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第23話 副団長の淡い回想

 客人が去り、ルドルフは反対側のテーブルに放置されたカップに触れる。持ち手に複数の亀裂が走り、最早使い物にならないそれを見て、ふっと笑みをこぼしてから視線を移す。


「君も、茶会に参加すればよかったのに」


 静かな足取りで、ジナは庭園へと足を踏み入れた。先程まで客人が座っていた場所を視界に入れてから、ゆっくりと首を横に振る。


「いえ、結構です。代わりに対応して下さり、ありがとうございます」

「本当にいいのかい。 ──君、彼が好きだろう?」


 夫となる男からそんな事を指摘され、ジナは別にと反射的に反論してから唇をかみしめた。目の前の男は、市井での噂よりずっと聡い。自分の本心など、とうに見透かしているに違いなかった。


「……もう、過ぎた話です」

「ジナ。僕は君を利用するのだから、君も好きにやればいい。貴族の妻がお忍びで別の男を作るのは、よくある話だろう」


 浮気を公認する発言に、ジナは苦笑する。万が一バレてしまえば、とんだスキャンダルだ。それとも、正妃ではないからこその緩い扱いなのか。とはいえ、ルドルフの気遣いは感謝すべきなのだろう。なるべく誠実に、利便を図ろうとしてくれるのだから。


「浮気なんて、あの倫理観の強い団長は絶対に許しませんよ」


 今後の打ち合わせがあるので失礼します、と頭を下げてその場から去る。ジナとルドルフの結婚については、即位式後の夜会で正式に発表される予定だ。それまでは、新たに任命される近衛騎士として王宮で活動していた。お飾りの側室というだけでなく、腕も必要とされているのは、喜ばしくはある。兵舎に居辛いだろうから、と王宮内で一室を用意してくれたのも、ありがたかった。ただ、メイドの存在にはいつまでも慣れなかった。与えられた大きな部屋も、準備された高級なドレスも、自分には合わない。


 廊下に誰もいなくなったのを見計らい、行儀悪く壁にもたれかかる。疲れたように息を吐き、ジナはそっと目を閉じた。忙しくとも、今までの自分を振り返る位の時間はあった。


※※※


 泥を啜り、ごみを漁る。パンをひときれ得るために頭を垂れ、大人達に好き勝手に使われ捨てられる。治安の悪い都市の裏路地では、珍しくもない光景だ。最低限生きるだけの、底辺の生活。きっと死ぬまで、そんな生き方が続くのだろう、とジナは思っていた。


 契機は、酔った大人達が憂さ晴らしに子供を殴っている、ありふれた光景だった。ただその子供が、何度か会話をした事がある、顔見知りだった、というだけの。たったそれだけで、ジナは大人達に掴みかかっていた。同年代との喧嘩ではいつも勝っていた、という驕りもあった。そんなもの、自分よりずっと力が強い大人達の前では、笑いの種にもならないのに。


 大人達はあっさりと標的を乱入者に替えた。その隙に殴られていた子供が逃げたのを、薄情だと罵る気持ちは湧かなかった。それが当然だ。生きるだけで精一杯なのに、他の相手にまで手を伸ばそうとした自分が馬鹿だったんだ、と殴られながら何度も思った。


「この生意気なクソガキが!」

「死ね、死んじまえ!」


 本当に死ぬかもしれない、と思った。痛みで意識も朦朧として、逆らう力すら失って、地面に転がって。


 ふと、暴行の嵐が止んだ。


「子供相手に、寄ってたかって何をしている」


 腐敗臭の漂う通りには似つかわしくない、騎士の服。短く切りそろえられた黒色の髪に、月よりも眩い金色の瞳。美しく整った相貌に怒りを混ぜ、突然現れた男は振りかぶろうとしていた拳を掴んで止めていた。


「この近辺は治安が悪いと聞いていたが、これ程とはな」

「うるせえ、他人が口出すんじゃねえよ! ひっこんで──ぐえっ!?」


 酒気の混ざった罵声が、悲鳴に変わる。男が掴んだ手首を力任せに引っ張り、無理矢理地面へ叩き伏せたからだ。間髪入れずに、男は長槍を構える。起き上がろうとした者の鼻先にそれを突き立て、ぐるりと周囲を見渡した。


