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連鎖

 高校卒業前の二月に殺される事が決まった。

 私が、である。

 そこで改めて、未来について考えることにした。

 私個人の未来についてだ。

 しかし、何も浮かばない。

 未来へと続く道を照らす蛍光灯は、一本だ。

 それも寿命間近なのか、薄暗くぼんやりとしている。

 あと一年と五ヶ月という距離感はなんとなく分かる。

 その間に何をするべきなのか、良く分からない。

 霞を掴むようである。

 私は思考を切り替える。

 この時間的制約がかかる前に、私は未来について何を望んでいたのか。

 それを、思い出そうとしてみる。

 しかし、何も浮かばない。

 マズローの欲求段階を引き合いに出してみる。

 生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己表現。

 全て、クリアしている。

 死すら私の欲求を妨害していない。

 そもそも私は、何も望んでいない。

 そういうことだった。

 私は、再確認するようにそれに気付いた。

 大きく息を吸い込む。

 小さく胸が膨らむ。

「私は、未来に、何も望んでいない」




 高校三年生、十七歳が晩年となる私は、帰路に着いていた。

 私の傘の中には、雨音に溶けるような希薄さで少女が並ぶ。

 笹川雛。私は彼女を雛と呼んでいた。

 艶やかな黒のお下げ髪と控えめな口元が愛らしく、小柄だけれども均整のとれた体つきだ。

 大人しく、徹底的な奥ゆかしさを持つ、私とは正反対の彼女だ。

 私はそんな雛に惹かれ、気が付けばいつも行動を共にしていた。

 私は彼女を羨望の目で追っていて、彼女のようになれればと、何度も願っていた。

「今日ね、彼に話しかけてみたんだよ」

 微風のような小さな声で、雛は言った。

 彼女から話を持ち出すのは意外だという素振りで、私は大げさに驚く。

「……彼は、たしかあの、着メロマニア?」

 雛は頷いた。

 同じクラスメイトで、着メロを趣味で作成する男子生徒がいた。

 まだ「着うた」が出回っていない頃だった。彼はダウンロードできない楽曲の作成を依頼されては、少額の報酬を得て、新たな機種を買い求めていた。

 そんな彼に、雛は惹かれていた。

「作って欲しい曲があるって、お願いした」

「それじゃあ、普通の仕事の依頼と変わらないじゃないか」

 私は雛の横顔の柔らかい曲線を眺めながら、指摘する。

「……そう、なんだけどさ」

「まあ、でもあれか。それ以外の事で話しかけるの、難しいからね。あいつ、取っつきにくいし」

「うん」

「それで、何の曲をお願いしたの?」

「それがね、これなの」

 彼女は鞄からCDを取り出し、私に見せた。

 クラシックのようだが、音楽に詳しくない私には良く分からなかった。

「この第二楽章がね、どこにもないの」

「でも、考えてみれば、雛って着信音設定してないよね」

「うん。携帯電話の音色って、不完全だから。聴いてて気持ち悪くなるの」

「それはまた高尚な理由」

 雛は困ったように微笑みながら、CDを戻した。

「それでどうしようね。この後、どうやってアプローチをかけていくか」

「アプローチなんて、そんな……。自然な成り行きに任せたいよ」

 私は悩ましく額を抑えて、苦し紛れにアドバイスする。

「うーん……雛もあいつも、奥手だからね。なにかバイアスかけないと、絶対このままで進展ないよ」

「うん……」

「まあ、そのために私がいるんだからね。一肌脱ぐよ」

「えええ、いいよ、そんな」

 そして私達は雛の家の前に着く。

 雛は遠慮がちに、私に傘を持たせる。

「忘れないでね」

 私は「サンキュ」と返して、それを受け取る。

 雛は綺麗に畳まれたシルクのハンカチーフを広げて、頭に乗せる。

「それじゃあ、また月曜日」

 私は彼女に手を振って、玄関に消えていく後ろ姿を見送った。

 傘を強く握る。

 雛に月曜日は来なくて、私はこの傘を返すことはできない。

 彼女の晩年は、私より早い十五歳である。




 事の発端は、一つの暴行事件だった。

 高一の夏休み、第二週目の金曜日。

 灼熱の太陽が西の空に落ちかけた午後、私は陸上部の練習を終え、プールで全身を解していた。

 休日の前とあって、開放されたプールには誰一人いなかった。

 誰にも干渉されない流体の中、身体から力を抜き、私は水の音に耳を傾けていた。

 羊水の中をイメージする。胎児に戻っていく自分の姿を描いていく。

 それは数少ない私の趣味の一つだった。この音を聞くために、水泳部に籍を置いていた。

 その音が、男子生徒達の忍び笑いで遮られた。

 私は閉じていた目を開き、プールサイドに注意を向けた。

 男子の数は七人で、そのうちの二人が唯一の出入り口を塞いでいた。

 忍び笑いが下卑た笑いに変わる。

 そして私は、蹂躙される。

 プールの中で三人が私に入った。

 彼らは恍惚としていた。

 その後、私は制服に着替えさせられた。

 私はその時ようやく、悪い趣味だなと思った。

 合宿所に置いていた、私の制服だった。彼らはそれを持ってきていた。

 プールの管理棟の裏に抱え込まれ、私は草むらの中で再度犯される。

 時折、茜色のそよ風が思い出したかのように産毛を撫でた。私はその匂いを確かめるように鼻から深い呼吸をする。彼らの息切れが子守歌になり、眠気すら覚える。

 口元に貼られたガムテープが剥がされた頃には、既に陽は完全に落ちていて、私は放心していた。

 力のない脅し文句を吐き捨て、彼らは逃げるように去る。

 その後、私は立ち上がろうとしたが、上手く足に力が入らず、地面に身を預ける形になった。

 その様子を密かに覗いていたのか、彼らの中の一人が、辺りを気にしながら私に駆け寄ってきて、手を差し伸べた。

 私はその手を拒む理由を見つけられず、彼の補助を受け入れた。

 彼は言う。

「早くパンツを上げた方が良い」

 私は力なく笑って、

「拭くやつ、持ってない?」

 彼は首を横に振る。

「気持ち悪いけど……仕方ないか」

 のろのろとショーツを上げていると、彼は草に埋もれていたブラジャーとシャツを見つけてきて、私に着させた。

「意外だったな」

 彼はつぶやく。

「私が処女だったってこと?」

「最初の奴は何も言わなかったし、水の中だったから分かり難かった」

 私は緩慢な動作でボタンを閉めていく。

「夕焼けに水面が照らされていて、橙色に染まっていた。その中で、赤い筋が無軌道に揺れていているのを見たんだ。最初、それが何か分からなかった。煙のように見えたんだ。もしかしたら、それは俺にしか見えなかったのかも知れない。お前の、感情が具現化されたようだった」

 真剣に語る彼に、私はついに吹き出してしまった。

「面白いこと言うんだね」

 私は続けて、

「けどね、誘導尋問だよ」

 彼は首を傾げた。

「処女膜が破れて血が出るって思われがち。あんな乱暴な入れ方されたら、処女じゃなくても血がでる場合があるんだよ」

 私はプールを囲うトタン板に背中を預けて、気怠げに息を吐いた。

「それは後付のような言い回しに聞こえるな」

「まあ、そんなことはどうでもいいの」

 彼は背中を向ける。

「痛くなかったか?」

「大したことはないよ。痛いのには慣れてる」

 とは言いつつも、一度診察をしてもらう事を考えている。プールの中はまずい。ヒリヒリと、今でも膣の中で激しく炎症が起きている。

 彼は離れる。私は云った。

「……雛」

 彼は立ち止まらない。

「雛には何も言わないから」

 速度も落とさない。

 一度も振り返らなかった。

 彼はその後、雛の自殺によって姿を消した。

 連続失踪事件の最初の被害者になった。




 雛に返せなかった傘をさして、私は歩いていた。

 雨は止む気配を見せず、一向に降り続けている。

 彼女は、今日のような静かな雨の日の放課後に現れる。

 彼女の傘を差して帰ろうとすると、いつの間にか隣に並んでいる。

 俗に言う、霊というやつだろうか。

 彼女はある空間に記憶されてしまったかのように、姿、声を全く変えず、その場で再生される。

 私はその映像に合わせて、一緒に歩き、話し、お別れをする。

 彼女の記憶は、彼女が死んだ一昨年の夏で止まっているが、会話は日によって変わる。

 口数が少ないので、何も喋らないまま別れが来る時もある。大抵は私から話題を提供する。

 その話題が、彼女の死後の出来事であっても、彼女は相槌を打つ。

 まるで、今も彼女が生きているような錯覚をする。

 死んだのは私じゃなかったのか?

