破壊
今、目の前に女性の屍がある。
真夜中、静かな光をたえた満月の下、彼女はそこにいる。
俺は彼女の元に歩み寄り、静かに腰を下ろした。
その顔を、確認する。
それは予想され、想像し尽くした事ではあるが、目の当たりにしてもやはり受け入れ難いものだった。
頬を撫で、触れることのなかった唇に指を沿わせるが、その端正な顔のラインは重力に逆らうことなく、また低く掠れたハスキーな声も、月明かりに照らされた青い夜の空気を振るわせることはなかった。
口の中に薬指を入れる。
薄紅色の唇の中から覗いた白い歯は、唾液でまだ艶やかに濡れていて、節の太い俺の指を抵抗せずに受け入れた。
顎を少し下げる。指先に舌が当たる。
それはまだ確かに温かく、滑りを失っていない。
俺は指でその舌の上に小さな渦を描き、それを徐々に大きくしていった。
指に絡みつくように受動する彼女の舌は、まるで生きているようだと、錯覚する。
錯覚が目的か。
躊躇いもなく二本目の指を入れる。
手の中で最も長く見える中指は、舌の根を弄び、薬指は舌先と戯れた。
二本の指の間で踊らされ、ひたすらに捻られ、揉まれるそれは、その時ねちりと音を立てた。
快楽の末か、苦悶の末か、どちらともつかない唾液の分裂音は、俺を身震いさせた。
そこまでに――するんだ。
そう自分に言い聞かせた。
それでもダンスを止めない指は、既に脳の情報伝達を拒否していたが、俺は諦めずに彼女の声を思い出した。
馬鹿。
死んでも治らないとはお前の事だな。
小夜はどうしたんだ。お前とは一緒じゃないのか?
心から想いを寄せていた女性が、今までに二人いた。
一人は五年前、そしてもう一人は、たった今、俺の前で別れを告げた。
どうもふられてばかりである。
二人とも勝手に行動し、勝手に答えを出し、お前には少しも興味がなかったと、それ以上に正確で残酷な表現が無い方法で、俺に伝えるのだ。
五年前の話をしようと思う。
俺と、幼なじみの小夜、そしてある一人の女性の話だ。
それはまだ、この施設に送られる前の、壁の無い日常生活を送っていた頃の事。
今のように組織の訓戒に縛られることなく、青空と雲を眺めることができた日々の話だ。
俺は唾液で濡れた左手を拭い、右の手を彼女の胸の上に乗せた。
組織の仲間が駆けつけてくるまで、俺はその話を彼女に聞かせようと思う。
彼女に教えて欲しいことがあるのだろう。
俺はそう自認する。
しかし、彼女は口を動かす事もできないし、例え動いたところでまともには答えてはくれないだろう。彼女は冗談が好きだし、俺をからかうのが心底楽しそうだったからだ。
ただこうして、俺から離れ去っていく者に自分の考えを投影させることで、俺は少なからず救われようとしている。
満月が雲に隠れ始めた。
俺の回想を見守るつもりなのか、闇の時間がたった今始まった。
目を閉じる。
思考を腹に据える。
人は何故、命を他人の為に使うのか?
他人の為に自己を犠牲にすることが、自己の欲求実現なのだろうか。
答えはもうすでに自分の中に持っているのに、俺は彼女に問いかけ始めていた。
闇と、この二人だけの時間が、できるだけ長く続ければ良いと願う。
*
五年前の母の命日、俺は近所の青果商店から購入したキャベツとピーマンとタマネギを炒めていて、その台所のテーブルの上で小夜は学校の宿題をやっていた。それはもう大分前から続いている日課で、夕方の六時半頃には小夜は野菜の詰まった袋と勉強道具を持って部屋に押しかけるのだ。彼女は言う。今日こそは私が作るんだから。
その時に放送していたテレビから、ある一つのニュースが流れていた。ここからさほど遠くない距離にある大学付属病院の大量虐殺事件についてである。入院していた患者や、その場に居合わせた見舞客、清掃員、技師、製薬会社の社員、そして教授である医師や研修生、看護師の総勢五百名のうち、三百十七名が負傷、百八名が散弾銃の弾丸や爆発物で死亡した。犯人は十数名からなるグループで、一人を除いて全員が覆面をしていた。
防犯カメラの設置場所は、彼らが進入する前に全て把握されており、破壊されて機能はしなかったが、銃弾を肩に受けて負傷した目撃者が、その一人の似顔絵を書いた。
年齢不詳で、目線がいつも遠く、冗談が好きなのかその緩んだ口元は、俺が仏壇の上で毎日見るその人の表情によく似ていた。その人は五年前、病気で亡くなった事になっていた。
玄関のチャイムが鳴る。
反射的に立ち上がる小夜を制して俺は玄関に向かう。ピンホールを覗き、訪問者の正体を確かめようとしたが、それは相手の指で塞がれ、穴は一切の光を禁じられていた。
再度チャイムが鳴り、ドア越しに声が響いた。「隣に越してきた者ですけど」
俺の後ろに不安げに立つ小夜の視線を感じ、俺は怪しいと思いながらも、そのドアを開けた。
目の前に現れたその女性は、深く頭を下げている。
その姿は小柄で、顔が見えないので年齢は特定できないが、服装から判断すると、それほど年を取っていないように見えた。
顔を上げた時、彼女は後ろ手で持っていた何かを俺の頭を目がけて振り下ろそうとしていた。反射神経が人一倍鋭い俺は、その不意打ちを避けることができたが、玄関の側に置いてある冷蔵庫にそれはヒットし、一瞬で不快になるような不協和音が六畳二間の空間に広がった。小夜が小さな悲鳴をあげる。冷蔵庫を強打したそれが、楽器であった事に気付いた時、彼女は次の攻撃を繰り出そうとしていた。
ギターのネックを両手で握りしめ、頭上に掲げたそれをそのまま真下に振り落とす。
その単調な動きを読んで、俺は一歩後ろに下がると、そのギターは玄関に置かれていた小夜のローファーをもの凄い早さで叩き潰していた。近くにあった俺のスニーカーも弾き飛ばされ、靴の密集した足場に小さな隕石が落ちた様になった。その衝突音として響く四弦の和音に、今度はひびが入ったような弦以外の音が混じる。彼女はその音に重ねて呻いた。
「あああ、やっちゃった――」
フレットボードのネック側から数えて丁度十二番目くらいだろうか、丸い印が二つ記された板の部分に、大きなヒビが入っていた。無理もない。石製のタイルで固められている靴置き場にボディを直撃させたのだ。ネックを力点とする以上、高い割合で割れてしまうだろう。
彼女はそれを自分の子供が負った怪我を扱うかのように何度も手でさすり、痛かったね、ごめんね、すごく痛かったよね、と何度も謝っていた。
俺と小夜はその光景を、距離を置いて訝しく眺め、彼女の次の行動を見守っていた。
「素直に当たっていればこんな事にならなかったのに――」
そう言って鋭い剣幕で睨み付けてきた彼女を見て、俺は極めて強い既視感を憶えた。
ニュース、似顔絵、仏壇、写真、そして今目の前にいる女性。
その時彼女は、何かに気付いたのかビクッと身を仰け反り、「あああ」とだらしない声を漏らした。そして薄紅色のマニキュアが塗られた爪の指先で俺を刺し、叫んだ。
「ゴメン!人違いだ」
