この学校関係者のみならず、全国的に有名になってしまっている事件に関しての事だった。
一昨年の夏から始まった、四半期連続失踪事件。生徒、教諭、事務員達が季節の変わり目に突然の失踪を遂げる。中には退学届、退職届を出した者もいるが、そのほとんどが突発的に発生していて、何者かの犯行である見通しが一般的になっていた。今までに犠牲者は六人出ていて、三人の男子生徒、女子生徒、女性教師、事務職員が消えている。無論、警察は既に介入していて、被害者の捜索と犯人の割り出しを並行して行っているらしいが、一向に進展は無い。
私は大学ノートに事件関係者のリストのコピーを切って貼り、授業のノートをとるふりをしながら、そのリストを目で追っていた。
もっとも、今さら私がこの事件を追っても、手がかりなど得られる筈がなかった。関係者の全員には既に徹底的な事情聴取が為されているし、事件当時のアリバイも調べ上げられている。警察もお手上げのこの状態に、無能な私が調べ直したところで、新たな進展は何も望めないのだが。
授業は世界史をやっていて、担当は今年で定年になる教授だ。単方向的な授業の進め方をするので、私は心置きなく仕事に集中する。もっとも、仕事を授業より優先させた事で解決まで導けた事件は一つもないし、授業を優先させたとしても、解決できた事件は一つもない。
「あと四本くらい、桜を植えようと思うんだけど、どう思う?」
気が付くと、私の捜査ノートの上には学校全体の敷地図が広げられていた。
私は固まる。
「私はこのあたりが良いと思ってたんだけど、直接足を運んでみたらね、大した場所じゃないのよ。こんな目立ちそうな所なのにね、案外死角になっちゃうもので、誰にも見えないんだ」
そう言って、彼女は細くて白い腕を惜し気もなく私の前に出し、校庭の外れにある防風林の端を指差した。指先の爪には凛と咲く小さな白百合が、密かにネイルアートされている。
そして私は確かめる。手首には大動脈を垂直にして深く引かれた刃物の傷跡。
彼女は続ける。
「それでねえ、校庭の周りはもういいかなあって感じになってさ。既に綺麗に並んでいるわけだし、その規則性を乱すのは私の美学に反しているのよ」
私は黙って彼女の言葉に頷き、次の言葉を待った。
突然聞かれたせいもあるが、もとより私には桜の植える場所について意見を持っていなかった。
彼女は頬杖を付き、敷地図をシャープペンで突く。「どうしようかな。どうしようかな」
「授業中です。私語は慎みなさい」教卓から叱咤の声が飛び、それは私達に向けられていた。
彼女は「へいへい」とつまらなさそうに前を向き、閉じていたノートとテキストをようやく開いた。
私は何事もなかったかのように、黒板に板書された内容を一字一句漏らさずノートに転写し、平静を取り戻そうとした。しかし、心臓の鼓動は激しく、彼女の髪からは微かにシトラス系の甘い香りが仄かに漂い、私の頭はぼうっと熱くなったまま、冷めなかった。
授業終了のチャイムでやっと私は我に返った。
号令が済んだ後、彼女は私に一言、
「場所、考えといて」
と言い残して、颯爽と教室を後にした。
私は今更になって、事件関係者のリストを彼女に見られたかも知れない、と不安になり、気分を落としたまま家路に着いた。
その日の午後八時には、同じ学年の女子生徒が陸上部の練習を終えた後に消息不明になり、連続失踪事件の被害者数がカウントアップされた。七人目である。
翌日の放課後、全校集会が開かれ、失踪した女子生徒の名前が発表された。
季節に一度行われる恒例行事のようなものだ。
私は小さな欠伸をする。緊張の中に潜んでいた僅かな退屈さに、私自身が驚いた。
人が突然いなくなるという事件が目の前で連続して起きていて、次は私なのかも知れない。なのに、不思議と恐れと不安を感じなかった。理由はない。ただ漠然と、私は被害に遭わないと信じているからだろうか。いや、それは違う。
失踪してしまう事に、私は微かな希望を抱いている。そんな気がするのだ。
終わってしまうことは嫌いじゃなかった。それはいつでも構わないとさえ思っている。
「決まった?」
集会が終わって生徒が解散を命じられた後、彼女はのろのろと体育館を出る生徒の列を無視して、私の隣に並んだ。
何の事かと逡巡していると、彼女は自らの腰に手を当てて、
「植える場所。昨日、考えておいてと言ったでしょ」
私はわざとらしく「あー」と手を叩き、
「校門脇なんてのはどうかな?あそこ、寂しいから――」
彼女はチャームポイントの巻き髪を静かに揺らして、二重まぶたをゆっくりと下ろした。カールされた睫毛が緩やかな線になり、小さな笑窪ができる。それが彼女の笑顔だと分かった時、私の胸は高鳴った。
「そっか。その手があったか。すっかり忘れてた。サンキュ」
彼女は短い挨拶で素早く立ち去り、大勢の生徒達の中に紛れていった。
私はほっと息を吐く。その一方で、僅かな前進を感じていた。夕べまで真剣に考えていた努力が報われた。
とぼとぼと歩く廊下の途中で、私は再び声をかけられた。
一、二年生の時、クラスが一緒で、仲の良かった子だ。今ではクラスが違う。
「大丈夫なの?あの人に声をかけられたみたいだけど――」
だいじょうぶ、と私は答えた。
「あなたも知っていると思うけど、あの人に付き合った人って――」
私は、うん、と頷いて、その言葉の続きを遮った。
その子の目が、心配そうに私を窺う。
「――進路のこと。進路のこと聞かれただけだから、大丈夫。席が近くて、勉強の事でたまに相談するの」
私はその目から逃げるように、嘘を捲し立てた。
彼女は「ふうん」と受け止める。
「就職なんだっけ?」
話が変わった事に、私はほっと胸を撫で下ろした。
「――そうだよ。奨学金もらっても厳しいから、働く」
「――そっか。そうだよね」
その子は悔しそうに下唇を噛みながら、毛先を弄った。
「進学、なんだよね」
私は彼女に確認した。
「そう。正直、私も働きたいんだけどね。親がうるさいの。大学は出ておきなさいって」
私は何も言わなかった。私から言えることは、何もなかった。
「あ、ごめん」
私はいつの間にか俯いていて、その子は私の気持ちをすくい上げるように下から覗き込んでいた。
私はぱっと額を上げ、笑って見せた。
「だいじょうぶ、気にしないで。最近ちょっと忙しくて、疲れてるの」
アパートの鍵を回し、軋むスチールドアを引いた。
六畳一間に簡素なキッチンが付いた、家賃三万円のこの部屋が私の住処だ。
お風呂は無く、トイレは共同で、洗濯は徒歩五分のコインランドリーを利用する必要がある。
私は制服を脱いでハンガーにかけ、ジーンズとシャツに着替える。もう三年も着古していて、膝の部分は色褪せ、襟の内側は目を凝らせば微かに黄ばんでいる。
インディゴのショルダーバッグを肩にかけ、リサイクルショップで購入した鏡台の前に立つ。その木製の鏡台には前の持ち主の匂いが残っていて、故人の記憶を触発する線香の匂いはなかなか消え去らない。私は、あまり自分と目を合わせないように、鏡に写った全身を確認する。
部屋の鍵を前ポケットに入れてから、冷蔵庫から食パンを取り出して囓る。今日の夕飯はそれでお終いになる。
部屋を出て、鍵をかけていると、携帯電話が震えた。着信音は「なし」に設定していた。
施錠を終えてから、通話ボタンを押す。
「今からバイトなのか?」
聞き慣れた男性の声だ。
私は否定も肯定もせず、
「時間がありません。失礼します」
「待て。切るな」
彼の声は太く、低く、電話越しでも私の身体を震わせる。
「明日、何のバイトが入ってた?」
「コンビニです。国道沿いの方」
「倍は出すから。――絶対だぞ」
私は淡泊な声で電話を切り、電源を落とした。
電話をかけてくる相手は、彼以外にいない。
学校の授業の大半は、眠気によって妨害されている。
興味がほとんど無い、ということもあった。
理解できない訳ではない。ただ、つまらないのだ。
授業が終わった後、巻髪の彼女は身体を横に向けて足を開き、気怠そうにこめかみに人差し指を当てた。百合は秋桜になっている。目立たないようにしているのか、その色はまたしても白だ。
私は現代国語の教科書をしまい、鞄の中からハードカバーの本を取り出した。
ページをめくる。
初めて本を購入した時に付属していた、紀伊国屋書店の栞が現れる。その時以来、本は全て図書館から借りていた。栞はずっとそのままだ。
「帰らないの?」
彼女は暇を持て余していたのか、悪戯っぽい光を堪えた瞳で、私に尋ねた。
「――約束があるから」
「ふうん。いつもは早く帰るから、バイトでもしてるんだと思っていたけど、今日はオフか」
私は驚き、周囲に誰もいないことを確認した。教室には私と彼女だけである。幸運にも、クラスメイトは既に帰ってしまったようだ。
「そっか。そうだよね。そういえば、校則違反だったっけ。知られちゃマズイね」
彼女はゴメンゴメンと顔の前で両手を合わせた。
どこかの名門のお嬢様を思わせる気品ある彼女に、そのような仕草は不似合いだとは思いつつも、強い親しみを感じた。
「内緒にしておくから。特に、教師達には死んでも教えない」
私は本を閉じ、教室の時計を確かめた。
「誰との約束なの?」
彼女は身を乗り出してきたので、私は思わず体を強ばらせた。