 時々、そんな気がしてならない。

 むしろそうであって欲しいとまで思う。

 雛が生きて、私が死んでいたら、どれだけ多くの人が喜ぶのだろう。

 私は傘を閉じた。

 雨を全身に受ける。

 そして私は、軽く屈伸運動を行う。アキレス腱を伸ばす。

 濡れた髪の毛が肌に張り付いたが、無視する。

 私は走り出した。

 目の前は病院沿いの一本の大きな通りとなっていて、その長さは一キロメートルを超える。

 私の生前に流行りだした感染症の、隔離病棟だ。

 それは四方約一キロメートルの塀で囲まれていて、千人は収容できそうな病棟が四つ並列している。その中にはおそらく、病院を機能させる各専門棟があるはずだが、高さにして三メートルの塀は、その詳細を覆っている。

 アスファルト上の水溜まりを、固いローファーが弾いていく。

 跳ねる雨水が、容赦なく白のソックスに染みを作っていく。

 私は加速していった。

 生温い風を感じる早さだ。

 手に持つ、傘、鞄が空気抵抗によって邪魔になる。

 もっと早く走れる。

 この状況下でなかったら、私はもっと早く走る。

 理由はない。

 走りたいから、走るのだ。

 真っ直ぐな道がある。

 走ることができる、道がある。

 目の前に道からあるから走るように、明日があるから今日を生きる。

 ふと思う。

 未来とは、そのような、ごく単純なもの。

 明日を落としてしまったら、未来になど意味は無い。

 その時、私は目の前の道を見失った。

 視界が急激な速度で変化し、一色に染まる。

 均一な灰色だ。

 それが空だと分かるまで、少し時間を要した。

 転んだようである。

 上半身を起こし、鞄と傘を確認する。

 鞄はしっかり手に握られていて、傘は明後日の方向に飛んでいたが、折れてはいなかった。

 私は安心する。

 そして、怪我がないかどうか確かめる。

 両肘両膝を軽く擦りむいてはいるが、大した傷ではなかった。

 私は立ち上がりながら、泥で汚れた全身を見て、息を吐いた。

 汚れる事は嫌いじゃないが、何もない道で転んでしまったのは屈辱的だった。

 辺りを見回す。

 もしかしたら、私が転んでしまう要因がそこにあるかも知れなかった。

 そこで、私は、彼女に再会する。




 雛は私のベッドの上で、唇を紫に変えたまま震えていた。

 私は執事から薦められて着替えはしたものの、彼女が心配で、側から離れられなかった。

 頭の上にタオルを被りながら、私は彼女の手を握る。

「雛様に似ていらっしゃいますね」

 執事がタオルと冷水の入った容器を持って、部屋に入ってきた。

 私はそれに頷くことはせず、黙って彼女の顔を見つめていた。

 額の上のタオルを、執事が取り替える。

「年齢も、お嬢様に近いようです。雛様が生きておりましたら、ちょうど、このようなお姿だったのではないでしょうか」

「……そうね。そうかもしれない」

 執事は、彼女の自殺の理由を知らない。

 彼女の両親ですら知らない筈だ。

 何故ならそれは、私が殺したからだ。

「お嬢様が彼女を担いで帰宅なさった時には、本当に吃驚致しました。お嬢様も大変汚れていらっしゃるようでしたし、彼女も怪我をされていましたから」

 執事は毛布を上げて、彼女の左太股に巻かれた包帯を確認した。

 出血は多くなかったが、拳の大きさほどの痣ができていて、その中心には皮膚を破ってできた窪みがあった。

「……誰かに、追われている。そんな気がしない?」

 私の問いかけに、執事は黙って長い瞬きをした。

「病院の側で彼女が倒れていた。足には怪我をなさっている。もしかしたら、あの病院から抜け出して来たのかも知れません」

 ハンガーに干された、彼女の衣服に目をやる。

 それは患者衣には程遠い、至極一般的な女性の普段着だった。

 デニムのミニスカートに、フリルの入った黒のブラウス。そして白のミリタリーコート。秋にしては厚着だ。雛の趣味とは少し異なる。

「冷血病、って言うんだっけ?あそこの取り扱っている病気」

「はい。今から二十一年前に発生した感染型の進行性低体温症を、あの病院では専門に扱っています。感染方法に様々な説がありますが、一番有力なのは空気感染です。主に、十代の少年、少女を中心に発症しているようです」

 私は彼女から手を離し、膝の上に手を組んだ。

「確か、段階的に体温が低下していって、成人前後には中枢体温が二十五度を切るんだよね」

「そうです」

 執事は厳かに頷いた。

 そして彼女の体温を測り終わった彼は、無言でそっと、私にその温度を見せた。

 私は誰にも聞こえないよう、独りで呟く。

「それじゃあ、私より長生きできるね」




 翌日の朝、彼女の意識は戻っていた。

 部屋に入ってきた私を見て、彼女は毛布で顔を覆う。

「取って食べたりしないよ」

 私は執事に渡された朝食を、ベッド脇にある床頭台代わりの簡易デスクに置いた。

「寒くない?」

 私は椅子に腰を下ろす。

 掛け毛布からひょいと顔を見せた彼女は、ふるふると首を振り、私と目を合わせた。

 その目もやはり、雛に似ている。

「ここ、どこですか?」

 遠慮がちだが、意志の込められたその明瞭な声に、心地良さを感じる。

「私の家。あなたが倒れていた所から、それほど離れていない」

 私の言葉の意味が分かったのか、彼女は少し不安げに肩を潜めた。

「でも、大丈夫。警察にも病院にも連絡してないから」

「……分かるんですか?私の病気のこと」

「さあね。私は何も知らないよ。それに、あなたの名前もね」

 彼女は瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

 その息は、その青い顔色のせいか、細く見えた。

「……マキ。君高舞生」

 私は反芻する。

「マキちゃん。マキさん、なのかな。おいくつなの?」

「十八、です」

「そっか。年、同じだね。私はトイロ。十の色と書いて、トイロって読むの。昔のあだ名はジュッシキだったけど、今じゃ誰も呼ばないな……。性は春川」

 本当は十六歳だ。留年か、留学したことにしておこう。

「じゃあ、トイロさん、って呼べば良いのかな?」

「あ、いいよ。年が同じなんだし、お互い呼び捨てにしようよ。その方が楽だし」

 私は笑って見せた。

 彼女もぎこちなくではあるが、笑う。

「足、痛くない?何かで撃たれたみたいだけど」

「うん。ちょっと痛むかな。動かすことはできるから、大丈夫だよ」

「立てそう?」

「さっき歩いてみたけど、平気だった」

「そっか」

 私は忘れないうちにトイレの場所を教えておく。そして執事の事も紹介しておく。

「両親はいないから、彼に色々面倒みてもらうことになると思う。私も頑張るけどね、炊事、掃除、洗濯は期待できないよ」

「それって、全部だよ」

 そうだね、と頷きながら、相性は悪くないなと思った。

 彼女が雛では無いことを、自分に言い聞かせる。




 舞生の顔色が良くなって、食事もしっかり摂れるようになった。

「いつまでも、ここにいてはいけないよね」

 舞生がそう呟いたのは、彼女を匿って一週間後の夜だった。

 私は彼女の側で絵を描いていて、一つは学校に埋めている桜の抽象画だった。もう一つはある少女の肖像画である。

「そうかな?外は危険でいっぱいだよ」

 私は、私が通う学校で連続失踪事件が起きている事を簡単に説明した。

 舞生は少し怯えた様子で、

「そんなことが起きているんだ……」と呟いた。「けど、お世話になり続けるのは悪いよ」

「私は迷惑じゃないよ。それに、舞生がいた方が楽しいから。遠慮しないで」

 舞生はベッドから立ち、窓際に立った。

 レースのカーテンの隙間から、外を眺める。

「十色、私ね」

「……なに?」

「やらなきゃいけないことがあるの」

 私はデッサンを続けながら、彼女に答える。

「そのために、病院を抜け出してきた」

「……そう。危険を覚悟だった。関係のない人に感染させてしまうかもしれなかった」

 明るい声で、

「ま、私に移るなんてことは、全く心配しなくてもいいからね。この通り元気だし」

 私は笑って見せたが、舞生の表情は暗いままだった。

 感染していない根拠は何も無かった。

「だから、次の行動に移らなきゃ、と思う」

 舞生は私を見据えて、

「弟を捜しているの」と言った。

 私は鉛筆を彼女に向けて、「オーケイ」と答えた。「手伝うよ、それ」

 舞生は目を見開いて驚いた。

「そんな……二つ返事なんて、おかしいよ」

「確かに」

 私は不敵に微笑んで見せた。

「逆に怪しいと思われるかもね」

 続ける。

「けれどさ、この通り私は暇なんだし、舞生の病気についても、抵抗は無い。少なくとも、精神面でね。まあ、移ったらそれまでと思ってるから、その点は気兼ねしないで」

「おかしいよ、十色。この病気、最後は死んじゃうんだよ」

 その声には力が入っていた。初めて聞く、力強い声だ。

「死ぬこと自体よりも、何もしないで死んでいく方が恐ろしいよ」

 舞生の目は少し潤み、何かを言おうとする。

「というのは誰でも言えるから無しにしといて」

「え?」

「論理的に言うとね、舞生にはあまり外を出歩いて欲しくないのよ。それこそ、感染者が増えたら良くないじゃん。だからね、舞生は家でじっとしてて、弟さんは私が連れてくる。それで目的を達成したら、病院に連絡する。それで、どうかな?少なくとも、他の人に迷惑はかからないでしょ」

 でも、と舞生は逆接を使おうとする。私は遮る。

「どうせ迷惑がかかるんじゃない。誰がどう生きたってさ。それなら、進んで迷惑を引き受ける人に任せるのが、理に適ってるんじゃないかな」

 舞生は少しの間、胸の中で言葉を転がしていたが、

「……いいの?本当に、いいの?」

 と上目遣いで確認する。

「良くなかったら、こういう提案はしないよ」

 私はデッサンを再開する。できれば、笑顔の彼女を描いてみたい。

「とりあえず、弟さんの名前、教えてよ」

「……」

 舞生はしばらく躊躇っていたが、ついには決心したのか、その名前を述べた。

「……ナオト。君高直人。弟も病院から抜け出しているの。今から、三ヶ月前」




 地下焼却炉で分解した肉体を焼きながら、私は面倒な事になったと思った。

 舞生の弟捜しを引き受けたものの、最初から手がかりが全くなかったのだ。

 独り、また息を吐く。

 まだ焼いていない部位が五つ程残っている。

 乾燥機に入れられた死体は四肢と頭、胴に分解され、胴は三つに切断される。

 焼却炉の投入口に大きさを合わせる為だ。

 分解された部位は紙袋に入れて、保管しておき、順番に焼いていく。

 煙は外には出るが、目立たないよう、敷地内に設けられた複数のパイプから放出される。

 匂いについても問題は無い。敷地外には絶対に漏れない構造になっている。偶然上空を通過したグライダーが少し疑問に思うくらいだろう。最も、上空を通過するのは飛行機くらいだ。