「まだやる気ならば、君達を暴行罪で捕らえるとしよう」


 歴然の力の差に、男達は我先にと逃げ出していった。最後によろよろと起き上がった男が悪態をつきながら姿を消してようやく、槍の構えを解く。そして男は、未だ地面に伏せたままのジナを見た。汚い虫を見るような目ではなく、気遣いを秘めたそれで。それだけでも十分珍しかったのに、男は服が汚れるのも構わず膝をつき、手を伸ばしてきたのだ。


「酷い怪我だな。立てるか」

「……どうして」


 ジナは混乱していた。どうして、見ず知らずの男が助けてくれるのか。こんなに優しくしてくれるのか。まるで酒場の吟遊詩人の歌う、夢物語みたいに。囚われのお姫様を助ける騎士のように、優しく手を取ってくれるなんて。ジナの問いかけに、男は安心させるように微笑んだ。


「騎士として、当然の行いをしたまでだ」


 本当に騎士だった。現実の騎士もこんなに素敵だなんて知らなかった、と惚けてまじまじと見つめる。


「それに、自分を庇って殺されそうになっている友人を助けてくれと、頼まれた。あの子は君をとても案じていたぞ」


 他人をおとりにして逃げ出すのは、当然だ。そう思っていたのに、男の言葉に涙が出そうになった。自分のやったことを、肯定された気がして。


 泣きそうになっていたジナをよそに、男は手を添えて立ち上がるのを手伝ってくれた。そして指を離すと思いきや、とどめの一言を放ってきた。


「ところで、君、私と結婚しないか」

「えっ、なっ、うわあああ!?」

「ぐふっ」


 突然の求婚に、零れかけていた涙がぴたっと止まる。代わりに猛然と襲い掛かってくる羞恥に、つい手を振り払って男の顔面にパンチを喰らわせてしまっていた。


 会ったばかりの子供相手に求婚なんて、危ないヤツだ、と普段であれば逃げただろう。でもこの人は颯爽と自分を助けてくれて、格好良くて、優しくしてくれて、更に求婚だ。その時のジナは、未経験の連続に、いっぱいになってしまったのだ。


「な、なんで!? あたしはお金もないし、まだ子供なのに」

「騎士の給金ならば、妻を養う余裕は十分ある。それに十年や二十年程度、待つのは造作もない」

「でも……あたしはあんたみたいにきれいじゃないよ」

「いいや、君は綺麗だとも」


 男は先程殴られたのを忘れたかのように、頭に手を置いてきた。土で汚れて伸び放題の長い髪を、まるで絹でも扱うように撫でる。


「友の為に身体を張るその雄姿は、とても凛々しく尊いものだ」

「え、え……えええ……」

「だから君は美しい。是非結婚しよう」

「えええええ…………」


 仕切り直しとばかりに、うやうやしく指を掬い取られる。こんな風に褒められるのは初めてで、ジナは真っ赤になって、言葉にならない呻き声を上げた。


 怪しいロリコンだ、逃げるべきという警戒心を、頷くべきだと甘言が押さえつける。金を持っていて、強くて、格好良くて、優しい、良物件だ。こんな人と結婚できるなら、もう飢えることも、凍えながら眠りにつくこともなくなる。それに、こんなみすぼらしい自分を褒めて、受け入れてくれている。


 そう、こんなに立派なひと、だから。

 とても釣り合わない、と思った。


「あたしは……、あんたと比べて全然立派じゃないから」


 だから、と恥ずかしいのを我慢して、ぐっと男の瞳を捉える。綺麗な金色の瞳に映る、ぼさぼさの長い髪の、汚い子供。これじゃ駄目だ、と思ったから。


「あたし、がんばるから。もっと大きくなって、強くなって、かしこくなって、きれいになるから」


 彼の隣で、堂々と胸を張って歩けるように、なりたい。

 大きく息を吸い直す。指を振りほどき、一瞬躊躇ってから、強く掴み直した。


「そうしたら、あたしと結婚して!」


 求婚返しをされた男は、驚いたように目を見開かせる。まじまじと勇ましい少女を見つめ返し、数拍置いてふっと微笑んだ。


「待っているよ」


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