すっかり冷めてしまった野菜炒めを食べながら、俺と小夜は指板にひびの入ったベースギターの行く末を案ずる。小夜から言わせれば、それはアコースティックベースギターと呼ばれるもので、アコースティックギターと同様、生の音でベースギター特有の低音を出すことができる楽器だという。そう言われば確かにボディの部分はアコースティックギター同様、木で組み立てられた厚みのある作りになっていて、中は空洞である。試しに弦を一つ弾いてみると、床そのものを振動させるような低音がボディ全体から伝わり、確かにCDで聴くようなロックミュージックに使われるエレキベースの音と比べたら、音色や音の滑らかさが全く違っていた。
玄関先で突然襲いかかってきた彼女は、勘違いをして襲いかかったお詫びとしてそのベースギターを俺ではなく小夜に渡し、そのままそそくさと去っていた。隣に引っ越してきたというのは本当の事であったらしく、隣室に消えた彼女を確認した俺はドアを閉め、鍵を掛けた。小夜が小さな声で同意を求める。「あの人、もしかしたらニュースで映っていた――」
ベースギターに強い興味を示す小夜に対し、俺は触ったら駄目だと釘を刺し、次の日にはその楽器を隣の住居区のゴミ集積所に出していた。ここなら小夜には見つからないだろうと考えた上での選択であったが、偶然なのか必然なのか、そのベースギターの元持ち主がそこに現れた。
彼女は体のラインを見せるタイトなジャージで、まるでそこが偶然にもジョギングコースに入っていたという素振りで俺に近づいてきた。身構える俺に、彼女はカラカラと笑う。
「この前はごめんねぇ。君のお父さんにちょっと恨みがあったから、少しガツンとぶつけてあげようと思ってさ。そしたら君がいるんだもんね」
俺は訊ねる。
「親父とはどんな関係?」
赤縁の眼鏡のずれを、真っ直ぐ伸ばした右手で上品に直し、彼女は答える。
「知らない方が良い関係」
俺はベースギターを収集箱の中に放り込み、その場から逃げようとした時、彼女は俺の背中に言葉を投げかけた。
「私、明日から先生になるから。クラスも持たせてもらって、もしかしたら君の担任かも。それって良いのかな?」
俺は振り返らずにそのまま部屋に向かい、母の写真を探した。母の顔を、もう一度確かめようと思ったからだ。しかし、写真は見つからない。父の箪笥の中にも、母が作った俺のアルバムの中にも。母が映っている写真だけが抜き取られていた。
昼間からお酒を飲みながらテレビを眺める親父に、その事を尋ねた。親父は裏返った声で「しらない」と返し、お尻をスラックス越しにボリボリと掻いた。すぐに小夜に電話をし、確認してみると彼女も同じだと言う。
マスコミは新たな情報を散布していた。
舞台は変わっていない。大量殺戮が起きたその大学付属病院である。
ある夫婦が、自らの血液が全ての病気を治す薬になるのだと発表する。現代の医療で治療が困難である病気の幾つかをその方法で完治させており、実証済みであると。今後はその治療のメカニズムを解析し、ゆくゆくは彼らの血液と同等の効果を持つ薬剤を作製すると、ある有名な製薬会社と大学の研究期間が発表した。続いて、県警からは先日の殺人事件は、その夫婦を狙ったものだと説明が入る。
俺は中学二年としての初の登校の最中に、腕を組みながら考えた。
そもそも夫婦がその事実をマスコミに伝えた意図とは何か。金、名誉?マスコミを利用することで彼らと高値で取引する研究団体が現れるのが狙いだろうか。果たしてそれで本当に現れるだろうか?もしかしたら現れるかも知れない。けれど、それには意味があるだろうか。そもそも、彼らは金を必要として自らの体を売るのか。報道されなくても、彼らはその能力を使い、十分に儲ける事ができた筈ではないか。
彼らの意図は?彼らの真意は?そんなことは一介の中学生に分かるはずもない。その夫婦が俺の身内でもないし、知り合いでもない。何分、情報が少なすぎるのだ。ニュースの上に突然現れた、不治の病を背負った患者にとっての望みの星は、患者の目に触れることでますます輝きを増していくのだ。
もしかしたら、それ自体が目的なのか。患者に期待を持たせることが狙いなのだろうか。
思考の方向を修正する。病気に対する不安を無くすこと、それが結果だ。きっと必ず何かが起き、結果はそうなるのだ。近いうちに、誰もが望みを捨ててしまうような病気が、これから多くの人々を襲う。俺たちはそこで、何ができるだろうか。その病気に対して、何ができるだろうか。
やはり、結果だけが推測できても、対処はできないのだ。推測が必要なのは原因だ。一斉に多くの人間が病気になる方法とは何か。ウイルス、化学兵器?戦争を前提としたそれは平和ボケした俺たちにとって真実味に欠け、想像すらできない。
俺がここまで真剣に考えるのにも理由があった。
小夜の事があるからである。
一連のニュースで小夜は必要以上に怯え、何かを恐れていた。
これから不幸な出来事が俺たちに降りかかる。それはきっと、間違いないのだ。
今、俺にできる事は、それが訪れた時に感じる苦しみを軽減することだ。そのためには備えるしかない。
始業式が終わり、担任の発表は行われた。クラスの担任は、隣に越してきた謎の女性だった。
教室に移動した後、彼女は担任挨拶を行った。
一通りの定型句を述べた後、それは彼女の口から伝えられる。
「近々ね、あなた達は病気になるわ。みんながみんな、その病にかかるとは限らないけれど、殆どの人が抗体を持っていないと思うの。残念だけどね」
俺は立ち上がって訊ねた。クラスの視線が俺に集まる。
「そんなことを突然言われても、みんなは信じないと思います。俺もそうです。根拠はあるのですか?」
彼女は緩んだ口元を少しだけ引き締め、瞬きをした。一瞬の沈黙が、教室の空気を緊張させた。
「まあね。あなた達の担任になったばかりの私が、何を言っても信じてくれないとは思うけど――」
そう彼女が言い淀んでいた時、隣のクラスのざわめきが、廊下越しに伝わってきた。
中には女子生徒の泣き声も聞こえる。
「この発表はね、オフィシャルなの。始業式で校長が発表すれば一括で済んだのにね。腰抜けは、責任の重さによっては本当に歩けなくなるんだわ」
おかげで担任教師の最初の仕事は、随分大変なものになったようだと、俺は思った。
「そしてね、愛するあなた達には、私だけのとっておきの情報を教えるわ。他言しない限り、この情報は一年くらい隠蔽されるはず」
先生はそう言って、死んだと父から教えられていた母親の名が書かれた黒板の隣に、その病名を綴った。
「冷血病。このネーミングセンスのかけらもない病気は、あなた達の未来を奪うわ。あなた達が生きれるのは二十歳まで。そしてお節介なことに、死期が近づくにつれてあなた達の体温は下がっていくの。最後には凍死に近い状態になるらしい。どうかしら――これって、できれば知りたくない情報よね」
