花笑み
僕には現在、二人の娘と、綺麗な静という妻がいる。慎ましやかな生活ではあるが、とても幸せだ。
だからこそ、僕はあえて、このことを書き記しておこうと思う。
私はその人を常に先生と呼んでいた。
夏目漱石の『こころ』は、その言葉から始まる。だから僕もそれに倣って、この一行から始めようと思う。
僕はその人を常に先生と呼んでいた。
先生は僕の先生などではなかったのだけれど、どことなくこころの先生に似ている気がしたから、先生。夏目漱石のこころはボロボロになるまで読んだ、僕の愛読書である。
「先生……ですか?」
午後三時。こじんまりとした庭を眺める縁側に二人、腰掛ける。僕と先生との間には、里子さんという女中の持ってきた、日本茶とお茶請けの饅頭が盆に乗せられ、置かれていた。饅頭を一つ手に取り、先生の言葉に頷く。
「はい。漱石のこころに出てくる『先生』です」
「というと、私は厭世的な人間にでも見えると言うことですか」
それは褒め言葉じゃないですよね。先生がからかいを含めた声音で言う。
「いや! そんなわけで言ったつもりは……」
「わかっていますよ」
先生を先生と呼んでも良いですか、そんな話をふと持ち出して見たときだった。
慌てて否定する僕に先生は小さく笑って、冗談ですよ、もう一つ食べなさいと饅頭を差し出してくれた。少なからずほっとして、庭に蔓延る雑草をボンヤリ眺めながら、饅頭を二つに割りあんこを舐める。
「しかし、私と先生では、人となりも、境遇も全然違うじゃありませんか?」
ぽつり、呟くようにして先生はこちらを見た。極度の弱視である先生の分厚いレンズから見えた瞳から、僕は先生の感情を読み取ることが出来なかった。それ故、もしや機嫌を損ねてしまっただろうかと不安になる。
「まあ……そうです、けど」
「君がそう呼びたいのなら、私は構いませんけどね」
ふっと笑った先生がそう言って許諾してくれたので、やっぱり僕は先生、と呼ぶことにした。
居間に置いてある鳩時計が妙に調子の外れた声で鳴き始める。とすると、今はもう午後四時になったのか。
あの鳩時計はどうやら壊れているようで、午後四時にしか鳴かない。それ以外の時間で鳴いたのを僕は見たことがない。
鳩が時計に帰って行くのを見遣って先生は腰を上げた。つられて僕も立ち上がる。
「そろそろ出かけましょうか」
「はい」
先生は毎日午後四時になると、決まって散歩に出る。行く先も決めず、ふらりふらりと曲がりくねった路地を行く。
一歩外に出ると、先生は周りの住人に『明治さん』と声を掛けられる。そして、か細い先生の躯を見てか、芋やらにんじんやらを、こぞって僕に押しつける。いつも散歩帰りの僕の両腕は、あれやこれやの荷物で塞がっていた。その内のいくつかは、僕の下宿先での飯となる。
『明治さん』というのも先生の名ではない。確かに、先生と呼ばれる職業に就いていたことはあったらしいのだけれど、何よりも多分、古い日本家屋に住み、いつも和服を着ている姿から安直にも古い時代を思うのだろう。
「実記くん、こんばんは」
近所に住んでいるという、同じ大学の西東さんが親しげに声を掛けてくれた。彼女の手には焼き芋の入った紙袋が抱えられている。
「明治さんと二人で。良かったらどうぞ」
そう言って西東さんは新聞紙にくるまれた芋を二つ、分けてくれた。
「ありがとう」
先生に一つ、と思って先ほどまで居た場所を見ると、先生の姿がいつの間にか消えている。ついさっきまではそこで隣のお婆さんと談笑していたのに。
「先生?」
慌てて辺りを見渡すと、電柱の影で近所の野良猫を撫でていた。
「西東さんから」
野良猫の喉をくすぐっていた先生に一つを差し出す。野良猫は僕の足に尻尾を巻き付け、愛らしく鳴いてみせた。しゃがみ込んで、僕もその野良猫を撫でてみる。野良らしくゴワゴワとした毛玉だらけの毛並みだ。
「ああ、あそこのお嬢さんですか。ふむ……美味しいですね」
「そうですね」
ねだられ、小さくしたものを野良猫にあげながら、ほくほくとした湯気を立てる芋に舌鼓を打つ。バターも塩も、何も付けていないのに、甘い。
「秋ですねえ」
赤トンボが目の前を横切って行った。目でトンボを追っていくと、空は綺麗な橙色。思わず見とれてしまう。
少し高台のここからは、ゆっくりと街の中に太陽が沈んでいく様がよく見える。橙色に包まれていく街並みに、一つ二つと明かりが灯る家々。近くの街灯が古びた音を立てて、何とか明かりを灯す。
「寒くなってきましたね」
そろそろ帰りましょうと先生は名残惜しげに抱いていた野良猫を放した。
からんころん。
先生の履く下駄の音がアスファルトに響く。先生に追従して、僕も両手一杯になった荷物を抱え直した。
こころの『先生』と『私』の出会いは由比ヶ浜の海岸だが、先生と僕は公営の図書館で出会った。今僕は大学に通っているが、先生と出逢った時はまだ高校生であった。
