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祈願

 医師は、物惜しそうに聴診器を耳から外した。

 そして何度も使い慣らした言葉を、今日もまた、私の胸に置く。

「特に異常はありませんね」

 無表情を努める彼は、視線を落として道具を鞄の中にしまい始める。

「……」

 私は黙ったまま、その様子を眺める。

「早く――治れば、いいのですがね――」

 沈黙に耐えきれず、彼は漏らした。

「相変わらず見通しはたっていないようです。本当に…残念な事です」

 彼は目元の手をあて、緊張した筋肉を解す。

「……」

 私は沈黙を守る。

「何年になりますか?」

 今日の彼は、よく喋る。

「ここに入ってから――しばらく経ちますね。あなたも私も――」

 彼は黒革の鞄に両手を置き、私の目を探した。

 私は窓枠に置かれた鳳仙花に視線を移して、それを避ける。

 窓ガラスには、空の絵が描かれていた。

「夢、希望、情熱、使命、名声、技術――。当時、僕が抱え、また抱えようとしたそれは、少しずつ零れていきました」

 それは貴女も同じなのだと、彼は私に言いたいのだろう。

 私は咳き込み、彼の言葉の続きを遮る。

 目配せをして、彼に退室を求める。

「今日の分の薬です――ちゃんと飲むんですよ」

 彼は、何としてでも一つの言葉でも残そうと、最後にそう言った。

 私はそれに頷くこともせず、ただ黙って、彼の後ろ姿を見送った。

 そして、彼の白衣に染み付いた、きつい消毒液の臭いが部屋に残り、私の鼻をつついた。

 私は最後まで、この匂いを好きになれなかった。




 ある病気が流行っていた。

 それは発病の後、全身の体温が低下と共に、血液循環の著しい悪化が観測される。

 局部的に症状を現すそれは、歳月と共に範囲を拡大、成人を期に全身の機能を停止する。

 後に「冷血病」と関係者の間に呼ばれるようになり、それは国土全体に瞬く間に広がる。

 未成年者のみに感染するが、感染方法は判明していない。

 対策として政府は専門病院を設立し、二次感染を防ぐために患者を強制収容したが、その数は急速に増えていき、やがて病院の数もそれに応じて増加する。

 現在、感染者数は約二十万人。未だに退院者は公式に発表されていない。

 冷血病に対しその治療法を発見したと、ある一般人の夫妻が発表。

 薬品等を一切用いない彼らの方法は、自らの血液を冷血病患者に飲ませること。それだけで冷血病おろか、全ての病気に対し効果があると言う。

 それについて、まだ正式な検査による確証は得られていない。




 窓から入ってくる陽射しが温かい、と一生に一度くらいは言ってみたい。しかし残念だ。ここで生まれた私には、決して与えられないものは数多くある。

 空、土、太陽、全ては遮られ、模造されている。

 だからこの部屋には窓が無い。施設内の何処を探しても見当たらないだろう。

 首の運動も兼ねて、私は辺りを見回す。

 四方八方が白い板で囲まれ、天井と床の区別もつかない。

 部屋の四隅に空いている、肉眼でぎりぎり確認できる程の小さな穴は、この部屋の空調を機能させているが、空を求める私達の視覚を満足させることは無い。

 世界から隔離されたこの病室は、時間の流れをも遮断し、私達がいつ、何をやっていたかという記憶も狂わせる。

 それを防いであげますよ、とこっそり告げ口するかのように、壁に掛けられた小さな時計の針がカチリと動いた。

 午前八時。

 少しだけ早い定期検診を終え、私はいつもと変わらない朝と対峙する。


 今日一日、ずっと寝ていようかと、回転の悪い頭で考えていた。

 そんな腑抜けな私を丁寧にくるむ毛布は、絶えず身体を暖め、全てを微睡みに追いやってしまおうと誘っている。毛布の羽毛が薄い生地の寝巻きを通して私の肌を触れ、小刻みに刺激を与える。

 私は誘惑に半ば負けながら、重くなり始めた瞼に対する抵抗を諦めかけたその頃、ドアをノックする音が私を覚醒させた。

「お早うございます、舞生です」

 抑えながらもその若さが滲み出た初々しい声が、静けさを死守する病室に割って入る。

 私はそのままの体勢で対応した。

「――どうぞ」

「失礼します!」

 ドアが開いた。その隙間から少女が見える。

 彼女は丁寧に靴を脱ぎ、それらをしっかりと揃えると、笑みをこちらに振り分ける。

「おはようございますっ、アヤトさん」

私は彼女の姿を視界に捉え、片手を上げて簡単な挨拶をする。

 同じように片手で挨拶する彼女の身長は、私より低い。

 顔は美人というよりは、可愛いと言った方が適切な顔つきだ。

 子供のようにじゃれ合う風の一つ一つに、丁寧になびくそのさらさらのショートヘアは、私と一歳の差しか無いのだが、圧倒的な若さと初々しさを感じさせる。

「なんだ舞生、元気そうじゃない」

 彼女も私と同じ、患者だ。

 患者同士の出入りは自由で、舞生はしばしば私の部屋に出入りしてくれる。

「もぉ――アヤトさん、またベッドの中ですかぁ」

 舞生は口を尖らせる。

「今日も格段と寒いんでね」

「それだったら、毎日寒いですぉ」

 舞生はベットの脇に立つと、腰を下げ、寝ている私に視線の高さを合わせた。私の手に両手を重ねる。

 触れ合った指先から、私は舞生との大きな温度差を感じ、私は息を飲んだ。その様子に舞生は気付いたのか、「さっきまでテニスしてたんです。グリップ力が弱まっているんですよねえ」とフォローを入れる。

 私は「――そうなの」と相槌を打ちながら、一つの感想で胸が一杯になる。

 この娘は、まだ長く生きていける。

 私は胸に溜まったそれを安堵として吐き出し、舞生の瞳の奥で静かに宿る炎を見た。

 その炎は、舞生の眼孔越し私を温め、不思議な安らぎを与えてくれる。

「エアコンの温度、変えましょうか?」

「いや、大丈夫だよ。この体には少しくらい、喝を入れる必要があるんだ」

 そう言って私は上半身を引き起こし、エアコンのリモコンを舞生の手の届かない所に置いた。

 設定温度は30℃。

 季節が何であろうと、私はその温度を二度と変えることはないだろう。

 舞生は、露わになった私の寝間着に毛布をかける。

 寝間着の下で鳥肌になっていた私の肌は、毛布の温度の中で、静かに落ち着きを見せた。

「無理はしないでくださいよ。風邪でもひいたら、直人が困るんですから」

 舞生は自分の弟の名前を出しながら、私を見つめ、心配そうに笑った。私が様態を崩して一番心配になるのは舞生だろう。悲しくなるのは銅で、寂しくなるのが直人だ。

「大丈夫。その時は、みんなに迷惑をかえないようにするさ」

 私はそう言って、毛布を体にかけながら、両足をリベリウム張りの床に着ける。

 靴下越しに床のひんやりとした感触が伝わり、私は直ぐに片足でスリッパを探った。

 舞生はベッドから離れ、殺風景なこの部屋に唯一存在することを許された椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。