その日の夜、小夜の弟が突然血を吐き出し、病院に運ばれたが間もなく死亡した。背面に現れた死斑の異常色から、毒物による死とまでは確定できたが、それが一体何の物質によるものかは解剖をしてみなければ分からなかった。宗教上の関係で遺体の引き渡しを拒んだ小夜の両親は、その犯人の解明をも諦めていた。弟が吐血したその夜、弟は二階の自室にいて、誰も出入りをしていないことを母親が確認していたからである。「自殺なのかも知れない」小夜の姉の一言が、両親を決意させた。十三歳の弟は学校から帰宅した後、すぐに部屋に閉じこもっていた。階段ですれちがった姉は、弟の涙を見たという。
絶望で彩られた放課後の空の下に、鈍い流れを続ける河がある。山の麓の上流では光る水として近隣住民に愛されてはいるものの、中流の生活排水、下流の工業排水によって、光を吸い込む濁った水となる。そのまだ完璧な汚れを身につける前の、中流と言えるそこに一本の細い橋が架かっていた。大型車が並ぶと橋全体が撓むというその早急な改修工事が求められているその下に、俺は小夜の背中を見つけたのだ。春の夕方、下校中の出来事だ。
「アカガネ、偶然だね」
その声は弟の死を迎える前の、普段の調子に近づけるように発声された。
顔は一つの方向を向いて動かない。小夜の両手には捨てた筈の楽器がる。
人は弱っている時こそ、強がる傾向がある。
今の彼女がその時なのだと自分に言い聞かせながら、俺は小夜の隣に座った。
肩が触れるか、触れないかの距離。
「もう少し、もう少しそばに来て欲しい」
楽器を演奏する手を止めず、音の粒と粒の間に、小夜は切なそうに零した。
俺は演奏の邪魔にならないよう、小夜の背中に身を寄せる。
小夜の演奏する曲は、マイナーコードを多く取り入れていて、明暗の抑揚がないそれは、どのような空気を演出する曲なのか良く分からなかった。
彼女は言う。
「アカガネ、そこから見えるかな。私の正面から、三メートルくらい先の、草むらの中――」
小夜が言い示すそこに、放置された雑草の影に隠れて、何かが小さな呼吸を繰り返していた。
彼女は続ける。
「死期が近づいたら、ネコって飼い主のもとを離れるんだよね。この子も、もしかしたらそうなのかも知れない」
革の赤色の首輪が、首もとについている。その鈴はほとんど錆びていて、音鈴を響かせるかどうかは疑わしい。
「ここなら確かに誰にも見つからない。――そうだよね」
この橋の下を死に場所に選んだこのネコは、小夜の演奏の前に、今、何を思っているのだろう。俺は足の膝に肘を乗せ、腕を伸ばして手のひらをネコに見せる。俺の手も、きっと見えていないだろう。ネコの視界を占めるのは、橋架下の影による闇なのか、迎えの国から溢れ出る光なのだろうか。
でもどうして、その楽器を?
俺のその問いは、言葉に出さずとも小夜の耳に届いた。
彼女はふう、と長い息を吐き出しながら、ゆっくりと説明した。
「先生が来た日から教えて貰ってるの。あなたには素質があるって。今まで楽器にはまったく興味がなかったけれど、先生が持ってきた楽器には、凄く惹かれるものがあって――。初めて触ったとき、私は何も弾くことができなかった。何も感じていなかったからかも知れない。そんな私に、先生は言ったんだ。今は無理かも知れないけれど、いつか必ず楽器が必要になる時がある。楽器がなければ苦しくてたまらない時がくる――って」
俺は目を擦り、額を手で抑えた。
「それはそんなに遠い日の事じゃなかった。弟が死んだあの時、とてつもない量の何かの感情が胸の中に一気に沸き上がって、自分で自分を抑えきれなくなったの。その時、偶然先生がそこにいて、私に楽器を渡した。持った瞬間、手が勝手に動いたの。何も考えていない。次にどんな音を出そうとか、まったくそんな意図はないの。ただ勝手に動く体に気持ちを委せているだけ」
コンクリートをも震動させるような低音を響かせるそのベースギターは、四弦だけとは思えない音域を作り、小夜の指は指板の上でしなやかなステップを踏んでいた。その指は、小夜とは別の意識を独自に持ち、彼女はそれに従っているようにさえ見える。
「今なら、このギターだけじゃなくて、他の楽器も演奏できるのかも知れない――」
しかしそれには全く意味はないと、小夜の暗い声色はそう言っていた。
小夜は俺に尋ねる。
「――アカガネは、やっぱり反対なの?」
別に構わない。俺は言った。
「いいんだ。小夜がそうしたいのなら」
うん、と彼女は頷き、少しだけ表情が緩んだ。
俺は小夜の演奏を聞き入ることにする。
風は優しく、夕陽は温かく、その中で浮遊する音楽は儚く脆い。
楽章があっただろうか。物語が展開するような曲調の変化は、もしかしたら猫の一生を追憶しようとしているのかも知れない。
「練習しようと思って、持ってきたんじゃないんだ。ただ、音が出したかっただけなの。音が胸の中一杯になって、あふれて、どうしようもできなくなった」
小夜は続ける。
「死に対して、私は本当に何もできない。この子にだってそう。こうやって、届くかどうかも分からない音楽を奏でて、それで私自身が満足しているだけ。この子の気持ちを知ることはできないし、ただ楽になって欲しいと私は願うだけ。その願いを、音にしているだけなんだ。この子、苦しんでいる。今、凄く苦しんでいる――」
死は誰にでも訪れるし、苦しいのも変わりない。
小夜はそれを和らげようとしているだけなのだ。その行為に一切の罪はない。
胸を大きく上下させ、必死に呼吸を続けるネコはその音に耳を傾ける気力も見当たらない程弱り、苦しんでいた。
しかし小夜は諦めず、音楽を奏で続けた。
橋の上では絶え間なく車が騒音を立て、河の流れる先にはセメント工場の煙がうっすらと覗ける。空は次第に夕焼けの赤に色濃く染められ、闇の衣を羽織っていった。
俺はその空間を全て小夜に預け、ただ黙ってじっとしていた。
ネコの体の弾力が失われたのは、星の瞬きが覗け始めた、夜になってからだった。
水葬を提案した俺は、小夜の「不安だから」の一言で説得され、土を掘っていた。その子を埋め、墓標代わりの大きめな花崗岩を置いた後、二人で手を合わせた。
暗闇の中、小夜が云う。
「アカガネは、私に涙を見せたことがないね」
もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。
母が死んだと親父から告げられた時、俺はそれを受け入れることができず、声をあげて泣いた記憶があるが、それ以来は確かに涙を流したことはなかったのかも知れない。
「私はさ、アカガネになら見せても良いと思うんだ。恥ずかしい気持ちもあるんだけど、アカガネには私の弱い部分をちゃんと見せておきたいから」
小夜は俺の返事を待たず、足をくるりと反対方向に向けた。
俺との距離が徐々に広がっていく。
「でもね、でもね――」
今は小夜の背中しか見えない。それも、闇の中でぼやけて見える程度だ。
「弟の時、私、涙が出なかった。悲しかったのに、泣けなかった」
その声はどうだろうか。俺は感覚を研ぎ澄ませようとする。
小夜のその声は、既に泣いてはいないだろうか。
「胸の中にはね、音が詰まっていたの。悲しいという気持ちが強くなればなるほど、私の胸は音で膨れて、苦しくなった」