よく冷えたジャスミンティーを彷彿させる、爽やかな香りが鼻腔をかすめる。一体、幾つの香水を愛用しているのだろうと疑問に思う。
「――ともだち」
どもらずに言えた。
彼女は残念そうに両手を宙に上げ、
「そうなの。そうなんだ――」
と暗い声で落とした。
何が彼女の期待に添えなかったのか。
私はそれを考えているうちに、彼女は机の上にある本に興味を移した。
「海辺のカフカ。村上春樹かあ――。へえ、こんなの読むんだ」
彼女はパラパラとページをめくる。表紙に貼られた図書館のシールが見られ、私は恥ずかしかった。
「面白い?」
彼女のストレートな質問に、私は窮した。
「あ、いや、えっと――」
彼女は詰め寄る。
「――どうなの?」
私は仕方なく、
「――良く分からない」
そう答えた。
彼女はそれを聞いて、してやったりという顔をして、
「ふふ、そうだよね」
と笑う。そして、
「かわいい」
と私に馴染ませるように言葉を塗った。
例によって私は、その言葉から逃げた。
「私はそもそも、本なんてあまり読まないのだけれど」
と云いながら、彼女はB6サイズの手帳を鞄から出した。表紙には誰もが貼っているような小さなプリント写真は一切無く、無機質なモノトーンカラーだけがそこにあった。
開かれた手帳には、黒一色の細くて小さな筆跡が、神経質過ぎないほど、規則正しく並んでいる。
「読んでいる本をつまらないという瞬間の表情」
声に出して、彼女はそれに書き加えていく。
私は呆気にとられ、彼女の一挙一動を見張った。
「あっ、これね。エロ手帳なの。エッチな事には興味ある?」
「な、無いわけじゃないけど――」
言葉に詰まった。
「あるとは言えないよね。君はいかにもそういう性格のように見える」
酷いと思った。明らかな誘導だった。
「今の表情もポイントが高いけど、ちょっとかわいそうな気がしてくるから、お預けにしといて――」
彼女は秋桜の爪で記録をめくる。
「これはね、人がカワイイとか、エッチだなって思った瞬間を記録しているの」
何の為に、と訊こうとしたが、彼女に対してそれは愚問のように思えた。
「青ヒゲの女の子が口を尖らせた時とか、汗を染みこんだビブスを投げ渡された時の、マネージャーの眉間の皺の寄せ方とか」
更に言葉を失う私を余所に、彼女は続ける。
「男子もあるよ。スタンダードなやつだったら、シャツの袖をまくって見せる上腕筋とか、水泳選手の引き締まった大殿筋が水滴を弾くところとか」
「だ、男性は、筋肉だけなの?」
何とか切り返してみる。
「もちろん私の主観がメインだから、私の趣味になってしまうね。でも、色んな人に取材したり確認とったりしてるから、あながち蔑ろにはできないかもよ。例えば、そう、これこれ」
目次が振ってあるのか、ページにはシールによるインデックスが貼られている。
「両親の呼称が、父さんから親父、母さんからお袋に代わる瞬間って、最高だよね。女の子って、どう頑張ってもそう呼べないからね。男のセクシャルな特権」
しかし、それに魅力を感じるのは私にとって難しい。
「その他にも色々あるよ。君も、何かアンテナにビビッと引っかかるものがあったら申告してよ」
「う、うん――」
苦く笑いながら、私は頷く。きっと私の性に関する受信機は、彼女の収集の役には立たないだろう。
彼女は立ち上がり、小さく伸びた。
気怠さを追い払う無防備な表情と、体内の圧を調整するような気の抜けた呻き。
私はそんな彼女を見て、とてもセクシーだと思った。私がその手帳を持っていたなら、すぐにそれを記録するだろう。
「先行くね。身体をお大事に」
バイトの事を気遣ってくれたのか、私は黙って頷くと、彼女は「あっ」と声を上げて立ち止まった。
「校門の脇にしたよ。気付いてた?」
桜の木の事である。
「あっ、ごめん、気付かなかった。――もう、植えたんだ」
「うん」と彼女は手の甲を両脇に抱え、自慢げに答えた。
「私の仕事だからね。誰にも許可は取ってないけどさ」
そして少し落ち込んだ素振りで、彼女は床に視線を落とした。
「担任の部屋からなら、見えるのかな。かなり小さいから、難しいかも――」
最後まで言い切らないまま彼女は廊下に消え、私は彼女を追った。
どうして、彼女は知っているのだろう?
私の彼女に対する疑問は膨らんでいく。
私は、私と担任の関係が第三者に漏れる可能性を検討してみたが、彼女と担任に関係が存在しない限り、それは露呈するはずのない事実だった。
私は考えるのをやめ、教室の黒板の上に飾られている時計を確認する。小説を仕舞う。
午後九時。教官室の窓から覗ける景色には、新しく植えたと思われる桜の木は発見できなかった。
ショーツを上げ、ブラを付けて、ブラウスのボタンを閉める。最近では頭がしっかりと働いていないせいか、第三ボタンだけ付け忘れることが頻発している。
「最近、あいつと仲が良いみたいだな」
暗闇の中から、液晶のバックライトで浮かび上がった担任の顔が現れる。
安物の黒革のベルトは、既に閉められていた。
「――別に。仲良くないです」
私は素っ気なく言い放ち、彼からお金を受け取った。一ヶ月は生活を続けられる額だ。私がやり遂げる事ができる数少ない仕事の、多額な報酬だ。
「どんな話をするんだ?」
彼の右手の中のマウスがカチカチと鳴いている。
「――ただの世間話です」
「世間話といっても、色々あるだろう。テレビの事とか、経済の事ととか」
「家にはテレビはありません。新聞もとってません。失礼します」
「ちょっと」
彼は立ち上がって、私の肩を押さえた。部屋を出ようとした私を振り向かせる。
「あいつには気を付けろよ」
私は無表情を努める。
「君がいなくなったら――」
彼の息を飲む音が、PCの排気音の中に紛れた。
私がいなくなったら、こんな所に困る人がいる。
その事実は、私が予想していたとおり、それほど嬉しくなかった。
「バイセクシャルの噂がある」
私は彼から目を反らした。
「これまでの被害者がそれを確かにしている。最近ではそれを恐れてあいつに近付く奴は減ったが、それでも止まらない」
「帰ります」
私は鞄を持って、部屋を出た。背後から呼び止める声が聞こえたが、私はそれを無視した。
しんと静まりかえった夜の学校の廊下を歩く。教官室の中には、まだ灯りが点っている部屋がいくつかあった。
私は、出来るだけ人目に付かぬよう、人の往来の少ない通路を選ぶ。
体育館の前を横切った時、まだ照明が落とされていない事に小さな驚きを感じた。中からはバスケットボールが弾かれる音が響いている。周りには八分咲きの桜が体育館の照明によって照らされ、春風に揺らされる度に淡い朱色を彩っている。
私は不意に校門まで走った。
向かって左側の、土が敷かれた領域に、新しく植えられた桜の苗木を探した。反対側には守衛室があり、中からは訝しく私を見つめる守衛がいたが、私は構わなかった。
そしてそれはすぐに見つかる。約一メートル程の、本当に小さな苗木だが、それは確かに在った。
私はその前にしゃがみ込み、膝の中に顔を埋めた。
本当に植えられていたそれに、私は言葉を失った。
それはすぐに抜き取られるだろう。
失踪事件の容疑がかかっている彼女は、あたかも死体をそこに埋めたように、周囲に思わせているのだ。それが仮にフェイクだと分かっていても、捜査する側は着手せずにはいられない。
どうしたらこの桜を守れるのだろう。
彼女はそれを必死に考えた筈だ。
私はこの苗木を目の前にして、その重大さに打ちのめされる。
私はそこに座り込んだまま、それについて考え続けた。
供養すらままならない現実だ。そこで彼女は何を考えるのだろうか。
部活動を終えたバスケット部員に声をかけられ、私は立ち上がった。
答えは出なかった。
帰宅後、ポストの中をチェックすると、不動産広告の中に混じって定型封筒が入っていた。
厚さにして一センチメートルほど。一対二の比を持った、綺麗な長方形の形でそれは膨らんでいる。
爆弾等の危険物を送られる覚えのない私は、警戒もせず、糊を剥がした。
中身を確認した私は、誰にも見られないよう、直ぐに自室に潜り込む。
そして、滅多に使わない携帯電話を鞄から取り出して、数少ないアドレス帳のメモリから先生の番号を呼び出した。
十数回のコールの後、先生は眠そうな声で出る。
「珍しいね。君からかけてくるなんて」
私は単刀直入に尋ねる。
「お金、先生ですか?」
先生はすぐには返答せず、
「君の手元に、お金が届いたってことか………」
と、まるで人ごとのように呟いた。
「前払いで、強制的に新しい仕事を頼んだって、受け付けませんから」
先生は本当に困った、という声を出して、
「うーん………そうなの。色々、体使って働いてもらおうかなって、今考えたところだけれど――」
「お断りします。お金は返します」
「あ、いや、返さなくて良いよ。特別報酬として受け取れよ」
私は困った。心当たりがないからだ。
「受け取る理由がありません」
「まあまあ、受け取りなって。きっと綺麗なお金なんだから、貰って損はないだろう?それに今回の事件の調査にも、色々お金は使うんだからさ」
「それは後で経費として、しっかり落とさせてもらいます」
ひゅう、と口笛が聞こえ、
「手厳しいね。まあ、君にはそのくらいの態度が丁度良いよ」
そう言って、先生の方から電話を切った。