僕は裕福とは言い難い家庭の事情で、高校も大学も奨学金を貰いながら通っていた。アルバイトをしていたが、当たり前のように専門書を買う余裕などなく。なんとか公営の図書館でも賄えないかと、本棚をうろうろしていた時だった。
「君は何を専攻しているんだい」
先生は僕が図書館に行くたびに見かける人だった。視界の端で何やら古めかしい格好の人だけど、顔は綺麗だなあ、などと思っていた。でも、声を掛けられ、話をしたのは、その日が初めてだった。
「奇遇だね。私も昔それを専攻にしていました」
私の家にいらっしゃい。まだ専門書は残っているから、少しは君の役に立てるだろう。先生はそう言って先立って歩き始めた。
からんころん。
先生の歩く道には心地良い下駄の鳴らす音の響きが、浜辺の足跡のように残っては消える。
「好きなだけ居るといいですよ」
真鍮の鍵を差し込んで、先生は居間へと去っていった。ゆっくりドアノブを引くと、床には絨毯が敷かれ、壁一面には本棚が作り付けられていた。
部屋を見渡した僕は感嘆の溜息を吐くと、手当たり次第読んでいった。図書館で探していた専門書の類は全て揃っているように見受けられた。
僕は紙の匂いとインクのそれに包まれて、貪るように没頭していった。蔵書の表には埃が積もっている物が多かったけれど、保存状態はすこぶる良い。
「おやおや。こんな暗いのに電気も付けないで……」
パチンと音がして、柔らかい光がゆっくり広がっていく。
急に視界が明るくなって文字列から顔を上げると、先生のなんとも言えない表情とぶつかった。嬉しそうな、でも哀しそうな、そんな表情。でもその表情は幻のようにあっという間に消えて、元の掴みようのない笑みに変わる。
「気に入りましたか」
「すごく」
「じゃあ、いつでも来るといい」
先生はもう私は読むことがないのだから、と書斎の――先ほどの鍵を手渡してくれた。素性の知らない人間にこんな事をしてもいいのか、と驚き、戸惑っていると、
「盗まれて困るような物などありませんからね。玄関の鍵も閉めないんですよ」
こともなさげに言う。このご時世、そんなことを言う人がいるとは。金があるようには見えない田舎の実家だって人のいない時、寝る時にはしっかり施錠するというのに。
「そんな、危ないんじゃないんですか」
「こんなみずぼらしい家に押し入るような物好きなんていないですよ。いつでも、君の好きな時にいらっしゃい」
書斎の鍵を僕の掌に握り込ませるように、先生は僕の手を包んだ。少し荒れた肌と、ペンだこの感触。ぎゅうっと握りしめた鍵は冷たかった。
「それにスペアはないので、なくさないように」
「は、はい! ありがとうございます!」
初めは少し遠慮して三日、四日を開けて通っていたけれど、直に毎日のように暇さえあれば、先生の家に通い詰めるようになった。言っていた通り、玄関には鍵が掛けられておらず、先生が居ないときにも(そんな時は女中さんが対応してくれたのだけど)悪いとは思いながら上がり込んでいたことも度々あった。
詳しくは教えて貰うことは出来なかったのだけれど、先生は何かの病気で視力を失明ギリギリまで失ってしまったらしい。だから、就いていた大学の仕事も辞め、本を読むことも止めてしまったのだと、先生は分厚い眼鏡のレンズ越しに少し哀しそうな顔で笑った。
「君に読んでもらえて、あの本たちも喜んでいるでしょう。必要とされていない人の本棚に、いつまでも埃を被って眠っている……それほどに悲しいことはないでしょうからね」
僕は先生の本棚からどんどん知識を吸収していった。その時の脳味噌はまるでスポンジみたいで、一冊読めば読むだけの知識が増えていく気がしていた。知識の層が一段、また一段と積み重なっていく心地は楽しくて仕方がない。
でも――その、覚えたての知識を使って、先生とああだこうだと話すのが一番楽しくて、嬉しかった。
「君は賢いんですね」
ある日の午後、いつものように縁側に座ってお茶していると、先生はぽつりと呟いた。季節は夏で、ついさっきまで喧しく鳴いていた蝉たちは一斉に死んだかのように静まり、風が先生との間をすり抜けていった。
先生は真っ直ぐ前を見詰め、独り言のように言う。実際独り言だったのだろう。その時、僕は先生の視界に、頭の中に居なかったように見えたから。
「勉学というのは一体何なのでしょうね。結局、私はそれを役立てることは出来ませんでした」
嗚呼――先生はもっと勉強したかったのだ。僕が羨ましいのだ。
瞬間、感覚的にそう捕らえて、それまでの自分の言動が急に恥ずかしくなった。
大学の授業や、ゼミの話。考えなしに話す僕の話に先生はいつも黙って聞いていてくれたけれど、本当はどう思っていたのだろう。
先生がどう思っていたのかを想像すると、この場所にいるのがいたたまれなくなった。
ぼんやり庭を見遣る先生は僕に目もくれない。
堪らず、その日僕はそのまま逃げるように帰ってしまった。
「野々村教授」
次の日、僕は取っているゼミの教授の研究室に押しかけていた。僕の専攻と同じものを先生は専攻していたというのなら、先生を知っているかもしれないという思いからだった。