「私は、人に迷惑をかけない生き方なんて、できないと思いますよ」

 そう優しく言い放つ彼女は、過去にこの病院から三度の脱走を試みている。

 両親の密告により、彼女はこの病院に強制入院された。

 この病院は、ある一つの病気を患った者だけをかき集め、患者達を世間から隔離する。

 感染の可能性を持つにも関わらず、その病気は外見に症状を現さないため、発見は難しい。定期検診を除き、本人の自白か、本人以外の申告によって病気であるかどうかを判断される。

 舞生は自分がその病気にかかっていたという事と、それを両親が本人に無断で病院に連絡したという事実を受け入れられず、彼女は病院から抜け出そうとした。

 が、しかし、彼女は何度も失敗し、その度に自分を見失っていった。

 三度目の失敗の後、彼女は病院という枷を自分という殻に置き換え、その殻を自らの手で破こうとした。

 自殺を遂げようとしたのである。

 その時の彼女の様子を見た私は、生きる意志を喪失した人間の脆さを思い知った。

 信じていた両親に裏切られ、出口も希望も無い施設によって、全てを閉じこめられたのだ。舞生の目からは光が失われ、微弱に繰り返される吐息が、希望の予感を吸い込んでは全てを吐き出していた。それはまるで、遊ばれることに疲れた人形のようであった。

 両親の信頼という大切なものを失った彼女は、自身が生き抜いていく上でも必要な力をも失った。

 そんな彼女を、弟の直人が支える。

 弟の直人もまた、舞生と一緒に入院させられていた。

 常に直人は、自暴自棄になっていた舞生の側に立っていた。

 やがて舞生は次第に言動を落ち着かせ、一人での日常生活が可能になるまで快復する。

 直人という存在は、舞生にとっての必要不可欠なものになっていた。

 舞生は自然に微笑むようになり、その隣では直人が穏やかな視線を彼女に送っては、満足そうに彼女と一緒に微笑んだ。

 そんな彼女を見て、私は羨ましく思った。

 生まれてから一度も、本当に大切なものを失ったことのない私にとって、彼女の体験はかけがえのないものに思えた。

 何かを失って初めてその大切さに気付くように、何も失ったことの無い私は、何も得ることはできない。

 本当に大切なものも、そしてそれを心から守りたいと思うような気持ちも、私にはそれを得る資格は無いのだ。

 舞生が直人に救われたように、私が誰かに救われる。

 そんな事は絶対に起こりえないし、想像する事もできない。

 私は一人で自分の命を使い果たし、一人で消えて無くなるのだ。

「アヤトさん?」

 舞生が再び、心配そうな目と声色で私に問いかける。

「ああ、ごめんごめん。少しぼーっとしてたよ」

「何か、考え事でもしていたんですか?」

「――ちょっとね。くだらない、昔の事さ」

「むかしのこと?」

 流石に舞生の前で、彼女の過去を口に出すのは憚られる。

「私が竹刀を振り回していた頃の事。あの時は随分暴れたなあと思って」

 私は咄嗟に嘘をつき、わざとらしく天井を見つめながら、そう言った。

 舞生は口元に手をあてて、声には出さず上品に微笑む。

「直人はそんなアヤトさんに憧れてましたけどね。僕もアヤトさんみたいな力が欲しいって」

「えっ――」

 私は年甲斐にもなく、ドキッとした。

 舞生にまでその心臓の音が聞こえてしまいそうな程、私は驚いていた。

「竹刀一本で、悪い男の子達をバサバサ切り倒していったじゃないですか。直人だけじゃなく、私も憧れますよ。正義のヒーローなんですから」

 ヒーローという言葉につっかかりを感じながらも、私は舞生に尋ねる。

「直人がそんなことを………?」

「ええ。まるで自分の事を言うみたいに、とても熱心に喋っていましたよ」

 直人は基本的に情熱的な男だ。

 人の話となると、自分の事より熱意を持って情熱的に語るきらいがある。

「――そうなんだ」

 直人の真剣な瞳が適切な角度で覗ける横顔が脳裏を過ぎり、私はその想像にのぼ逆上せてしまうところだった。それを自ら立ち切るように話を切り出す。

「ところで、直人は元気そう?しっかり生きてる?」

「うーん………元気ではあるんですけど――」

 言葉と共に重たい何かを吐き出しながら、舞生は少し俯き加減になった。

「何かあったの?」

「あ、いえ。大したことではないんです。直人ったら、最近、部屋に戻ってこない事が多くて………」

「そうか――。それで、本人は何て言ってるの?」

「理由は――教えてくれないんです。姉ちゃんには迷惑かけないから、の一点張りで」

 となると、舞生がらみで、直人が何か暗躍しているのだろう。

 直人と舞生は同じ部屋で生活している。この施設に定められた規則には反しているが、舞生の自殺未遂事件もあって、二人の同居は管理局に許可されている。

「朝には、しっかり私の隣で寝ているんですけど――何時頃に帰って来てるのかも分からないんです。一度、直人が帰ってくるまで待っていた事もあったんですけど、あまりにも遅くて――」

 舞生の俯いた顔に落ちた影が、深みを増していく。

 深刻なのだ。

 直人がそば側にいない時間は、舞生の心に不安を積もらせる。

 それが例えほんの僅かな時間でも、毎日続けば、舞生の心の器は不安で溢れ出す。

 それを知っている筈の直人は、一体何をやっているのだろうか?