私は呆然と立ち尽くした。
机の上には、五十万。全て、新札である。
「桜を植えるポイントだけど、まあ、特に他の木と比べて変わったところはないんだよ。間隔を確保して、日当たり、水はけが良くて、肥沃な土壌。当然だね」
私はコクリと頷く。彼女は続ける。
「昨日植えた苗木は、あと三年もすれば君の身長を超える程大きくなるけれど、それまでが問題なんだ。ちゃんと手入れしてくれる人はいないし、何せ、すぐ抜かれちゃうからね。それも一回じゃなくて、何度も。本当に、困ったものだよ」
抜くのは警察だけじゃない。悪戯でやる人もいるし、植木業者が入って来ることもあるだろう。
「手入れは、頻繁にするの?」
私は彼女に尋ねる。
「そうね。一日に一回は巡回するかな。水とか肥料をあげるんだ。元気のないやつには、声をかけながらね」
化学の実験の最中だった。私と彼女はペアになり、談話をしながらも淡々と作業を続けている。
「今までに何本植えたの?」
私の問いかけに、彼女は少し難しい表情を浮かべ、
「そうだなぁ。年に四本だから、今までに七本は植えたのか」
「七本」
私は反芻する。
その数は、多いのか少ないのか、よく分からない。
「でも、ほとんど負けちゃったよ。敵は人間だけじゃないからね。他の動物とか、同族だったりもする」
フラスコの中の液体は沸点を超え、ぐつぐつと音を立てていた。
「子育てって、人も植物もホント難しいよね。私、金魚とかハムスターだってすぐに殺しちゃうしさ」
私はフラスコの中に試料を入れ、温度計で液体の温度を測った。彼女はその値をノートのメモする。
「だからねえ、いつも思うのよ。育てる力がない奴が、生命を預かっちゃいけないんだなって。愛だけじゃ、本当にどうにもならないよ」
そう言って、彼女は制服のブレザーのポケットから、ピルケースを取り出し、誰にも見えないように私のスカートの上に置いた。
「普通、ちゃんとお医者さんに診て貰って、その後に処方してもらうんだけどね。あんたの場合、お金と時間がないでしょ。学生からその二つを取っちゃったら、何が残るか分からないさ。本当に辛いよね」
私は急いで首を横に振った。
「受け取っていてよ。孕んじゃってからだと遅いし。ここの教諭の給与だって、大した期待できないんだぞ」
そう言って、無理矢理私のポケットの中に入れる。
そして実験手順を確認するように服用法を小声で伝える。
「二十八日タイプで、始まった日から服用してください。白いやつを一日一錠。二十一日続けたら、ピンクに切り替えて一日一錠。ノンホルモンのやつね。中にメモリ付いているから、飲む度に回していけば間違いないかな」
私は他の人に聞こえていないのかが物凄く気になって、ずっと下を向いていた。顔が熱い。
「毎日じゃなきゃだめだよ。その時々だと全く効果がないから」
「ちょ、ちょっと」
私は、ようやく機能する口を使って、訂正する。
「なになに?」
「――誤解してる」
「え、何を?」
目をパチパチ、音が聞こえそうなくらいに開閉させて、彼女は私の言葉を待つ。
「要らないの。――そ、そこまでいってないから――」
「ええっ」
と、彼女は大声を出して驚き、周囲が一斉に彼女を注目した。
私はいよいよ恥ずかしくなって、実験室を飛び出したくなった。
彼女は咄嗟に判断する。
「あ、え、ゴホン。実験の結果に驚いただけです。お騒がせしました!」
胸を張ってわざとらしく言い訳をし、担当教師に「ゴメンナサイ」と平謝りする。何故か私の肩も掴まれ、一緒に頭を下げる。
周りのざわめきは止まらず、中からは次の犠牲者が決まった、という話も聞こえてきて、私は何も言えなくなった。
教師からの二度目の注意で、辺りはようやく沈静化した。私達はほっと息を吐き、簡素な丸椅子に腰を下ろす。
その日の午後、私は彼女に呼び出された。
出入り禁止になっている屋上の鍵を、彼女はどんな魔法を使ったのか目の前で一瞬にして解錠した。
初めての屋上と、そこに吹き付ける風の歓迎で、私は少し気分が高まる。
ペンキの剥がれたフェンスに、二人で並んで空を感じる。
「途中までって言ってたけど――」
彼女が柄にもなく言葉を濁す。
「本当なの?」
普通なら最後までやるのが肉体関係と言いたいのか、彼女の大きな黒目は疑問で染められていた。
「――胸とか、キスとかだけだから――」
「はぁ?女子高生相手にそんな中途半端なことできるのかよ」
彼女の声は怒っているように聞こえたが、その中に今までにない真剣さを感じた。
「担任の先生は――なんというか――」
「インポテンツ?」
「ち、違うと思う」
先生の名誉の為にも、否定しておく。
「先生、興奮してくると、ズボン越しに固いものを押しつけてくるから、多分あれが――」
「あ、あ、えっと――、大丈夫だよ、そこまで言わなくて大丈夫」
彼女の方が恥ずかしくなったのか、言葉を遮られた。彼女自身は慣れている筈なのに、何故だろう?私の思い違いだろうか。
彼女は口に手を当てて咳を払い、続けた。
「先生も我慢してるんだね。ちょっとは見直したよ」
私は頷く。
「だから、――避妊はしなくても良いと思う」
「そりゃそうだ」
「それで、お金も要らないの」
先日ポストに入っていた、五十万円が詰められた封筒を今、彼女に返す。
彼女はそれを見て、意見する。
「好きでもない男に体を弄られているのは、お金をもらう為なんでしょ?」
「それだけじゃないの。バイトしていること、先生は知っていて、その口止め料も入ってる」
「そんなのおかしいよ。お前の家庭状況じゃ、バイトでもしないとやっていけないんだろう?」
「うん。両親はいないし、兄さんも突然会社辞めてから、仕送りができなくなった。私が働くしかないもの」
「奨学金はもらっているの?」
「もらってる。それでも追い付かない」
「うそ、それであいつは君の弱みにつけ込んでそんなことを――」
私は急いで先生を庇う。
「で、でも、たくさんお金もらってるし。それ以外のこと、上手くできないから」
彼女は本当に怒ったように、私を睨む。
「君はそれでいいの?」
私は怯える。
「よ、良くないと思う。――けど、先生はそんなに悪い人じゃないから」
「悪い人じゃないって――十分悪い事されてるじゃない」
私は言葉に困った。それでも言い返さなければならないと思う。
「――かわいそうだな、と思うの。あの人も、お母さんがいないって――」
「あいつの母親の不在を、君で埋めようとしているだけじゃんか」
「求められたら、答えてあげたいよ。そうじゃなきゃ、悲しいもの。お互い、悲しくなるだけ――」
彼女は沈黙した。
私は悲しくなると同時に、彼女へ訊こうと思っていた様々な疑問が膨らんでくるのを感じていた。それはもう、抑えるには遅すぎて、気が付くと私は言葉にしてしまっていた。
「――あなたは、あなたは、私の事をどう思っているの?」
私は彼女の名前を呼ぶことができなかった。名前を呼ぶには資格が足りないように思えた。
私は続ける。
「あなただって、私がかわいそうなんでしょ――。頭、良くないし、容姿もこんなだし。それに、お金持ってないから――」
「――駄目だよ。そんなの違う」
彼女の否定を受け止めず、私は更に続ける。
「桜を植える話だって、退屈だったから声をかけた。真剣になってくれる人なんて、私のような陰気で馬鹿なやつしかいないんだから――それだったら私」
頬に衝撃が走り、私は最後まで言い切ることができなかった。そして私の頬は、間もなく熱くなった。
「そんなこと言うと、私、嫌いになるよ――」
彼女の大きな瞳は紅く、濡れていて、哀しみに歪んでいた。
私は彼女と向かい合う。
「君のこと、嫌いにはなりたくない。絶対、嫌いになんかなりたくないのに、どうしてそんな事を言うの――」
彼女は私に背中を向けて、一歩ずつ、ゆっくりと前に進み、私から離れていった。
私は遠くなっていく彼女が怖くなって、その背中を追った。
混じりけの無い青空と入道雲。その中に浮かぶ紺色のブレザーが、私の視界を支配する。
「私の手首の傷、気付いてたよね?」
彼女はゆっくりと振り返り、左の手首を私に見えるように突き出す。
白く膨れた傷跡が一本、そこにはある。
「隠してないのは、別に見せたいって訳でもないんだけど」
右手で剃刀を持つ真似をする。
「過去を隠したいとは思わないんだよね。普通ならここにリストバンドするわけでしょ。でもそうなると、何か嫌じゃん。他人はなんとも思わないかも知れないけど、私がそれをつけたり、見たりする度に、死のうとした自分を否定するみたいでさ」
文脈は良く分からなかったが、私は彼女の告白に息を飲んだ。
「手首はこの一本で本当に死にそうになったからやめた。その後、腕とか足とかもやってみたけど、まさしく自傷行為でしかなかったよ。それも、ただかわいそうな自分を演じたいが為だったし」
彼女は半袖やソックスをめくって、脇の下や足首を見せる。
切り傷はほとんど見えなくて、無駄毛一本もない白い肌に私はまた息を飲んだ。
「要するに、だよ」
彼女は私の両手を取り、頬に寄せた。
私は目のやり場を失い、俯く。
「弱っている自分が好き、という気持ちは分かるけど、私は弱っている君を見たくないの」
彼女の双眸は真っ直ぐと私を貫いている。
「分かる?あんたが心配なの。とても」
それって何なのだろうか?
