第一話:はじまり
姫宮つばめ。
それが、あたしの名前だ。
三年前。
まだ十五歳だったあたしは、異世界アルカディアに召喚された。
その日も、いつもと変わらない朝だった。
制服に袖を通し、鞄を肩にかけ、玄関で靴を履く。
ままに「いってきます」と告げて、扉を開ける。
そして次の瞬間、あたしは見知らぬ王城の玉座の前に立っていた。
高い天井。
赤い絨毯。
壁に並ぶ重厚な旗。
左右には鎧をまとった騎士たちが居並び、その奥には、杖を手にした神官らしき老人たちがあたしを見つめている。
そして正面。
玉座には、ひげを蓄えた偉そうな王様が、さも当然のように腰かけていた。
王様は、あたしを一瞥すると、重々しく口を開いた。
『勇者よ。魔王を討て』
意味がわからなかった。
あたしは勇者ではない。
ただの女子高生だ。
剣なんて握ったこともなければ、魔法なんて使えるはずもない。
魔王と言われても、ゲームや漫画の中に出てくる存在くらいの認識しかなかった。
それなのに、王様はあたしに銀貨の入った小袋と、なぜか木刀を一本だけ持たせた。
銀貨は、日本円にすればせいぜい一万円ほど。
そして武器は木刀。
ふざけるな、と本気で思った。
けれど、この世界は、あたしの抗議を聞いてくれるほど優しくなかった。
魔族は人を襲った。
魔物は村を焼いた。
町には泣き声が満ち、道には血が流れ、空には戦火の煙が昇っていた。
何度も死にかけた。
逃げ出したくなった夜も、一度や二度ではない。
どうしてあたしが。
どうして、こんな目に遭わなければいけないのか。
そう思いながら、それでも歩き続けた。
魔王軍の魔族たちを退け、いくつもの町を渡り歩き、国を越え、ダンジョンを攻略し、仲間と出会い、別れ、また進んだ。
血を流した。
涙を流した。
汗を流し続けた。
そして、三年。
あたしの長い旅は、ようやく終わろうとしていた。
「はあ……はあ……これで、終わりよ……魔王……」
魔王城、最奥。
崩れた玉座の間に、あたしの荒い呼吸だけが響いていた。
天井は半ば吹き飛び、赤黒い空がのぞいている。
砕けた柱。
割れた床。
焼け焦げた壁。
そのすべてが、この戦いの凄まじさを物語っていた。
あたしは聖剣を握りしめたまま、どうにか両足で立っていた。
全身が重い。
視界は赤く滲み、まばたきをするたびに意識が遠のきそうになる。
息を吸うだけで、胸の奥が焼けるように痛んだ。
おそらく、肋骨が何本か折れている。
左腕はもう上がらない。
右足も、まともに感覚がなかった。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
あたしの周りには、ここまで共に旅をしてきた四人の仲間が倒れている。
魔法使いのミラ。
聖女のエリス。
盾役のガルド。
弓使いのレオン。
誰もが満身創痍だった。
息はある。
けれど、立ち上がれる者は一人もいない。
だから、あたしが立つしかなかった。
あたしは勇者だ。
けれど、正直に言えば、世界なんてどうでもよかった。
勝手に呼び出されて、勝手に勇者にされて、勝手に魔王を倒せと言われた。
そんな世界を、心の底から愛せるほど、あたしはできた人間じゃない。
でも。
彼らは違う。
泣きながらも隣に立ってくれた。
死にかけても、あたしの名前を呼んでくれた。
あたしが逃げ出したい夜、何も聞かずに隣へ座り、焚き火に薪をくべてくれた。
だから守る。
世界のためじゃない。
この人たちのために。
その思いだけが、限界を超えた身体を支えていた。
あたしは、地に伏せるもう一人――いや、もう一体の魔族へと、聖剣の切っ先を向ける。
魔王。
魔族を統べ、人類の敵と恐れられた存在。
三年間、あたしが追い続けた旅の終着点。
刃を伝った血が、ぽたり、と落ちた。
赤い雫は魔王の頬に落ち、小さな染みを作る。
「まさか……この俺様が、人間などに地の味を味わわされるとはな」
魔王は、倒れ伏したまま低く笑った。
憎しみ。
怒り。
屈辱。
その声には、そうした感情が確かに滲んでいた。
けれど、不思議とそれだけではなかった。
「不服……立腹……まこと、腹立たしい。だが、貴殿のその強さ……大いに――」
そこで、魔王の言葉が止まった。
赤い瞳が細められる。
まるで、あたしの奥底にある何かを見透かすように。
背筋が冷えた。
まだだ。