「直人の事だから、大丈夫。――きっと、好きな女の子でもできたのだろう」

 心にも無い事を、私は平気で言う。

「そうですかねえ………それはそれで、少し気になりますけど――」

 幾分か、舞生の声に張りが戻った。

「私達が気にすることもないさ。直人はもう十九になるんだし、色々やりたい事も増えてくる」

 そう言って私は舞生を説得する。

 二人の間を取り持つのは、少しだけ疲れる。

 まるで姉弟以上の関係を求める舞生を相手に、私などが割って入る隙もない。

 けれど、舞生はどうしても人に放っておかせない娘なのだから、仕方がない。

 精神的に不安定な舞生を放っておく直人も直人だが、私も私なのだ。


 その時、激しいノックの音が、私と舞生の間に流れていた時間を遮った。

 若々しい声が、ドアを突き破る。

「アヤト!勝負しろ!」

 うるさい奴が来た。

 私は深い溜息を吐きながら、「入りな」とドアの向こうの相手に投げやりに言い返す。

 ドアを乱暴に開け、大股でベッドに近づいてきた彼は、持っていた二本の竹刀の片方を私に押しつけた。

 彼の勢いに扇動された風が、私の長い髪を揺らす。

「寝てんじゃねえよ。お前は病人か?」

 私は彼から差し出された竹刀を押し返しながら、答える。

「アンタこそ何よ、朝っぱらから。寝起きの私を襲って勝とうとするつもり?」

 私と彼のやりとりを見て、舞生は驚いた表情のまま固まってしまった。

「寝起きのお前に興味なんかねえよ。変に色づきやがって」

 そう言っている側から、私の体から目線を反らそうと必死になっている彼。

 そんな分かり易い彼の名を呼び、年長者らしく、私は指導する。

「銅、試合を申し込みたいのなら、もう少し私の機嫌を取りなさい」

「お前の機嫌って、どうやったら良くなるんだよ?」

「そんなの知らないわ。人の機嫌って天気のようなものだから」

「ここからじゃあ天気も何も見えないだろ。そんなの分かるはずもねえよ」

「あら、随分と話に乗ってくれるじゃない?」

 銅は眉を少し寄せて、困ったような顔を見せた。

 そして逡巡の後、彼は答える。

「それがお前の機嫌取りなんかじゃないのか?」

「――ご名答」

 私は珍しく頭を使っている銅に感心する。

「小夜にはちゃんと挨拶したの?」

 銅は私の言っている言葉が理解できないといった様子で、口をぽかんと開ける。

「――は?なんでそこで小夜の名前が出てくるんだよ?」

「お前が私に怪我でもさせられたら、小夜が泣くじゃんか」

「――んなこと、勝負する前に何で言わなきゃならねえんだ」

「戦に行く前にする事と言ったら、一つと決まっているんだよ」

 そう呟きながら、私は彼の誘いに応じる事を決める。

「仕方ないな。今度はちゃんと予約しなよ」

 童顔な彼の瞳が、本当の輝きを取り戻す。

「俺の相手をしてくれるのか?」

「なんだよ、急に下手に出て。あんたが持ち出した話だろう?」

 やはり幼さを残しながら、銅の頬が緩む。

「よっしゃ!俺、道場で待ってるぜ!」

「はいはい」

「早くこいよ。あんまり待たせると、防具無しでやってもらうからな」

「望むところだよ」

 銅は持ってきた竹刀の一つをベットに立てかけ、颯爽と部屋を出て行った。

 一瞬で過ぎ去っていた嵐に舞生は目を見張りながら、ようやく動き始めた口で言葉を並べる。

「あの――彼って確か、銅君でしたよね?」

「そうだね。舞生から見て一歳年下か。あいつのガキっぽさは、いつまで経っても変わらないよ」

「不良グループのリーダーだったんですもの。それでも大分変わりましたね」

「どのあたりが?」私は笑いながら訊ねる。

「そうですね、悪っぽさが無くなりました。邪気が取れた感じで――」

「無邪気になったと?」

「ええ――。言葉そのままの意味ですけど、まさにその通りです」

「まあね。もとからアイツは、あんな風な奴だったのさ。変に悪ぶってみちゃってさ、背伸びをしたがるんだよ。男の子って、大概そんなもんだろう?」

 舞生は宙で直人の事を思い浮かべているのか、幸福そうに微笑みながら言う。

「直人は違いましたけどね。でも、他の男の子達が不良になりたがるのは、何となく分かるような気がします」

 そんな彼女は、笑みで柔らかく動く唇で話を続ける。

「でも、アヤトさん。大丈夫なんですか?」

「何が?」

「銅君の誘いですよー。今から、剣道の試合をするんですよね?」

「え、あ、まあ――、朝の準備運動のようなものだよ。それに暇つぶしにもなるし。流石に一日中ベットの上というのも、不健康な気がするから」

 かと言って、私はこんなことをしてはいられなかった。

 私には、やるべき事がある。

 残り少ない時間で、私は私のやりたい事を成し遂げたい。

 一人で消える為には、たいそうな準備が必要なのだ。

 私はそう考えながらも、ベットから立ち上がる。

 部屋の隅で肩を狭くして立っているクローゼットに向かい、その扉を開ける。

 中で並んでいる衣服は、ほんの僅かしか無い。

 私には必要無いのだ。

 見せる相手がいない私にとって、着飾る必要は無い。

 自分を少しでもよく見せようなどとは、考えてはいけなかったし、思わないようにした。

 しかしそれは、つい最近までの事だった。

 それまでは、そう考えれば良いと、真剣に思っていたのだ。

 私は女として生きることを求められず、私も自分に女という性を求めなかった。

 けれどそれは、ある一人の男性によって、徐々に崩されていった。

 彼は私を女として見てくれ、女としての私を期待した。

 私は半信半疑で彼の言葉を聞いていたが、彼の言葉は、私が一人になった時間に限り、信憑性を重ねて増大させる形で何度も私に語りかけてきた。

「アヤトさんは、美しいんです」

 いっそのこと、その言葉と一緒に彼を切ってしまえば良いと思った。

 無限の言葉で私を惑わすその口を、塞いでしまえば良いと思った。

 その張本人の姉である舞生は、少ない衣類の中から私が纏う衣服を選ぶ。

 動きやすい格好という私のリクエストを無視し、自分の部屋から持ち出したアクセサリ類を私に身につけさせる舞生は、何やら楽しそうだ。

「ま、アヤトさんに夢中な銅君の相手をするんですから。多少は気合いを入れませんとー」

 終いに舞生は、アクセサリと一緒に持ってきた化粧品で、私に丁寧な施しを短時間で済ませる。

「いい加減、アヤトさんも自分のコスメくらい持ってくださいよー。いくら化粧の要らないくらい綺麗なアヤトさんでも、勉強くらいはしておいた方が良いですから」

「はは、そうかもしれないね」

 私は頷きながら、自分で自分の化粧を施すのは、死に化粧だろうと胸に決めている。

 最初で最後になる、己を飾る作業。

 この世から消えて無くなる為の儀式。

 私は、成功するだろうか?