私は頭が悪いから、自分の都合の良いようにしか解釈できない。
だから私は、彼女の伝えようとしている気持ちをしっかりと受け止めらない。
ここから逃げたくなる。
「待て。待て」
私を包む両手は更に強く、熱く、握られ、私は完全に逃げ場を失っていた。
身長が私よりひとまわり大きい彼女は、その手を私の背後に回し、身動きの取れない状態にする。
彼女の胸の膨らみの間に、私の鼻が触れ、仄かな体臭と強すぎない香水が、思考を麻痺させる。
「これが、初めてだったら良かったのにな――」
彼女は呟く。
私は何のことか分からなかった。
彼女は諭すように、また自身に言い聞かせるように続ける。
「初体験だよ。こんな幻想を抱いてた。どうして、今になるのかな」
「わ、私は――」
「いいよ、何も言わなくて」
そう言って、私を強く抱き寄せる。
「いっそこのまま殺しちゃいたいくらい――、そうだね、愛しい、よ」
私は大声で泣くことなんてもうしばらく無いだろうと思っていたが、今、その状況下にいることに私は驚いていた。悲しくても、嬉しくても、感情が溢れれば泣いてしまう。その事実を受け止めようとしたが、すぐには難しかった。
学校のトイレに駆け込もうと思ったが、泣き声を聞かれるのも恥ずかしいと思い、私は部屋に帰ることにした。視界は涙でぐしょぐしょに濡れ、鼻水は拭いても拭いても上唇まで伝ってくる。
アパートに着くと、隣室から火が出ていて、私の感情のスカラー量は更に高まった。結果として、更に泣きたくなった。
どうやら既に消防隊員が到着しているらしく、消火活動が始まっていた。
私は泣く力さえ失い、その場にしゃがみ込んでしまった。
一度に多くの事が起きている。
その事実は把握できるものの、何に対して、どのような判断を下せばよいのか、その思考の道筋をしっかり立てることができない。
相変わらず、私の意識は霞む。
ただ、目の前の事態をぼんやりと眺める。
どのくらい時間が経ったのか、私はいつの間にか両腕を支えられながら、焼け跡で真っ黒になった私の部屋を前にしていた。消火は終わったらしい。全焼とまではいかないにしても、所持品の半分以上は使い物にならなくなっていた。
私の耳元で、心地良い声がする。
「ごめん」
私の両腕を支えていたのは彼女で、何故か、磁器のような白い透明な肌は、灰で黒ずんでいた。
「煙が酷くて、途中で消防の人に止められちゃった。だから、これだけ」
そう言って、彼女が渡してくれたのは、私の枕だった。
海辺のカフカ、上下巻セット。
返却期限はとっくに過ぎていて、私はとっさにそれを受け取って表紙の図書館のバーコードを手で隠した。
彼女は目を細めて笑う。
私はそれを見て、全身に走っていた緊張の線がぷつりと切られるのを感じた。
またその場に崩れ落ちて、私はやっとで、落ち着いて泣くことができた。
彼女の住居は私が住んでいたアパートから歩いて十分程の距離で、実は近所だった。
単身で住むにはかなり大きな館に私は住人として招待され、一室を与えられた。それまでは彼女の母親が使っていたという。母親がいなくなってから八年は経つらしいが、婦人の残した高級な生活の香りは、様々な家具に染みついていた。煙草は吸わなかったらしい。
彼女の両親は昔に姿を消していて、この館に残されたのは、彼女と、執事さんだけだと言う。
執事さんはこの館での細々としたルールや仕来りを私に丁寧に説明してくれる。食事の時間や門限などについてだ。館の主である彼女は、それを一度も守ったことはないと言う。
「足りないものがあればなんなりとお申し付けください」と執事は言い残し、部屋から出て行った。私は早速、数少ない身の回りの品を各場所に配置していった。それはほんの僅かな時間で終えてしまう。
作業を終え、一呼吸置いた時、ドアをノックする、乾いた音が部屋に響いた。
「わたし」と彼女の声が聞こえる。声を出すより体を動かした方が楽だと感じた私は、急いでドアを開ける。彼女はシャワーを浴びたばかりなのか、朱く火照った頬で、私に言った。
「疲れてると思うけど――ちょっといいかな?」
私は頷いて、彼女の後に従った。
部屋に来て欲しいという。
彼女の部屋は広く、アトリエと暗室で二分されていた。まず始めに暗室に通してくれる。暗室の天井には幾枚もの写真が紐によって吊されていた。私達が入ってきた扉の風圧で、それは不気味な残像を残しながら揺れる。
彼女は壁に設置されたスイッチを押し、部屋を僅かに明るくした。セーフライトだろう。乾かす為に吊された写真のいくつかの内容が、かろうじて判別できる程度だ。その一枚一枚を追っていくと、その殆どの被写体が、全裸や半裸状態であることがわかる。若い女性、少女だ。
「写真を撮らなくなってね。今から一年と二ヶ月前。あっつい夏だったなぁ」
彼女は、部屋の隅で闇に埋もれたキャビネットからアルバムを取り出し、私に見せた。写真の中で彼女は、陸上選手のユニフォーム姿で宙を舞っていた。砂上に着地し、砂粒を豪快に弾いているものもある。走り幅跳びだろうか。
「あと四百もやってた。それに水泳もね」
彼女はアルバムをぱたんと閉じて、キャビネットに戻した。
「それでね、健全にスポーツがしたかったんだけど、なかなか上手くいかなくてね。両親がいなくなったのもあってか、不幸は不幸を呼ぶみたいで」
彼女は両手を後ろに回して、ゆっくりと干された写真の列をなぞるように歩き出した。
「そこに乾かしてある写真、全部私なの」
空気がようやく、異様さを醸し出し始めた。
彼女の段階的な告白に、視界がぐらりと揺れるような衝撃を覚える。
「ネガが送られてきてね。その時点で棄てるべきなんでしょうけど、とりあえず現像してみようと思ったの。性の探求。格好つければ、そんなところかもね」
自嘲気味に笑う。
「でも駄目だった。乾かすところまではできたのよね。後は触ることもできやしない」
彼女は写真の一枚に触れようと手を伸ばすが、それ以上、指先は写真に近づくことはなかった。
「見てる分には、予想通り、我ながらエロティシズムだなあと思うんだけどね。触ることができないのよ。何故だと思う?」
私は考えてみたが、的を射た答えを見つけることはできなかった。
「他人が撮ったものだから――?」
彼女は中性的な笑みを浮かべて、答えた。
「――近い、かもね。撮影者の負のエネルギーというのかな、なんか気持ち悪くて」
そこで彼女は突然、パンパンと手を叩き、
「初めて人に明かした、私の秘密なの。執事にも見せたことないんだよ」
私は溜飲を下げる。
「だから、今後とも宜しくってことね。ま、辛いことばっかりの世の中だけれど、この国じゃ春が来るんだからさ」
そう笑う背後で、写真達がクスクスと忍び笑いをしている。
私には、良く分からなかった。
「あ、あともう一つね。見せておきたいものがあるんだ」
私達は暗室を出て、彼女の部屋に戻った。
通りがかった際、目にはしていたが、それは今、順番を守って説明されるようだ。
「これこれ。見てみて。タイトルは決めてないんだけどさ」
地面に人が眠っていた。その上には桜が咲いている。
その二言で説明が足りるような、下書き段階の、シンプルな絵だった。
「写真の代わりに絵を描くようになったよ。ほとんど抽象画だけどね」
私は唾を飲み込んだ。
その音は、今度こそ、彼女に耳に届いただろう。
彼女との生活が始まった。
一番の大きな変化は、家事をする必要が無くなった事だった。
掃除、炊事、洗濯の一切を執事さんがやってくれた為、私の生活にゆとりが生まれた。
空いた時間は趣味の読書にまわし、残りは今まで通りアルバイトに勤しんだ。お金のことまで面倒を見てもらうつもりはなかったからである。
貸して貰った部屋の代金も、いつかはきちんと払う。無期限無利息。火事で窮地に追い込まれた私が、おこがましくも転居する際に提示した条件だ。
彼女は家ではいつも絵を描いていて、ごくたまに電子ドラムを叩いている。そして絵を描いたりドラムを叩くのに疲れたり飽きたりすると、私の部屋に来て写真を撮る。私は必死になってそれを拒むが、彼女はそんな私の表情を一番撮りたいのだと言う。
暗室の写真は彼女に無断で回収し、今は私の手元にある。私はその写真を見るのが怖いため、厳重に封をして、机の引き出しの一番奥に入れておく。いつかは処分しなければと自分によく言い聞かせる。
