決意の刻
朝の凛とした空気。
昨日までの雨雲の残りが貼り付いた空は、濃淡のはっきりした油絵のよう。
雲間からところどころ顔を出す水色の澄んだ空。この空も昼頃にはきっと、胸のすっとするような天気に変わるのだろう。
雲ひとつない晴天、というのはどうしても好きになれない。
その先が下りの道しかない坂を登りきった時と似ている。あとは落ちるだけ、なんて思いたくはないけれど、現実は大抵無慈悲だ。
隣にいた友人が気を利かせて煙草を勧めてきた。
もう何年も前にきっぱりと止めたことを知っている彼が、わざわざそんなふうにするのは、きっと俺の胸中を察してのことだろう。
断る理由はなかった。
貰った一本をくわえ、火をつけ、一服目でえらくむせ返した。
二服目ではツーンと鋭い頭痛に襲われ、ようやく味がし始めたのは三口目からか。
久しぶりに吸う煙草は、思いのほか美味かった。
体を壊して仕事を辞め、リハビリをしてなんとか復帰した。
再起を誓って勤め始めた職場は、ただ、ワンマンなオーナーが七色の采配を取る店だった。
昨日言った事が、今朝にもひるがえる。
当然、経営は芳しくない。
決断しなければならない、と感じていた。自分には家族もいる。それに振り回され続ける毎日に、体はもう着いていかない。
妻は俺が体を壊してから、満たされることよりも失わないことを望むようになった。
スローダウンするべきかな、とは思う。
そのことを友人に言うと、嘲るような笑みを煙の隙間から見せて、「ジジイみたいだな」とこぼした。
俺もそれに渋い笑顔を返す。
煙草を止めたのは25歳のとき。ソムリエの資格を取ろうと思った時だ。
妻には「本当に止められるの?」と言われ、その時はムッとして「当然だ」なんて答えたが、実際のところは自分だってあまり自信はなかった。
けれど、毎日の仕事の合間や眠る時間を削って勉強に当てていると、最初の頃こそ口寂しく感じていたが、人間は慣れるもんだ。
あの頃は仕事への情熱があった。この資格を取ろうと強い意思があった。それが悪癖との縁切りにも継った。
きっと、あの瞬間の自分だから成し遂げられたことなんだろう、となんとなく思う。
多分、今、同じことはできないだろう。
それは思いとか努力とか、そういった無形の力では乗り越えられない壁のような何か、だ。
誰に言われたのか、――人間は穴のあいた財布なのだそうだ。
求めるものを得るには、自分という財布の中からそれに見合う対価を支払わなければならない。けれど、その財布は時間が経つにつれ、底から少しずつ中身をこぼして目減りしていってしまう。
そして、皆、ある日突然気付くのだ。
夢や希望、自分の求める未来を得るには財布の中身が足らないことに。
時は多くのものを無慈悲に奪い取っていく。
あの時の自分に出来たことは、今の自分にはもう叶わない。
まるで倍ほどに値を釣り上げて手の届かなくなった煙草みたいなもの。必死に手を伸ばし、たったひと箱だけ手に入れたって、明日から霞を喰って生きることになるだけだ。
決意や行動はいつだって出来るものでも、皆が平等に与えられるものでもない。
その一歩を踏み出せる者だけが、その瞬間だけに許される選択肢だ。
俺は今、また新たな選択をしようとしている。
家族のため、自分のため。
その対価を支払えるのが今しかないのなら、俺は前に進もう。
短くなった煙草の火を消し、最後の一息を吐き出した。「じゃあな」と言って、肩越しに手を振って帰って行く友人の背中を見送る。
財布の中身をのぞき込んで、俺は決意の刻を意識した。