小さな背中が震え、俺はその肩に手を伸ばす。
「本当は泣きたかったの。泣こうと思ったの。そうすれば楽になれる。悲しみを証明することができる。けれどね、それができなかった。私にはもう、泣くことができなくなった」
涙を失った代わりに、音を零す。
それは残酷なことなのだろうか。悲しむべきことなのだろうか。
少なくとも、それは俺が判断することではないだろう。
それをすぐに受け入れるのは、今の彼女にとって悲しく辛い。それが事実だ。
俺は闇の中で寂しく漂う小夜の背中を捕まえ、手を握った。そして云う。
「悲しみの証は必要ない。俺には、今、小夜が泣いているように見える」
小夜は俺の手と一緒に、自身の胸を苦しそうに掴んだ。
胸の中で何かが暴れ、外に出ようとしているのを必死に抑えているようだった。
ふと、考えてみた。
俺は小夜の代わりに涙を流すことができるだろうか。
小夜が悲しいと思った時、俺はそれを慰める涙になれるだろうか。
後ろから小夜を少し強く抱きしめ、空いていた左手で彼女の手を掴んだ。
その手で、俺の頬を確かめさせる。
「泣いてるの――?」
訊ねる小夜に、俺は小さく頷く事ができた。
未成年の犯罪が全国的に増加していた。連日のようにメディアを通して報道が繰り返され、社会問題として扱われ始めていた。その内容は国会の議論にも度々登場するようになり、法案の作成が幾つか開始される。冷血病そのものの存在は政府によって隠匿されているせいか、事件の動機は全て「将来への不安」とされていたが、カムフラージュとはいえ、おそらく事実からそれほど離れてはいなかった。冷血病は一つの未来しか約束してくれないのだ。どんなに願おうとも。
遠い都心のニュースだけではなく、実際に地元でも頻繁に起きていた。万引きや恐喝の数は増え、煙草やお酒はほとんど全員が体験し、性体験も同様だった。クラスの四分の一の席が空き、そのうち三名が自殺、一名が他殺された。教室全体の空気が日毎に重みを増し、交わされる会話も乾いていく。
残された者たちが絶対に口にしてはいけない言葉がある。「どうせ死ぬのだから」「大人になることはできないのだから」それを理由に努力することを諦めたら、その後に何が残されているだろうか。何も残らなくなった者から学校を去り、人によっては生きることすら諦める。
「閑散としてるわね――」
新学期が始まった三ヶ月後、先生は朝のホームルームでそう言った。
様々な攻撃的な視線が先生に集められる。
当然の事だった。大人の体にとってはまったく害のないこの病気は、子供と大人の溝を深くし、頻繁に激しい対立を繰り返していた。死者が出ているのは子供だけじゃない。子供とほぼ同じ数の大人が殺され、中には自ら命を絶つ者もいる。人間は未来がないと知っただけで、何故こんなにも弱くなってしまう生き物なのだろうか。遠いか近いか、ただそれだけの問題ではないのだろうか。
「三ヶ月前のニュースを覚えてるでしょ。あの病院から、天琴夫妻が現れたって話。みんな、どうして信じないんだろうね。病気そのものだって信憑性がないから、そっちだって信じようがないのに。隣国がウイルスを散布したとか、どこかの実験施設から漏れてしまったとか、そんな事実はないんだよ」
原因が不明なのに、結果だけが告知される。あなた達はたった今、病気になりました。突然のその宣告が真実味を持つ筈がない。それが政府からの各教育機関に伝達されたために、みんなが信じているだけだ。先生はそう言う。
「選民試験なのかも知れないのにね。デマを流して、それに煽動されて自ら命を絶つ人は失格。生き残りは合格ね。――あ、でも、国民に不安を与える政治ってのもおかしいか」
先生はそう呟いた後、出席を取り、欠席している十数名の名前にチェックマークを入れた。
「そうね。今更だけど、もうそろそろ私も仕事をしっかりやらないとね。せっかくあなた達の担任になったんだもの。あなた達に教えなきゃいけないことを、私はまだ教え切れていない」
黒板に白のチョークが擦り付けられる。その白線が示した二つの漢字は、今の子供達にとっては禁句であり、見たり聞いたりするだけで圧倒的な不快感を感じる言葉だ。
「未来。未来の事を教えなきゃね。あなた達の未来」
教卓の上に両手をつき、先生は身を前に乗り出した。
「それはね、とっても辛いものなの。別に大人になれないとか、死んでしまうとか、そういう意味で辛いんじゃない。ほとんどの人はね、大人になってから苦しい思いをする」
朝のホームルームは5分だ。一限目の国語が先生の担当であるため、授業に食い込ませるつもりだろう。
「正確には社会という、大人のシステムの一つに構成されてしまうこと。これが最も不幸で大変なことなの。生きるためにはお金が必要であり、お金の為に大人達は労働をする。それが適職ならば良いけれど、人の数だけ個性と適正がある以上、仕事の種類がそれに全て適合する筈がない。絶対に誰かが自分に合わない仕事をしなくてはならないし、それで食べていかなければならない。それが嫌なら職業を転々としていけば良いのでしょうけど、適職が見つからない可能性だって十分にある。むしろ見つからない方の確率が遙かに高い」
彼女の癖なのか、先生はまっすぐ伸ばした中指で眼鏡を正す。
「そんなことにならない為にも学校があって、学生という猶予期間で社会に飲み込まれる為の準備をしなくちゃだめ。とりあえずあなた達はそんな状況下にいるの。もちろんそれはみんな知ってるよね。ただあなた達には危機感が足りない。まだ中学生だからって、自分の将来を定めなくていいと、私は思わない」
十四歳で未来を定める。もちろんそれができる人もいるだろうが、中には一生できない人もいる。
「未来ってね、できるだけ限られた期間の中でイメージした方が良いの。例えばそうね、プロ野球選手になる。男の子の定番ね。これを漠然と目標にしても、なかなかアプローチを立てにくい。野球選手なるには何をすれば良いか。その具体的な方法っていうのはなかなか見えないの。でも未来がもし五年弱しかなかったとして、そこを基準に目標を立てた時、あなた達は何ができるかな。同じ野球選手の道だったら、18歳で甲子園、19歳でプロデビュー、20歳でメジャーかな。もし、自分がいつ死ぬか分からなかったら、そこまでハードで高い目標は立てられないわ。限りがあるからこそ明確な目標が立てられて、明確な目標だからこそ、目的を達成するための努力ができる。目標を達成できたら、また直ぐに次の目標を立てる。それって、未来が無いって言えるのかな?むしろ、あなた達は未来を与えられたのではないかしら――」
ある男子生徒が立ち上がり、「御託を並べてるんじゃねえ」と叫んだ。そのままその生徒は先生に掴みかかり、教卓と先生を倒した。激しい音が鳴る。女子生徒の悲鳴が聞こえた。
嫌な記憶が蘇る。親父の暴力。それは、まだ俺が本当に幼くて、母親がいた頃のものだ。父は母を殴り、母は俺を守って、父のされるがままになっていた。その直後だろうか、母親は俺と一緒に家を出たが、俺は父親に連れ戻され、母は突発的な病気で死んだと教え込まれた。