彼女は過去の写真が全てなくなった暗室を見て、しばらくの間沈黙し、口をぱくぱく開いていた。独り言なのだろうか、私にはまったく聞き取れなかったが、その後彼女はにっと笑い、私の肩を叩いた。
新しい写真が、暗室の空に浮かんでは広がっていく。
七月に入り、新たな犠牲者が出た時、私は季節が春から夏に変わったことを自覚した。
集会の後の廊下を歩きながら、夏といえば、夏といえばなんだろう、と自問を繰り返していると、河川敷で行われる花火大会のボランティア募集のポスターが目に入った。花火大会ときたら、浴衣である。
浴衣は金銭面の関係で一回も着用したことがなかったが、想像するだけならお金はかからない。
私は私の浴衣姿ではなく、彼女の浴衣姿を想像する。
薄紅色をベースとした白桜の咲き乱れた模様。頭髪は前髪を右に流して、後ろはまとめて漆塗りのかんざしで止める。かんざしには三輪の白百合が装飾されていて、帯はシンプルに白、もしくは朱色。できるだけ淡い方が良い。
私は妄想に耽っているうちに階段を一歩踏み外す。身体が瞬時に支えを失い、軽くなる。
よろめいて、前の人の背中にぶつかり、ドミノ倒しを始めようとした時、私は後ろから襟を掴まれる。
そのままぐいっと引っ張ってもらい、私は九死に一生を得る。
「これじゃあ、予定外の犠牲者が一人、増えるじゃないか」
そう言って、先生は私の体を傾斜させ、膝の裏に手を伸ばした。
そのまま持ち上げられる。
「生徒諸君、彼女は具合が悪そうだから、僕が保健室に連れて行くよ。次の授業の先生って誰だっけ?」
私が答える前に、学級長が明瞭な声で「安東先生です」と答える。
先生は、
「オーケイ。ありがとう、助かったよ。彼に宜しく伝えておいてくれ。僕からも後で言っておくから」
その後、もちろん保健室に連れて行かれる筈はなく、先生の教官室に運び込まれる。
ドアの表に貼ってある所在表のマグネットを「不在」に動かし、カーテンを閉めた。
先生は大きく息を吐く。
「お前は相変わらず小さくて軽くて、持ち運びの点では非常に便利なのだが――」
私はソファーに落とされ、小さな悲鳴を上げる。
「調査の方はまったく進んでいないようだね」
私は姿勢を正す。
「調査は進んでいます。容疑者に接近して、情報を集めています」
先生は白衣のポケットに入っていた黒のボールペンを取り出し、私の頭を軽く叩いた。
「ほほう。それで、何か新しい情報でも掴んだのかい?」
私は上目遣いで、先生を睨んだ。
「彼女は、この事件にまったく関係がありません」
先生は面白そうに唸った。
「うむむ。それはそれは、随分確信が込められた見解だね。根拠はあるの?」
私は説明する。
「事件当日のアリバイがあります。少なくとも、今回の失踪事件については、犯行が行われたと思われる昨夜十二時、彼女はずっと家にいました。犯行は不可能です」
間断なく、
「共犯の可能性は?」
「無いとは言えません。けれども、彼女の単独犯ではないことは確かです」
「君は――、君はその推測に満足しているようだね」
「どういう事ですか?」
「つまり、彼女は第三者によって容疑がかけられるよう仕組まれている。そう言いたいのだろう?」
「――そうです」
「それが、彼女がそのように思わせようとしている可能性も含んでいるんだよ」
先生は煙草に火を付ける。
「君が共犯というのはどうかな?」
「え?」
「話としては随分面白いと思うんだよ。容疑者に接近した探偵が同情して犯行に加担する。共犯探偵だね」
そう云って、先生は冷ややかに笑った。
「もっとも、君みたいな頭脳指数の低い子がやるから面白いのだけれども。結末としたら、完全に利用されて、君一人の単独犯で片づく。そこに愛が絡めば、文句無しだね」
私は絶句した。
少なくとも、頭が鈍いという点は否定できなかった。
「彼女は君を使って、犯罪を完全なものにしようとしている。案外、この可能性は低くない。君と僕の繋がりを、彼女は知っているからね。僕は君を、彼女は僕と君を掌握している」
先生と彼女の関係を尋ねようとしたが、怖くて聞けなかった。それはもう、先生の発言で明らかにされたようなものだった。
「ともかく、僕はそういう結果でも全然構わないということだ。精々、頑張ってくれたまえ」
私は立ち上がって、もう一度、先生を強く睨んだ。
「彼女を否定されるのは、とてつもなく不快みたいだね。君のかわいい顔が台無しだよ」
私は黙ったまま、教官室を後にする。
ドアを閉め、教室に向かおうとした時、彼女はそこにいた。
まるで先生と私のやりとりが終わるのを待っていたかのように、窓際に背中を預けていた。
腕組みしていた手を、照れくさそうに首の後ろに回した。
「具合、良くなさそうだね」
私の顔色を見て察したのか、彼女はトーンを落として確認する。
「大丈夫、だよ。――それより、話があるの」
彼女は身体を翻して、窓の外に視線を移す。
「そうだね。私も、もうそろそろ限界かな、と思ってたところなんだけど――。もう少し待ってくれないかな。できれば秋まで」
「秋になれば、何かが変わるの?」
彼女は真剣な表情で頷いた。
「絵を完成させたいんだ」
吸い付くように、彼女は私に体を寄せる。
「あと三ヶ月はかかりそうなんだ」
周囲には誰もいない。
「それまで、待ってもらえるかな?」
その言葉はさり気なく私の口内に囁かれ、喉の奥で残響した。
塞がれた唇に、私は身動きが取れなくなった。
瞳を閉じた私は、自分が断ることができないことを確信した。
熱く絡められた接点が離れ、唾液が引力に負けて放物線を描いて落ちる。
私は彼女を、卑怯だと思った。
そんな私を察してか、彼女は申し訳なさそうに目尻を下げた。
「最後まで、続けたいんだ」
そして私は待った。
一人、辛抱して待つのは慣れていた。
そして、八人目の犠牲者が出る。
私達は売店前の花壇の中に桜を植え、
「意外とここって盲点だよね」
と私は言った。
彼女は控えめに笑って、「そうだね」と答えた。
翌日、苗木は無くなっていた。
彼女はそれを報告した後、私に言った。
「絵が完成したよ」
そして、
「放課後、時間をくれないかな。例の事件の事で、話があるから」
放課後、私達は館に帰り、一時間程休憩を入れた後、応接間のソファーに座って向き合う事になった。彼女がアールグレイを出してくれて、私は「クッキーを焼けば良かった」と云った。「作ったことがないでしょ」と彼女が指摘する。二人は穏やかに笑う。
執事さんには暇が出されていて、今日は不在らしかった。
このタイミングを待っていたと、彼女は云う。
「これは復讐なの」
私はカップの中に、ミルクと砂糖を目一杯入れる。
「一昨年の夏、何があったかは知ってるよね。言葉より、あの写真が克明に物語ってる」
彼女は優雅に、紅茶に口を添える。それは本当に、飲まずにただ添える、それだけの動作に見えた。
「その時の事件は表沙汰にならなくて、先生達の間で処理されたの。主犯が理事長の息子だったから、先生達に圧力がかかったんでしょうね。反発した人もいたみたいだけど、逆に不祥事をでっちあげられて職を追われたみたい。まあ、その他にも複雑な事情があったのだけれど、私から見れば怠慢ね」
「それで、その関係者を――?」
「片っ端からね。まずは相手と適当に仲良くなって、昔のことは忘れたって思わせてから、どこか都合の良い場所に呼び出すの。公園の外れとか、墓地とかね。青姦に使われそうな、人気のないところ。そこで私は変装して待っていて、相手が現れたら背後から首を絞める。私、身長高いでしょ。それで、体格差はカバーできると思ったんだけど、そうでもなくて――。おかげでかなり鍛えることになったよ」
彼女は袖をまくって、私に力瘤を見せた。
腕にできた傷は、その時に抵抗を受けたもので、アームカットとは無関係だと言う。
「死体を運ぶのは大変だったから、執事に手伝ってもらった。車でこの館まで運んでね、地下に隠すの。そこで十分に乾燥させてから分解して燃やすんだ。ここにはなんでも揃っているから。うちってさ、ボイラーもあるけど、釜でもお風呂が焚けるんだよね。和洋折衷ね」
私は自分をしっかり持つよう、何度も言い聞かせ、確かめなければいけない事を確認する。
「全部――、全員を、やったの?」
彼女は気怠そうに、身体を斜めに傾ける。
「そう――だね。あと一人残ってるよ。関係者は全員で九人で、奇しくも四ヶ月に一度のペースになってさ。乾燥して分解するのに時間がかかるからね。骨は海や川に捨てるから、その度に遠出しなきゃいけない」
