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――『もうダメだ』と思った瞬間は『終わり』じゃない。
『最期』だ――
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緑色した日差しと、何か得体の知れない鳴き声で眼が覚めた。
既に大分陽は昇り、葉っぱを透かした陽光が降り注いでいる。
強い緑の匂いは悪くなかった。
「……何で生きてんだよ」
ゆっくり立ち上がる。
多少頭がぐらついたが、体の方はなんとも無い。いやあ人間って以外に頑丈だなあ。
視線を回せば、近くにバイクが横たわっている。パッと見、カウルに傷はついていないし、足回りも曲がっているようには見えない。
自分が落ちてきた崖を見上げる。
ご丁寧な事に密集した杉の葉が、『トムとジェリー』みたいに人の形にポッカリ穴が開いていた。
崖は軽く三十メートルはあるだろう。
ここを落下したのかと思うと、改めて背筋が凍った。
激突した筈のガードレールはもう新しいのに交換されている。
これはアレか? 柔らかい土がクッションになったおかげで助かったとか言う奴か?
そんなバカな。
「…………」
考えても仕方が無い。
何か腹減ったな。
そういう訳でボクはバイクを起こして山を下りる事にした。
バイクを押してデコボコ獣道を下りる作業は思いのほか難儀した。 クソ重てえ!
開けたコンクリートの山道に出ると、叫びたい衝動に駆られる。きっと無人島でタンカーを見かけた遭難者はこんな気持ちになるのかもしれない。
バス停に書かれた停留所の地名は知らない名前だった。
町(もしかしたら村かも)は全体的に静かで鄙びたイメージ。
暑いのでメットを被らずに山道を時速20キロでゆっくり下っていく。その間にも、すれ違ったのはランニング姿の爺さんが跨ったコンバインだけだった。
大分過疎化が進んでいるのかもしれないと察しをつける。
十分程下ったり、上ったりを繰り返していると、小さな木造の商家があった。
木板の壁にはオロナイン軟膏を持ってニッコリ微笑む割烹着のオバさんと、オロナミンCを持った大村昆のサビサビの丸看板がかかっていた。その隣にはくたびれた英会話のポスター。さらにその隣には黒字に黄色の文字で――
「…………」
『神は全ての人類を救う』
……まあウチは先祖代々浄土真宗だったしな。遠い先祖は鍬持って一向一揆に加わったらしいしな。
意味も無く自分が救われない理由を並び立てていく。宗教の違いだけを条件にして。
もしもボクがその看板を立てた宗教の信者だったら救われるのだろうか?
考えるのも嫌になったので、その看板が目に付かない場所にバイクを止めると、ボクはヤングドライの名前が入った立て付けの悪いガラス戸を開けた。
恐るべき事に、その店にはジャムパンと食パンしか売って無かった。
おまけに店番のバーちゃんは耳が悪いようだった。
仕方が無いので、ジャムパンと聞き覚えの無い会社のビン牛乳を買う。小銭入れを持ってきて本当に良かった。
メインスタンドを立てて固定したバイクのシートに腰を落ち着けると、のどかな風景を見ながらジャムパンを齧った。
パンはボソボソと乾いた感じがして不味かった。牛乳を流し込んで丁度いいくらい。
そうか。
何か引っかかるものがあると思っていたが、ここはボクの故郷に似てるんだ。
ガキの頃から高校まで一緒にいた仲間達の顔を一人ずつ思い出していく。
みんな元気にしているだろうか。
ピ~ヨロロ~、とトンビが空を飛んでいる。
どこかで犬の鳴き声が聞こえた。
本当に静かだ。
他には何も聞こえない。
本当にのどかだ。
時間がゆっくり流れていく。
昨夜の大爆走が夢みたいに思える。
牛乳を飲みきった時、
「……昨日の事故、死ななくて本当に良かったなあ」
思わず口をついていた。
信じられないくらい心が穏やかだ。
悟りを開いたとでも言おうか。
昨日の夜、目覚めて月を見た時とも違う。
あの時の心の穏やかさは、きっと嵐の前の静けさ、バイクでの大暴走での溜めみたいなものだったのだろう。
そして今。
昨日の夜の穏やかさを、全てを憎んだ『反発』の感情だと言うなれば、この穏やかさはきっと、全てを吐き出した後の『諦め』の感情だ。
救われぬ者の心だ。
もう助からぬからこそ。
だからこそボクは静かにこうしていられる。
なんとも皮肉で、なんとも不思議だ。
神さまなんかに助けてもらわなくても、ボクは250ccのバイクと少しのお金、それと深夜の暴走を許容してくれる懐の深い地方自治体があれば心安らかになれるのだ。
携帯の時計に表示される日付を見た。
アレからもう一月が経とうとしている。
どうやったって助からない事は理解した。
だけどやっぱり未練が残っている。
ボクにはまだやらなければならない事が残っている。
ジャムパンの包みを丸めた。
ゴミ箱を探すが見つからない。
やむなく牛乳ビンの口にそれを突っ込む。
「バーちゃん! ゴミここ置いてくよ!」
店の中から「あいー」とヤル気無い返事が返ってきた気がした。
バイクに飛び乗る。
やらなければならない事を見つけたんだ。
何せ知らない土地だ。帰り道は随分と苦労した。
何とかかんとか慣れた道に出ると、ペースを上げる。
目的地はよく世話になったバイク屋だ。