止めに入った俺は、その生徒を後ろから羽交い締めにしようとしていた。しかし彼が先生を殴ろうとした腕に鼻が直撃し、俺はそのまま後ろに倒れて星を見る。そうしてから他の生徒が動いたのか、周囲は机や椅子のパーカションで更に激しい音が鳴り、怒声や罵声、悲鳴や泣き声がその中に入り交じる。
先生はどうなっただろうか。天井を仰ぎながらそう思う。
鼻そのものが麻痺しているせいか、その芯の感覚はないものの、周囲がじんわりと温かい。鼻から出る血までが熱く煮えたぎっているようだ。血が熱い――そうか。血が熱いのか。
俺はそれを可笑しいと思った。そしてそれは次第に大きくなり、しまいには声を出して笑ってしまう。だって可笑しいじゃないか。この血が、凍るほど冷たくなる。そんな病気が本当にあるだろうか。
保健室で治療を受けている最中、先生はドアからひょっこり顔を出した。その顔は無傷でケロっとしている。先生は保健医に何かの合図をし、入れ替わりに保健室に入って俺の隣に座った。
「アカガネ君は、良いね。好きだよ」
鼻に張った絆創膏と、頬にできた痣を見て、彼女は目を細めて云う。
俺はその言葉を無視する。
「父親はあんな男なのにね。君は逞しいよ」
腰を寄せ、鼻先に香水の香りが触れる。香水だけではない、大人の女性特有の柔らかい体臭が、潰れた筈の鼻を刺激していた。
「何のために、あなたはここにいるんですか?」
彼女は窓の外に視線を逃がし、俺はその目を追う。
「あなたは、どうして帰ってきたのですか?」
その質問に、彼女は答える権利は無いといった素振りで、首を横に振った。
「アカガネ君、君たちを救うためだよ。生きる量ではなくて、質を変えるの。それがあなた達を救う方法」
そんな言葉、誰にでも思いつき、誰にでも言えた。
今の大人の誰もが、子供達をあやす為に使う常套手段だ。
「先生は捕まるはずなんだ――。あの病院で起きた殺戮事件。あの犯人はあなたの筈だ」
先生は周囲を見渡して保健室に誰もいないことを確かめ、頭の角度を少しだけ落として、目を閉じながら笑った。それは嫌らしさよりも、悲しさが圧倒的に勝った、大人の表情だった。
「そうね。それはアカガネだけじゃなく、他の人も気になっているに違いないからね。それだけは答えておこうか」
先生がその答えを明かしたその日の夕暮れ、一人の女性が空を舞った。デパートの駐車場に咲いた深紅の花は、その三時間後、跡形もなく清掃される。目撃者は地上と屋上、どちらにもいなかった。遺書も残されず、また友人や恋人に残したメッセージも、それを連想される言葉はまったくなかった。しかし遺族は、それを自殺とし、長女の肉体を早急に火葬した。小夜は二人分の位牌を小指サイズの小さな瓶に詰め、机の奥にしまう。「未来ってなんだろうね」小夜が呟く。「未来って、そんなに大事なのかな」
事件が増え、クラスメイトは減り、今までの日常は、ゆっくりではあるが確実に壊れている。それでも季節は残酷にも同じ速度で移り変わり、死の宣告を受けた春は既に遠い過去のものになっていた。そして、小夜の弟や姉が亡くなった夏も、騒がしい蜩の鳴き声だけが耳に残り、後は全て忘却を望まれていた。
午後の教室から、グラウンドを覗く。
授業の声は遠いバッググラウンドミュージックとなり、その一切を気に止めることなく、耳の穴から抜けていく。授業をちゃんと聞いている生徒が何人いるだろうか。全国で行われている模擬試験の平均点は、問題の試験の難易度に関わらず低下の一途を辿り、またその受験者数も急激な勢いで減少していた。
紅葉の始まった桜の木の側に、二台の大型車が止まっている。
一つ下の一年生達が、体操着を着て列を成している。その列の先は、二代の大型車に飲まれていた。車のマークは国が運営している医療機関のそれだ。定期検診と公の場で言われるその検査は、半年に一度、二十歳以下を対象とした全員に行っていくのだと言う。先月、議会で提出案が通り、法整備が整ったらしい。表向きは成人病の予防検診だが、その実態は誰もが勘付いていた。
ついにやってきたのだ。不安が確証に変わる。本当に、心から絶望できる時がやってきたのだ。
定期検診を受けなければ、いずれ患者達と同じ末路を辿ることになっていた。冷血病と分かった患者は、最寄りの専門施設に送られる。その施設の名前と所在地は公開されていないが、ここの地域では、事件の起きた大学付属病院内に建てられた特別棟に収容されることになるだろう。そこに絶対治癒の力を持った天琴夫妻がいると言われ、彼らとの協力により治癒薬を作製することができれば、退院ができると嘯かれている。
定期検診の三日後、結果が分かる。陰性、すなわち冷血病にかかっていなければそのまま学校生活を続けられるが、陽性と結果が出てしまうと、これまでの日常は完全に失われてしまう。その確率は六割。約五人に二人しか助からないと、俺は先生から話を聞いていた。とにかく落ち着いていれば良いのだと、先生は何度も俺に言う。何をどう講じようとも、結果は変わらない。後はその事実をどのように受け入れるかだけであると。
教室の前のドアが開き、一年生の生徒が緊張した様子で診察の順番が回ってきたことを告げた。授業は中断され、生徒達は男女二列になって校庭に出る。二台の車の前にはまだ長い列が続いていて、俺が並ぶ列の隣に別の組のクラスが並ぶ。俺は無意識に小夜の顔を探していた。
体育の授業中だったのか、体操着を膝の上にかぶせて寒そうに座る女子達の中に、秋空を見上げて何かの曲を口ずさむ少女がいる。俺は列から離れて、彼女にそっと近づいた。
「血液を採るんだって。先生が言ってた」
小夜は詠うように俺に囁く。それは迷いなのだろうか、目の色は薄く、空の遠い青を映して濡れる。
「私、検査を受けちゃだめだって先生に釘を刺されてる。絶対に良くないことが起きるんだって。今以上に悪いことってあるのかな。もう十分過ぎるのに」
それは先生の脅しなのだろうか。小夜に検査を受けさせない。それはすなわち、病気であろうとなかろうと、病院に送還されることになるのだ。そうなってしまった以上、本当に未来はない。
「先生の言うことは、信じなくていい。あいつが戻ってきた理由、小夜は聞いていないのか?」
小夜は首を振った。
彼女は全てを知っている。そして全てを否定するように首を振る。
小夜は全てを教えられたのだ。俺よりも早く。
「でも、私にはこうすることしかできない。私のやるべきこと、それは自ずと分かってくるって先生は言っていたのに、私にはまったく分からない――」
その言葉の後半は歌になる。楽器が持てない時には、よくそうしている、
それは認められない現実を前に、ただ泣いている状態と同じだと小夜は嘆く。
涙は何に対して効果を発揮できるだろうか。音楽は誰に対して強く作用するだろうか。
物理的な力を持たないそれは、それを持つ者は、これまでも、これからも、虐げられる――。
「私、先生から渡されている薬を飲んでいるの」