「お嬢様」

 地下室の厚い扉を開けて、執事が私を呼ぶ。

「そのような仕事は私にお任せください」

 私は首を振って、「責任を感じてるから、やりたいの」と断った。

「舞生様の事で、ですか?」

 執事は訊ねたが、私は答えなかった。

 その代わりに、質問する。

「弟の直人君の事、何か分かった?」

「申し訳ありませんが、同姓同名の方なら、まだ病院にいることになっています」

「君高直人は入院中だと」

「その通りです。ですが……」

 執事は白くなった眉に手を添える。

「過去三ヶ月間に住民登録した方の中で、年齢が同じ人間は絞ることができました」

「何人くらい抽出できた?」

「この地域で絞れば、千人前後です」

「それを虱潰しで当たっていくのは、骨が折れるどころか、舞生が灰になっちゃいそうだね」

 私は焼却炉に目を移して、自分の冗談に、つまらないなと思った。

「それに、そのくらいなら警察の組織捜査で瞬時に分かりそうだね。もしその千人の中に弟さんがいたとして、偽名を使っていたとしても、見つかるのは多分、三日もかからないだろうね。だとしたら、彼は本当に病院の中にいることになる」

「ですが、役所に行ってない可能性の方が高いと思われます。捕まっていないことを前提として考える時、警察が持っている情報と我々が持っている情報を比較すると、むしろ有利です」

「舞生がいるからね。容姿はもちろん、行動分析も容易い」

「しかし人手に関しても、振興所に依頼をするという手がありますから、立場に違いはないかと」

「そうだねえ」

 と私は了承して、

「お金を持っていて良かったと思うのは、こういう時くらいだね」 

「失った時に、ますます大切さが身に染みて感じるかと思われます」

「そうでしょうねえ」

 私は手に着いた灰を払いながら、決断する。

「とりあえず、三人ほど雇っておきましょうか。市内に残っている可能性と、市街に逃げた可能性、そして捕まった可能性を検討しましょう」

「承知しました。仰せのままに」

 一礼して、執事が部屋から出ようとした。

 その時、開けた扉を通して、上の階から舞生の声が聞こえた。

 それが悲鳴だと分かった時、私は駆け出していた。

 彼女の部屋に向かう。

 ノック無しで部屋に入ると、彼女は窓際で床に腰を落としていて、口元に手を当てていた。

 私は彼女の肩を抱き、何があったかを訊ねた。

「……彼が、彼が、私を見つけたの……私、逃げなきゃ……今すぐ、逃げなきゃ……」

 私は閉められたカーテンを押しのけ、乱暴に窓を開いた。

 正面に正門が見える。

 その真ん中で、黒のネクタイとスーツ姿の男が立っていた。

 こちらを睨んでいる。

 よく見ると、手には少し湾曲した棒を持っていて、その光沢が一瞬だけ太陽光を反射した。

 刀を納める鞘に見える。

 男の目が私と合うと、彼は驚いたのか、少し身を仰け反らせた。

 そして直ぐに逃げ出す。

 私は「待って」と叫ぶものの、それで立ち止まらない事は分かっていたので、彼を追いかける事にした。

 一階に降り、陸上部時代に愛用していたランニングシューズを装着して、飛び出すように外に出た。

 そして彼が逃げた方向へ、ウォーミングアップ無しで走る。


 結局、彼を捕まえる事ができなかった。

 彼は誰だったのだろうか。

 舞生を知り、舞生を追いかける人物。

 身なりは警官のそれとはかけ離れていたし、年も若かった。私と同じか、それ以下だろう。

 となると、病院関係者になる。病院は政府直営だから、政府が出てきてもおかしくない。

 相手にするには、大きすぎるのかも知れない。

 そう考えながら戻ってきた私を、執事が迎えてくれた。

 逃げようとする舞生を、取り止めてくれたと言う。

 私は礼を言って、彼女の部屋に事情を聞きに行こうとした時、執事から封筒を渡された。

 彼が残したものだと思われます、と執事は意見を添える。

 安全確認の為に、執事が既に封を切って中を確認した。文章は読んでいないという。

 私は固唾を飲んで、それを読み始めた。

 短い一文だった。

“君高直人は天琴家にいる”

 天琴という姓に聞き覚えがあった。

 確か同級生に一人、いたような気がする。

 執事に確認してみる。

「天琴の姓は非常に珍しく、数も多くありません。おそらく、かの有名な絶対治癒能力を持った夫妻の家でしょう。もっと天琴夫妻とその長男は事故で亡くなっていて、長女しか生き残っておりません」

「絶対治癒能力って、一時マスコミに囃し立てられた超能力でしょ」

「事実は目で確認しなければ分かりません」

 そうだね、と私は同意した。

「……とりあえず、天琴家に、舞生の弟さんがいる?」

「天琴家はここから遠くないところにあります。そこに潜伏するのは、距離的に不可能ではないでしょう」

 私は首を傾げる。

「しかし、舞生を追ってる奴がこの情報を提供するなんて、おかしくないかな?そもそも、君高直人だって、舞生と同じで追われる身じゃない」

「確かに仰るとおりです。従って、罠である可能性は十分にございます」

「困ったな。逃げていった彼が何者か分からない以上、こっちは動けない」

「舞生様はご存じのようでしたから、とりあえず伺ってみては如何でしょう?」

「そうするよ。敵の事はなるべく知っておかないとね」

 私は階段を昇って、舞生の部屋に向かった。

 今度はノックをして、許可を取る。

 舞生のか細い声が不安げに響いて、私はドアを開いた。

 部屋に入ると少し薄暗かったので、灯りのスイッチをつけた。

 瞬間、椅子の上に座っていた舞生はビクッと震えた。

 窓にはカーテンがかけられ、鍵が閉められていた。

 私は、彼女を安心させるよう努めた。

「もう大丈夫だよ。私が追い払った」

 私の手を握り、濡れた瞳で問いかける。

「本当?」

「……ええ。話は聞くことができなかったけど、しばらくは来ないよ」

 私は彼が置いていった便箋を開いて、彼女に読ませた。

「罠だとは思うんだけど、行くしかないんだよね」

 彼女の目は、手紙のその一文から離れない。

「あの人の事で何か知っていたら、どんな些細な事でも良いから教えてくれないかな。今度会った時さ、どんな対応すれば良いのか分からないから」

 手が震えている。

「十色って、本当はさよ小夜なんじゃないの?」

「え?」

 舞生の口から知らない名前が出てくる。

「小夜、本当は生きてたんだよね?私を逃がしてくれるために、わざと刺されて……」

「ちょちょちょ、ちょっと待って舞生。そのサヨって誰よ?舞生のお友達?」

「小夜、もういいよ。もう演技しなくてもいいんだよ」

 舞生は私の両腕を掴んで、今度は激しく、私を揺さぶる。

「あかがね銅は私を捜しにきたの。捕まえるとかじゃなくて、きっと殺されると思う。小夜が私に殺されたと思ってるから。銅は復讐しようとしてる」

 ここで私は舞生に落ち着かせる前に、私自身が冷静になろうと思った。

 彼女の話を整理してみる。

 まず舞生は、私をサヨという人物に見立てようとしている。容姿が似ているのだろうか。

 そして舞生は、そのサヨの死に関わった。事件か事故かは分からない。

 最後に、アカガネという人物だ。憶測だが、先ほど私が追いかけた人物がアカガネなのではないだろうか。アカガネは舞生を捜している。その目的は、サヨの復讐を遂げること。

「まあ、私も舞生が本当は雛だったら良いなあとは思うんだけどね」

 と思わず独りごちた。

「お願い小夜!銅に会って!」

 彼女の懇願が、他人事のように頭に響く。

「私、このままだと、直人に会う前に殺される……」

 力んだ両腕から薄く青い血管が覗け、生きものだなあと、ぼんやりと思った。

 とりあえず、私は返事をする。

「わかったわかった。とりあえず、弟さんのところに行ってくるよ」

 その言葉を聞いて安心したのか、舞生の拘束がやっとで解かれた。

「舞生はずっとここにいるんだよ。外に出ちゃだめだからね」

「うん」

 私は彼女の肩を軽く叩いて、部屋を後にした。

 廊下で待機していた執事に簡単に説明した後、私は自分の部屋に戻り、外出着に着替える。

 突発的な運動に備えて、動きやすい服装で揃える。

 デニムのハーフパンツにノースリーブを着て、上から薄地のシャツを羽織る。少し寂しいので上からアンシンメトリーのスカートを被せるが、ランニングシューズとの相性を考え、止める。代わりに、派手で幅広いベルトでポイントを補う。アクセサリも忘れない。リングはいざとなれば武器になる。