 綺麗に消えてなくなる事が、本当にできるのだろうか?

 私は葛藤しながら、竹刀を持って、銅の待つ道場へ向かう。




 道場の空気は乾いていた。

 私は大きく息を吸う。

 鼻腔に絡みつこうとする臭いは、古く、かび黴臭い。  

 床に僅かに付着している埃は、空調が定期的に拭きかける息で小さなワルツを踊っている。天井には、快晴を模したスクリーンパネルが全面にはめ込まれていて、時折そのスクリーンに小鳥たちが舞っては、互いに太陽の恵みを喜び合う。鳴き声は道場の四隅に設置された立体サウンドシステムの賜で、太陽の光はスクリーンに空いた僅かな穴から、大量の熱と光を伴って私達を照らし出す。

 このような自然をエミュレートしている施設は、この病院内に無数にある。

 一方、本物の空を見せてくれる区画は、この病院内には一つも存在しない。

 私達の病気の感染方法が、空気によるものだと決めつけた結果がそこにあった。

 銅は、その道場の中央で正座をしている。

 彼の身には防具が着用されており、真面目にかぶった面が彼の顔を隠していた。

 私は彼に一歩踏みだし、彼の注意を引いた。

 彼は私の姿を見て、お決まりの台詞を吐く。

「防具はどうしたんだ?」

 もはやそのやりとりは、銅と私が試合をするまでの一連の儀式となっていた。

 私は、私の台詞で、いつもと変わらない調子で答える。

「当たらなければ良いんだよ」

 私は私の技能を過信している訳ではなかった。

 銅の技能を疑っている訳でもなかった。

 私は、これまでの相手から直接的な打撃を受けたことは無い。

 そして、私の太刀がかわされた事も無い。

 よってどんなに成長を見せている銅でも、私の中でのその法則を破ることはできない。

 私は防具をつけず、一撃にのみ全てを込める。

 そのシンプル過ぎる戦略は、私らしさを表すものでもあり、私の生き方を代弁するに値するものだった。

「今日こそは、防具を付けなかった事を後悔させてやるからな」

「――楽しみにしてるよ」

 そう言われて銅は立ち上がった。

 防具の擦れ合う音が、擬似的な環境音の中で、唯一、生物的な効果音に聞こえた。

 私は左手で持っていた竹刀に右手をそっとあて、徐々に、精神を竹刀全体に集中させる。

 精神が竹刀によって統一され、意識が高まっていくと、安物のボロボロになった竹刀は、私の手となり、肉体の一部として働き始める。

 意識せずに人は呼吸をできるように、私は思考無しに竹刀を振り回すことができた。

 頭を使う必要はなく、本能の赴くまま、私は私に剣の技を楽しませる。

 それが私に許された、たった一つの快楽らしい。

「舞生、とりあえず、合図頼むわ」

 後ろで私を見守っていた舞生は、緊張しているせいか、直ぐには返事を返せなかった。

 竹刀の先を合わせた私と銅を見て、ようやく我に返り、舞生は小さな声で合図を出す。

「――はじめ」

 銅の両腕が、素早く、肩より上にかかげられた。まず始めに天を突く、銅の戦法だ。

 私はそれを視認しつつ、半歩だけ引き下がる。そして戦いのビートはあっという間に始まっていた。

 銅の竹刀が斜めに弧を描き、私の肩に食らいつこうとする。

 私は下段の構えからそれを薙ぎ払った。二人の竹刀が空気の波を作る。

 餌を取り逃した竹刀は、動きを補正され、弾かれたパワーを殺しながら中段の構えに移た。

 私は振り上げた竹刀の勢いを生かしながら、軽く宙を飛んで、後方に身を引く。

 銅の面に隠れた表情に、満足そうな気配を感じた。

 私は余裕な素振りを見せる。

「勝機でも見えたの?」

 構えを維持したまま、すり足で距離を詰める銅。

「始めから見えていない。――だけど、楽しいんだ」

 銅の二撃目が、私の小手をものにしようとしていた。

 私はそれをかわそうとせず、逆に両手を銅の前に素早く押し出し、彼の持つ距離感を狂わせた。

 空振りをした銅の竹刀は、私の胸の前で風を切る。

 私は両手を前に差し出したその姿勢から、銅の頭を狙うかどうかの選択を迫られたが、あえて追撃を選ぶ事はしなかった。銅が間合いを詰めてきたからである。

 私は彼の珍しく攻勢的な姿勢に感嘆しながら、私は構えを整え直し、銅との間合いを竹刀で調整した。

 押されたままでは、何が起こるか分からない。

 呼吸を整えながら、次の動きを考えていたその時だった。

 後ろの方から、聞き覚えのある声が私の背中に伝わる。

「アヤトさん、珍しく押されてますね」

 直人の声だった。

 私は思わず、彼の方を振り返ろうとした。

 そこに銅の追撃が、私の隙を見逃さずに打ち込まれる。

「っつ」

 右肩だった。

 それは明らかに銅の竹刀であったが、私にとってそれは密度の高い鈍器で殴打されたような衝撃を感じた。

 生涯初めての打撲の痛みは、物凄く新鮮味のある刺激では終わらなかった。

 打たれた右肩から倒れた私は、情けなくその場で竹刀を横たえる。

「っだ、大丈夫かよっ!?」

 打撃を与えた銅自身が、私の瞳に映る三人の中で、一番の動揺を見せていた。

 私は、反復的に襲ってくる割れるような痛さに右肩を押さえながら、苦し紛れに答える。

「年なんだわ。骨もボロボロ」

 私の冗談は銅の顔を青く染め、心配そうに私を見つめている舞生の目元には、涙が浮かんでいた。

 私は、距離を置いて見守る直人に悪態を吐く。

「直人がこんなところに来たからだよ」

 それを聞いた直人が、申し訳なさそうに片手で頭を掻きながら、

「通りかかっただけなんです。まさかこんなところでアヤトさんがいるとは思いませんでしたよ」 

 手を差し伸べる銅に、私は、

「今のは肩だから無効だよね?」

 と言いながら、彼の手を借りずに自分で立つ。

 銅は差し伸べた手を所在なさげに自分の方へ戻しながら、震える顎で頷く。

 舞生は耐えきれなくなったのか、泣きじゃくった声で私達に叫んだ。

「もう、試合は良いじゃないですか!?アヤトさんの体調だって、もう、そんなに良くないんですよ………!それなのに――」