「ああ、彼か」
先生の名前を出すと、野々村教授は一瞬意外そうな顔をした。
聞けば先生はここの大学で准教授として働いていて、教授とは同級だったらしい。それに先生は著名な人でないし、僕が大学に入るとうの昔に辞めていたから、僕の口からその名前が出てきたことに驚いたようだった。
「優秀だったよ。とても、凄く。彼がまだここにいたら、教授は俺ではなく、彼だったろうな」
それから先生の出すことのなかった論文とメモ帳を秘密で見せてもらった。
「あいつは俺がこの続きを書けばいいと言ったが、専門も違うし俺にはとうていそんな気持ちにはなれなかった」
書きかけの論文を、メモ帳を目で追っていけば、行くほどに紙束を持つ手が震えた。
ノート一面に細かく書かれた文字。少し右肩上がりの文字列が痛かった。
こんなに研究熱心だったのならば、大学を辞めるのはきっと辛かったろう。僕には想像できないくらいに。
なんて僕は無神経だったのだろうか。知識を得ることで、先生と対等に話せる気がしてのぼせ上がっていたのだ。実際には先生を傷付けていた――でも、そう思うのも、僕の自惚れかもしれない。先生と懇意になれたと思っていた僕の。
とにかく、もう先生の所には行けない。先生に合わせる顔がない。
うなだれるようにして研究室を出た。教授は心配そうに
「大丈夫か」
と聞いてくれたけれど、とてもじゃないが応える気にはなれなかった。
一週間。また一週間と時間は僕の知らないところで進んでいた。
「実記くん。最近元気ないね?」
西東さんが下から覗き込むようにして伺ってくる。最近明治さんと散歩してないね。そう訊かれて曖昧な笑いでごまかした。
「うん? 元気だよ?」
あまりに意気消沈し、陰鬱な表情をしていたからか、西東さんのみならず周りから酷く心配されてしまった。
何をやるにしても身が入らず、ぼんやりしているせいで危うくアルバイトがクビになるところだった。
のっしりと湿った重たい気持ちを抱えながら下宿先に帰ると、管理人のお婆さんが電報を差し出してきた。この時代に電報とは一体誰からか。差出人を見ると、なんと先生からで、僕は字面を食い入るように見つめ、何度も読み返した。
「明日来宅スベシ」
その電報を大切に折りたたんで、僕は引き出しの特別な場所に収めた。
「こ、こんにちは」
「いらっしゃいませ」
緊張の面持ちで先生宅を尋ねた僕を迎えてくれたのは女中の里子さんだった。手土産にと持ってきたどら焼きを渡し、履き潰してすっかりボロボロになってしまった靴を脱ぐ。
「坊ちゃまは所用で出かけております。書斎でお待ちいただくように、とのことです」
淡々と用件だけ述べると里子さんは台所へと姿を消した。
もしかして、里子さんに僕は嫌われているのかと思っていたのだけれど、先生に対しても、誰に対してもああらしい。
久しぶりに来た先生の家、書斎。小さく鍵の開く音がして冷たいノブをゆっくり引く。窓際に置いてある安楽椅子に腰掛けて寂れた庭を眺めやる。
先生はどうやら良家の子息で、だから女中を雇いながらも仕事をしないで『高等遊民』として生活していけているらしい。僕とは縁のない話だ。
今まで余るほどの金など、むしろ必要なだけの金だって持ったことがない。いつだって生活は辛くて、毎日何かに追われているような心地だった。
そんな中、先生に出逢う事が出来たのは、僕にとってこれ以上ないくらいの僥倖だ。これ以上の幸運はこの人生においてない気がする。
だから、謝ろう。この間のこと。出来ることなら、またここに通わせてもらいたい。先生の顔が見たい。
決心して安楽椅子の上で膝を抱えて小さくなる。コンコンと控えめなノックの音がして、入口を見遣ると先生がいた。
「久しぶりですね」
「こ、この間はすいませんでした!」
慌てて椅子から降り、勢いよく頭を下げる。すると頭上からくすくすと笑う声がした。
「君は真っ直ぐで良い子ですね。この間は私の方こそ君の気分を害してしまったみたいで……悪かったね」
「いえ! 先生は全く悪くありません。その、僕が……僕が無神経で! ……その、えーっと……出来たら、またここに通わせていただきたいのですが」
なんと返されるか想像をするだけで緊張して、しどろもどろに言葉を紡ぐ。ぐっと唇を噛み締めて返事を待った。
「もちろん構いませんよ。君のお陰で懐かしい友人と話すことが出来ましたし」
「それは……野々村教授ですか?」
「すっかりオジサンの顔になっていましたね。子供も娘さんが四人もいるそうですよ」
何年ぶりかもわからないくらい久しぶりで、楽しかったですよ。ありがとう。先生はそう言って僕の頭を少し伸び上がって撫でてくれた。
瞬間、先生からふわっと香った白檀みたいな香りに、クラクラと目眩が起きる。心臓が跳ねた。そんな自分がいるのが不可解だ。でもそれは一瞬で過ぎ、ただの勘違いだろうと流せてしまうものだった。
「さて、お茶にしましょうか。君の持ってきてくれたどら焼きもあることですし」