 バッグを持ってロビーに出ると、執事がスタンガンと地図を持って、私を待っていた。

「天琴家までの道のりと、緊急時のスタンガンです」

「サンキュ」

 私はそれを受け取って、礼を言う。

「電話をかけてみましたが、無言で相手側から切られました」

 そっか。靴紐を固く結びながら、応える。

「代わりの者を使わせるという話なんだけど、私じゃなきゃダメみたい。さっきの彼、私と一度会わなきゃいけないみたいだから」

 執事は「承知致しました」と言って、頭を下げる。

 話が早くて、本当に助かる。

 私は館を後にした。




 直線距離は近かったが、車は使わない。地下鉄で一回乗り換えて、最寄り駅に着く。

 お金があっても、楽はしたくないのだ。

 天琴家の前に立つ。

 夫婦で一財産を稼いだとは聞いていたが、その住まいは思いの外質素だった。一軒家ではなく、老朽化した木造アパートの一室に、天琴と書かれたネームプレートはあった。

 私はインターフォンを押す。マイク、スピーカーは無い。押した後に、それがただのベルであることに気が付く。

 二度目の呼び出しで、中から物音が聞こえてきた。

 私は少し身構える。

「……だれ?」

 それは男の声だった。鼻にかかった声のせいか、少し幼さを感じる。

「春川です。天琴さん、天琴ナキさんはいらっしゃいますか?」

 直ぐに反応は無く、中から男の声が聞こえてくる。誰かに話しかけているようだが、男の声しか聞こえてこない。

「ナキとは、どんなかんけいですか?」

「同級生です。少しお話したいことがあって、お電話を差し上げたんですけど、会話ができなくて。それで直接お訪ねしたんです」

 ドアが開いて、中から少年が現れる。

 少年といっても、彼もまた、私と同じくらいの年齢に見える。

 短髪で精悍な顔立ちではあるが、目にはどんよりとした、頼りない光があった。何かを失い、意志力に欠けたような、諦めに満ちた雰囲気を感じさせた。

 私は警戒する。

「……なんのはなし?」

「ここの住居人について、です。失礼ですが、どちら様でいらっしゃいますか?」

 彼は私の言っていることが良く分からないのか、困った様子で息を吐いてから、ゆっくり答えた。その声にも、やはり力が無い。

「……よくわからない」

「どういうことです?あなたの名前をお聞きしたいんですが」

「……わからない。おぼえてないんだ」

 はあ、と私は仕方なく相槌を打った。

「でも、ナキがしっている」

 変な話になってきたと、私は内心笑う。

「では、ナキさんとお話させて貰えませんか?」

「……ちょっとまって」

 彼はドアを閉め、再び誰かと相談し始めた。しばらくして、再度ドアが開く。

「なかにはいって」

 私は軽く挨拶をして、部屋の中に入る。

 まず始めに異臭が鼻を突いた。

 複数の匂いが混ざっているが、分解していけば、その一つは食品の腐った匂いだ。学校のゴミ集積所で近い匂いを感覚したことがある。

 そして、この異臭を最も異臭たらしめているのは、もうひとつの要素だった。

 ワンルームの奥に敷かれた布団と、その周囲に散らばったティッシュペーパー。それらから、汗と精液の濃厚な刺激臭が漂っている。プールの消毒液を濃縮して、それに長期間放置して腐らせた食料の上にまぶしたようだ。窓は開いていない。

「天琴さん?」

 彼女は布団の上に座って、肩紐の外れたキャミソール姿で私を見つめていた。

 スケッチブックを抱えている。片手には黒のマジックペン。

 もしかしたら、と思った。

 校内で広まっていた噂が、今更になって記憶に蘇ってくる。

 彼女がスケッチブックのページをめくる。

“こんにちは。かみかわさん”

 それは可愛らしい丸字だ。

「もしかして、本当に喋らないの?」

 彼女は小さな顎を、縦に落とした。

「……そっか。だから電話に出られなかったのね」

 噂は本当だった。三ヶ月くらい前から立ち始めただろうか。

 彼女は喋らない。喋られないのかも知れないが、事実、彼女は喋らない。

「ちょっと息ができなくて、窓を開けて欲しいのだけど、お願いできるかな?」

 彼女は首を横に振った。

 ナキの手を煩わせない為か、隣に立っていた彼が代わりに説明する。

「よくわからないけど、かくしたほうがいいみたい」

 その為に窓を開けないという。

 気候は晩秋で、温度はそれほど高くないが、換気の足りない空気はあまりにも不快だった。

 私は一度外に出て深呼吸をした後、もう一度中に入る。

“どうしたの?”

 彼女が書き足したものだ。会話を予測して書かれたものではないようだ。

「ちょっと酸素が足りなくてね」

 私は本題に入る。

「君高直人を知らないかな?」

 彼女は少し悩んで、ゆっくりと書く。

“きみたかなおと?”

「そう」

 彼女は、立つのに疲れて壁に寄りかかっている彼を見て、答えた。

“なおと しってるよ”

 そして彼女が指を差す。

 まさか、とは思ったが、それは当然の帰結だった。

「ぼくが、ナオト。ナキはぼくをそうよぶ」

 摘んでいた鼻から、手を離す。

「君が、君高直人」

 彼は頷く。

「…そう、らしい。けれど、ぼくはなにもおぼえていない。ナキにあうまえのことはなにもおぼえていない」


 話は妙であるが、簡単だった。

 三ヶ月前、天琴ナキは下校中に倒れている君高直人を見つける。

 彼をその場で介抱し、家に連れ帰る。

 そしてこの状況だ。

 君高直人は自分の名前を含む記憶を失っていて、天琴ナキは言葉を口から発することができなくなった。

 彼を助ける前までは普通に喋れたと、ナキは言う。

 私は天琴夫妻が超能力として取り上げられていた、治癒の方法を思い出す。

 手のひらにメスを軽く引き、血を皮膚の外に出す。そしてその血を患者に飲ませる。

 そうすることで、たちまちに患者の様態が快復するのだ。

 折れていた骨は接合し、血管のつまりや悪性の腫瘍は取り除かれる。遺伝子の塩基配列まで変えると噂されたその能力は、様々な検証によって効果が証明されたらしい。


 部屋から出てアパートの錆びた階段を降りようとすると、そこに黒スーツの男が立っていた。

 私と舞生から逃げた、その人だ。

「君高直人の所在を教えたのは、あなたなの?」

 彼は質問には答えず、

「お前は小夜なのか?」

 と逆に訊ねてきた。

 頭が痛い。

 けれども私は機嫌の悪い頭をどうにか動かして、情報を収集することに努めた。

 ここは、演じきってみよう。

「そうね。記憶は不確かだけれど、あなたが誰なのか、私は分かる。あなたはアカガネ」

「お前まで、脳に障害が出たのか……?」

 その声は、本当に心配しているようだった。

 復讐のために舞生を殺そうとしているのだから、小夜という人物は、このアカガネによほど大事に思われていたのだろう。

「……うん。目が覚めたら病院の外にいたの。その前の事はほとんど覚えていない」

 彼は視線を落とした。

「舞生に刺されたお前は集中治療室に運ばれた」

 彼は続ける。

「……五時間くらい経った後だった。お前の担当医が出てきて、小夜は死んだ、と告げた。俺は居ても立ってもいられなくなって、彼から薬を貰って、病院を出る決意をした。君高舞生を殺すために」

 私は平静を装った。

 心の中では、小夜という女性を必死に模造しようとしてみるが、あまりにも情報が少ない。

「……そう、なんだ」ようやく出てくる言葉も、ただの同意でしかない。

「そしてようやく君高舞生を見つけた時、お前が現れた。お前は、君高舞生と一緒にいるのか?」

 私は恐る恐る頷く。

「うん。前の事は、よく覚えていなかったから。彼女がどんな人か、知らなかったの」

「……そうか。でも、良かった。生きていて、本当に良かった」

 そう言って、彼が私に近づいて来たので、私は思わず姿勢を構えた。

 眉が寄せられる。

「……無理も、ないか」

 そんな私を見て諦めたのか、彼は寂しそうに呟いた。

「俺の事は、あまり覚えていないのか?」

 私は肯定する。

「名前だけ。あとは良く分からない」

 背後を確認した。

 いつでも逃げ出せるよう、間合いを置く。

「舞生にお願いされてるの。直人と会わせて欲しいって」

 私は思い切って言い出してみる。

「どうして、アカガネは、直人の居場所を教えてくれたの?アカガネは、舞生が憎いんじゃいの?」

「直人はもう、直人じゃない。別の人間になったんだ」

 彼は説明する。

 天琴ナキは夫妻の力を受け継いで、病気を治す能力がある。

 しかしその能力は不完全で、治癒対象者と自身に副作用を残す。

 君高直人は記憶を失い、天琴ナキは言葉が喋れなくなった。

「直人は一度病院に戻されて検査を受けたが、冷血病は治っていた。絶対治癒を受けた以上、テストケースとしても価値は無い。だから彼はここに放置されている」

 私は胡散臭い話だと思った。

 そもそも万物の病気を治す方法が存在すること自体、非科学的だ。

 ましてやその方法が、血液を飲ませるなんという安易過ぎる。

 臨床実験にて立証されているものの、そのメカニズムが解明されない以上、私は信じることはできない。

「――ナキ。天琴ナキも、どうしてここにいるの?彼女は政府にとって重要な存在のはず」

「それは分からない。力が不完全だからかも知れないし、政府は既にその技術を解明したのかも知れない。いや、既に解析は終わっているだろう。俺が飲んだ薬も、その技術によって作られたんだ」

