いつか言う日まで
風が吹き、紫の花波が水面に揺れるように揺蕩う。
藤の花が覆う花籠みたいなガゼボで、ララーシャは婚約者とお茶会をしていた。
ガゼボの側の大樹は、下枝を切っているので繁った上部の枝葉が傘のように広がりガゼボと地面に濃い影を落している。紫の花房と葉影が重なり、揺れて離れて影絵みたいに踊っていた。
ララーシャの婚約者の名前は、ギリオン。
ギリオンは一度死んだらしい。
本人曰く、雷に直撃されて心臓が停止した、と。だが、すぐに自力で蘇生したので誰もギリオンが死亡したことすら気付いていないのだ、と楽しげに教えてくれた。
もっともギリオン本人が生き返ったのではない。
ギリオンの死体に憑依した現ギリオンが、グリムハス侯爵家のギリオンとして生きているのだ、とララーシャに告げたのであった。
「僕って憑依になるのかな、寄生になるのかな、どっちだと思う? とりあえず乗っ取りは確実にしているけど」
と真面目な顔をしたギリオンに尋ねられたが、本人も不明なことをララーシャに返答できるはずもなかった。
第一、婚約した時にはもう今のギリオンだったので以前のギリオンを知らないのだ。それに憑依とか寄生とか言っているが、もしかしたらギリオンがそう思い込んでいるだけで、もとから同じギリオンだった可能性もある。考えれば考えるほど答えがわからなくなったので、ララーシャは考えるのをやめた。
「ギリオンはギリオンってことでいいんじゃない?」
とアッサリと結論するララーシャに、ギリオンはニッと唇を引き延ばす。
「僕、化け物かもよ?」
「容貌はハンサムだけど?」
ゾクリと背筋が冷たくなるほどの凄みのある美貌でギリオンが笑う。毒を孕んだ滴るような笑い声。
「フフ、皮のことじゃないよ。中身が」
しかし今回は即答した。ララーシャは真摯に言った。
「優しいわ。とてもとても私に優しいもの、化け物のはずがないわ」
ギリオンが胸を押さえた。
天使の羽根を生やしたララーシャが微笑むという存在しない記憶(妄想)が脳内を駆け巡る。歓喜のあまり、脳内は「興奮異常により凍結しました、再起動までお待ちください」状態である。
「……今、幸福で心臓が止まりそうになった……」
「やだ、大袈裟なんだから」
本物のララーシャが微笑む。ギリオン視点で0から100まで超絶に可愛い。
「でもね。私とギリオンの二人だけの秘密だけれども、ギリオンは空を裂いて海を割って大地を抉る天地異変に等しい魔法が使えるもの」
王国にも魔法使いはいる。しかし、ギリオンのごとく呼吸をするように魔法を使い、驚異的な威力の凄まじい魔法を行使できる者はいなかった。
「だからギリオンが蘇生したって、不思議だけれども信じられるわ。魔法ってこのハーブティーみたいに不思議だもの」
手に持っているティーカップには、海が満ちていた。青い海の色をしたハーブティーだ。そこへララーシャはレモンを加えた。青い色が紫色に変化する。
「それ、レモンのクエン酸の影響だよ」
「クエン酸?」
「酸っぱいやつ。植物に含まれる天然色素が酸で化学反応を起こすんだよ」
「化学反応?」
わかりません、とララーシャが首を傾げる。
「あ〜、王国はまだ化学とか発達していないもんな」
その時、雨が一滴ギリオンのカップに落ちてきた。
青い小さな海に波が立つ。次に紫のカップにも。王冠のような水紋だった。
ララーシャは空を仰いだ。
南の方の空を黒い雨雲が覆っていた。
ギリオンが南の空を凝視して呟く。
「マズイな……」
「え?」
「雨が降る。大量の雨が、南のあそこはディルム地方かな。おそらくディルム地方に半日ほどで半年分くらいの雨が集中して降ってしまうだろう」
ララーシャが顔色を変えた。
「大丈夫だよ。雨は止められないけど、災害は防げる。僕が行って、山が崩れないように、川が氾濫しないように魔法で補強をしてくるよ」
ディルム地方はギリオンの領土ではない。王領であった。それでもギリオンは椅子から立ち上がった。
「待って、一人で行くなんて危ないわ。王家に連絡をした方がいいわ」
「それだと間に合わない。もうすぐ雨は降ってしまうからね」
「それに」
ギリオンは眉根を寄せた。
「豪雨を報告しても、あの国王はダメだよ」
「恩を恩だと思う国王ならば公明正大に恩を売るけれども、あの自分だけが正しいと唱えるような国王は恩とはせず妬みにするだろう。だからこっそりと王国を助けるよ。誰も知らなくていい。水が出る前に、山が崩れる前に対処すれば誰も恐い思いをしない」