望みはないのだろうか?この事態から少しでも良い方向に展開しないのだろうか?私は必死に考える。
「――最後まで、やらなくちゃいけないの?」
その声は、自分でも分かる程、震えていた。
「まあ、ここまで来たんだしね。相手の方もとっくに気付いていると思うけど、止められないんだ。生き残ることで感じる罪悪感はきっと大きくて、私が手をかけるまでもなく自殺してしまうのかもしれない。けど、罰は平等にさ、与えたいじゃん?」
彼女の眼光は屈折せず、私を射抜く。
「知ってたんでしょ?君はその話を担任としていた」
私は答えず、俯いた。
「バレない方がおかしいと思ってた。でも不思議と証拠が上がってこない。警察もお手上げみたい。なんか最後までやりきれって言われている気分だよ。がんばれ、やっちゃえって」
足を組み直し、彼女は冷めた紅茶を初めて飲み込んだ。
小さな喉が、ゆっくりと、艶やかに、隆起する。
「先生に伝えておいてくれないかな。卒業まで待って欲しいって」
その時初めて、彼女の声が哀しみを孕んで、微かに濡れていた。
「最後はあいつだからさ。好きな物は最後にとっておくタイプでね。最も悪い奴を最後にやるんだ」
私は胸につかえる言葉を一つ一つすくって、文章を作る。
「本当なの?先生が、全ての原因なの?」
彼女は答えなかった。
「そうだとしても、私にはできない。見過ごすなんてこと――」
もう目を合わせる事はできなかった。
彼女は深い溜息の後、
「――すごく残念なことだけど」
と言って立ち上がった。
私の前に立ち、膝を折って、私の目線の高さに合わせると、もう一度深く呼吸をした。
彼女は両手で私の頭を抑え、唇を重ねた。
あまりにも突然のことに、私は抵抗し、足を動かせる限り動かした。
テーブルの脚が私の抵抗で被害を受け、上に乗っていた二つのカップはソーサーとの間で音を立てて揺れた。
彼女の手は私の首にかかり、気管を押さえる。
私は瞬時に、抵抗することを止める。
声を出そうとしてみたが、掠れるばかりで、言葉にならない。
呼吸が難しくなる。酸素を供給できない体は、苦しいと藻掻いている。
けれども、それと同時に、行き場のない快楽が小爆発を繰り返していた。爆風で粉々になった理性をよそに、私は快楽を享受する。頭が真っ白になっていく。これはこれで良いかもしれない。このまま消えてしまうのも悪くない。終わってしまうことは、嫌いじゃない。
私は緊張して動作を忘れていた両腕を動かそうとしてみる。
その腕で彼女を抱こうと試みる。
私の身長は低く、腕も短いので、それをやり遂げる自信はなかったけれど、とにかくやってみようと思った。
視界は色彩を失い、様々な輪郭は精細を欠いていった。何よりも、瞼を押し上げる力さえ惜しい。
私はどうにか彼女にしがみつく。
思いの外、それは成功して、私は調子に乗って彼女を抱き寄せようと思った。
もちろん、そんな力は残されていなかったが、私は強欲に、それがしたいと思った。最後くらい、自分に我が儘になっても良いと思った。
頬に熱いものを感じる。それは液体だ。
こうちゃ――紅茶だろうか。液体といったら、それしかない。
でも、紅茶は既に冷めているはずだ。
多分、私は死んだ。
私は死んだのだけれども、何故か今、意識がある。
となればこれは、死んだ後の世界なのか。
お決まりの疑問だ。
しかし、私はそれについて考えるのを止める。
目の前を、彼女が歩いているからだ。
私はその背中を負っている。
学校の、帰り道だと思う。
景色は妙に歪んでいて、流動的だ。そこに意識を集中しようとすればするほど、視点を中心に渦が始まって、強いぼかしがかかる。そしてそれに捕らわれていると、彼女の背中が遠くなる。私は彼女を追うこと強いられているようだ。
「今更だけど、進路を変えるつもりはないかな?」
彼女は振り返らず、前に歩きながら私に尋ねる。
その声は、周りの景色が歪んでいるせいか、それにつられて少しくぐもったように聞こえる。
「もう遅いよ。それにお金のこともあるし」
高校三年生で、二学期も終わろうとしている。今から進学するなんて、無謀な話だ。
「浪人してもいいからさ。挑戦すべきだよ。それにお金のことなら、うちにはたくさんあるし」
私は頷かなかった。代わりに訊ねる。
「あなたはどうするの?」
彼女は立ち止まった。
「あ、そっか。復讐ばっか考えてて、進路の事、まったく考えてなかった。どうするのかなあ」
「なによもう」
私は彼女を小突いて、彼女は「あはは」と笑った。しかし、その顔はぼけていて良く見えない。
私達は再度歩き出す。
「でもさ、私は君のことが心配なのよ。真面目だし、努力家だからさ。こつこつ勉強して、大学行って欲しいんだよね」
「大学行かなくても、どうにか生きていけるよ」
「生きていけるかもしれないけどね、幸せになれないかも知れない」
彼女は続け、
「学歴は一生ついてくるから。それで対人関係が上手くいかないってこともある。待遇なんて、高卒と大卒じゃあまったく違うんだから」
私は少し考えた。
「あなたも大学に行くっていうのなら、私も考える。だってそうじゃなきゃ、説得力がないもの」
彼女は「そうだね」と笑い、表情にわずかな翳りを落としたように見えた。理不尽な程強烈なぼかしの向こうに、確かにそれを感じた。
「できれば行きたいんだけど、それはちょっと難しいんだよね」
彼女はもう一度立ち止まって、「あれを見て」と向こうを指差した。
その方向には黒い渦がある。
放課後の夕闇より、一際濃い、真夜中の黒だ。目を凝らせば、そこに星の瞬きが見える。
「高一の夏休み、陸上部の合宿中でね、やられちゃったのよ」
闇の中に、人の輪が見える。輪の中には人が倒れていて、それが彼女だと気付くには時間がかからなかった。手首の傷は、ついていない。
「その後、女の子の友達と喧嘩になってね、目の前で手首を切られたの。凄い勢いだった。ついた血がね、なかなか取れないの。錯覚なんだろうけど、匂いも残ってさ」
その時の光景もそこに写し出されている。暗くて良く分からないが、二人の少女が口論した後、突然一人の少女が突然包丁を取り出し、自らの左手首を切断する勢いで包丁を押し当てる。
相手の少女はその傷口を止めようとするが、それを拒み、何かの短い罵声を浴びせ、そのまま走って消えた。取り残された少女は、彼女の血で全身が赤く染められていた。
「この二つの事件の関連性を知っている人は少ないのだけれど、結果としてそれは良くなかった。私はある人に脅され、その関係者を消していくことになった」
闇は次第に夕方の太陽を飲み込んでいって、辺りはいつの間にか夜になっていた。
血まみれの少女は、私を見つける。
「逃げて」
そう叫んでいるが、その声は遙かに遠く、私に強制力を与えない。
隣に立っていた彼女が、私に言う。
「ま、大学に進学して欲しいってこと。君が行くなら、私も行こう」
ぼかしがかかっていた彼女の顔は、いつの間にか明瞭になっていた。
しかしそれは彼女の顔でなく、私がよく知っている人の顔だった。
もう一度、彼は云う。
「君が行くなら、私も行こう。舞台は用意してあるよ」
目覚めるとベットの上だった。
上半身を勢いよく起こす。
丁寧にも、直後にモーニングベルが鳴る。
朝七時。
何事も無かったかのように、私は朝を迎えている。
首筋に手を当ててみた。
意識を失う前の記憶を呼び戻そうとするが、頭が芯の方からぼうっと熱く、その熱で記憶は融解してしまったのか、輪郭がはっきりしない。ただ昨日があって、彼女と会話して、それで終わり。それで終わりだ。
とりあえず私は朝の支度を始める。
顔を洗い、ご飯を食べて、歯を磨いて、髪をセットしなきゃいけない。時計曰く、平日らしい。となると、私は学校に行かなきゃいけないのだ。
私は食卓に移動し、執事さんの姿を探すが、見つけることはできなかった。
いつもは二人分用意されている食事が、今日は一人分になっている。もっとも、彼女が朝食を食べているところは一度も見たことはない。
普段と違う様子ではあったが、平常通り学校に登校する為にも、私は朝食を済ませ、顔を洗って、歯を磨き、制服に着替え、髪を整える。ついでに、彼女から教えて貰った簡単な化粧も施す。予定通り、出発まで十分ほど余裕ができる。テレビをつける。ニュース番組にチャンネルを合わせ、新聞に目を通す。
私はそこに、九人目に犠牲者の名前を見つける。