 そうだ。もしメカニズムが解明され、治癒のメソッドが確立されたら、表沙汰に出すわけにはいかない。それは国家に独占されるはずだ。場合によっては外交のカードになる。

「ともかく、二人は誰にもマークされていない。俺たちは感染を防ぐために、君高舞生を殺す必要がある。いや、そんな建前じゃない。俺はあいつに復讐しなきゃいけないんだ」

「でもちょっと待って」

 私は反論する。

「私はこうやって生きているわけだし、舞生を恨んでない」

「それでも、お前の記憶を奪った。そしてまた、お前に接近して何かを企んでいる。俺はそれを未然に防がなきゃいけない。お前の為にも」

 私には何も言えなかった。

 確かに、舞生が本当は何を考えているのか分からない。

 もしかしたら、冷血病から逃げるために何かを謀っているかも知れない。

 しかし彼女は言った。「弟を捜している」と。

 怪我まで負って、病院から脱出してきた。

 だとしたら私は、なんとしても舞生に直人を会わせたい。

「舞生を、直人に会わせた方が良いよ」

「直人に記憶が無いのは確認しただろう?」

「そうなんだけど、私を殺そうとしてまで、直人に会おうとしたんだもの。舞生はまた抵抗すると思う」

「……抵抗を受けなくて済むなら、そうしたい」

「でしょ?それに、舞生に会わせることで、直人の記憶が戻るかも知れない。その後に、病院に戻ってもらうのも悪くないでしょ?」

 そう言いながらも、舞生が病院に戻ることには大きな抵抗があった。

 まだ一週間しか共に時間を過ごしていないのに、別れを思うと胸が苦しい。

 雛に再会できた。

 人違いであるのは分かっているのに、私には嬉しいという感情が生まれた。

 きっと彼が小夜という女を私に見ているように、舞生もまた、直人を求めているのだ。

 背後からドアの開く音が聞こえた。

 私が振り返ったその時、中から君高直人が飛び出してきて、私達に体当たりした。

 私はその不意打ちに対応できず、階段まで飛ばされた。蹌踉めきながら立ち上がろうとしたとき、近くに階段があることに気付かず、足を踏み外した。

 バランスを失った私の身体は、階段を落ちていく。

 衝撃の連続を背中に受けた後、頭に何かがぶつかり、そのまま私は意識を失った。




 目が覚めると、私は自分の部屋のベッドに倒れていた。

 時間の連続性を取り戻すために、時計を探す。

 日付は変わっていなかった。しかし、君高直人を探す為に出発した時間から大分経っており、三時間ほど意識が無い状態が続いていたことを知る。

 ベッドから立ち上がり、状態を確認する。

 服装はそのままで、怪我をしている部分はなかった。

 触診して見るが、出血している訳でもなく、また捻挫もしていない。

 階段から落ちたところまでは覚えている。頭をぶつけて、気絶した。

 私は頭髪に軽くブラシをかけてから、一呼吸ついて、部屋を出た。

 下から話し声が聞こえる。ロビーの方からだ。

 階段を降りていく。

 会話の内容が徐々に明らかになる。

「……だから、覚えてないよ」

 直人の声だ。舞生の声が反発する。

「いい加減にしてよ、直人。お姉ちゃんを忘れるわけがないでしょう?」

 直人と舞生がソファに座り、舞生は身を乗り出して直人を問いつめている。

 ロビーに降りた私に気付いた執事が、私に声をかける。

「お嬢様……!お体は平気ですか?」

「へいきへいき。怪我も全く無いみたいだから、心配しないで。それより……」

 執事は私から聞かれるまでもなく、説明を始める。

「お嬢様を助けてくださったのがアカガネと名乗る少年で、彼がお嬢様と直人様をこちらに運んで下さいました」

「アカガネは、今どこにいるの?」

「申し訳ありません。行き先を聞く機会を得ぬまま、去ってしまわれました。連絡先も分かりません」

「ま、また会う事になると思うから、彼の事はいいや。それよりも、直人君だね」

「はい」

「記憶が全くないんだって。病院から出た後の記憶しかないみたい」

「舞生様との会話内容から、そのように察しておりました」

「あれじゃあ、舞生も浮かばれないよね。せっかく命がけで弟を追ってきたのに、その弟があの様だからなあ」

 舞生からの質問に疲れ切っていた彼は、投げやりに返答して、何日も洗濯をしていないようなぼろぼろのスウェットパンツの上から、膝小僧を掻いていた。

「お嬢様を突き落とした理由なのですが……」

「うん」

「直人様はアカガネ様を敵視しているようでして、アカガネ様から逃げようとした際、お嬢様にぶつかったそうです」

「あはは。良い迷惑だね」

 私は乾燥した笑いを堪えない。

「敵視する理由は……そうだね。監視されてたからかな?」

「そのようです。一度監視された経験があり、その時に直人様がアカガネ少年を見つけ、衝突したことがあるそうです」

「もう、ほんと、よく分からないね。この状況」

 私はソファーに移動し、舞生の隣に座る。

 激しく直人を質問責めしていた舞生は、その勢いで私に訊ねる。

「小夜!大丈夫なの!」

 ああ、しまった。

 私は舌打ちする。

 まだ、小夜という認識を舞生から剥がしていないことに、面倒臭さを感じた。どう説明しよう。

「めちゃくちゃ平気。それよりも、どう?感動の再会とまでは、言い難い状況だけど」

 舞生は溜息を吐いて、

「まるで人が変わったみたい。前みたいにモノをはきはき喋らなくなったし、態度もだらしなくなって……」

 声がますます暗くなる。

「記憶が無い、というのは一時的なものなんだよね?」

 舞生のその問いは誰に向けられているか分からなかったが、とりあえず私が答える。

「そうだったら良いんだけどね。何かの拍子に思い出すかも知れない」

 場合によっては、一生思い出せないかも知れない。でも、それは言わない。

「直人、小夜だよ。小夜を見ても、何も思い出せないの?」

 直人は私をちらっと見て、

「さっきはごめん」と直ぐに視線を逸らした。

 なかなか悪い印象を与えてくれる。

 私は少し苛立って、

「何も覚えていないようだね。そもそも私は小夜じゃないんだけど」

 舞生が慌てる。

「さ、小夜もね、記憶がないみたいなの。直人と一緒」

「へえ」

 気のない返事をする直人。

「直人君と一緒にいたナキさんのことだけど」

 直人の関心をひいてみる。

「なんですか?」

「彼女とは、助けて貰ってからずっとあの部屋で?」

「うん」

「素晴らしい性生活を営んでるみたいだね」

「な、な、何の話ですか?」

 間に入ってくる舞生を、手で制する。

 直人は額にかかる前髪を邪魔そうにかき上げて、答えた。

「ナキのこと、すきだから」

「それは構わないんだけどね。ちゃんと避妊させてるの?」

「ひにん?なにそれ?」

「舞生さ、弟にちゃんと性教育させた?」

 舞生は顔を赤らめる。

「知りませんよ!そんなの」

「ま、記憶ってここまで落ちるものなのかなって。確認までにね」

「ぼくがなにか、わるいことしてるの?」

「うん。最悪だね」

 私は足を組み直して、

「ナキ、いくつか知ってるの?」

「しらない。どうでもいいよ」

「愛は年齢を超えられるかも知れないけど、経済問題は解決できないと思うな」

 そして私は、今日何度目か分からない溜息を吐いて、

「子供できても、面倒見てくれる人がいないでしょ」

「ぼくとナキでじゅうぶん」

「は?何が十分よ。そもそも、あなた、働いているわけではないでしょう?」

「おかねなら、ナキがもってる」

 語彙力に対して、理解力はあるようだ。私はそれを不自然に感じる。

「両親の財産はあるかも知れないけど、問題はお金だけじゃないよ。子供を育てるのだから、色々な知識とか、人の助けが必要だよ」

 舞生は事実がうまく飲み込めていないのか、唖然としている。

「ともかく、ふたりでやってく」

 私は少し考えてみた。

 もしかしたら、今この場で、未来に可能性を残すのは彼だけなのかもしれない。

 それを考えると、私が口を挟む権利は無いように思えた。

 私は来年にはいないし、隣の舞生だって、二十歳までが精一杯だ。

「舞生、どう思う?」

 私は舞生に意見を求める。

 彼女が、直人に記憶が戻ることを願っているのは明らかだった。

 直人に記憶が戻らない事を前提とした時、舞生はどうするつりなのか。それが聞きたかった。

 残された未来は僅かしかないのだ。

「私は、直人の記憶が戻るまで、諦めない」

 直人をしっかり見据えて、彼女は言う。

「それまで、病院に戻りたくない」

 執事がようやくアールグレイを持ってきてくれて、私はそれを受け取った。

 私は執事に確認する。

「この館の住居人があと二人増えたら、問題無いかな?」

「全く問題ありません」

 眉を少したりとも動かさずに答える彼に、私は信頼を重ねる。

「ねえ、こういうのはどうだろう」

 私は舞生と直人に提案する。

「直人君とナキさん、この館に住む気はないかな?」

 直人はどうして?と言葉に出さず顔に出した。

「舞生は直人君と一緒にいたいと思うし、直人君もナキとは離れられないと思う」

 二人は、躊躇いがちではあるが、確かに頷いた。

「今の状態だったら、舞生が直人君の所に通い詰める事になると思う。だけど、それだと舞生がいつかは見つかって捕まってしまう。それなら、住まいごと移して欲しいと思うんだ」

 直人は反論した。

「ぼくは、いきたくない。ナキだってそういう」

 予想通りだ。

「二人であのまま生活してると、病気になって死んじゃうよ?」

 脅してみる。

「びょうきにはならない」

「生まれた子供は、そうとは限らない。あなた達には生活能力がないもの」

 そういう自分も家事能力がゼロなのは、この際棚に上げておく。

「うちはお金もあるし、家もこの通り広いから、何人来たって平気なの。むしろ賑やかな方が楽しいし」

 直人は考え込んでいるのか、俯いた顔は上に上がらない。

「ナキさんも、きっと助かると思う」

 舞生が加勢する。

「直人、とりあえず小夜のお世話になろうよ。それから、今後の事、考えよう?」

 直人は首を縦には振らなかった。

 代わりに、私と舞生を見てこう答える。

「ナキに聞いてみる」




 そして直人と私で天琴ナキの部屋に向かうが、そこには彼女がいなかった。

 その代わりに、体液が十分に染みた布団の上に果物ナイフが突き刺さっていた。近づいてみると、便箋が貫通されているのが見えた。私はナイフを抜いて、折りたたまれた便箋を開いた。

 “天琴ナキと君高舞生を交換したい。今日の午後十時、向かいの神社にて待つ”