 私は彼女の言葉を遮って、

「良いじゃないか。これでも調子は良い方だし、今のうちにやっておかなきゃ、もう出来ないかも知れない」

 興奮する舞生をなだ宥めながら、私は口惜しそうに唇を噛む銅に向き合う。

「だから銅も手加減するんじゃないよ。私にトドメを刺す勢いでかかってきな」

 銅は竹刀を握り直し、姿勢を直した。

 私は痛みに堪えながら、その場で私を見守っていた直人と舞生に、離れているようにと、注意を促した。

 私と銅から距離を離していく直人達を背にして、私も竹刀を持ち直す。

「さあ、始めようじゃないか。お前のためにも、決着をつけさせてあげるよ」




 私は回想していた。

 何故だろう。

 今は銅との試合の最中だ。

 昔と比べ、格段に強くなった銅。

 体が蝕まれ尽くされそうとしている私が、そんな彼を相手に余裕が出る筈は無いのだけれど――。

 私は今、試合とは別の事を考えていた。

 正確には、思い出していた。

 それはそう、少し昔の事だ。

 その昔には、まだ直人はいなくて、誰とも出会っていない私はとにかく暴れていた。

 暴力の限りを尽くし、この世界を牛耳る何かを壊そうとした。

 手には竹刀。

 随分すり切れ、風化してボロボロになった竹刀だった。

 剣道場の倉庫から持ち出したそれで、私は手始めに医者を襲った。

 医者では者足りず、管理官を襲い、看護婦、患者にまで斬りかかった。

 人を壊せば、何かが変わるはずだ。

 この世界を構成しているこの人間達を破壊すれば、世界も変わるはずだ。

 私はその一心で手当たり次第に誰かを襲い、最後には武装した管理官にゴム弾を当てられ、気絶した。

 決まって、監獄の中で私は目を覚まし、涙するのだ。

 私が何をしようと、例え私が壊し得るもの全てを壊しても、世界は変わらない。

 私が変わらない限り、世界は変わらない。

 私はこの病院で生まれた。

 そして私はこの病院で死ぬ。

 その絶対的な法規が私の世界の全てで、その法を執行するシステムがこの病院だった。


 だから、舞生の気持ちを知っていた。

 舞生がこの病院から抜け出そうとして、失敗し、自殺を試みた事。

 私はそれを、批難することはなく、理解した。

 こんな世界になら、私は存在しなくていい。

 私を苦しめるだけの世界なら、私は私を辞めてもいい。

 私も舞生と同様、真剣に考えていた。


 幾度となく監獄と病室の間を往復し、ゴム弾の痛みにも慣れ始めた頃。

 私は親しい医師を騙し、刃渡りの長いナイフを手に入れる。

 私はそれを、調理用に使うとでも言った。

 まったく料理をしない事を知っている医師は、私の取る行動を知りながらも渡したのだろう。

 そして私は、そのナイフを隠し持って、新参者の男の子を捕まえた。

 彼の胸ぐらを掴んで、女子トイレの個室に押し込む。

 続けて私はそのナイフの柄で彼を殴りつけ、彼の顔を血で染めた。

 鼻血を流し、殴られ続けながら、その男の子は何も言わなかった。

 私は彼を恐怖に陥れるために、更に殴り続けたが、彼は抵抗すらしなかった。

 私はできるかぎりの低音で、彼に言う。

「殺すぞ」

 そう脅して、彼はやっと生命の危機を感じたのか、ようやく動きを見せた。

 私は心の中で満足に頷く。

 彼の手は私のナイフを奪い、私に突き立てる。

 私はそれに臆しないように装いながら、彼の腹部を蹴る。

 狭い個室で、彼の背中を便器が受け止め、私の蹴撃は壁にぶつかり、激しい音を立てた。

 私は彼の闘志をかき立てながら、挑発を続ける。

 そして短い間に、私と彼の形勢は逆転し、血みどろになった私はトイレットペーパーを取り付ける金具に、頭を預けていた。

 返り血で視界が遮られたのか、一度腕で目を擦った彼が、私に呟いた。

「――僕の目が見えますか?」

 私は聞き逃しそうになったその言葉を、彼の瞳の中に見た。

 彼は続ける。

「――僕の目に映る、あなたの姿が――見えますか?」

 その言葉は、怒りと悲しみが同じ分量で配分されていながらも、それとは別の感情の咆哮のようにも聞こえた。

「あなたは美しいんです。それを、僕を使って壊そうとするのは、あんまりだ――」




 銅の面が取れていた。

 何故だろう。

 続けて私は、自分の行為に疑問を持った。

 銅の面は遙か向こうに飛ばされていて、銅本人は、それとはまた別の方角で大の字になって倒れていた。

 私は私の両手を見る。

 少しだけ汗ばんでいたその手は、その根本で微かな脈動を示していた。

「アヤトさん、やりましたね」

 そう静かに勝利を讃える直人の声に、私は振り返らなかった。

 私はそのまま倒れている銅のもとに近づき、腰を下ろす。

 銅の目はしっかりと見開かれていて、その瞳は曇り空に変わりつつあった天井を捉えていた。

 彼は言う。

「――まだ、生きられるんだろ?」

 その言葉は、偽りの空に吸い込まれ、暗澹と立ちこめる雲の一つになりそうだ。

「その調子なんだ。お前が死ぬなんて――考えられねえ」

 私は垂れ下がる髪の毛を手で払いながら、銅の視界に割って入った。

「――残念だけど、これがお終いだと思う」

 銅の溜息混じりの鼻息が、私の言葉を吹き飛ばした。

「残念じゃねえよ。せいせいするわ」

「そう。それなら私も同感だわ」

 自然に微笑んだ。

 二人の間の空気が、少しだけ味わい慣れたものになったような気がした。

「確かめたい事が、もう一つあった」

 銅は私から目を反らし、首を横に倒した。

「なによ?」

「――直人」

「え、ああ――そう」

「そう――ってのは無しだぞ」

「だったらはっきり訊きなさいよ」

「――どうして、俺じゃ駄目なのかって」

 私は銅の質問に対する答えを確かめるように、顔を上げ、直人を見た。

 直人と舞生は私達の会話が聞こえないようにと、私達から適切な距離を置いていた。

 そんな遠くに見える直人の顔は、埃っぽい空気で霞んで見える、