誰も知らなくとも、誰かに救われる人生はあるものだ。来なかった未来が恐ろしいものであるならば知らないままに過ごせばいい、とギリオンは考えていた。
「勝手に動いた、と言うかもしれない。王家を軽んじた、と言うかもしれない。責任をどうするのだ、と言うかもしれない。おそらく、全部を言うだろう。あの国王ならば」
ギリオンは肩をすくめた。
「まぁ、一番の理由はそんな国王への対処が物凄く面倒臭いからなんだけれども」
ララーシャの手を取り、ギリオンは手のひらに唇を寄せた。ララーシャの頬が薔薇色に染まる。
「ララーシャがいる限り、僕が王国を守るよ。ララーシャの住む場所だからね」
「ありがとう、ギリオン」
ギリオンとララーシャが見つめ合う。
「ララーシャ……」
「ギリオン……」
お互いだけを視界に映して、けれども言いかけた言葉を二人揃って飲み込む。
「好き」と。
「愛している」と。
ギリオンとララーシャは言葉を紡ぐことができない。
ギリオンは自分が本物のギリオンに憑依または寄生していると宣うが、その本来の種族は異界の生まれであり、戦闘種族である。
父も母もなく、魔力溜まりから誕生して、誕生した瞬間から殺しあうのだ。
戦って、戦って、勝ち残る生存競争を生き抜いた者がギリオンであり、暇潰しに異界渡りをしたギリオンがオリジナルギリオンの死体に入って変異して同化したのが過去であった。
そのような殺伐とした種族であるため、恋も愛も経験したことがない。そして問題となるのが、恋や愛を異界で経験して相思相愛の関係となった時なのだ。
「好き」と。
「愛している」と。
相思相愛の相手から心をこめて告げられると、幸福のあまりに死んでしまうのである。
それは種族にとって最も幸せな死として切望されている死に方であった。
魑魅魍魎のごとく修羅の種族なので、奇跡に等しいものなのである。
かつてララーシャに「好き」と告白されて、ギリオンは倒れたことがある。婚約したばかりで、ギリオンの方はララーシャへの好意は高くなかった。おかげで一命は取り留めたが、相思相愛となった今では禁忌の言葉となっていた。
ララーシャもギリオンが倒れたので、絶対に口にしない。
お互いに言いたくとも言えない言葉であった。
「じゃあ、行ってくるよ」
ふわり、とギリオンが空中に浮かぶ。
「怪我をしないでね。無事に帰ってきてね」
「うん、約束するよ。ちゃんと帰ってくるからご褒美をくれる? 国王からはいらないけど、ララーシャからはご褒美が欲しいな」
ララーシャが笑みを浮かべた。
「ギリオンがおねだりをするなんて珍しい。何でも言って?」
「ララーシャが天に召される時」
ギリオンが口を動かす。声にはしない、六文字の言の葉。
「と、言って欲しいんだ」
ララーシャが硬直した。
「…………だって、ギリオン。その身体から出たら何千年も寿命があるって以前に言っていたわよね。なのに、私といっしょに逝くつもりなの?」
「ララーシャのいない世界は死よりも辛いよ」
当然のようにギリオンは言った。
「……私は……」
ポツリポツリと降る雨がララーシャの頬を濡らした。静かに頬を伝う。大粒の真珠のような雫だった。
「仮の約束でもいいよ。ララーシャは何十年も生きるのだから。でも、僕はね。ララーシャが死ぬまで、死んでからもいっしょにいたいんだ」
ギリオンが小指を差し出した。
「もし約束を貰えなかったら、僕、悲しくって世界を滅ぼしてしまうかも。ララーシャが人間に優しくすることを教えてくれたのだから責任をとってよ」
「……世界を天秤に載せる脅迫は狡いわ」
迷って、躊躇して、恐る恐るララーシャも小指を差し出す。
ギリオンとララーシャとの小指の境界がなくなり、重なるように絡んだ。
雨がギリオンとララーシャを濡らして、銀のヴェールで包むみたいに天地の間に二人を閉じ込めた。
その後60年もの間、王国では天災もなく戦争もなく平和に繁栄を謳歌した。
美しく老いた貴婦人が最後の息を終える瞬間まで。
貴婦人が最後の言の葉を織る一瞬まで。
王国は平和であった。
読んでいただき、ありがとうございました。
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