 決闘状みたいだな、と思った。中学の時の頻繁に受けたそれを、苦い記憶と共に思い出した。

 私は窓を開けて、換気がてら、“向かいの神社“を確認する。

 確かにそこには、私の館の敷地と同等の広さを持った神社があった。外灯の数も少ない。表沙汰にできない取引をするには格好の場所だ。

 直人が「どういういみ?」と私に聞いてくるが、私は何も答えない。

「ナキはどこにいった?」

「知らないよ」

「おまえが、ナキをかくしてる?」

 それは面白い言いがかりだ。

「そうかもね」

「けど、よく考えてみなよ。私がナキをさらって、何の意味があるのさ?」

「いみなんかない。ナキがほしいから、ナキをかくした」

 直人は鋭い目で私を刺す。

「あ、そっか。ナキが欲しい理由、私にはあるんだ」

 ナキの絶対治癒能力。それを使えば舞生を治せる。

 今目の前にいる直人が、現に治ったらしいのだ。

「ナキを捕まえて、舞生に血を飲ませる」

 窓枠に腰を乗せて、腕を組む。

「私には無理だよ。ナキを連れ去る時間はない。ナキに何らかのメッセージを残して、後でさらうという手もあるけど、私には彼女への連絡手段が無いよ」

 胸元の栗色の巻き毛につい指を絡める。私が考える時の癖だ。

 このような事態にならなければ、もしかしたら私はナキを攫っていたのかも知れない。

「普通に考えてみなよ。あのアカガネってやつだよ。ナキを誘拐したのは」

「アカガネ?」

「ああ、そうだよ」

 アカガネ、アカガネと直人は繰り返しながら、部屋の周りをぐるぐると回り始める。

 直人の足で押し退けられるカップラーメンの容器と割り箸の山が、汁をこぼしながら崩れた。

 私は鼻孔を塞ぐ。

「あいつはどういうつもりかは知らないけど、やはり舞生に復讐したいんだろう。小夜の記憶を殺された。おそらく、そんなところか」

「アカガネは、どこにいる?」

「こっちが聞きたいよ」

 体が重くなる。思考するのが億劫になる。

「とりあえず、家に戻るよ。ちゃんと作戦を練っておこう。今午後五時だから、あまり時間ないよ」

 事態の展開は早く、明らかにおかしな方向に転じていた。

 一日の出来事にしては退屈しない内容だけれども、私は緊張感に欠けていた。

 つい欠伸が出る。

 現実味に欠けているせいだろうか、茶番のような気がしてならないのだ。

 執念の籠もった眼差しで前を歩く直人を余所に、私は止まらない欠伸をかみ殺した。

 私達は舞生が待つ館に戻った。

 そして直人は、記憶を取り戻した。




 約束の時間が来て、私達は五分前にその場に揃った。

 私と舞生、直人の三人だ。

 既にアカガネは境内に居て、ナキの手を握っていた。もう片方の手には、いつも持ち歩いていると思われる、鞘のようなものがあった。丁寧にも鍔や柄の部分も覗ける。

 ナキの姿を見て、直人が「ナキ!」と叫んだ。

 その声に応じて、ナキも「なおと!」と涙混じりに叫ぶ。

 私はやれやれ、と思った。

 たった数時間しか離れていないのに、二人にとってそれは大きな苦痛であったようだ。

「アカガネさーん。舞生の事情で警察呼べなかったけどさ、これは犯罪だからね」

 小夜を演じるのも煩わしかったので、素の姿でアカガネを挑発する。

「とりあえず舞生を貸すからさ、あとでちゃんと返してね」

 私は怯える舞生の手をとって、アカガネに渡す。

 舞生は言われるままにアカガネの前に立つ。

 動かないアカガネをよそに、私はナキを連れ帰る。

「……アカガネ君。……ごめんなさい」

 舞生が口を開いた。

 直人の手に戻ったナキが、嬉しそうに胸に飛び込む。

「……ごめんなさい」

 繰り返す。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 舞生はアカガネの前にしゃがみ込んで、両手で顔を覆う。