そう言って近頃は肌寒くなってしまったからと、縁側ではなく居間で、向かい合わせに茶をすする。
「怒られてしまいましたよ、野々村に」
「なぜですか?」
「そうでなくても友人が少ないのだから、自ら友人を減らすような真似はやめろ、と。葬式に誰も来なくなるぞと脅されましたね」
「友人……」
「君は私の友人ではないのですか?」
私の独りよがりだったのですかと問いかけられ、とんでもない滅相もないと慌てて首を横に振った。
「先生のご友人だなんて、畏れ多くて言えませんよ」
「私は普通の、ただの一般人ですよ。そんな畏れ多いなんて私の柄じゃありません」
僕の言い方がおかしかったのか、先生は珍しく声をあげて笑った。その様子に僕も安心して少し笑った。
「小町。ほうら、ご飯ですよ」
先日やたら先生に懐いていた野良猫は、いつのまにか先生の庭に居着いていた。うちの子になるならと、里子さんに嫌がるのを無理矢理洗われて綺麗になった猫に、先生は小町と名付けた。赤いリボンを巻き、真っ白になった雌猫は僕にもゴロニャンと喉を鳴らしてみせ、愛らしい。
猫まんまを目の前に置かれ、小町は美味しそうに、貪るようにして食べる。
先生が差し出すと食べる猫まんまだが、里子さんが出すと一切口を付けず威嚇するばかりだと言う。どうやら小町は相当執念深いらしい。一度、小町に里子さんが引っかかれて以来、小町の餌は先生がやることになった。
「そんな急がなくても誰も盗らないのに」
「今までご飯は取り合いだったのでしょうね」
あっという間に平らげた小町は、今度は先生の膝の上でうとうとしながら丸くなっている。その頭を僕も撫でてみると、ぱたり尻尾が揺れた。
「可愛いですね」
僕の言葉に返事をするように、にゃあんと鳴く小町は自分の愛らしさを知った上で、それを武器にしているようだ。
「おーい。誰かいるかー」
ガラリと玄関の戸が開く音がして、ひょっこり顔を出して来たのは野々村教授だった。教授は最近こうして度々やって来る。
「こんにちは、教授」
「お前さん、またいたのか。仲良いなあ」
「はい、先生には良くしていただいています」
教授は何やら湯気の立っている物が入ったビニール袋を手土産に持っていた。
「たこ焼き。三人で食おうと思ってな」
「野々村。また論文の締め切りから逃げ出してきたんだろう?」
先生が少し咎めるように言うと、教授は豪快に笑って、
「あんな小っさい部屋に閉じこめられていたら死んじまうぜ。逃げでもしなきゃ、あの有能な助教授様は休憩させてくれん」
「まったく君は…」
呆れた口調で助教授に同情する先生を教授は何てことないように笑い飛ばす。
教授が持ってきたたこ焼きは想像以上に量があって、残るんじゃないかと少し心配になる。けれど、粗方は教授がビール片手にあっという間に食べ尽くした。
「おい、口」
「はい?」
「ついてる」
先生の真横に座っていた教授が指で先生の頬に付いていたソースを拭い、舐めてみせた。すると、今まで静かに僕の横の座布団で丸くなっていた小町が急に威嚇しだす。今にも教授に飛びかかりそうな雰囲気だ。
「おっと。お嬢さんに嫌われちまったか」
「君が変な事をするからですよ」
教授の触れたところを濡れ布巾で拭いながら先生は呆れたように言い、宥めるように小町を撫でた。毛を逆立てて机の上にいた小町は先生に撫でられると、ぷいっと珍しくそっぽを向き、ふんっと鼻息荒く、身を翻して外へ行ってしまった。
「ついでに、こっちの坊やにも嫌われそうだ」
「坊やって……僕ですか?」
チラリとこちらを伺われ、教授と目が合う。教授から見たら当たり前に若いだろうが、坊やと言われる年ではない。ムッとして尋ね返すと、
「ほらほら、その目。若いねえ」
ケタケタと教授は笑って、十本目の缶ビールをそのまま煽る。場を掻き回すだけ掻き回した後、教授はまた来ると言って帰って行った。なんというか――台風みたいな人だ。
「騒がしい奴ですね、まったく」
「そうですね」
「おやまあ、言葉に棘がある」
意外そうにしながら先生はお茶をすすった。僕は教授が置いていった缶ビールのプルタブを開け、恐る恐る少し舌を付けてみた。一応成人済みなのだけど、飲み会などには参加しないから、アルコールはほぼ初めてだ。
「僕は坊やなんかじゃないですから」
大人だ、と証明するようにして飲んだ初めてのビールは少し苦い。
こんな所に引っかかるのは確かに子供かもしれないと思いつつ、しっかり否定しておく。そんな僕に先生は困ったような笑みを浮かべる。
「私たちみたいなオジサンから見れば、君みたいな子は総じて坊やですよ」
ちくり。
まただ。今まで別に気にもならなかった子供扱いが、最近妙に引っかかる。自分としては自立して、十二分に大人のつもりなのだけれど、どうやらそうは見えないらしい。
頑張って背伸びしているんだね。
先生の慈しむような眼差しを見る度に、そう思われているような気がしてならない。いつまでも先生とは対等に向き合えないのだ。そう感じられて仕方ない。