「――ガキっぽい」

 私はできるだけ銅が傷つくように、声のトーンを上げずに言った。

 それに対し銅は、当たり前の事を言われたかのように平然とした顔で、私を見据えた。

「それだけじゃないだろ?」

「それだけよ。それ以外の事を言ったら、アンタが私より先に死にそうだし」

「死なねえよ」

 銅の口先は尖り、その先から出てくる想いを、私は汲んだ。

「まあ、それほどアンタの事が嫌いじゃなかったから」

「は?」

「そのくらいで許してよ。相手してあげただけでも儲けものでしょう?」

 銅は嬉しいのか口惜しいのか、複雑な表情をしながら、そっぽを向いた。

 私は立ち上がり、銅に手を差し伸べた。

「お前って今、幸せなのか?」

 起きあがりのさなか最中、銅が私に尋ねる。

 私は銅の手を離し、床に体を叩き付けようとかと一瞬本気で考えた。

「――さあね。アンタから見てどうなのよ?」

 起きあがった銅は、背中についた埃を払いながら、素っ気なく答える。

「――教えねえよ」




 試合の後、私はまっすぐ部屋に戻った。

 体中に疲労が溜まっていた。

 体力が低下している。

 それも、急激にだ。

 少なくとも、数日前の私は、こんな軽い運動では何とも思わなかった。

 それが今、大きな疲労と共に、無数の針で刺されているような寒気を感じている。

 私は肩の痛みと疲労、そして悪寒と戦いながら、ベッドの中にうずくまる。

 誰とも会いたくなかった。

 毛布の暗闇の中に顔を埋め、全ての熱を自分のものにしようと必死になった。

 そんな時、鍵をかけた私のドアをこじ開け、一人の男が入ってきた。

 私はその足音を聞き、背筋を伸ばした。

 彼はベットの脇に立ち、見下ろす形で私に尋ねる。

「――本当は、どうなんですか?」

「寒いよ。――特に、直人が入ってきてから急激に」

「それは悪い事をしました」

「そう思ったなら、私を暖めてよ」

 私は毛布から顔だけを出し、困った顔の直人を愉快に観察した。

 直人は私の腕に手を添えながら、言葉を選んだ。

「僕の手だって、――冷たいんですから」

 そういう直人の手は、決して冷たくはない。

 年齢のせいでもある。

 二十歳に近づくほど、私達の平熱時の温度は、低下していく。

 しかし、十八歳にもなる直人の手は温かくて、同じ年齢の舞生の手は冷たかった。

 私はその理由を憶測はしているが、直人本人には一度も言ったことは無い。

 私はその考えを仄めかすように、直人を茶化す。

「本当に冷たくても、今の私の手くらいなら、暖めることはできるんじゃない?」

 直人は曖昧に笑い、その手を私の額に移した。

「熱でもあるんですか?」

 私はあえてそれを拒もうとせず、直人のされるがままにした。

「あればあったで、――嬉しい」

 直人は何を考えていたのか、重たい息をふうっと吐き出し、私の額から手を除けた。

 彼の目が、真剣さを帯びて静かに光り始めた。

「――本題に入りますよ、アヤトさん」

「あーあ。せっかくのお楽しみをそうやって終わらせるのね」

「時間が無いんです。それはお互い様ではないんですか?」

「――嫌な事を言う」

「アヤトさんに嫌われる事が、僕の仕事でもありますから」

 私は軋む上体を起こし、枕を腕の中に抱えた。

「日取りは明後日にします」

「突然だね」

「突然です」

 そして、直人は表情を変えずに、

「――姉さんは連れていかない事にしました」

 と、平然とした様子で直人は告げた。私はそれを信じられず、問い返す。

「どうして?舞生と直人が一緒じゃなきゃ、意味が無いじゃない」

「よく考えた上で、決断したんです。姉さんは連れていけない」

 悩んだ末の答えなのだろう。

「姉さんを危険に晒すことはできない。たとえ外に脱出できたとしても、姉さんを匿う自信と余裕は、僕には無い――」

 直人はこの病院を脱出する計画をずっと前から立てていた。

 正確には、この病院に収容された時から考えていたらしい。

 私が直人を使って自殺を試みた時、直人は私を止める為に言ったのだ。

 僕たちは閉じこめられたままの一生を、過ごす訳にはいかない。

 いや、正確には違って、その場をやりきるために繕った、ただの出任せだったのかもしれない。

 けれど直人は、あの時から計画を少しずつ立て始め、その旨を私に伝えてきてくれたのだ。

 この病院に生まれた私は、直人にとっての最も身近で、最も豊富な情報源であった。

 ――必ず外に出られるんだ。

 その言葉は脱出計画の打ち合わせの合い言葉であり、直人の祈りに違いなかった。

「本当は、姉さんを連れていきたい。僕を犠牲にしてでも、姉さんを外に出してあげたい。でも、それではみんなを助ける事はできないんだ。みんなを、そして姉さんを助けるために、僕は彼らと接触しなければならない――」

 直人の言う彼らとは、私達の病気を治癒する可能性を持つ夫婦の事だ。

 その情報は、ある患者が作成したラジオが受信した電波によるもので、それが噂として院内に広がったものだ。

 信憑性はどこにもない。

 そのラジオを聞いた人間の聞き違いであるかもしれないし、退院を夢見た患者の単なる妄想である場合も考えられる。

 その後、患者が作った手製ラジオは没収された。

 希望的な情報と、管理官による隠蔽で幕を閉じたそのエピソードは、噂として患者達の間で肥大しながら、今もなお私達の記憶の中にしぶとく生き残っているだけなのだ。

「僕はほんの僅かな可能性にでも、かけてみなければならないと今でも思っています。絶望するなんて、僕たちにはできないし、許されない。そんなのは、只の甘ったれなんだ」

 熱く語る直人を、私は眩しく感じながら見つめる。

「脱出することができなくても、ここに僕たちが監禁されているという事実を、外の世界に伝えなければいけない。ここの奴らは、治療する気なんて全くない。患者という厄介者を同じ箱に詰め込めて、僕たちが勝手に死ぬのを待っているだけなんだ」