こいつは、まだ喋れる。
まだ思考している。
もしかしたら、まだ立ち上がるだけの力を残しているのかもしれない。
あたしは右手に力を込めた。
今すぐ、この首を落とすべきだ。
そう判断した、その瞬間。
「否。強さではないな」
魔王は、静かに言った。
「それは、いわゆる――愛だ」
「……何を、言ってるの?」
あまりにも場違いな言葉に、霞みかけていた意識が一気に覚醒した。
魔王の口から、愛。
冗談にしても笑えない。
こいつが、どれだけの人を殺したと思っている。
どれだけの町を焼いたと思っている。
どれだけの涙を、この世界に流させたと思っている。
「貴殿は弱い」
魔王は続けた。
「今も満身創痍であろう。見ればわかる。剣筋は荒れ、魔力は尽きかけ、肉体も限界をとうに超えている。純粋な力だけで言えば、貴殿より優れた者など、この世界にはいくらでもいる」
「だったら……どうして、あんたはそこに倒れてるのよ」
あたしは聖剣を握り直した。
魔王は、わずかに口元を歪める。
「だから、愛だと言っている」
胸の奥が、ざわついた。
「貴殿は己のために戦っていない。世界のためですらない。倒れている仲間を守るために、限界を超えて立っている。己の命より、隣にいる者の命を重んじる。それは愚かだ。あまりにも愚かだ。だが――」
魔王の瞳が、あたしを射抜いた。
「美しい」
「……やめてよ」
あたしは奥歯を噛みしめる。
「何を言われたって、あんたを見逃したりしない。あんたはたくさんの人を殺した。魔王軍の頂点で、全部の元凶で、大量殺人鬼よ。どんな綺麗事を並べたって、その責任は取ってもらう」
一瞬、魔王の言葉に心が揺れた。
だからこそ、あたしは自分に言い聞かせた。
間違えるな。
同情するな。
目の前にいるのは、倒すべき敵だ。
魔王はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「魔族と人類の戦争を始めたのは、人間だ」
「……は?」
初めて聞いた。
そんな話は、聞いたことがない。
王様は言っていた。
神官たちも言っていた。
魔王こそが悪であり、魔族こそが災厄であり、人類はただ一方的に虐げられているのだと。
だから勇者が必要なのだと。
あたしは、そう教えられてきた。
「何を……言ってるの?」
「知らぬか」
魔王は、どこか哀れむように呟いた。
「そうか。やはり貴殿もまた、騙されていたのだな」
「騙されて……?」
言葉の意味を問いただそうとした瞬間、魔王は口を閉ざした。
それ以上は言うべきではない。
そう自らに言い聞かせるように。
「いや。この話は、今はよい」
「よくないでしょ」
「本題だ」
魔王の身体が、淡く光り始めた。
黒い鎧の隙間から、金色の粒子がこぼれていく。
指先が崩れ、腕が透け、存在そのものが世界からほどけていく。
魔王が消えようとしている。
あれほど圧倒的だった存在が、今、光になって崩れていく。
「この先の世界を導くのは、奇しくも人間だ。そして、その中心に立つのは、おそらく貴殿になる」
「勝手なこと言わないで。あたしはもう、元の世界に――」
「帰れぬぞ」
魔王の声は、恐ろしいほど静かだった。
「貴殿は帰れぬ。勇者よ」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……嘘でしょ」
「俺様は魔王だ。貴殿の身に何が起きたのか、ある程度は見えている。どうせ女神か、王国か――あるいはその両方に、都合よく使われたのだろう」
「ちょっと待って。何それ。帰れないって、どういう意味? あたしは、魔王を倒せば元の世界に帰れるって――」
「時間がない」
魔王は、あたしの言葉を遮った。
その身体はもう、半分ほど光に変わっていた。
崩壊は止まらない。
それでも魔王は、最後の力であたしを見据えた。
「勇者よ。貴殿に頼みがある」
「……頼み?」
「俺様の娘を、預けたい」
空気が止まった。
数秒遅れて、あたしの理解が追いつく。
「……はあああああああああっ!?」
叫ばずにはいられなかった。
ここは魔王城の最奥。
あたしは今、魔王を倒したばかり。
仲間たちは全員倒れていて、あたし自身も立っているのがやっと。
そのうえ、元の世界に帰れないかもしれないなんて、最悪の事実を突きつけられた直後だ。
そんな状況で。
娘を預けたい?
