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火蛾天昇

作者: Maverick

東にある広大な森を目指して、その幽かな蛾は飛び続けていた。


柔らかな海老茶の翅は黒い斑点が散り、およそ小さな身からは似つかわしくない量の鱗粉をふるい飛ばす。一翅ごとに削られ溶けていくような輪郭は、もはや風にまかれてさ迷う枯葉と見紛う。

しかし薄く乾いた翅は、いかに風の迎えに屈しつつも抗うことを止めなかった。


故郷くにへ。汝が生まれし処へ。


それは終焉を告げるためではない。己の果てを悟ったからでもない。


再び生きるために。


老蛾は時の鼓動を宿し、教えられてもいないのにその道を向かう。体の芯が揺らぎ出し、徐々に存在が薄れるとき、鼓動は蘇り命はまた輝き出すのだ。

予感で翅は震え、鱗粉が舞う。

元より死ぬことなど思いもつかぬ。


晩夏のやや涼とした大気を受けつつ、蛾はひたすらに森を目指した。

無に落ちる前にもう一度、ただただ一度。意味などない。内に沸き立つ焔が、打ち始めた鼓動が、休むことを許さない。

月光も射さぬ深淵の闇を、己の道に従って飛び続ける。



ところで、この蛾たちには一つの言い伝えがある。

老いた蛾が火炎の中へ飛び込み、二三通り抜けてなお焼けずその身が残っていたら、薄汚れた翅は金色やら瑠璃やら緋朱やらに磨かれ、終わりかけた命は新たな生を刻み始める。そしてかつての倍ほど生き長らえるのだと。



彼ら蛾に、そんな伝承が受け継がれているのかなど知る由もない。茶に染まった翅はひび割れ、鱗粉が散るたび縮んで小さくなっていくようだ。

甘んじて蝶にはなれなかった身。

炎は神を、その眼前に呼び寄せるのだろうか。蝶ではない身を、蝶のように生まれ変わらせるのだろうか。だから蛾は炎に焦がれるのだろうか。


森の入口は見えずとも、蛾は故郷をその全身で感じとっていた。


世界は未明に包まれている。


光はまだ無い。


ふと火柱が立ち上がる。


それは己の左手に、思いつきのように浮かび上がった。闇に沈んだ森の奥に、この上なく甘美な輝きを秘めて燃え立つ。


蛾は迷わずそこへ向かう。


このために此処にいる。このために此処へ来た。そう歌うかのようで。


死など及びもつかぬ。


そう、死など程遠い。


蛾は今まさに生きるために此処まで飛んできたのだから。


緩やかに立ち上がっていた火は逆巻く炎と変わり、蛾の目の前でごうと鳴く。


昇らんとする炎は暖かな色を見せて、安んじて周囲を熱していく。しじまを打って爆ぜるその紅い閃きに、蛾はもう耐えることができない。


たとい一瞬でも待つことはできない。


茶色い翅が、ひらりひらり炎を渡る。渦巻く火炎が、目の眩むような鮮烈な光が舌なめずりし、蛾を舞の奥へと引きずり込む。


ばちん。蛾の片翅の一部が火花となって消える。


すでに他の虫たちの翅が、淡黄に青に橙に、瞬時の光となって炎にまかれていった。


蛾は飛翔する力も失せた。そもそもこの身を支える翅はもう無い。


光は。風が急に起こり、蛾はつと持ち上げられた気がする。



煙の分かれた先に、遠く星たちが、ささめくように空をいっぱいまで満たしていた。

速水御舟の「炎舞」をイメージして書いてみた。あの絵は大好きですw


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