「先生まで僕を小童扱いですか」
「野々村の娘は君より一つ二つ年下なだけですよ。君くらいの年齢の子が私の子供でもおかしくない」
「野々村教授は早婚じゃあないですか」
奥さんと学生婚したというのは大学でも有名な話だ。
今でこそ学生結婚はそう珍しくないが、その当時じゃ考えられないことだろう。なんの経済力もない学生同士が結婚するなど。
でも、そう反論してみても、僕が意地を張っている様にしか見えないのは自覚している。
「まあまあ、落ち着いて」
「すいません。餓鬼みたいに取り乱してしまって」
「またそんな風に」
ちらりと先生を伺うと、先生は一つ溜息を吐いた。
「そうやって素直に感情を現せるというのは、一種若い人の特権ですよ。野々村のようにいい年してまで自分に素直だと、変人扱いですからね」
少し考え込むような素振りを見せながら先生は言葉を紡いでいく。
「人間はありのまま生きていく方がよっぽど楽だと知っていながら、自らを枷に嵌めていくんです。自由に生きていると少なからず責任が生じますが、枷に嵌められていれば、そういった煩わしさから抜け出せる――そう考えているようですよね」
先生はどこか寂しげに笑う。
「そんなこと言っておきながら、私はもう随分とそんな世界からは遠ざかっているんですが」
説得力のかけらもないですね。自嘲するような言い方に心が痛む。そのまま先生が霞のように消えてしまう気がして、思わずその腕を掴んだ。
「あ、えーっと」
「実記くん?」
「あ……」
細すぎるようにも思える腕を慌てて放した。
初めて名前を呼んでもらえた。そんなことが頭を過ぎる。中学生の恋愛みたいに先生の一挙一足に僕は過敏だ。
ああ、そうか、そうなのか。そうだったのか。
僕は――僕は、自分の気持ちに頭を抱え込みたくなった。
「今日は泊まっていけばいいですよ。もう……すっかり夜だ」
真っ正面から僕の瞳を覗き込んだ先生には何もかもが見透かされている気がした。
「実記くん」
「ああ、西東さん。こんにちは」
アルバイトに向かおうと、大学の校門を抜けるところで見知った顔に声をかけられた。いつもニコニコしている西東さんが、妙に思い詰めた顔をしている。
「あのね、ちょっと……ちょっとでいいんだけど。時間、あるかな?」
「え? バイトまではまだ時間あるけど」
腕時計を見遣ると、アルバイトまでには後一時間くらいは余裕がある。
「お茶、しない?」
奢るから、お願い。そう言われて、奢られるつもりはないけれど、西東さんの後をついて行った。
「あのさ、実記くんは明治さんのところに、よく出入りしているよね」
僕はコーヒー、彼女はアイスティーを注文した。西東さんはウエイトレスの姿が見えなくなるまでぼんやりとその姿を目で追い、僕に向き直った。
「うん。先生が昔専攻していたのと、僕のが偶然一緒で。だから、色々話を聞かせてもらってるんだ」
「いいなあ」
西東さんは頬杖をつき、物憂げに溜息を吐いた。その意味がわからず、尋ね返す。
「だってさ、明治さんって格好いいじゃない? 着物も若いのによく似合ってて、渋いよね」
「先生は野々村教授と同い年だよ?」
「えー? うっそぉ。信じられなーい」
大袈裟に驚いて見せる西東さん。僕が何のリアクションも返さないと白けた表情を浮かべた。
「実記くんってクールだよね」
「そうかな? ああ、でも今はそんな話じゃないよね。ごめん」
「あ、そうだった。あのさ、実記くん」
「うん」
「お願い! あたしに明治さんを紹介して!」
お願い、と西東さんは顔の前で手を合わせた。マスカラで重くなった睫毛を揺らし、真っ直ぐ僕を見つめる。それってつまり、どういうことなのだろう。僕には分からなくて首を傾げた。
「あたし、明治さんと付き合いたいの!」
パチパチと目を瞬かせて西東さんを思わず凝視してしまった。
西東さんは所謂今時の女子大生で、とても可愛い。とてもモテると聞いているのに、何故先生なのだろう。確かに先生は綺麗だとは思うけれど、西東さんとはかなりの年の差がある――僕が言えた義理でもないのだけれど。
「でも……僕が紹介したところで、どうにかなるとは思えないし……西東さんと先生って既に知り合いなんじゃないの?」
「近所のお嬢さん程度の認識でしかないよ、今は」
一生のお願い、とまた拝まれてどうしようもなくなった。
「協力になるかわからないけど、僕で良ければ」
そう答えるしか僕にはなかった。だってそうだろう。端から見ても、何処から見ても、僕と先生の関係は『貧乏学生と高等遊民』でしかないのだから。
「ありがとう!」
女の子の愛らしい表情を目の当たりにして、僕はどうしようもない気持ちになった。
彼女の女の子としての愛らしさを目の当たりにする度に、胃がシクシクと痛み、気分が重くなる。憂鬱で仕方がなかった。
次の日、僕は西東さんと連れだって先生の家へとやってきた。
「お邪魔します」
「やあ、いつもより早いね……えーっと西東さんのところのお嬢さんだったかな? 今日はどうしたんだい?」