 アカガネは彼女を見下ろしているが、その目は虚ろだった。

 泣き出した舞生を見て、私は二人の間に入る。

「小夜は死んだよ」

 感情を込めるつもりはなかったが、その言葉は思ったより機械的に出てしまったように思えた。

「私は小夜じゃない。春川十色。一介の女子高生」

 アカガネが私を睨む。

 私もアカガネを睨み返す。

「その小夜って人に似てるかも知れないけどね、勝手な幻想と私を重ねてもらったら困るんだよ。合わせた私も悪いけどさ」

 アカガネが舞生に確認する。

「本当なのか?」

 舞生は頷く。

「小夜さんは死んだって、お医者さんに言われたんでしょ。お医者さんとお母さんの言うことはちゃんと聞かなきゃだめだよ」

 舞生が腫れた目で、アカガネを見上げる。

「……私が、殺したの……ごめん……ほんとうに、ごめんなさい……」

 アカガネがゆっくりと空気を吸い込んで、胸を膨らませた。

 自身のコントロールが難しくなっているのか、震える唇で、口を開いた。

「小夜を刺したナイフの柄の部分に、ガムテープが巻かれていた」

 私の知らない事実がまた一つ零れ出す。

「最初から、殺すつもりだったのだろう?」

「それは……ちがう。ちがうの……」

 舞生は懸命に首を横に振るが、それについての説明をしようとはしなかった。

 アカガネは問いを重ねる。

「殺す気は無かったとしてもだ、どうして小夜をそのままにしたんだ?」

 舞生は涙声で、

「直人に会いたかったんだもの。直人が突然いなくなるから、私、我慢できなくて……」

「人の命を奪ってまで、直人にか……」

 舞生は返事の代わりに、小さなしゃっくりをあげる。

「まあまあ、アカガネさん。きっと舞生も逃げることで必死だったし、始めから刺そうだなんて思ってないよ。舞生と小夜さんって親友同士だったんでしょ?なおさらじゃん」

「お前が口を挟むな」

 強い口調が私を払う。

「私は退かないよ。舞生がこうして泣いて謝ってるんだからさ、許してあげてよ」

 私はアカガネが手から離そうとしない刀に注意を移す。

「少なくとも、その物騒な刀みたいなやつは手放してくれないかな。今にもアカガネさん、舞生を斬りつけそうだから」

「この場で斬り殺そうと思っていた」

 舞生の充血した目が瞬時に見開かれる。

「今でも、その気持ちは変わっていない」

「ねえねえ、そんな楽しくないこと止めようよ」

 腰に手の甲を当てて、子供に注意するように私は言う。

「人を殺したって、後始末が大変なだけだよ。死体を処理するのにどのくらい労力がかかるか、あんた、知らないでしょ?」

「だからお前は黙ってろ」

 半歩だけ後退ろうとした足を戒める。

「それにさ、舞生をそんなに恨んでいるならさ、一瞬でそれを放出しようというのは勿体無い話だよ。どうせならじわじわいたぶった方が宜しいんじゃなくて?」

「先にお前から殺してもいいんだぞ」

 凄みがかかった声ではあるが、私は動じない。

「ともかく、舞生の話をもう少し聞こうよ。殺すのは、そのあとそのあと」

「……」

 舞生は黙ったまま項垂れている。

「……俺は、ずっとお前を捜していた。お前を殺すことしか考えられなかった」

「恨むだけじゃ食っていけないって。もっと前向きでクリエイティブな事をしようよ」

 突如、私は鳩尾に激しい衝撃を覚えた。呼吸が止まる。

「警告だ。次は無いと思え」

 構え無しのストレートに、これほどの威力と早さが伴うものなのかと、私は感心した。

 膝から地面に落ちて、私は咳き込む。

「小夜は死ぬ前に言っていた。人を傷つけてまで生きる勇気は、私にはないと。お前はその言葉を小夜から聞いたことがあるか?」

「……」

 舞生は答えない。

「こうも言っていた。自分は我が儘だったと。そんな自分を、許して欲しいと。お前にその意味が分かるか?」

「……」

 舞生は答えない。

 アカガネは残念そうに息を吐いて、鞘に収まっていた刀を抜き出した。

「俺にも分からなかった。お前なら、その意味を知ってるんじゃないかと思った」

「ちょちょちょ、やっぱそれ十五センチメートル以上あるじゃん。銃砲刀剣類所持等取締法に違反してるよ」

 刃の切っ先を私の喉元に向ける。

「どうしてなんだ?小夜に何か罪でもあったというのか?あんなに優しい小夜が、どうして謝りながら死んでいかなきゃいけなかったんだ?」

 固唾を呑んだ私は、次に出す筈の言葉すら飲み込んでしまった。

 私は舞生に望みを託そうとするが、舞生は一向に喋りだす気配がなかった。

 アカガネの持つ刀が頭上に掲げられ、外灯の薄暗い光がそれに反射した。

 私は悔しくも、目を閉じる。


 舞生の右太股と膨ら脛を貫通した刀は、そのまま地面に突き刺さっていた。

 女の子のものとは思えない叫喚が、境内に響く。

 背中を仰け反らせ、肩で呼吸し、額一面に汗を流す舞生の双眸は、意外にもアカガネを捉えていた。

 アカガネはスーツの懐から、ナイフを取り出す。柄の部分が茶色のガムテープで複数回巻かれている。

「痛いだろう?小夜もきっと、同じ痛みを味わったんだ」

 段階的に殺しを行うアカガネに、私は同感すると同時に失望した。

 ナイフを舞生の顎下に当て、その顎を上げさせる。

 舞生の足は肩で串刺しにされていて、身動きが取ることができない。

 動こうとするだけで、気を失いかねない程の痛みが走るだろう。

「何か、喋ってくれよ」

 アカガネの懇願に近い命令は、舞生を動かさず、彼女は涙を流す。

「何か言いたいことあるんだろう?早く言ってくれよ」

 頬に流れる涙の滴が、ナイフを這う。

「……ごめんなさい」

 何度も放たれたその掠れ声が、虚しく夜空に散る。

「……ごめんなさい」

 ナイフが左股に突き立てられる。

 涙に混じれた悲鳴が、耳をつんざく。

 私は無意識に自分を抱きしめ、健在であることを確認していた。

「……ごめん……なさい」

 もうそろそろ、いいんじゃないかと思う。

 私は横目で、遠く離れたところで肩を寄せ合う直人とナキを確認する。

 もうそろそろ、許してあげてもいいんじゃないかと、思う。

「……わたしが……わるかった……ほんとうに……ごめん」

 次はどこを刺そうかと、アカガネの目が一瞬泳ぐ。

 その隙に、私はそのナイフを奪って、行動に移ることができる。

 しかし、その後はどうすれば良いだろうか。

 私には分からない。

 運良くナイフを奪えたところで、それでアカガネと対等に戦えるだろうか。

 不意打ちを食らって、私はまだ呼吸が整え切れていない。その状態で挑むのだ。

 アカガネの太刀を避けきれず、足を切断される私を想像する。

 それも悪くない。

 それも悪くないと思った。

「アカガネさん、別にさ、もう少し待ってくれても良いじゃん。舞生、あと二年も無いんだよ。それをわざわざ急いで苦しめること無いよ」

 言動の一貫性などこの際どうでもいい。私はアカガネの注意を逸らす。

 そして、ゆっくり深呼吸をしながら、地面から立ち上がる。

「未来のこと、考えようよ。復讐、私も好きだけどさ、残るモノはなにも無いよ」

 言い終えたその時、私はアカガネからショルダータックルを受け、後ろに転倒した。

 受け身を取ることができず、本日二度目の背部強打に痛みを感じながらも、もう一カ所に、痛みよりも鋭い、燃えるような熱源を腹部に感じた。

 触診を試みる前に、意識が甘美な速度で遠退いていく。

 ま、こんなエンドか。

 星一つ瞬かない空の下で、私は静かにほくそ笑んだ。

 さてこれで、直人が考えた作戦が上手くいくかどうか。

 私は信じていなかったために、私なりの方法を取った。

 アカガネは私を殺すことで、舞生への復讐心を収めることができるだろうか。

 淡い期待は、やがて追憶に変化する。




 復讐について、私には否定できない現実があった。

 高一の夏、プールとプール脇の草むらで強姦された後、私は一人の教師に発見された。

 教師は私に病院まで連れて行ってくれ、私が診察を受けた後、こう言った。

「今回の事件は表沙汰にできない」

 私を犯した生徒の一人に、学校の理事長の息子がいたらしい。

 告発しようとすれば何らかの圧力がかかるだろう、と彼は言う。

 しかし黙ってはいられないと私は反論すると、彼は提案した。

「僕に復讐を代理させてくれないだろうか?」

 そして、その報酬として、彼自身の復讐も果たしたいと言う。

「僕は母子家庭に育ち、母親は必死に働いて、僕を教師にしてくれたんだ。教師になれば、安心して食べていける。おまじないのように僕に言い聞かせてくれたよ」

 私は悪い予感がした。それは、彼に発見された直後から続いていた。

「君は知らないだろう?僕のお母さんは、君のご両親に殺されたんだよ」




 さて、みんなの大好きな復讐はひとまず終えたのだろうか?

 私は目を開け、そこがまだ暗黒の空の下であることに気を落とした。

 病院でも自室でもない。

 復讐はまだ続いていた。

 私は起き上がろうとしたが、腹部に激しい痛みを覚え、のたうち回りたい衝動に駆られた。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 初冬の夜空に、未だに懺悔の言葉は残響している。

 私は頭だけを動かして、周囲を見回してみた。

 血まみれで、私と同じように倒れている舞生がいる。

 それは予想できた。

 しかし、もう一人、血まみれの人物がいた。

 天琴ナキである。

 彼女は舞生の頭を膝に乗せ、自らの手首を舞生の口に添えていた。

 ごめんなさい、という言葉は、ナキの口から呟かれている。

 誰かが私の上体を起こした。

 腹部全体がずたずたに切り裂かれるような激しい痛みに、気を失いそうになる。

「十色さん、大丈夫ですか!?」

 大丈夫じゃないよ、と漏らす。

 作戦通りじゃねえよ、と毒づく。

「終わりました。今、終わったんです」

 あ、そう。

 私は無関心を装って、瞳を閉じる。

 それがいけなかったのか、彼は私を激しく揺さぶった。

 更なる激痛が腹部を走った。

 吐き出す寸前にも似た、やりきれない苦痛が頭の全体を支配し、思考の連続性が喪失された。

 ははは、と笑う暇もなく、私は再度、無意識の海に沈んでいく。




 学校の放課後の集会で、連続失踪事件の新たな犠牲者が発表された。

 六人目になる。全員で十人になる予定で、その十人目は私だ。

 学校の帰り道、直人に出会う。

 ナキの新しい部屋を探してきた帰りだと言う。

「決まりました。十色さんの館からは、歩いて十分くらいです」

 かつての、記憶を失った廃人の時の彼とは、全く違う。

 光を取り戻した眼の色は、意志に満ち溢れている。

「ま、近くなくてもいいんだけどさ。心配な気持ちは、距離に依存しない」

 それは嘘でしょうと、彼は冷笑する。私はそれを不快だと感じない。

「それにしても、本当にナキは覚えていないのかな?……あの時の出来事」

 舞生は死に、ナキは記憶がリセットされ、アカガネは姿を消した。そして直人は、ここにいる。

「十色さんは、僕を疑っている」

 彼の声は楽しそうだった。私も、そうだね、と同調する。

「僕はまだ演技を続けている。十色さんは言いたいんですよね?」

 私は黙って頷いた。

「姉さんを助けたかった。その気持ちには偽りはありません」


 ここに君高直人という少年がいる。

 私が彼から説明を受けた作戦はこうだ。

 前提条件は“アカガネの復讐を果たさせ、舞生とナキを確保する”だった。

 それを実現するために、彼はポイントを絞って説明していく。

“アカガネは舞生に対して贖罪を求めるが、アカガネがそれを許す可能性は低い。”

“アカガネの復讐は舞生に対するものなので、舞生を殺害することで完遂される”

“ナキには絶対治癒能力があるため、少量の出血を伴う負傷なら治癒することができる”

“ナキの絶対治癒能力を活用するには、治癒対象者の血が流れなければならない”

 以上の四つのポイントを挙げられ、それらを踏まえた上で立てられた作戦は単純だった。

 私と舞生でアカガネを挑発し、舞生を負傷させる。そこで舞生は死んだふりをし、アカガネをその場から退場させる。その後、舞生を治癒させ、事無きを得る。ただ、それだけの段取りで済む筈の話だった。

 しかし、それには大きな誤算があった。

 その誤算を、直人は気付いていた。

 彼は、嘘をついていた。


「僕が突然、記憶を取り戻した時、どんな印象を受けました?」

 下校途中の会話は続いている。

「前触れゼロだからね。怪しいとは思ったさ。それに出来すぎ感がぷんぷんしてたしね。それはずっと前からだけど」

 ナキが連れ去られた後、館に戻った直人は突然、「思い出した」と叫んだ。

 そして舞生の手を掴み、早口で捲し立てた。

「姉さん、僕、思い出したよ。僕は思い出したんだ!」きょとんと見つめる舞生と私を余所に、彼は記憶を辿るように語り始める。


 僕はある施設の仲間の助けを借りて、病院から脱出した。

 脱出先で偶然、天琴家の生き残りの、天琴ナキに見つけられた。僕はケガをしていて、それを見た彼女が、自らの頭を壁に叩き付け、その血を僕に飲ませた。

 その後、僕は気を失って、気付けばナキの部屋にいた。

 その頃には、前の記憶がまったく無かった。ナキも喋れなくなったと教えてくれた。

 僕はナキに匿ってもらっていたが、直ぐに警察に見つかって、病院に戻された。

 病院で検査を受けた後、僕は解放された。あの娘の血を飲んだ以上、ここにいる理由はない。僕は医者にそう言われた。

 その後僕は自分自身が良くわからないまま、ナキと同棲した。

 そして今日が訪れた。ナキが攫われ、舞生と再会したことで、思い出すきっかけを得た。


 その後直人は一杯の水を飲んで喉を潤した後、作戦がある、と言い出したのだ。

 私は腕を組んで直人の話を聞いていたが、対抗策が無かったので彼に従う事にしたのである。

「まるで……そうだね。ナキの能力を強調するような話だったよ」

「そうなんです。僕はナキの血を飲んで、冷血病を直し、その代わりに記憶を失った」

「そしてその副作用はナキにも、という話だね。すっかり騙されたよ」

 直人は言う。

「ナキには副作用なんてなかった。ナキはあの時、“ごめんなさい“と言ってしまった」

「誤算だったね」

 直人は少し俯いて、言葉をしまい込む。

「そして、もともと、ナキには絶対治癒能力なんていう大それた能力は無かった」

 私は直人の手を取る。

「手が冷たい人は心が温かいだなんて、今、言ってみようかな」

 直人はその時初めて、不得意そうな本当の表情を見せた。


 道端に咲く柊から、仄かな甘い芳香が鼻孔に届く。

 珍しい薫りに立ち止まろうとしたが、直人は歩みを止めず、話を続ける。

「賭けだった。僕では治らなかった。でも、姉さんなら治るかも知れない」

 一縷の望みに、全てをかける。未来に対して希望を持っていたら、私もそうしていただろう。

「ナキが、本当に天琴夫妻の長女であることは、確かめなかったの?」

「確かめた。彼女は正真正銘の天琴夫妻の娘だ。けれども、彼女には力が受け継がれていなかった」

 声を落とす。

「しかし僕は諦める訳にはいかなかった。病院の内情を告発するという義務もあった。だからアカガネに見つかった時はかなり焦ったけれど、どうにか誤魔化せた」

「治ったように見せかけ、一度病院に戻された後に解放されたという話を、アカガネに聞かせたんだね?」

「そう。そしてナキが能力を持っていることに説得力を与えるために、僕は記憶を無くし、ナキに言葉を禁じさせた」

「そしてアカガネはそれを信じちゃって、直人の追跡を止めたわけか」

 でも、と私は言葉を続けた。

「信じるかね、普通」

 直人は微かに笑った。

「ギリギリだった。あそこで僕は連れ戻されるものだと思っていた」

「咄嗟の嘘にしても、出来が悪いけどね」

 私の冗談に、「十色さんならどうするの?」と噛みつかれる。

 私なら、そんな状況を回避するために苦心する。瞬時の判断は苦手だ。

「でも不思議なのはナキだよね。どうしてあいつ、覚えてないんだろう?」

 天琴ナキは事件のあった日の事を覚えていなかった。それおろか、直人と出会った記憶も無いと言う。

「都合の悪いことは忘れる。生きるための障害となるなら、それは認められるべき回避方法ではあると思う」

 直人の言うことは納得できる。ただ、直人の事まで忘れる必要はあったのだろうか?