そう俺に耳打ちした時、小夜の番が回ってきた。
暗い顔で俯きながら車を出る生徒が、小夜の前を通り過ぎる。
「もしかしたら、私は弟や姉さんみたいに死んでしまうかもしれない。だけど、――良いの。もとから未来があるとか無いとかじゃなくて、単純にそれは受け入れようと思っている」
小夜は俺を正面に据えながら、少しずつ後ろに下がっていた。まるで、今から崖の上で身を投げるかのように切迫している。残念ながらそれは比喩でも何でもなく、実際に小夜は死に対する恐怖に立ち向かおうとしている。
「だけどね、アカガネ――。アカガネの未来は、確かにあるんだよ――」
小夜の入っていった検診車は、小夜を乗せたままその扉を閉めた。生徒や先生達が困惑している中、その車は徐行を始めた。もう一台の車もそれに続く。検診は打ち切られ、小夜を攫っていった。
ぼうっとそれを眺めながら立ちつくす俺に、先生は後ろからローキックを入れてきた。
一度転び、制服についた砂を払っていると、先生は、
「そんなことやってる隙じゃないでしょ!今から追いかけるわよ」
と叱咤しながら俺の背中を掴み、駐車場へと引っ張られた。赤の軽自動車、車高は低く、シートは二つしかない。先生はリモコンで施錠を外し、俺を助手席に座らせた。「さあ行くわよ」彼女が座席に座ったとほぼ同時に、車は発進していた。急激な移動による反作用により背中はシートに食い込む。低い音を立てて唸るエンジンは、彼女のペットでもあるかのように従順で、無理なステアリングに対しても柔軟に対応するこのマシンは、既に何らかのチューンが施されているのだろう。
カーブの度に車体は俺の体を激しく揺さぶり、三半規管が痙攣し始めてきたところ、ようやく目の前に黒字のナンバープレートを付けた二台の大型車が現れる。「見つけた!」先生はそう叫ぶと、アクセルをより深く踏み、車を加速させた。車体は振動を始める。道路は両側二車線の国道で、正午を二時間過ぎた今ではそれほど交通量は多くないが、法定速度を大きく上回る時速を出す車は危険そのものであった。
先生は目標と車との間にある三台の車を全て追い越し、目標の隣に車を並べると、その軽自動車の薄い金属板で、体当たりを敢行し始めた。鉄と鉄の擦れ合う音が耳を貫き、またそこから生じた火花が膝元に跳ねる。俺は先生の正気を疑い、先生は自車の頑丈さを疑っていた。俺は先生が握るハンドルがそれ以上左に寄らないよう固定し、ブレーキに足を伸ばした。あまりにも無理がある。俺はそう訴え、左のドアが既に内側に反れ曲がっている事を示す。彼女は、それは分かっている、当然の事だという目で俺を睨み返し、アクセルをもっと強く踏んだ。
車は検診車の前に出る。
そして先生はアクセルを離し、ブレーキを叩きつぶすように踏む。
強い衝撃が背中を襲った。ガラスの破片が飛び散り、エアバックが作動する。
俺が気絶状態から立ち直った時、ドライバーシートに先生はいなかった。後ろを振り返る。検診車からは煙が立ち上がっていて、中から数人の病院関係者が出てきては咳き込んでいた。
俺は身体に異常がないか軽く確かめ、内傷を気にせず体を動かそうとした。とりあえず、まだ平気のようだ。今のところはまだ痛みは少ない。
何かのセンサーが壊れたのか、それとも正常に動いているのか、警告が鳴り続ける車内から俺は出る。野次馬が、ぽつぽつと現れ始めていた。
小夜と先生は消えていた。
俺は事故現場から素早く離れ、身を隠し、学校の友人に連絡を取って二人の安否を確認した。事故のどさくさに紛れて、先生は小夜を連れて行ったらしい。どこへだろうか。そもそも何故彼女は危険を顧みずに小夜を連れ出そうとしたのか。
その理由はずっと前から予想はできているものの、納得はできなかった。
それも最後まで、彼女に最後に再会するその時でさえ、彼女は何も俺に伝えなかった。
訳が分からないだろう。
彼女の本心が分からない以上、俺がこの出来事を語る上ではどうしても情報が足りないのだ。
最後にもう一つ、思い出してみよう。
これが最後の事実で、彼女の意図を憶測する最も重要な材料になる。
事故のあったその晩、小夜から俺に電話がかかってきた。
その声は、涙が流れなくても、明らかに泣いていた。
「死んじゃったの――アカガネ、私、殺しちゃった――」
俺は小夜からその場所を苦心して聞き出し、その場に駆けつけた。
なんてことはなかった。
その場所は教室である。
秋の夜の闇に雷雨。学校が作り出す必要以上に濃い闇と、天井を叩く激しい雨音に、視覚と聴覚が奪われるその場に、小夜は椅子に座っていた。その小夜に向かい合う形で、先生はいた。背筋を伸ばし、両膝に手を揃えて、目を閉じていた。その睫毛は長く、闇の中に深い影を落とす。
「先生は、私の血を飲んだの。私は拒んだ。だけど、先生が私の腕にかみついてきて――。私の血が、先生の体に流れた」
小夜の血を飲んだ後、先生は整然とした態度で椅子に座った。小夜には向き合って座るよう指示をする。先生の結末を知る小夜はそれに従い、先生は微笑んでこう言った。
「最後の授業をしましょう」
世の中はどうしても上手くできていない。
先生は繰り返し説く。
そう思うようになった瞬間から、君たちは社会というシステムに揉まれ、心を抉られ続ける。それに耐え、何かの手段で削られた心を埋め、再び心は社会によって部分的に破壊される。
だとしたら、どうやって心に付けられた傷を埋めれば良いのか。もしくはどうやったら傷付かずに済むのか。その方法はとてもはっきりしている。
先生は学校に来る前、例の病院で大量殺戮事件に関わっていた。犯人の目的は、冷血病の患者を収容するシステムの破壊である。システムそのものは冷血病患者を施設に収容し、治療を目的とするものだが、患者を施設に収容することに反対する意見もあり、犯人も収容に異論を唱える人間の一人だという。システムの要は絶対治癒能力を持った天琴夫妻で、彼らを中心にプロジェクトメンバーが構成された。その陣頭指揮を執っていたのが俺と小夜を産んだ母だった。母は十八歳の頃、許婚と結婚し小夜と小夜の姉をもうけたが、小夜を産んだ十ヶ月後に俺の親父に強姦されていて、俺を胎内に宿した。それを夫の子供と誤魔化そうとした母だが、それを見破られ夫に離婚を迫られた。そして母は仕方なく俺の親父のもとに住み着くが、無論、長くは続かなかった。その間に小夜の父親は再婚相手を見つけ、婚約者に小夜の弟を産ませ、俺の父親は酒に溺れながら日々を摩耗していた。
犯人の目標はプロジェクトメンバー全員を殺害し、その計画を破壊することで、それ以外の殺しは陽動に過ぎなかった。犯人は国外から傭兵を雇い、病院を襲撃した。先生は言った。
「どの時代、どの場所にも決まり事があって、それを守る者と破る者がいるでしょう。後は規模の大小の違いしかないの。喧嘩も革命も、物理的な闘争を無くしては解決できないの。人間って、本当に痛々しい――」