思わず外に出た。
季節を確認する。
昇降口を上がり、靴箱にローファーを入れていると、ざわめきが聞こえてきた。
掲示板の前に生徒が群がっている。
九人目の被害者についてのことだろう。
私は何故かこうやって生きていて、代わりに誰かが死んでいる。
罪悪感は無かった。しかし、生きている、という実感も薄かった。
人をかきわけて、それを確認する気力は出ない。
酸素の足りない頭で、のそのそ足を前に出し、教室に向かう。
鞄を机の上に置き、座る。自然と彼女の席に意識が収束する。
まだ来ていないようだ。
無理もない。昨日、あんな事もあったし、私はどんな顔をして彼女に会えば良いのか分からなかった。できれば、昨日の事はさっぱり忘れて、いつもの笑顔で声をかけて欲しかった。そうしたら私も、何事も無かったかのように笑って、今まで通りの関係を続けることができる。
授業が始まり、昼休みが入り、また授業が始まって、何事もなく一日が終わった。
結局、彼女は一日中欠席で、私は内心ほっとしていた。時間が経てば、昨日の感情の昂ぶりも幾分かは抑えられているだろうと、自分自身に言い聞かせた。
私は席を立って、飾り気のない鞄を持って帰路につこうとした。
学級長が私に何かを言おうとして、すれ違い様に立ち止まったが、私は早々と立ち去る事にした。人とまともな会話ができないような気がした。
「集会、出ないのかい?」
教官室の前を通った時、先生に呼び止められた。
私は何のことだか分からないと言って、逃げようとした。
「おいおい、そりゃないだろう。校内放送もしたし、掲示板にも告知したぞ」
私は首をかしげた。今日は何も聞いていないし、見ていなかった。
「まさか。ショックが大きすぎたのか――」
先生は顎に手を添える。悩んだり、考えたりする時の癖だ。
「そうだとしても、現実は見ておかないとな」
そう言って、先生は一瞬で私を抱えて、移動を始めた。
「あ、歩けますよ。――歩きます」
先生は「へえ」と生返事をして、とんとんと階段を降りていった。その度に私の全身が上下に大きく揺れる。
通りがかる後輩達に凝視され、私は恥ずかしくてますます何も考えられなくなる。
昇降口前の掲示板の前に私は下ろされ、一枚の張り紙を見ろと命じられた。
そこには九人目の犠牲者の名前があって、その件で放課後に集会があると書かれている。
「それで、それは今日の午前八時に張り替えたもので、お前に見せたいのは、昨夜未明から貼られていたこっちの方なんだな」
先生は四つ折りにしたコピー紙を私の前に広げる。
「この事も含めて集会を開こうとしててね。じきに報道にも流れて、彼女が犯人ということになる」
どうして?
私は呟く。
どうして、そういうことになるの?
私は先生の胸を叩く。
どうして、どうして?
「彼女はまだ発見されていない。でも、直に発見されるだろう」
先生は私の小さな暴力を、微動だにせずに受け止める。
「それは君の手によってだ。僕たち大人では見当はつくが、それをしようとは思わない。君にやって欲しいんだ」
気が付けば私は走っていた。という事はなく。
私はふらついていた。そして、今にも倒れそうだった。
どこに行けば良いか分からなかったし、今朝から頭に血が巡らず、思考の方向も定まらなかった。
私は一本の桜の木に、半ば投げ出す形で身を預ける。衝撃で剥がれ落ちた樹皮がスカートの上に落ちる。
“過去九人の失踪事件の犯人は私です。
ごめんなさい。
新しい命の下で、贖罪します“
最後には彼女の名前。綺麗な字だった。
新しい命。
私はそれについて考える。
新しい命だ。
膝の上に零れた、老衰して乾燥した樹皮を手にする。
育てるのが難しい。彼女はそう言っていた。
新たに宿す命は、彼女にかけられた容疑によって、一つずつ、確実に奪い去られていったのだ。
もしかしたら、それは桜に限ったことではないのかも知れない。
彼女が生み出そうとした全てが、誰かに監視され、壊されていったのかも知れない。
分からない。
何故、そうなってしまうのかは分からない。
けれども、一つだけ確かな事がある。
彼女は犯人ではない。
彼女に殺されそうとした記憶は消えない。
けれども、私は彼女を信じている。彼女は犯人ではない。
よく考えれば、簡単なことだった。
私は立つ。
そして今度は、しっかりと力を入れ、歩き出すことができた。
その速度は次第に大きくなり、ついに私は走っていた。
息は切れ、肺は大きく膨らんでは縮み、額から流れ出る汗を袖で拭った。
どこだろう。
私には確信があった。
彼女が居る場所。それは、一つしかなかった。
私は体育館の方へ走った。
体育館の中からは教務主事の声がスピーカーを通して聞こえてくる。
探す。探す。
それは、あるはずだった。
新しい命が、そこにあるはずだった。
私は酸欠でよろよろになりながらも、ついにその一本を見つけた。
そして直ぐに私は掘り返す。
土は軟らかい。
掘り返す。
それは明らかに、何かの目的のために掘られた後のものだった。
よく見れば、土の色には下層の焦げ茶色が混ざっている。
掘り返す。
爪の中には土が入り、剥がれそうになる。構わない。
掘り返す。
そして私は、その髪に触れる。
柔らかく、光沢のある美しいそれは、私の触覚よって鮮明に記憶されていた。
穴の周りに盛り上げられていた土の山に私は顔を埋め、込み上げる悲しみに耐えた。
やるせない気持ちに、涙が溢れそうになった。
どうして?どうして?
疑問と怒りが抑えても抑えても暴れ出すが、圧倒的な悲しみにそれは瞬時に溶けていった。
「――さん!」
誰かが私の名を呼んで、肩を揺らした。
私はその場から、動くことが出来なかった。
気が付けば、私によって放り出された桜の苗木が、駆けつけた人々の足に踏まれていた。
遺産相続について話がある、と執事さんが話を持ち出した。
彼女がいなくなってから、二ヶ月が経っていた。
秋の終わり、冬の始まりに起きた。
季節と命のピリオドは、彼女で最後になるのだろうか。
「お嬢様が失踪される前、私に授けて下さいました。今、ご覧になりますか?」
丁寧に差し渡されたその便箋を目にして、私は彼に訊ねた。
「彼女は、知っていたのですか?」
執事さんは目を伏せ、ゆっくりと頭を横に振りながら答えた。
「私は何も存じません。ただお嬢様は黙って受け取ってくれと申しておりました。そして、時期が来たら貴女に渡すようにと。前例はございません」
私は便箋を受け取り、開いた。
預貯金の三分の一を執事さんに与え、その他全ての財産である、土地、家屋、その中にある家財を全て私に相続すること。最後にラメの入ったピンクの蛍光ペンで、「相続税はちゃんと払うんだぞ」と残されている。
私は再度繰り返された疑問符を、ここでも投げつける。「どうして――?」
彼は厳かに言う。
「お嬢様は、常に貴女様の事を気に掛けているご様子でした。それだけです」
学校を卒業して、私は浪人生活を迎えた。
執事さんには辞めてもらい、私は一人でこの館に住むことにした。
先生には、仕事を続けていくという条件の下、許しをもらえた。
管理に関する事務的な手続きの方法は、執事さんから引き継いだ。
彼女が使用していたPCを使い、表計算ソフトでコスト管理を行おうとしたところ、目的が類似したファイルが既にあり、私は驚いた。大雑把に思われた彼女の性格からは考えられない作業成果だった。そして、この館を維持する費用が、以前私が借りていたアパートの家賃の十数倍であることにも目を見張った。総資産から計算すると納得はいくのだが。
ファイルを色々閲覧していると、私のアパートが火事にあった際の事務手続きに必要な書類も、このPCで作成されていた。参考になるなと、感心すると同時に、彼女がそこまで手を回してくれたことに胸が少し熱くなった。
そして私は一つのファイルを見つける。
ファイル名は「桜計画」。
パスワードロックがされており、私はそのパスワードを知る由もなかった。
失敗覚悟で、入力を試みる。
彼女の姓名、harukawatoiro
だめ。入力フォームが揺れる。確かに姓名ではパスワードの意味がない。
とりあえず逆さにしてみる。
Toiroharukawa
もちろんだめだろう。
性、名だけにし、アルファベットを逆さに入力しても受け付けなかった。
発想を変える。
桜、sakura
だめ。母音を省こう。Skr
だめ。英語ではどうだろう。
Cherryblossoms.