 ここの医師達が、私達の病気を治す意志が無いというのははっきり言い切ることはできない。

 しかし、私が過ごしてきた二十年の間に、本当に退院したという患者はいないのだ。

 年に一度、院内放送で数名だけ退院した者の名前が読み上げられるが、その名前の人間は存在しないことを、管理室のデータベースにアクセスした直人は、しっかりと確認している。名前を読み上げるという作業も、私達に暴動を起こさせないためのマインドコントロールに過ぎないのだ。

「明後日、警備の手が薄くなることを小夜から聞きました。人事異動と、装備の換装についての会議で、院内の警備隊の殆どは会議室にいます」

「とは言っても、ほんの僅かな時間でしょ。それに、外の警備とは無関係だし」

「今回の会議は特殊で、外の警備も多少は手薄になるそうです。チャンスなら、その時にしかありません」

 チャンスはその時にしかない。

 その言葉は語弊があるだろう。発言した直人自身もきっと気付いている。

 チャンスは何時だってあって、私達はそれを逃して、のうのうと生きているだけなのだ。

 そして今というチャンスも、私の死期に合わせただけの事だ。

 私が潰える前に、私と直人は、私を活用しなければならない。

「そうだね。やるならその時か――」

「――はい。使用するルートは、C―4フロアのトイレのダクトから入って、第二管理室に落ちる第三案です。数人は警備員がいると思いますが、力押しします」

「男子トイレ?それとも女子?」

「状況に応じて、です」

 もはや三年前の出来事になるが、中坊上がり直人は、女子トイレに連れ込まれた時、内心は心臓がはち切れる程、焦っていたに違いない。

「まあ、それが妥当といったところね。その後はどうするの?」

「警備員室から非常口用の鍵を入手し、外に出ます。鍵の場所は、既に確認しています」

「外に出た後は?」

「そこからは未知です。できるだけ見つからないように走って、病院から離れます。夜の闇が味方をしてくれますが、予報では満月になるそうです」

「月までは、私達の味方をしてくれないってわけね」

「――そして、逃げ切った後、民家に駆け込みます。通報されないよう、説得し、もっと遠くへ逃げる手段を探します。場合によっては、追っ手をどうにかしなければならなくなるでしょう」

「一般人を説得するって――それに応じてくれなかったらどうするの?通報するかもしれないんだよ」

「その時は、脅すまでです」

「随分乱暴ね」

「覚悟さえできれば、大抵の事はできます」

 そう言う直人の目は少し遠い。

「度胸あるじゃない」

「じゃなきゃ、計画すら立てられませんよ」

 そうして直人はその後、警備隊の装備の説明を始めた。

 私はその説明を聞きながら、毛布の影で、直人から見えないように必死に両手の指を動かす。放っておけば、今にも脈が止まり、凍ってしまいそうだ。

「――以上です。荷物は最低限に留めてください。僕は記録用の手帳しか持って行きません」

 そう言って直人は、胸ポケットからすり切れた革でかろうじてカバーの役割を果たしているくたびれた手帳を取り出した。その中には、何度も消しては書いた、この病院の事実が記録されていて、本人にしか解読できない粗末な文字たちの、居慣れた住まいと化していた。

「私は何も持って行かないから」

「――そうですか」

 少し残酷な事を訊いてしまった。

 直人の顔にはそう書いてある。

 私が最後まで持って行ける荷物とは、すなわち物理的法則に従わないもので、往々にして私達が容易には手にすることができないものの事だ。

「ま、私が最高のプレゼントをあんたにあげるから。そう心配そうな顔はしないで――」

 そう言った私だが、語尾はどうしても上手く発音できなかった。

 本当のところ、この計画が上手くいくとは思っていなかった。直人も私に強気な姿勢を見せてはいるが、実際のところはそれほど自信が無いに違いない。

 それは直人が立てた計画だから、という訳ではなく、私自身がこの病院の警備の固さを、身を持って知っているからなのかも知れない。

 死を許した者以外に、この病院から脱出できたものはいない。その事実は絶対なのだ。

 直人は私の顔を見て、何を思ったのか、急に声を強めた。

「生き残るんです!僕も、アヤトさんも――」

 私はそのように真剣に語る直人を思わず笑い、目元から溢れた涙を震える手でそっと拭った。

「あ、当たり前じゃない。私、あんたより先に逃げるんだからね。力の無いあんたなんかすぐに置いて、いちもくさんに逃げるんだから――」

 言葉の角をうまく言い表せられなかった。

 どうも言葉は喉の奥で濡れてしまって、変な丸みを帯びて外に出てしまう。

 そんな私を気遣って、直人は私に手を差し出す。

 私は毛布の奥に手を隠し、それを拒んだ。

 しかし、直人は諦めず、私の手を追った。

 逃げ惑う私と、それを求める直人の手が一瞬触れ合う。

 電撃にも似た衝撃を、その一瞬の中で存分に味わった。

 私は観念し、強く目を閉じる。

 二人の温度差を埋めるものは何もない。

 私はその事実を否定するように、閉じた瞼に力を入れる。

 この熱を、誰が納得のいくように説明してくれるのか。

 直人の熱を、誰が受け入れていいものだろうか。

 その両者にも当てはまらない私は、深く、本当に深く息をつき、直人の手を両手で包み込んだ。

「行こう――そこにきっと、僕たちの未来がある」

  

 


