第9話 真面目なおとり作戦
「さて、暴れられても困りますからな」
あの村で盛られた薬が、イグジスの脳裏をよぎった。直接注射されて暫く昏睡してしまえば、潜入調査どころか奴隷二体目になってしまうだろう。商人が腰を上げようとする間際、ジナは赤く塗った爪でするりと瓶を掬い取った。
「まあ待て。躾ける前に噛まれても面倒だろう。飲ませればいいんだな?」
「え、ええ、注入でなく飲食でも十分鎮静効果はありますよ」
ジナは新しい玩具を試すように小瓶を弄ると、イグジスの顔の前で中腰になる。丁度、商人の視界が遮られる立ち位置だった。
「ほら、一滴残らず飲み干せ。こぼすなよ」
人差し指の腹で優しく顎を撫でられ、視界が床から上へ向く。商人を背にした女主人の表情は、愉悦と嗜虐の混じったもの──ではなく、どことなく気まずそうだった。
若干視線を逸らされたまま、指で口を強引にこじ開けられる。自分とは異なる指先の温度が、唇越しにじわりと伝わる。つい動かした舌を爪先がかすめ、息を飲んだ。
もしやこれは、一種のプレイなのでは?
イグジスは今更、大変不純な行為をさせているのではと思い至った。誓って今回の作戦にやましい意図はなかった。それにしたって、年若い娘にさせるにはあまりにハードすぎたのでは。しかもオットーが用意したドレスは露出が多く、現在は前屈みになっている。つまり胸元とか太腿のきわどい光景が、眼前に広がっているわけである。
いやこんな大事な場面で不純な気持ちが湧いたわけではなく、この姿を商人に晒しまくっていたのはどうなのか、という意味で。でも本人は、服に関しては演技の時とは違い、抵抗感なく着ていたわけで。自分だって何度も求婚してきたとはいえ部下をやましい目で見たことはないのだからつまり問題はない。
……けれど、別の男にまで見せるのは、何というか、よろしくない、のでは。
いやいや上司とはいえ部下の相手にまで口を出すのは良くない。自分が見るのは問題ないという発想自体が、独裁的ではないか。
僅か数秒の間に、猛スピードで大量の思考がイグジスの脳内を駆け巡った。瓶から流れてくる液体が、大氾濫中の意識を一気に冷やす。ついでにこっそり解毒剤も突っ込まれた。
身体が弛緩し、視界が揺れる。あっという間に全身を強烈な倦怠感が包み込んだ。それに従うまま床に伏し、目を閉じる。ただし、完全には意識を手離さないように気を付けて。
「では回収させていただきます」
「ああ。またよろしく頼む」
客が帰ったのを確認すると、商人はすぐさま手下を呼んで商品の運搬作業に取り掛かった。木箱に詰め込まれ、真っ暗になった視界の中じっと様子を窺う。どうやら荷台でどこかへ運ばれているらしい。気付かれないよう、静かに指を握っては開く。倦怠感は強いが、動けない程ではない。王都の魔術師達の自信作なだけあって、解毒剤は完全とはいかないまでも大分薬の効果を抑えてくれている。王都に帰ったら魔術師達に感謝の気持ちと共に求婚をしようと思った。
眠気や倦怠感と戦いながら待つこと暫し、続いていた振動がようやく止んだ。目的地に到着したらしく、商人達の会話が漏れ聞こえてくる。
「薬の投与を忘れるなよ。暴れられたら敵わんからな」
「今度は男の竜人ですかい。繁殖でもさせる気で?」
「バカ言え、一人でも厄介なのに増やしてられるか。女の方は買い手がついたし、今回の奴は前の飼い主が調教済みだ。あれよりは手がかからんだろう」
木箱の蓋が開けられ、こっそり薄目を開けて周囲を確認する。街の郊外なのか、周囲には大きな小屋と、家が一軒あるのみだ。小屋の造りは牧場の動物小屋を連想させる。敷地には水晶玉のオブジェが点在していて、怪しげな光を薄っすらと纏っている。よく見ると荷台や商人達も小さな水晶玉を装着している。あれらのお陰で、街の自警団達の目から逃れてきたのだろう。
「念のため薬を一本注入しとけ」
「へい、分かりやした」
用心深い商人が、手下に命令する。ここで追い薬はまずいので、イグジスは行動に移ることにした。注射器を持った手首を掴み、地面へ叩きつける。驚きながらも仕事柄反抗は慣れているのか、手下はすぐさま長棒を構える。突き出されたそれを掴んで拝借し、早速手下数人相手に使用感を試させてもらった。
「ふむ、まあ贅沢は言ってられんか」
愛用の槍とは重さも長さも違うが、ここの連中を捕らえるには十分だ。期間限定の相棒を片手に、イグジスは早速仕事にかかった。棒切れが唸り声を上げるたびに、雑草を刈るが如く相手がのされてゆく。