Sをとってみたり。
Cherryblossom
だめだ。
あと、他にはないだろうか。
例えば、私の名前。
可能性はかなり低いが、試しに入れてみる。
amakoto
だめ。
naki
だめだ。
私は諦めて、革張りの椅子の背もたれに身を垂れた。
彼女は一体何を思って、桜を植えていったのだろうか。
もう一度考えてみる。
罪を償おうとしてだったのか。
命の交換、それを人間と植物の間で取り交わそうとしていたのか?
その考えがもっともストレートで、納得ができる。
しかし、私の頭の中には、どうしてもひっかかるものがある。
彼女が発見された後、校内にある桜の木の本格的な掘り返しが行われた。
しかし、彼女が殺したといわれている九人の死体は出てこなかった。別の白骨化した死体はでてきたが、かなり昔のもので、彼女が手がけたものとは考えにくかった。
そもそも本当に、彼女が犯人なのだろうか?
未だにその疑問を私は払拭できない。物証は一切無い。けれど、私の感情は彼女が犯人であることを肯定しない。
私は腕を組み、モニタから注意を逸らした。
PCの背後に広がっている書架に、目を移す。
本は読まないと言っていた割には、活字の本はかなり多く、専門書が大半を占めていた。洋書もある。
私は、その中の一冊に見覚えのある小説を見つける。
「海辺のカフカ」
思わず手に取った。表には図書館のシールが貼られている。
この館に越した際、しっかりとしたベッドの枕を与えられたので、私はこの存在を忘れていた。前はこの本の上下巻を重ねてタオルを巻き、枕の代わりにしていた。その固さを今、懐かしむ。彼女は火事場から救い出したそれを、この書架にしまっていたのだ。
本を開く。
それは十五歳の少年と、不思議な力を持った老人の話だ。私が十五歳の時に図書館から借りて読んだ際、強い衝撃を受け、そのまま自分の持ち物にしてしまったのだ。かといって、私がこの物語を通して感じた事や、この物語が何を言わんとしているかは、一切説明できない。自己探求の話。私が言えるのはそれくらいだ。
私はその英題を手元のPCで調べる。Kafka on the share.
まさかとは思ったが、入力してみた。
だめだ。ではこれならどうだろう。
Kafka.
チェコ語でカラスの意味を持ち、フランツ・カフカは「変身」しか読んだことがない。
それが通ったとしたら、また一つ、彼女に対する疑問が増える。
この意図は一体何なのだろう?
私はファイルを閉じて、目を閉じて、暗闇の中で彼女の口元を想像した。
その計画を私が知ってしまった時、彼女がどんな言葉をどんな調子で語りかけてくるか。
今なら、唇の動きから、呼吸をするタイミングの細部まで、全てが描けるような気がした。
私は私の口を開き、それを試してみる。
「そう、執事なんだ。私が愛す彼は、私の復讐を代理した」
一呼吸。
「そしてその計画の一部を知った君は、彼の手によって部屋に火を付けられた。そして館に招かれ、食事に毒を盛られた。君が気付かなかったのは、私がそれを未然に見抜き、防ぐ事ができたから」
髪をかき上げる。毛先は相変わらず軽やかに舞う。
「私は彼に交渉し、彼の罪と私の罪を精算したんだ」
背もたれに全体重を預け、そのまま後ろに倒れた。
頭と背中に強い衝撃を覚え、私は一瞬呼吸ができなくなった。
それでも、それでも私は、想像を続ける。
それは、その行為は、私自身を最も悲しくすることを、誰よりも知っている。
「君の為じゃないよ。全ては彼のため。私は彼を、愛していたから」
気が付くとまた私はどこかに座り込んでいて、目の前の光景を受け入れられずにいた。
辺りは熱く、また、赤い。
何かが燃えているようだった。直近の記憶が呼び起こされるが、それとは規模が違っていた。
館が燃えている。
私はそれを門の所から離れて眺めていた。
「大丈夫?」
前触れもなく、先生が現れる。私の認識能力が低下しているせいだろうか、そう感じる。
先生は私の名前を呼び、「こっちを向け」と何度も繰り返している。
私は仕方なく、先生の声が聞こえる方に身体を向ける。
すると先生は、黄土色の紙袋を私に投げ渡した。
私はまたその運動量に負けて、手入れが行き届いていない白の芝生の上に倒れた。
先生は冷たく言う。
「パンツ、見えてるぞ」
私は咄嗟にスカートで隠し、ずるずると立ち上がった。大丈夫。きっと染みまで見られてない。
「ま、よくわかんないけど、また燃えちゃってるみたいだね」
先生は今にも口笛を吹き出しそうな、上機嫌な様子だ。
「――消防、呼ばなきゃ」
「あ、もう呼んだよ。見つけた時にはかなり進行してたから、全焼は免れないな」
私は紙袋を抱えたまま、またずるずると地面に腰を下ろした。
「君は無事そうだから、安心したけど。電話を貰った時は吃驚したよ。今から火を付ける、なんて言い出すからね」
「わたしが、言ったんですか?」
「そうだよ。覚えてないの?」
私は力なく否定した。全く記憶が無かった。
「ともかく、無事で良かったよ。まだあの事件から起きてから日が浅いからね。君をもう少ししっかり監視しておいた方が良かったのだけれど。忙しかったからさ」
先生は熱さのせいか、頭を掻きながら、続ける。
「何か、持ち出したりしていないかな。館から」
私は再び首を横に振った。何も覚えていなかった。
彼女の「桜計画」を見て、また泣いた。
そして、泣き疲れて、彼女の使っていたベッドに倒れた。
その後、気が付いたらこの事態である。
「たとえば、そのポケットに入ってるやつ、何かな?」
先生にそう言われて、私は初めて気が付いた。
そこには、厳重に封がされた写真が入っている。
「大事そうな封筒に見えるけど、中に何が入っているか、説明できる?」
私は先生に説明する気力が無かったので、そのまま先生に渡した。
先生は封を切り、写真を一通り見た後、顎に手を添えた。
「日時から推測して、彼女が暴行を受けた事件のものだね。これは酷い」
写真を私に返す。
「君の今の状態から見て、これは僕が持っていた方が良いのだけれど。ちょっと怖いから、君に返しておくよ。大事だったから、無意識にこれだけ持ち出したんだろう」
そして私は気付く事ができない。その写真の数が一枚だけ減っている事に。
「ま、こんな状況で言うことじゃないけど。次の事件のファイルを見ておいてよ。きっと元気が出るよ」
そう言って、先生は立ち去っていた。熱いのは嫌だから、と言う。
私は仕方なく、轟音を立てながら崩れ落ちる館を前にして、ファイルを開く。
そこにはもしかしたら、次の私の住居が記されているかも知れなかった。
そうだとしても、感情を動かすことに私は疲れていて、それほど驚く事もないだろうと思っていた。
ファイルのページを投げやりにめくり、時折、飛んできた灰がページに挟まった。
その中の一ページで、私はある写真を目にし、手が止まる。
見覚えのある写真だった。錯覚だと自分に言い聞かせる。
焦げて縮れた睫毛を無視して、何度も目を擦った。その手には涙がついていた。
間もなく、赤焦げた頬にもそれは流れる。
疲れて、感情を切ろうと思っても、それとは無関係に、私は泣きたがる。
泣くことだけが、私の特技のように思える。
いつか見た夢の通りだった。
彼女は生きていた。
彼女は今、大学にいる。
色々な人に騙されながら生きていく。
そうやって未来は開かれます。