3
――パターンは二つだ。
Dead or die
死ぬか死んでいるか
お前はどっちだ?――
3
眼が覚めた。
見えるは薄闇。
何度も見た灰色の天井。
上体を起こす。腰の痛みは感じなかった。
意識が妙に澄んでいて、体が軽い。
心のつかえも取れたように爽やかな心地がした。
静かだ。
アパートの前を通る車の音も聞こえない。
虫の音も聞こえない。
風に揺れる草木の音も聞こえない。
聞こえるのは時を刻む時計の針と自分の浅い息遣いのみ。
手探りで携帯を探し出す。デジタル表示が教える時刻は深夜の二時。
ほう、と肺に溜まっていたぬるい空気を吐き出した。
ガラクタの山を掻き分けながら、窓辺まで近づくと、この数日間小さな世界を作っていたカーテンを引いた。
夜空にまん丸お月様。
なんだか無性にバイクに乗りたかった。
ボクは普通自動二輪の免許を持っている。
一応、車の免許も持っているが、こちらは社会人の礼儀みたいなもので、車自体は持っていないのでたまに実家に帰った時に親の車を運転する程度だ。
だけど自動二輪の免許は違う。
現在進行形で乗りまくっている(腰が痛み出してからはあまり乗っていないけれど)。
もちろんバイクも所有している。
ボクが今年の夏、全てを賭してバイトして買ったボクの大事な物リストのトップランカーだ(ちなみにバイクの次にランクインしているのは大長編ドラえもん大全集)。
駐輪場に止められたバイクのライムグリーンのカウルはアパートの水銀灯を浴びててらてらと濡れたように輝いていた。
対照的に街灯の光の届かない道路の先は夜の闇、ぬばたま色。遠くに一つ、誰もいない交差点の信号が一人任務に励んでいるのが見えた。
ボクは今から愛車に跨ってこの夜を走りぬけようとしている。
どこに向かって?
下らない自問だ。
決まっている。
ピリオドの向こうさ。
なんてね。
ホントは決めていない。
適当に流そうかと思っている。
交差点のたびに右折と左折を繰り返してどこまで行けるかやってみると言うのも面白いかもしれない。
知らず、口元が緩んでいた。
笑っていた。
こんな風に笑うのは久し振りかもしれない。
まだ自分が笑みを覚えていた事に不思議な安堵感を感じる。
オーケイ上等だ。
メット被ってスタンド戻して跨って。
手袋嵌めてキーを挿して回してニュートラルランプ確認して。
そのまま足使って駐輪場から出て。
道路に向かった所で。
エンジンをかけた。
一瞬、シートを通してガソリンの燃焼を感じる。
が。
「…………」
すぐに停止した。
無理も無いか。
随分乗っていなかったからなあ。
良く見ればサイドミラーの所には蜘蛛の巣まで張っている。
ボクは気を取り直して蜘蛛の巣を掃うと、再びエンジンをかけた。
近所迷惑何のその。深夜の住宅街に響く力強いエキゾーストノイズ。
バイクの鼓動だ。
目覚めたばかりのエンジンが冷たい夜気に熱を奪われないよう、細心の注意を払って、アクセルを開いてチョークを調節する。
エンジン音が安定した所でクラッチを繋ぎ、ギアを落とした。
信号が赤から青に変わった。
発進だ!
ボクはクラッチを半分離すと、アクセルを思い切り開いた。
すべり気味の前輪を体重で押さえ込み、後輪がアスファルトを噛んだ。
タイヤが砂利を弾く音と空気と燃料の爆発音を耳で聞き、道路に躍り出る。
再びクラッチを繋ぎ、ポン、ポン、とシフトペダルを上げてやる。
風を感じながらサイドミラーに目をやれば、ボクのアパートは遠く彼方に置き去りになっていた。
一度開いたアクセルは戻さない。
湿り気を帯びた空気が風になってボクの首筋を撫で、短い襟足を躍らせる。
不快に思うどころか、小気味いいエンジン音と相まって心地よく感じた。
反対車線まで目一杯使って次々とカーブを制していく。
―対向車のライトは見えない。
時折、上着の裾が電柱をかする。
時折、タイヤがグリップを失い滑りかける。
時折、膝がガードレールに擦りそうになる。
「ふひひひひひひひいひひひひ」
最高だ。
最高のスリルだ。
最高のスリルとサスペンスだ。
快感だ。
快感でエクスタシーだ。
快感でエクスタシーでオルガスムスだ。
死んでない。
死んでない!
ボクは死んでない。
「くははははははははっはははははh母ハッハは母はハッハ母ハッハは葉はハッハ葉はハッハはハッハはハッハ母ハッハハッハは刃は八は刃はハッは刃はハッハはハッハ八派は刃はハッハは八母はハッハは8派はハッハ法法ハッハハッはhっははハッはっ母はhh!」
自分でも不気味な高笑いが時速90キロで道路に飲み込まれていく。
たった一人の暴走族は郊外を離れて夜空と尾根の境界が酷く曖昧な山道へと入っていく。
一瞬当たったヘッドライトに、反射するものがあった。
看板の反射材だ。
ここから先、工事中のため迂回して
そこから先は読めなかった。
構うもんか。
進め走れ。突き進め。
深い霧と、強い草の匂いがする山道を百メートルも行ったら、交通整理のオッサンが立っていた。
夜の闇に赤い誘導棒がユラユラと力なく揺れている。
戻れ。
引き返せ。
誘導棒はそう言っている。
嫌だね。
ボクはアクセルを開いて答えにしてやった。
ライトに照らされたオッサンの驚いた顔が面白かった。
「邪魔だ! どけええええっ!」
力の限りの叫びで黄色と黒の柵を強行突破する。
剥がされたアスファルトの上に乗せられた鉄板の上を爆走する。
ドカチンのオッちゃん達が突然の乱入者にびっくりして作業を中断した。
何十、何百と言った視線をこの身に浴びて、ボクは右に左にローリング。
デカイ発電機を左にかわし、
延長ドラムをタイヤで跳ね飛ばし、
強い加速で工事の穴をジャンプ。
やりたい放題だ。
「ひゃあはははははっははははは! どうだどうだどうだどうだあっ!」
アドレナリンとエンドルフィンが完全にキマって、もう戻れないくらいにハイになったボクは後ろを振り返って間抜けな面したオッちゃん達を見た。
「ふひ?」
ふと前方に感じる圧迫感。
何だろう。
首を戻す。
見えるは並ぶ黒杉。
いや違う。
その手前。
白く光が反射している。
光の源は工事用の灯光器ではない。バイクのヘッドライトだ。
じゃあアレは?
「ギギギ!」
やべえええ!
ガードレールだ!
そう思った瞬間にはボクはもう飛んでいた。