「こ、こいつどうしてここまで動けるんだ!?」
「この程度、全裸で簀巻きにされ火山に突き落とされた時に比べたら、可愛いものだ」
「どういう状況だよぐおっ!?」
突っ込みの言葉を残し、最後の手下は地面へ頭をめり込ませることとなった。うつ伏せの姿勢で顔だけを地面から上げ、商人が忌ま忌ましげにこちらを睨みつける。
「この強さ、黒い竜人の男……さてはお前、黒竜騎士団長か」
「察しが良いな。そう、主人に調教された奴隷は仮の姿というわけだ」
「くそっ、あの守護竜が女に踏まれて喜ぶ変態犬野郎だったなんて聞いてねえぞ!」
「待て、それはあくまで演技だ」
演技が真に迫りすぎた結果、新たな騎士団長の噂が誕生してしまった。王都には届かぬことを祈るほかない。
ともあれ捕縛を無事終えると、イグジスは次に水晶玉の破壊にかかった。証拠物品を自己判断で壊すと自警団にあれこれ言われる可能性もあるが、そこは事情を話すと共に破片の山を差し出せば分かってくれるだろう、多分。
商人達の手持ちも含めて全て回収、粉砕し終えると、指を天へ突きだす。目印として出すつもりだった炎は、想像と反して大変小さなサイズのものであった。指先で舞うしょぼしょぼとした火の粉を見て、倦怠感が纏わりついたままの頭をかく。
「ううむ、薬の効果が残っているな」
竜人としての能力を抑え込まれては、一度捕まってしまえば簡単に逃げられはしないのも納得できる。
仕方がないので、適当にかき集めたその辺の雑草に火をつけた。最後の最後で焚火作りとは、どうにもしまらない。とはいえ効果はてきめんだった。
誰かの気配に、せっせと焚火に火種を放り込んでいる手を止める。予想通り、ジナだった。縛られた商人達の傍らで雑草を摘んでいる団長の姿に、険しい眼差しがふっと和らぐ。
「無事……みたいだな」
「ああ、傷一つない。捕縛も完了した」
そうか、と話す彼女の息は珍しく若干荒く、頬も上気している。街から急いで駆けつけてくれたのだろうか。
「そこまで警戒せずとも、この通り無事に終わったぞ」
「一歩間違えれば薬漬けの、雑な作戦だぞ。心配するのは当たり前だ」
「服を着替える余裕くらいはあったと思うが」
彼女の服は、ドレス姿に細剣を加えただけのものだった。つまり、この際どいスリット入りドレスで、ここまで猛ダッシュで来たというわけで。
「何かあってからじゃ遅いだろう。悠長に着替えている場合か」
「…………そうか。うむ、君は相変わらず上司想いの立派な部下だな」
イグジスは感心しつつ、速やかに上着を脱いだ。薄着で露出が多いドレス姿の部下の為に、慈しみの表情と共に脱いだそれを差し出す。ちなみに奴隷設定の衣装は質素な服だったので、上着を脱げば上半身は裸である。
「ジナ、これを着るといい。薄着で寒いだろう」
「その台詞、そっくりそのままお返しするぞ」
突然の奇行に、ジナは何やってんだこの半裸と言わんばかりのジト目で睨みつけてきた。こちらは色々と、そう色々と気を遣っての行動だというのに、大変心外である。
「ああもう分かった分かった、これでいいんだろ」
ジナは縛られた男の一人から強引に上着をはぎ取り、肩にかける。まあそれなら、とイグジスも納得して再び服を着直した。納得しているのに、何かがひっかかるのを気にしないようにしつつ。
「あとは、軽く中身を見分でもしておくか」
他人の男の服を羽織り、ジナは小屋の方を指さす。ここに来る前に自警団へ事情は伝えているので、もう少しすれば増援が駆けつけるだろう。それまでに奴隷たちの様子でも確認しておこうと、建物へ足を向ける。
商人から回収した鍵で、頑丈な鉄製の扉を開ける。中は最低限のランタンが入り口にかけられているだけで、非常に薄暗い。ジナがランタンに火を灯す傍ら、夜目が効くイグジスは同族をすぐさま発見した。他の奴隷達とはあからさまに違う処遇だったからだ。
檻の中に押し込められた、若い女性。四肢と首には鉄輪がつけられ、鎖で繋がれている。昏睡しているのか、目を閉じたまま微動だにしない。
「こいつがオットーの探していた妻か。……どうした」
ランタンを片手に隣へ並んだジナが、問いかけてくる。返答ができないまま、イグジスは女を凝視していた。
ぼろきれのような服を着せられ、劣悪な環境にあっても輝きを放つ美貌。褐色の肌に、床に散らばる焦げ茶色の長い髪。瞼に隠された瞳は──恐らく、金色。
「……ファルファラ」
掘り起こされた記憶を前に、イグジスは知古の名を小さく呟いた。