 そして直人にとっての未来は、私にとってのこの瞬間であった。

 埃だらけのダクトから落ちた私達の先には、会議に出席していたはずの銅と小夜がいた。

 その二人の側には数人の警備員がいて、直人が言っていた通りの武装をしていた。

「――皮肉なものだね」

 その私の呟きに、直人が頷いたかどうかは見えなかった。

 私は誰よりも先に動き、警備員達の動きを制す。

 警備員と言っても、院内の患者で構成された、ただの子供である。

 患者が患者を取り締まるというシステムの是非を私が論じる事はできないが、少なくともこういうケースに直面した場合、一番の苦労を強いられるのは彼らなのだ。

 銅が私の薙刀をギリギリで受け止めながら、叫ぶ。

「人の巡り合わせって、こんな残酷なものなのかよっ!」

 銅のらしくない発言に私は少し楽しくなりながら、銅の脇腹に薙刀の柄を強打させた。

 胃液を吐き出し、銅が倒れる。

「あかがねっ」

 自分の吐瀉物に顔を突っ込んだ銅を見て、彼の幼なじみである小夜が、目の色を変えた。

 銅に駆け寄る小夜。

 私は彼女の背後に回り、素早く間接を外した。

 力を一気に抜かれ、小夜はその場に立つことができなくなった。

 ふなふなと倒れ、銅に重なった小夜は、目だけで直人を追う。

「最後まで――、逃げ切っ――」

 その声が他の警備員に聞こえ切らないよう、小夜の頭を薙刀で強く突いた。

 彼女の意識は、一瞬の苦悶の末、銅の腕の中に落ちる。

 鍵を手にした直人が、私の手一つで倒れた警備員達を見て、声を落とす。

「ごめん――銅、小夜――」

 できれば、お前達と一緒に逃げたかった。

 直人はそう言いたかったのだろう。

 小夜は舞生の親友で、直人とも交友が深い。

 彼女と長い付き合いである銅も、直人とは顔見知りで、決して争うべく関係には無かった。

 計画の予定にはなかった二人の登場に、私も少し動揺しながらも、直人の背中を追う。

 直人が非常扉の鍵を回した。

 乱暴に、その扉を押す。

 開けた非常扉の向こうには、夜の黒が無遠慮に広がっていた。

 その黒を、星々が点々と装飾し、闇の台紙に掲げられた満月は、嫌味な程に輝いている。

 不安で塗り固められたその未踏の地に、一筋の光を注ぎ込むように、直人は足を一歩先に踏み出した。

 私も続いて、闇の中に足を踏み入れる。

 初めての空気だった。

 初めての風だった。

 直人の吐く息は白く、私の吐く息は黒い。

 私はその事実に驚きを隠せず、直人の白い息を見て、年甲斐もなくはしゃいでしまった。

「直人の息って、白いんだ――」 

「そんな事を言っている余裕はありません。今から走ります――」

 私達は鉄か何かでできた固く冷たい階段を急いて駆け下り、生の土を踏んだ。

 私の足はその感触に違和感を覚えながらも、前へ前へと進む。

 どこからともなく、季節の知らない風が身を切るように強く吹きかかり、私は足を持って行かれそうになった。

 倒れそうになった私を、直人が支える。

「――大丈夫ですか?」

「――あ、ごめん。実はもう、やばかったりするんだわ………」

 直人の支える手が、二人の接点であり、同時に私の温度計になっていた。

 私の体温の低さに、直人も気がついているんだろう。

「うっすらとですが、ここからもっと行った先に塀が見えます。あそこまで行きましょう――」

 私はその言葉を頼りに立ち上がり、自分に呼吸を促した。

 咽喉に入ってくる空気すら生ぬるく、私は今もなお、季節の感覚を掴む事はできない。

 私達は走り、私は何度も転んだ。

 その度に、直人が優しくゆっくりと起こしてくれる。

 ――もう、起こさなくて良いから。

 その言葉が胸につかえて出てこない。

 私を置いていけば、もっと遠くへ行ける。警備の奴らだって、今に私達の後から現れるだろうし、あの向こうの塀にも、ゴム弾の詰まった銃を持って、今か今かと私達を待ち受けている。

「諦めないんです――アヤトさんは、強い人なんですから――負けてはいけない人なんですから――」

 直人の声にも息切れが交じり、体が少しずつ傾斜し始めていた。

 そんな直人にも必死にならなければ付いていくことのできない私は、転ぶたびに削り取られていった体力を大事に抱えながら、冷えて麻痺しつつある手足を懸命に前へ押し出す。


 私達は必死に走り続け、真っ平らな人工芝で続く辺りの景色も変わり映えを見せていた。

 直人が息も絶え絶え、叫ぶ。

「もうすぐです――もうすぐ走れば――」

 その声が、飛来する何かに遮られた。

 直人の体がくの字に曲がり、私はその光景を見る。

 塀を目の前にしたその前方には、月夜を背景に並ぶ人影が群れを成していた。

 その前列の数人だろうか、この距離でもはっきり見て取れる事ができる不気味な黒光りを放つ銃器を、私達に向けて構えている。

 直人は私に抱えられた格好のまま、腹部の痛みに悶え苦しんでいた。

 私はその腹部をさすり、それがゴム弾による肋骨の骨折であると触診した。

「ちょっと休んでて――」

 私は直人にそっと言葉をかけ、後ろ手で刃渡りの長いナイフを抜き出す。

 薙刀は外に出る前に捨てていて、私にはその武器しか所持することを選ばなかった。

 そのナイフは、日本刀の様な妖艶な輝きを放ち、月光と共に周囲の視線を釘付けにする。

 ――勝ち目などない。

 私が戦いという言葉を使う場合、それは相手との圧倒的な力の差を感じた時だけだった。

 私の戦いに、勝ち目はない。

 その予見を覆すこと。不可能と思うことを不可能にすること。

 勝てる筈のない相手に勝った時、それが私の戦いにおいての勝利だ。

 私という人生においての、最大で真実の勝利だ。

 だから私は、まだ一度も、勝負に勝てた相手はいない。

 この病院を相手にしたってそうだし、この病院にいる私自身にだってそうだ。

 本当に勝つということは、絶対にはできないという諦めに近い失望の淵から始まって、希望を道しるべに、その至難で困難な登山を果たすことなのだ。

 そして私は、この状況を前にして、二つの負けを認めている。

 やはり、この病院という箱庭から出られないという事。

 そして、直人に自分の気持ちを告げる事ができなかったということ。

 私が私に負けた理由は、直人を好きになってしまったからで、それを伝える事が出来なかった事だ。

 どんな人生であれ、必ず何かに限られている。

 それは時間的にも、空間的にも。

 外の世界の人間は、一見自由奔放に見えて、実際は私達と同じように閉じこめられているのだ。

 その人間の人生を制限する正体は、きっとただの現実という檻に過ぎない。

 どんな場所でも、どんな時でも、私達人間に現実がつきまとう限り、人間は脱出し続けなければいけない。

 こんな絶体絶命な状況を前にして。

 今にも凍り付きそうな想いを胸にして。

 私はそうやって冷静に考え、思う事ができる。

 体だけではなく、静かにそっと冷えて冴えていく私の思考。

 そしてその私の気持ちは、一つの希望と願いで収束を得るのだ。

 その希望。その願い。

 それが、私への、私達患者への、私達人類への、確かな祈りだ。

 ――直人を、脱出させる。

 直人を外の世界に逃がさせ、外からこの箱庭を揺すぶるのだ。

未来を限定された少女が

可能性のある少年に全てを託します。

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