先生は二、三度目をパチクリさせると、すぐ優しい笑みを浮かべた。横目で見えた西東さんの顔は先生に釘付けだ。
「こんな所で立ち話もあれだろう。中にどうぞ。美味しいショートケーキがあるんです」
「わあ! 嬉しい! 私、甘い物が大好きなんです」
「それは良かった」
さあ、どうぞ。先生は西東さんをエスコートして行ってしまう。僕は玄関に立ちつくしたまま、どうしようもなかった。西東さんと先生を引き合わせることが、こういうことになる――分かっていたはずなのに。
「実記くん?」
「は、はい」
ぼんやりとしていたところを、先生に呼ばれハッとした。居眠りのばれた学生のような気まずさに襲われる。
「どうかしたんですか? 早く中に入りなさい」
「はい……」
あの夜のことは、まるで無かったことのように、僕と先生の間ではなっていた。泡沫の夢みたいにも思える。でも時たま呼びかけてくれる「実記くん」というその声の優しさが、夢ではなかったのだと思わせてくれるのだった。
居間に着くと、美味しそうなショートケーキに西東さんが舌鼓を打っていた。予定外の客西東さんで、ケーキは最初から僕と先生の分しかない。本当は先生も僕も甘い物が好きだというのに。
「実記くんも」
コーヒーと一緒にケーキの載った皿を寄越される。でも僕は首を振り、コーヒーだけを手に取った。
「実は、甘いの物はあまり得意じゃなかったんです。だから先生がどうぞ」
「おや。じゃあ今まで悪いことをしたね」
「いえ」
短く答えてミルクも砂糖も入っていない、苦いコーヒーを一息で飲む。その味は僕の心と同調しているような苦さだった。
「先生も甘い物がお好きなんですか?」
なんとはなしに言ったのであろう西東さんの「先生」が僕を堪らなくさせた。そう呼ぶのは僕だけの特権だったはずなのに。
こんなに明るくて積極的な西東さんであるなら、先生とも上手くいくのかもしれない。想像が僕の心臓を締め付けていく。
ヤメロ!
心の中で叫んでも、どうにもならないことなど知っている。でも耐えきれなかった。でも、それを言葉にして発することも出来なかった。
仲良く会話する二人。嫉妬の感情に灼かれ、焦げてしまいそうな気持ち。真綿で首を締め付けられた気分。辛い、苦しい、泣きたい。
でも、そんな感情よりも、何よりも。臆病な自分が惨めで仕方なかった。
先生と西東さん、そこに僕の入る隙など一厘も無いように見えた。
「先生。僕、ちょっと書庫に居ます」
僕は逃げた。
先生は何も言わず、ただ頷いただけ。きっと僕の心中は見え透いているのだろう。
「書庫って何ですか?」
「私と実記くんとの秘密です」
「やだぁ、先生。なんだか怪しいですよぉ」
段々と媚びの色を増してゆく彼女の声を聞くのは、どうしてもいやだった。
日々足繁く先生宅に通う西東さんに反して、僕はどんどん脚が遠のいていた。
気持ちだけが重たく、気付けば溜息ばかりだ。次、先生宅に行けば、先生から
「西東さんとお付き合いしています」
そんな言葉を聞かされるような気がしてならなかった。そうしたら――それこそ僕はKになるしかない。先生の中で息づいている為にも、先生の前で死ぬしかない。そんな思い詰めた気持ちにまでなっていた。
「どうかした?」
ぼんやりと考えていたら皿洗いの手を止めていたらしく、シフトが一緒だった米田さんが訝しげに顔を覗き込んできた。
「大丈夫。ごめん」
「ううん」
何でもないのならいいんだ。米田さんはそう言って、また皿を拭き始めた。僕も皿洗いの手を動かす。
「相馬くん、最近シフトつめてるからさ。ちょっと前までは減らしてたのに…それでどうしたのかなって思って……ああ、お節介だよな。ゴメン」
優しい笑みで米田さんはこちらをみる。米田さんは一つ年上で、僕とは違う大学へ通っている。すっきりとした目鼻立ちで、ショートボブの髪型がよく似合っている。
「好きな……いや、好きなのかも知れない人がいて」
ポロリと零していた。米田さんは聞かないフリをしてくれるらしい。それならば、もういっそ全部話してしまおう。そんな気持ちになった。
「でも、その人には辛い過去があるみたいで。僕には触れられなくて」
先生の、決して教えてくれないパンドラの箱。教授も、里子さんも中身は知らない、奥底で眠っている過去の箱。
「そうやってグズグズとしていたら、僕よりはるかに魅力的な人が、その人を好きになったんだって、そう僕に言ってきて」
断れなくて紹介しちゃったんだ。
俯いて沫だらけの手を見つめた。水仕事で赤くなった指先。短く切りそろえてある爪。女の子である西東さんの、ほっそりとして綺麗なピンクのマニキュアの爪が思い出された。
「意外と普通に恋愛してるんだね」
「え?」
「だってよくある恋の話だよ、それって」
「よく……ある?」
「がんばりなよ。言い寄っている人より、俺の方が魅力的だ!ってアピールしなよ。じゃないと、本当に好きな人、その人のモノになるよ?」
「それは……嫌、なんだけど……」