結果として天琴夫妻は助かったが、プロジェクトのリーダーは行方不明になった。そして、犯人も消える。そうして犯人の目的が半ば達成された。しかし、院内で事件に巻き込まれた一般患者は、大量殺戮が行われている混乱の中、犯人の顔を目撃したと云い、その証言を元に似顔絵が起こされた。しかし、事実、犯人の中に顔を伏せていない者など誰一人いなかった。その目撃者が見たのは犯人を返り討ちにしている、先生の顔だった。先生は、犯人の一人を殺してしまったという。
「その時はもちろん必死だったから、自分が何をしているかなんてほとんど意識できなかったけど、心の奥底では、その行為がとても自然なもののように感じられたの。つまり、使命みたいなものを感じて、それに突き動かされた。自分の身を守りたいという気持ちは少なからずあったけれど、もしそれだけだったら、殺す必要はなかった」
報道には先生の似顔絵が流されたが、警察はその事情を知っていた。そして先生はマスコミに流れたその情報の訂正を求めず、むしろそのまま報道を続けて欲しいと頼んだ。犯人は先生の親友で、その娘は生まれながらにして冷血病になっていた。
「システムに対抗する存在を破壊者と呼称するけど、それは何故か交代制なの。それも命が果てたら、次の人にその使命を移譲するようにできているみたい。それはとても不思議なもので、いつ誰が破壊者になるかは良く分からないのだけれど、私のように手を下した者に移る時もあれば、まったく関係ない人に移る時もある。その親友は、本当に突然、破壊者になってしまったと私に告白してきたの。でもそんなの、自覚できるわけがないじゃない。急に反政府、反社会的な思想に目覚めた、という事もないから。ただ破壊者に判るのは、破壊者の対となる存在、保護者の存在がなんとなく意識できるようになるらしいの。正義と悪の二軸があるとすれば、何故か自分がその悪の軸側に立ってしまっている。それがなんとなく判ってしまう、感じてしまうものなの。だから、そうなってしまった以上、存在として対立する保護者を否定しなければならない。まったく自分の意志とは関係のないところでその使命感はどんどんエスカレートしていってしまう。嫌な宿命なのよ」
その後、先生には小夜の存在を強く感じるようになったと言う。娘としてではなく、自分と正反対に対立する存在として。否定しなければならない、敵として。
「教員免許を持っていたのは私自身の夢だったからそれは必然だとして、アカガネのクラスの担任なれたのは幸運だった。タイムリミットを設けられた子供達に、私は未来を教えたかったから。アカガネには小夜自身を、そして小夜には音楽を、それを守っていくことの大切さを伝えたかった。保護者はね、なにか特別な力が備わっている場合がほとんどらしいの。システムを守るための手段ね。小夜にはそれが音楽として与えられたと私は思う。だから私は、小夜に楽器を与えた」
それは小夜がまだ幼い時、子守歌の伴奏として使われた楽器だった。低音の響きが、小夜の睡眠を導入したと言う。
「一方でね、私は破壊者としての仕事を全うしていた。小夜の弟、それは私の息子ではないのだけれど、あの子に小夜の血を飲ませた。娘にしても同じ。私は彼女を屋上に誘って突き飛ばした。小夜の血にはね、体の中には絶対に入れてはいけない物質が含まれているの。それは保護者である以上、能力をもつ故に背負わされる負荷なのか、それともそれが破壊者を制する武器の一つなのか、良く分からないし、確かめる術もない。ただ娘の小夜に、そんな血が流れていることを私は否定したかったし、普通の子であって欲しかった。アカガネにだってそう思う。こんな理不尽な病気に、狂気じみた政府の対応。あなた達から全てを守りたかった。病気とは無縁の生活を、送らせてあげたかった」
――よく分からない。
小夜はそう言った。
事実は母親の現れた、とうの昔に告げられていたし、弟や姉を殺したのも、前の母親であることは知っていた。だからこそなのかも知れない。今こうやって、目の前の女性が自殺を遂げたという事が、よく理解できないのだ。俺は言う。
「おふくろは、言ったんだろう。お前の存在を否定したかった。その保護者としてだかなんだかは知らないけど、小夜の体に流れる血の事を認めたくなかった。だから弟にも飲ませたし、姉さんにも迫った。弟や姉さんはお前のことを信じていたし、おふくろもそうだった。そんなので死ぬはずがない。そんな悪の根源みたいな血液が存在するはずがない。それを、体を張って証明した」
俺は続ける。
「だけど、それは否定できなかったし、小夜の姉さんも自殺をした。おふくろが突き飛ばしたって言ったのも嘘で、本当は小夜の血が原因で死んでしまった。多分、人それぞれ死ぬ方法が異なるんだろう。今とても辛いだろうけど、小夜はそれを認めなくちゃならない。それは乗り越えなくてはならない。こんな事言われて辛いだろうとは思うけど、俺はそう考える」
「――嫌だよ」
小夜はそうはっきり言った。
「私、このままでは生きていけない――」
小夜は椅子から立ち上がり、顔を歪めて俺に叫ぶ。
「どうして?どうして人に害を与えてまで、私は生きていかなくちゃならないの?私にそれほどの価値があるの?私が生きていく価値って何?生きていかなければならない理由が、わたしにあるの?」
俺は返答に窮した。己が存在する理由や価値など、誰にだってすぐに見出せないのだから。存在意義を見つけるために、俺達は色々なものを失い、その過程の中に生きる価値を見い出していくのだ。
俺の沈黙が、小夜の決意を促した。
小夜はその場から逃げ出すように教室を出た。
教室に取り残された俺と先生の死体は、瞬間にして訪れた圧倒的な静寂にただただ飲み込まれた。
俺は俺に問う。
どうすれば良いのだろう。この事態から、どうやって未来を見いだせば良いのだろう。
全ては壊れ、また既に壊れている者も必要以上に壊れ、それらはもう修復が不可能なところまで及んでいる。
小夜は、求めている。彼女の大切なものが、彼女の意志とは関係のない所で次々と奪い去られていく。それも、彼女自身によって。事前にこの事態を読み、押しとどめる事の出来なかった俺は、今こそ、小夜を助けなければいかないと強く心に感じる。小夜が好きだからというわけではなく、大切な妹としてでもなく、一人の親友として、あるいは言葉には言い表せないそれ以上の関係で、俺は小夜を守りたいと思う。
お袋、教えてくれないだろうか。
俺は先生の前に立ち、膝を付いた。
小夜の未来とは、一体何なのか。
それを守らなければいけない俺は、一体何をすればいいのか。
先生は、お袋は、それを教える為に俺の目の前に現れた。
俺はまだそれを、教えて貰っていない。既に教えて貰っていたとしても、それを理解していない。
だから、もう一度。もう一度、教えてくれないだろうか?
俺はリノリウム張りの床に拳を叩いた。
その時、血痕がうっすらと見えた。
俺は先生の口元をもう一度視認する。
それは小夜の皮膚を突き破ったせいか、少し血で汚れてはいたが、吐血したようではなかった。
俺はもう一度、先生に願った。
――教えてくれ。俺は今、どうすればいいんだ――?