中古バイクの売買もやっているこの店に着くなり、
「このバイク売ったら幾らになりますかね?」
ボクがこのバイクをどれだけ大切にしていたかを知っている顔馴染みの店員は、ボクの正気を疑ったようだった。
だけどボクは大真面目。
何かしらの心境の変化があったのだろうと察してくれた店員が、電卓片手に見積もり書を書いてくれた。弾き出された金額はボクの想像よりも多かった。
多少色を付けてくれたのかもしれない。
もう二度と被らないヘルメットを処分してくれと店員に渡すと、その足でレンタカーに向かい、格安の軽トラを借りる。
ただでさえ自動車の運転は不慣れなのに、軽トラはマニュアル操作だ。とどめとばかりに古くてボロい。タイヤのバランスが悪いのか、真っ直ぐハンドルを固定した時でさえ右や左にフラフラ、上下にガクガクしていた。
かなりの苦労をともなって、ヨロヨロとアパートに辿り着くと、すぐさまアマゾンで購入したガラクタや、溜まりに溜まったマンガ本、ゲーム機などを軽トラの荷台へとピストン輸送。
何回往復したか数えるのもバカらしい往復の後、軽トラの荷台はガラクタの山になっていた。
カーブの際に落ちないよう、荷造り用のロープを隣の住人から借りてきて結びつける。
イグニッションキーを回して軽トラのエンジンに活をいれてやる。
明らかに異常な振動がスプリングの弱ったシートを突きぬけて尻に直撃する。
「……ぐえ」
腰に響く。うへえ。
感覚が戻ってきたのか、腰が痛みを訴えるようになっていた。
畜生。クシャミしただけで死ぬかと思うのに。
涙が出そうだ。いや、もう半泣きだけど。
根性で我慢すると、走り出す。
今度の目的地はリサイクルショップだ。
リサイクルショップを何軒かハシゴして、最後には市のゴミ処理場に行ってきた。
すっかり軽くなった荷台をバックミラーで見ながら帰路につく。陽はすでに低く、東の空には白い月が見える。
全額を回収できたとはお世辞にも言えないがまずまずの成果だと思う。財布の中には何人もの諭吉さんが納まっていて頼もしい限りだが、自分が使う訳じゃない。
営業終了間近の銀行に飛び込み、口座に回収した諭吉さんを振り込み直す。
最後に、大分運転が上達した軽トラをレンタカーに返しに行った。
書類にサインしてもう暗くなった外に。
ほんのついさっきまで白かった月が、月光を感じるほどに闇夜に映えていた。
月を眺めつつ、ゆっくりとアパートまで歩いて帰った。
当たり前だが部屋はスッキリとしていた。
殺伐とも言う。コタツやビデオデッキも売り払ったせいだ。残っている家具らしいものと言えば、14インチのテレビと掃除機、冷蔵庫ぐらいのもんだ。
この数日間で満杯になっていた洗濯籠の中身を備え付けの洗濯機にぶち込み、回す。
ゴウンゴウンというひどい唸り声を聞きながら残しておいた掃除機をかける。下の階の人ごめんなさい。
掃除が終わるのと、洗濯機が止まるのはほとんど同時だった。
小さいベランダに出て、物干しに服をかける。夜風が心地いい。
一通りの雑務を済ませると、フローリングに座って携帯を手に取った。
電話する。
――はい
電話した先はここ数ヶ月間お世話になったバイト先だ。
受話器越しの店長は『お客さん応対用』の声で、知らない人の声みたいだった。
「あ、もしもし俺です」
――お? 結構休んでたけど、なにかあったの?
「はい、俺死ぬ事になりました」
――マジで?
「はいマジです。すんません、これから忙しくなる時期なのに」
――いや、それはいいんだけど。マジで死ぬの?
「そうです。短い間だったけどお世話になりました」
長い沈黙があった。
少なくともボクは長いと感じた。
数キロ離れた相手との、電波越しの緊迫感。
――そうか。色々辛かっただろ
さすがだと思った。
伊達にボクよりも長く生きてるだけはある。
ボクの人生を『辛かった』の一言で片付けれるとは。
やっぱり店長は大人だ。
ビールを美味しく飲めないボクは子供で。
深夜に暴走が出来れば宗教がいらないボクはガキで。
ボクの弱さが。
ボクの未熟さが。
『終わり』を静かに受け入れる事が出来なかった。
ボクは大人になる事ができなかった。
ボクは大人のフリすらできなかった。
ずっと子供のままでいたかったんだ。
だから堅く誓った筈の信念さえも母親の電話で決壊してしまった。
その時、ボクは涙を流さずに泣いていた。多分、なんだけど。
「はい。本当は辛かったんです。だけど俺は幸せでした。辛かったけど幸せでした」
――うん。知ってるよ。
「はい。幸せだったから辛いんですかね?」
――分からないな。人それぞれだろうとは思うけれど。幸せじゃなくても辛い奴だっているさ
「じゃあやっぱり俺は幸せでした。すんません店長。色々とお世話になりました。それでは皆さんによろしくお願いします」
――うん。じゃあね
そうして電話を切った。
長い息を一つ。
いつのまにか目から水滴がこぼれていたので、手の甲で拭う。擦りすぎて少し痛かった。
時計を見る。
大分時間が過ぎていた。
日付が変わっている。
布団を敷いて寝ることにする。
もう一度目覚める事が出来るだろうか?
少しだけ不安になって床に就いた。
……そういや、身辺整理したけど、大学に退学届って出さなくてもいいのかな。
そんな事を考えて寝た。