どうすればいいのかわからなくって。そう言えば米田さんは呆れたように笑った。
「こんなところで時間を費やしていたら、ライバルにリードされるよ。シフト減らしていたのって、好きな人に会うためだろ? だったらおかしく思ってるよ、その人。最近相馬くん来ないなって」
「そうかな」
「そうだよ」
自信ありげに言われて、そうかもしれないと、ほんのちょっぴりだけど思えた。先生がそんな気持ちになっていてくれているとしたら。それはどうしようもなくなるくらいに、嬉しい。
「明日、行ってみるよ」
「頑張れ」
「うん、ありがとう」
また溜まってきた皿を手に取る。気持ちは先ほどより遙かに軽くなっていた。
「こんにちは」
こんなに気まずい気持ちで敷居を跨ぐのはいつか以来だ。恐る恐る入った玄関の鍵はいつものように開いており、ホッとする。
「里子さん?」
いつもならすぐに顔を見せる里子さんがいない。おまけに家の中が異様に静かだ――何か起きたのか。そう思って靴を脱ぐのももどかしく、居間に駆け込んだ。
「先生!」
勢いよく障子を開けると、縁側で先生が小町と共に気持ちよさそうに転た寝をしていた。
「なんだ……良かった……」
ぺたりと座り込んだ。先生の寝顔を見た途端、あんなに高まっていた緊張が一気に解れてしまった。
「寝顔……、結構可愛いんですね…」
こんな機会は二度とないかもしれないと寝顔を堪能する。視線が煩かったのか、先生は幼い仕草で手を払う。
「……だれ、ですか?」
「あ……」
もっと見ていたかったのに起きてしまった。残念な気もしながら、先生に眼鏡を渡す。
「実記です」
「おや……久方ぶりですね」
「はい」
「もう私の所へ来るのに飽きたのかと思っていましたよ」
「そんな!」
そんなわけない、と反論しようとした時、先生はわかっていますよと呟いた。
「実記くんに、可愛らしい女の子のご友人がいるとは。しかもご近所の西東さんのお嬢さんではないですか」
君の交友関係も侮れませんねえと、冗談交じりの口調で先生は言う。
「えっと、先生。西東さんと……」
「何もありませんよ? 二、三度家にいらっしゃいましたが、私はこの通り何の面白みもない男ですからね。それ以来ぱったり、ですよ」
「なんだ……良かった」
安堵の息が漏れる。西東さんと先生がどうにかならなくて、本当に良かった。
「先生、本当は僕も甘いモノが好きなんですよ」
「知っていますよ」
「知っていましたか?」
「ええ」
その日はそのまま談笑して別れた。
「ありがとう」
「いや、俺は何も」
次のバイトの後、米田さんを誘って近くの居酒屋に来ていた。この間の助言のお礼という意味も込めて、ここは僕持ち。
「米田さんのお陰で、その人の家に行けたよ」
「良かったね」
「うん。で、その人とは何にもなかった、って」
そして先日の先生との会話を掻い摘んで話してみた。米田さんはそれに一々頷いてくれながら、話を締めると豪快にジョッキを煽った。
「それってチャンスだろ」
「そうなのかな?」
「そうだよ! 絶対にそうだ!」
「でも……」
「へたれてちゃダメだろ! 押して押して、アピールしていかなくちゃ!」
ニコニコとしながら、米田さんは呑んでいく。ピッチが速いようだが、酔っている雰囲気は微塵もない。ただ、少し明るくお喋りになってきた。
「じゃないとー、俺が応援している意味ないじゃーん」
酒に弱い質と分かった僕は、早々にウーロン茶へと飲み物を変えたのだけど、彼は未だに酒をぐいぐい飲んでいる。吐く息がどんどんアルコール臭を帯びていく。
「そろそろお酒止めた方が……」
「だあめ、だめ! 失恋の自棄酒!」
そうしてまたジョッキを煽る。
「米田さんも失恋、するんだ」
「そりゃそうだよ! 目の前で惚気られちゃあ、さすがに失恋だろ」
据わった目でビールの泡を見つめている。
「米田さんを振るなんて、よっぽど見る目ないんだね」
「……相馬くん、何か勘違いしてない?」
「え?」
何が勘違いなのか、と首を傾げると、グイッと顔を引き寄せられ、唇に熱い感触。
「わからない?」
「え? え?」
「俺、相馬くんが好きだったんだよ? 好きなんだよ?」
「え?!」
やっぱり分かってなかったか、米田さんは呟くと、伝票を持っていきなり立ち上がった。
「帰るね。ここは俺の奢り」
「いや! それは!」
「いいの、いいの」
酔った気配なんて微塵も見せず、颯爽と歩く米田さんは、会計を済ませ外に出るとタクシーを止めた。
「じゃあね。これで俺は吹っ切れた……と思う。相馬くん、頑張ってね」
そうしてあっという間に去ってしまった。酔いなど感じさせない足取りが遠のいていく。呆然と立ちつくす僕の目の前を何台もの車が、何人もの人が通り過ぎていった。
「おー、相馬じゃないか」
どのくらいそうしていたのか、声を掛けられるまで、僕は心あらずでいた。
「野々村教授」
「なんだ、悩み事か?」
「あ……いや……」
「アイツも気が難しいからなあ。あんまり気にするなよ」
「へ?」