「だとするとだよ。直人はナキに対して、相当酷い事をしてきた、という事だね」

 直人は苦笑する。

「役作りの中には、過剰なものもあったかも知れません」

 さて、あの不潔な性生活は役作りに必要だったのか?大いなる疑問だ。

「心から馬鹿になりたいと思ってました。何も考えず、ただ本能の赴くまま動物的に生きる。悪くなかったですよ」

「避妊、本当に大丈夫なんだろうね?」

「それは大丈夫です。ちゃんと付けてましたから」

「ほんとかなぁ。ゴムなんて見たこと無いみたいな、見事な演技してたけど?」

「まあ、細かい事はいいじゃないですか」

 館の前に着いた。

 直人とは、ここでお別れになる。

「これからどうするの?」

「病院を告発します。少なくとも彼らは、治療薬の開発に成功してます」

「それをマスコミに流して、冷血病患者を救うんだね」

「はい」

「だとしたら、生きて再会は難しそうだなあ」

 マスコミが逆に守ってくれるかも知れないが、世間に出る以上、彼の命は危険に晒される。

「そうでしょう。ただ、未来は開かれます」

「未来?」

「僕の意志を引き継いだ者が、必ず現れます。そういう人がまた、十色さんを訊ねてくるでしょう?」

「なんでだよ」

 私は可笑しくて笑った。

「私なんて、ただの一般人じゃないか。どうしてそんな人を訪ねててくるの」

 それに加え、私は直人より長くない。

「何故か、そんな気がするんです。高い質量が互いを引きつける。万有引力の法則ですよ」

 そして彼は手を振って、住宅街の中に消えていった。


 その後、私は自室に戻り、PCの電源を入れる。

 表計算ソフトを立ち上げ、新規でファイルを作成した。

 ファイル名は「桜計画」。

 連続失踪事件の全貌を、ここに残そうと思った。

 犯人の名前は、執事の名前に置換しておく。

 未来のためだ。

 私は呟く。

 憎しみの連鎖はここで断ち切る。

 それが私にできる、未来への準備だ。

 ファイルは一通り完成し、パスワードロックをかけることにした。

 何にしようかと、迷う。

 目の前の書架に目を移し、様々な本のタイトルを斜め読んでいく。

 その中の一つで、ひっかかったものがあったので、手に取ってみる。

 図書館から借りたものらしく、期限は切れていた。私らしいな、と思う。

 その英題の一部をパスワードにする。

 そしてその本を持って、私は部屋を出た。

 今回の件で最も迷惑を被った彼女に、その本を渡しに行く。




 学校生活最後の下校日は、雨だった。

 私は雛から借りた傘を広げる。

 そして駅のホームに経っていると、彼女がそっと隣に並ぶのだ。

「雛」

 久しぶりだった。

 舞生の事件以来だったので、一瞬、舞生が戻ってきたのかと思った。

 雛は儚げに微笑んで、「といろだ」と確かめるように答えた。

 連続した雨音にそっと添えられる、鈴のような愛らしい声色だ。

 こんな声だったと、懐かしく思うと同時に、舞生との差異を感じずにはいられなかった。

 舞生にしてあげられたことはあまり多くなかったと、今更ながら思い出し、後悔した。

「電車が来るね」

 電光掲示板に「ただ今到着します」の文字が明滅し、私と雛はラインに立った。

 電車が減速しながらホームに入り、空気の塊がスカートの裾を揺らす。その風は、雛にも私にも平等だ。

「雛ねえ、私、あれからまた、色々あったよ」

 傘でローファーのつま先を弾きながら、私は報告する。

 電車の中の人は多く、隣の人の会話がしっかりと聞こえる密度だ。

 そんな中、私は臆することなく雛に話しかける。

 私の独り言に、異様な視線を投げかける人がいくつか見受けられたが、数えたところで、キリも意味も無かった。

「またちゃんとね、未来について考えなきゃなあと思ったよ」

「未来?」

 雛はその小顔と細い首で、美しい角度を作る。

「人類とか、地球とかね、そんなスケールの大きなものじゃなくて、私個人の未来」

 微かに頷く雛。

「今日が最後になっちゃうから、今更未来の話なんて無駄かも知れない」

 額にハンカチーフを当てていたサラリーマンの男性が、ちらりと私を見る。

「私に訪れない日の事を考える。そこで生きる人々の事を考える。今でもやっぱり難しいけど」

 腹部に刺された傷をさする。跡は生涯残るとは言われているが、明日がない私には無縁だ。

「私のことを覚えてくれなくていいから、私の大切な人が幸せであってほしい。そんな単純なことだけど、決意するまで時間がかかったなあ」

 雛は相変わらず、学生鞄に両手をそろえて、静かに頷く。

 その頬には微かな笑みが浮かんでいる。

「今日ね、殺さなきゃいけない人がいるの」

 誰?

 雛は同じ角度で首を傾げる。

「大切なひと、かな。私の未来を託したい人」


 電車を降りて、改札を出る。

 再び傘を開く。

 雛が並ぶ。

「今更仕方ないけどさ、本当にずっと前から聞きたかったんだよ」

 私は誰もいなくなった路地で、雛に問う。

「どうして私が生きて、雛が死んじゃったの?」

 雛は黙って、私を見つめる。

「雛の彼氏が私を強姦したこと、雛はどうして知ったの?」

 雛の笑みは絶えない。

 そんなことはどうでもいいとでも言うように、歩道の遙か先を見つめている。

「私の両親は人からお金や命を奪って富豪になった。いつかは復讐されるのは分かってるし、それが両親で済まされないのも知っていた。私は、それを全て受け入れるつもりだった」

 私は続ける。

「だから、近いうちに殺されると思ってたし、殺してくれる人の見当もついてた。でも、雛が、その人の復讐に巻き込まれる必要なんて」

 その時、雛は私の唇に一差し指を当てた。

 雛が口を開く。

「もういいよ」

 その声は、はっきりと、私の耳に届く。

「私も、十色と同じなんだよ」

 私は立ち止まった。雛は止まらない。

「十色に希望を託したかったから」

 そして後ろを振り向く。雛と向き合う。

「少しでも長く、生きてもらいたかったんだよ」


 雛の家の前に立っていた。

 雨は絶え間なく降り続いていたが、私は雛に傘を返した。

「ありがとう」

 その言葉が、私と雛の口から同時に発せられる。

 二人は少し可笑しくなって笑い、私はお腹の痛みを思い出した。

 今度は私が、ハンカチーフを頭にかける。

 雛は手を小さく振って、「さようなら」とは言わず、玄関の中に消えていった。

 私はその後ろ姿を見送る。


 門の前に立ち止まっていると、玄関が開いた。

 はっとする。

 雛が戻ってくる。

 それは今までに無い展開だった。

 傘の手元を握る手が、自然と強くなっていた。

 小柄な女性が現れる。

 雛、ではなかった。

 彼女は私を見つけて、「あら」と声をかける。

「十色ちゃん」

 雛の母だ。

 私は頭のハンカチーフをとって、礼をする。

「久しぶりね。一年ぶりかしら」

「……そう、ですね」

 私は頷きながら、これは雛が導いたものだと納得した。

「お母さんに、お伝えしたいことがあって」

「あら、何でしょう?それよりも、中に入って。雨が酷いわ」

 彼女の誘いを、私は断る。

「いえ、ここで結構です。ここで、言わせてください」

 降りしきる雨は、頭から私を濡らし始めていた。

 額に前髪が張り付き、視界は濁る。

 洗い流してくれればいいと思う。私の罪を含めた全てを、水に流してくれればいいと思う。

「雛さんは自殺したんじゃないんです」

 彼女の表情が固まる。

「私が殺したんです」

 大きく息を吸う。私が、震えているのが分かる。

「私、無垢な雛が羨ましくて、優しい雛が大好きで……」

 目を閉じた。

 瞼の裏に、雛の笑顔が浮かぶ。

「でも私、雛にようにはなれなかった……」

 お母さんはどんな顔をしているのか分からない。それを見る勇気が足りない。

「私を、恨んで下さい」

 両手両膝を付いて、私は頭を下げた。

「許して下さいとは言いません。……代わりに、私を……私を恨んでください」




 憎悪と応報で連鎖する世界は愚かだ。

 だからこそ、その愚かさを許し、愛すことができる。

 私もその一端となり、愛と死を生んだ。

 これからも、世界はそう在り続けて欲しい。

 それが、私が望む未来だ。


全ての復讐の連鎖を止めるため、

少女が犠牲になります。

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