意味がわからない。
何一つとして、意味がわからない。
「待って、待って待って待って! なんであたしが魔族の子供の世話なんかしなきゃいけないのよ!? そもそも、あんたの娘って何!? どこにいるの!?」
「俺様の娘は、いずれ人類と魔族の懸け橋となる」
「会話して! ちゃんと会話して!」
「だからこそ、世界で一番の愛を持つ貴殿に預けたい」
「勝手に決めるな!」
あたしは怒鳴った。
けれど、魔王はもう、ほとんどあたしの声を聞いていないようだった。
身体は光へと変わっていく。
指先から。
腕から。
胸から。
少しずつ、魔王という存在が消えていく。
「名は――」
魔王が、最後に何かを告げようとした。
その瞬間だった。
空が裂けた。
「……え?」
戦闘で吹き飛んだ天井の向こう。
赤黒い空の一点に、まばゆい光が生まれる。
それは、星のようだった。
地上へと落ちる、一筋の光。
いや、違う。
光の中に、何かがいる。
小さい。
白い。
人の形をしている。
「まさか……」
あたしは剣先を魔王へ向けたまま、視線だけを上へ向けた。
空から落ちてくるのは、光に包まれた赤子だった。
淡く輝く白い髪。
小さな手足。
眠るように閉じられたまぶた。
光の膜に包まれたその姿は、ひどく幻想的で――だからこそ、次の瞬間に起きたことを理解するのが遅れた。
赤子を包んでいた光が、ふっと消えた。
支えを失った小さな身体が、重力に引かれて落下を始める。
「うそでしょ、バカ!!」
魔王の子供だ。
敵の子供だ。
この世界を苦しめた魔王の血を引く存在だ。
そんなことは、わかっている。
それでも、身体は勝手に動いていた。
あたしは聖剣を投げ捨て、砕けた床を蹴った。
足に激痛が走る。
折れた肋骨が軋む。
視界が大きく揺れ、膝が笑った。
それでも走った。
赤子は落ちてくる。
まっすぐに。
硬い石床へ向かって。
間に合わない。
どう考えても、間に合わない。
でも。
間に合わせるしかない。
「間に合えええええええええええッ!!」
あたしは最後の力で地面を蹴り、宙へ飛び込んだ。
指先が、白い布に触れる。
次の瞬間、全身が床に叩きつけられた。
両膝が石床を削る。
顎を打ち、口の中に血の味が広がる。
衝撃で肺の中の空気が押し出され、呼吸が止まった。
あたりに砂煙が舞い上がる。
「っ……い、た……」
痛い。
ものすごく痛い。
全身が悲鳴を上げていた。
今すぐその場に転がって、二度と動きたくないくらいには痛かった。
けれど。
腕の中に、確かな重みがあった。
あたしは、恐る恐る目を開ける。
舞い上がる砂煙の向こう。
両腕の中に、小さな命があった。
白い髪。
陶器のように白い肌。
額には、まだ柔らかそうな小さな角。
長いまつ毛が震え、赤子がゆっくりと目を開ける。
血のように赤い瞳が、あたしを映した。
その瞬間。
「……ぁ」
小さな手が、あたしの指を握った。
あたたかかった。
敵の子供なのに。
魔王の娘なのに。
あたしの人生をめちゃくちゃにした、この世界の厄介ごとの塊みたいな存在なのに。
それでも、その手はあまりにも小さくて。
あまりにも弱くて。
あまりにも、守らなければならないものに見えた。
「おん……なのこ?」
あたしが呟くと、赤子はふにゃりと顔を歪めた。
泣くのかと思った。
けれど、違った。
赤子は、血に濡れたあたしの胸元に頬を寄せ、小さく息を吐いた。
まるで、ようやく安心したみたいに。
背後で、魔王の声が聞こえた気がした。
「頼んだぞ、勇者よ」
振り返ったときには、もう魔王の姿はなかった。
ただ、金色の光の粒だけが、崩れた玉座の間に舞っていた。
魔王は消えた。
三年間追い続けた敵は、たしかにこの世界から消滅した。
残されたのは、あたしの腕の中にいる小さな赤子だけ。
魔王の娘。
人類と魔族の懸け橋。
そして、たった今、あたしに押しつけられた最悪の厄介ごと。
「……いや」
あたしは、震える声で呟いた。
「いやいやいや。無理でしょ。あたし、まだ十八なんだけど? 子育てどころか、自分の生活だってまともにできる気がしないんだけど?」
赤子は答えない。
ただ、あたしの指をぎゅっと握っている。
その小さな力に、なぜか胸の奥が痛んだ。
世界を救った勇者のあたし。
魔王を倒し、長い冒険を終え、ようやく自由になれるはずだったあたし。
けれど、あたしの新しい人生は――魔王の娘を抱きしめるところから始まった。
これが、十八歳にして始まる、あたしの子育て人生の幕開けだった。
そして、この時のあたしはまだ知らなかった。
この小さな女の子が、いつか世界一の勇者と呼ばれることを。
そして。
あたしが救ったはずの世界が、この子を殺すために動き出すことを。