アイツとは誰を指しているのかと聞くと、むしろ教授の方が驚いた顔をした。
「ん? 極楽高等遊民やってる、あのおっさんじゃないのか?」
「いや、なんで先生のことなのかなって」
「だってお前ら、相思相愛のラッブラブじゃないか」
男同士でラブラブもないか、と教授は豪快に笑い飛ばす。
「わからない……」
人の気持ちも、思いも、全部。全く理解が出来ない。そして理解できないのが、こんなにも辛くて苦しい。
「そりゃ、全部わかってしまうことの方が問題だろう。人と人なんて結局は分かり合えない。なんせ二十年も連れ添った女房のことが未だに俺には理解できないからな!」
僕の肩を叩いて教授は言った。
「分かり合えないから、言葉があるんじゃないか。会話があるんじゃないか。そうやってお前さんが悩んだところで何にも解決なんて出来やしない」
違うか、と聞かれたけれど、違うとは言えなかった。
「じゃあ、一緒に飲みにでも行くか! そこの屋台のおでんがこれまた美味くてなあ!」
「あの、僕今日はここで」
「んー? アイツのところに仲直りでもしに行くのか?」
「仲直りではないけど……はい」
「そうか」
頑張れ、そう言って教授は近くの屋台に姿を消した。
いつの間にやら迷いは消えていた。米田さんのように気持ちを伝えたい。たとえそれが「否」という答えであったとしても。
「あの! 先生!」
急いて着いた先生宅には里子さんは居らず、先生が寝間着姿で晩酌をしていた。
もう言いたいことは決まっている、と口を開く。けれどその口を先生の人差し指が塞いだ。
「実記くん……。何となく、ですが、わかっていますよ」
でも、と先生は前置きして哀しげな笑みを浮かべた。
「それ以上は言わない方が良い。君のためにも……私のためにも」
遠回しだけど、僕の気持ちは受け入れてもらえなかったようだ。言わせてもらうことすら出来なかった。
食い下がりたい、理由を尋ねたかった、問い詰めたかった――でも、先生の表情を見たら、何もかもを飲み込むしかできなかった。
気持ちをまともに伝えることすら、僕には出来ないのだろうか。それは嫌だ。それでは今までの己となんらかわりがないじゃないか。後悔する。言っても、言わなくても。でも、それでも。
「先生!」
勢いこんで戻った居間では先生が小町の顎を撫でながら、遠くを見つめていた。
「実記くん。私は『先生』などではないのですよ」
「え?」
「先生より、もっとはるかに及ばない……臆病で、どうしようもない人間です」
「それでも……僕は……」
「実記くん。本当のあなたは私なんか見ていませんよ」
その意味はどうしても僕に理解出来なかった。
「……先生、月が綺麗ですね……」
「………そうだね」
明くる日、大学から帰ると僕の下宿先に膨大な量の箱が届いてた。下宿先のお婆さんが、少し怒った表情で、床が抜けちまうと文句を言う。
「誰からだろう」
一つの箱の伝票を見ると
「先生……から?」
雑な手つきでガムテープを剥がしていくと、中身は本。全部ひっくり返して検分してみると、それらは全部先生のあの書庫に収められていたと思わしき、見覚えのある書物だった。どういう事だ。上着も羽織らず、相も変わらずボロボロのスニーカーを履いて、外に飛び出した。
先生宅と僕の下宿先は駅二つ分の距離。寒い冬空の下をシャツ一枚で駆ける僕を胡乱な目線で周囲は見ていた。
「どういうことだよ」
先生の家には『売り出し中』の張り紙がしてあり、人の気配もない。いつも開け放されていた玄関の戸には頑丈な南京錠がかけられ、窓には全て雨戸が閉まっている。どういうことだ。先生はどこだ。
にゃお、庭の方で小さく猫の鳴き声がした。まるで僕を呼ぶかのように、また鳴き声が聞こえる。慌てて回ってみると、軒下で小町が五匹の子猫を守るように丸くなっていた。
「小町」
手を差し出すと、小町は小さく鳴いてペロリと僕の手を舐める。まるで僕を慰めてくれるようだ。
小町の入っているバスケットには、僕の名前の書かれた封筒が、そっと置かれていた。筆跡が間違いなく先生のもので、急いで封を開ける。
そこには先生愛用の万年筆で書かれたと思われる原稿用紙が三つ折りになって入っていた。そのやや右肩上がりの文字を読む。信じられなくて、また読む。それでもまだ信じられなくて、三回、四回――何度も読み返した。
内容は、僕に何も言わず引っ越すことを許して欲しい、あの書斎の本は僕に譲り渡す、というものだった。読んでいく内にわかった。先生は、本当は『先生』ではなく、『K』だったのだ。
最後の一行には
『貴方のためなら死んでもいい』
それは明らかに僕の言葉への返事だった。小町をきつく抱きしめ、僕はただただ嗚咽した。
夢みたいで、儚く終わった一時だった。
その後のことは、退屈で人並みの事しかないのだから省いておこうと思う。
僕は何の因果だろうか静という名の女性と恋に落ちて結婚し、子供をもうけた。そして、その娘たちに『由比ヶ浜の先生おじさん』なる人物が出来たとだけ書き記しておこう。