その問いかけに、先生の口が開いたような気がした。
それは同時に、俺が既に持っていた答えを、自ら反芻しただけなのかも知れない。
小夜は職員室の電話を使って、病院に連絡を入れていた。後数分で学校に着くという。
それを聞いて胸を撫で下ろしてしまった自分に嫌悪する。
「小夜、逃げよう」
俺はそう言ってみたものの、俺自身がその言葉を空空しく感じた。
小夜は困った顔で微笑みながら、詠う。
「もう、駄目だよ。逃げ場所がないよ。アカガネにはあるかもしれないけど、私にはない。どこに行っても同じ。私は私自身を変えなければいけない」
俺は小夜との距離を詰めた。
なんてことのない、たった数歩の空間を狭めた時、小夜は一歩、後ろに下がった。
「だめ。だめなの」
その言葉に俺は応じない。
逃げだそうとする小夜を、俺は半ば飛び込むような形で捕まえる。
「どうにもならないよ――。もう、どうにもならない――」
そして俺はその唇を奪い、言葉を遮った。
見開いたその目からは、確かに涙は出てはいなかったが、高鳴る心臓の鼓動を俺は感じた。
やがて彼女の瞼がゆっくりと下ろされる頃、俺は小夜のその小さくて薄い唇を噛んだ。
小夜の全身が強ばる。
俺はその硬直した体を解すように、「大丈夫、大丈夫」と諭しながら抱擁する。
そしてゆっくりと唇を離し、俺は小夜の血の味を確かめながら、言う。
「小夜と一緒にいく。そうしなければ、未来は開かれない――」
*
仲間が到着し、彼女の死体は回収された。
その当人に間接を外され動けなくなっていた小夜は、息を切らせながら遅れてやってきた。
「大丈夫か?」
小夜に訊ねると、小夜は黙ったまま頷き、俺の隣に立った。
俺は夜の空に満全と輝く星々を眺めながら、小夜が何かを言い出すのを待つ。
「もう、演技しなくて、良いんだよね」
遠慮がちに確認をする小夜に、俺はできるだけ明るい声で返す。
「ああ。今となっては演技かどうかも分からなくなってしまったけれど、もうアヤトに対して別の人格を装う必要はなくなった。昔の俺に、戻らなくちゃな」
小夜は夜月の様に青白く、綺麗に笑みを浮かべ、
「いいよ、無理しなくて。私の前だけで、アカガネのありのままを見せてくれれば良いから」
そして俺は小夜に言われた通り、少し引きつったような笑い方で目を細めた。
「アヤトは、お袋に似てたんだ。だから俺は、あの時できなかった態度を、アヤトに対してやってみた。対決なんて、俺自身にも良く分からなかった。けれど、結局のところ、俺はお袋に甘えたかった――」
言っているうちに少しだけ恥ずかしくなって、俺は小夜から目線を逸らした。
その様子を見逃さなかった小夜は、俺の胸に小さな頭を預ける。言葉を並べて会話をするよりも、こうやって体同士を触れ合わせていた方が、遙かに簡単に素直な気持ちを伝えられる。
「――うん。いいじゃない、それで」
深い呼吸で隆起する胸の上で、小夜は続けた。
「誰だって、誰かに甘えたいもの――私も、同じ」
中学二年の秋、小夜は自らの病気を訴え、この病院に入院した。小夜の血液を口に含んだ俺も、彼女の病気に影響を受けた患者として、無理を言って同行した。
病院の中は、予想していたものよりも遙かに大きく、また広かった。生活に必要な施設は完備されており、部屋も殆どが個室となっていた。一般家庭水準以上の衣食住が提供されているため、俺の生活は以前よりも格段に裕福なものになった。
小夜の病気に関しては、治療よりも先に検査が行われていた。冷血病とは全く異なる病気であるのにかかわらず、小夜の病気がこの病院に扱われるということは、何らかの関係があるのだろう。
小夜の担当医であり、医長でもある三十代半ばのその男は、小夜と俺に一つの提案を持ちかけた。患者だけで構成された警備組織を作り、院内の警備力を高めて欲しい。そしてその報酬として、極秘裏で開発されている冷血病の治療薬を得ることができるという条件。それはいかにも胡散臭い話で、医長の本当の目的はその治療薬の被験者を捜しているだけのようにしか思えなかった。担当医の依頼で断る事ができない小夜を不憫に思い、俺もその組織に協力をするという形で参加したが、小夜は過酷な使役労働に関わらず、常に笑顔を見せていた。俺はアヤトに出会ってから、彼女を治すためとして動機を転換したが、小夜にとってはずっと同じモチベーションで続けていた。彼女は言う。「アカガネと一緒にいれるなら、私はどこでもいくし、何でも言うことを聞くかもしれない」小夜は冗談が嫌いで、自分で言うのも苦手だ。相手を気遣いながらも、思った事を素直に言ってしまうタイプ。嘘も嫌いだから、そういう人間は利用されやすい。だから俺は、小夜の側にいて、小夜を利用しようとする者達から守らなければならない。
アヤトと同行して逃走を企て、塀の外に脱出した君高直人に関しては、外部の警察へ捕まえるよう指示を出したが、捕まえたという連絡は未だに帰ってきてはいなかった。
直人の脱走が行われてから二日後、次の要注意人物として彼の姉である君高舞生の名前が会議の中で挙げられる。君高舞生は過去に脱走を試みた事が三度あり、いずれも院内で捕まり重い処罰を受けていた。その彼女が、弟の不在により入院当時同様の不安定さを抱えていると担当医から診断されていた。
君高舞生の監視役として、小夜が抜擢されたが、彼女の親友である小夜にそれが務まる筈もなく、君高舞生は小夜を刺して脱走する。
その日もまた、お袋が死んだ、雨の日の夜だった。
刺された小夜は、雨に打たれながら冷たいコンクリートの上で仰向けになっていた。胸には果物ナイフが突き刺さっており、その柄の部分にはガムテープが二重、三重にと巻かれていた。彼女はまた得意の困った笑顔で、駆けつけた俺に言う。
「やっぱり、人を傷つけてまで生きる勇気、私にはないみたい――」
俺は無線で小夜の担当医に連絡をし、直ぐに来てもらうよう叫んだ。
雨は強く、また無情な程冷たかった。
小夜は、ああ、ああ、と呻きながら、手探りで何かを探している。
俺はその手を掴み、「どうした?」と訊ねた。すると小夜は不安が拭い去られたのか、笑みを浮かべ、「良かった」と、吐息と共に言葉を放った。小夜の瞳孔が縮小していき、その色も次第に褪せていった。遠くなる目線に、俺は強い不安を覚えた。自然と小夜を握る手が強くなり、その握り返す力も俺の力に反比例して、次第に弱まっていった。
「早く、こうなれば。こうなってしまえば、良かったのに、どうして、私は、気付かなかったんだろう。どうして――」
小夜は気付いた。何に気付いたのか。
俺はそれを訊ねる勇気を持てなかった。正しくは、それを聞く残酷さを、俺は持つことができなかった。小夜は細くなっていく呼吸の合間に、
「ああ、そう、そうなんだ。アカガネ、アカガネ――?」
俺は更に小夜の手を強く、優しく握り返す。
「私、我が儘、なんだよ――わがまま、だった――許して、許して、私を、許して――くれるよね」
小夜の担当医から冷血病のワクチンを貰った。彼の運営する警備組織に長年勤めていたという経歴もあるが、やはり小夜の一件が大きく関与していた。彼は言う。「君は冷血病に感染している訳ではないから、この薬を飲んでも効果はないだろう。だが、念のため、飲んでおいて欲しい。これから君が復讐を果たすためには、冷血病が完治したことを保証しなければならないのだから」
俺はその薬を飲み、眠りについた。
次の日の朝には目覚め、支度を調えて病院を出る。
君高舞生を探すのだ。
彼女を見つけたら、まず始めに訊かなければならない。
お前は、誰の何の為に生きているのか?
その問いに、答えてもらわなければならない。
お袋は小夜の為に命を使った。
小夜はお前の為に命を使った。
だとしたら、俺は誰の為に命を使えば良いのか?
むろんその問いの答えは、ずっと前から教えられていたのに、俺はそれを自覚できなかった。
誰かの為に、命を奪って良いことがあるだろうか?
大切な者のために、誰かに大切されている者を、葬っていいのだろうか?
俺は思う。何かを奪うそれに、良いも悪いもない。
奪われたら取り返す、それしかないのだ。取り返すことのできない命でも、それは同じだ。そこに虚しさしか残らなくても構わない。
人は誰かの為に生きることはできる。
それが分かった今、俺は実行に移す。
そして未来は、たった今、開かれる。
母親、幼馴染を奪われた少年が
未来は復讐のために開かれるものだと悟ります。