第18話 とてもすばらしくしあわせなおもいで
全て、憶えていると思っていた。記憶の中身が、妻と仲の良いものばかりである事に、ひとかけらも矛盾を抱かないままに。忘却へ葬った記憶が、つまびらかになってゆく。
「ねえ、そんなに私に尽くそうとしなくてもいいのよ」
「愛する妻に尽くすのは、夫として当然ではないか?」
努めて優しく手を取り、うやうやしく指先に口付ける。契った時の誓いは変わらないと、示すためのものであった。最初の頃には喜んでくれた行為は、いつの間にか妻の不安を薄める事すらできなくなっていた。
「イグジスは……本当は私の事、どう思っているの」
最近増えてきた妻の疑問には、首を傾げるのが常だった。だって、それはイグジスにとって、規則を守るのと同様に当たり前のことだった。だから、間髪入れずに返答した。
「無論、愛しているとも。それとも君は私を、結婚の際に交わした誓いも守れぬ不誠実な男だと思っているのか」
「そ、そういう意味じゃないのよ。ただ……」
彼女は数秒、口ごもる。迷うように俯かれ、化粧で鮮やかに染まった頬に影が差した。
「貴方の本心が、最近……いいえ、きっと最初から、全然分からないの。貴方は、私が妻だから愛してくれているだけで、本当は……」
続きを紡ぐのを躊躇して、口が閉じられる。自分の態度が悪かったばかりに要らぬ心配をさせてしまっているのだろうか。今後より一層誠意を伝えるべきかと、彼女の両手を柔らかく包み込んだ。
「竜人は誓いを守る一族だ。君への想いは一生変わらない。どうか安心してくれ」
「…………そう」
憂いの眼差しが、手を包む男のそれへと落とされる。誠心誠意を籠めた宣言であろうと、妻の表情は晴れないままだった。
どうしてそんな事を問われるのか。何を不安に思い、疑っているのか。彼女がどんな思いでその疑問を口にしていたか、イグジスは何も分かっていなかった。
※※※
食い違ってゆく感情は、軋轢を生じてゆく。次第に、妻は癇癪を起こすようになっていった。
「どうして怒らないのよ!?」
赤い花をきつく踏みつけ、立ち上がった妻が激昂する。愛の証として贈った花束を無下にされておいて、何故大人しいままなのかと言い募る。
「もううんざりだわ。口を開けば、『夫として当然』ばかり! もっと本音を明かしてよ! 勝手な女だって怒ればいいじゃない、酷い女だって罵ればいいんだわ! もうお前みたいな妻なんて嫌いだって……言って……っ」
怒りで染まった頬を、ぼろぼろと涙が伝う。イグジスは、ただ宥めるしかできなかった。彼女の言う通りに蔑むなど、とてもできなかった。癇癪の原因が自分にあるのだろう、という部分だけは理解できていたから。
「君を嫌うなど、あり得ない」
そろそろと指を伸ばし、涙を拭ってやる。潤んだ瞳がこちらを見据え、何かを言おうとする前にこちらから告げた。
「君の不満は、私が良き夫として未熟だからだろう。君が満足できるような愛し方を、今後一層模索する所存だ」
何かを期待するような眼差しが、落胆へと塗り替わる。それから逃れるべく、指を離した。無残に散らばった花束を憐れむように、眉をしかめる。
「ただ、花に不満をぶつけるのは良くない。これに罪はないだろう」
「……っ、貴方のそういう所が嫌いなのよ!」
妻は目の間の男を押しのけるようにして、踵を返す。一人部屋に残され、イグジスはしゃがみ込んだ。どうしてうまくいかなくなったのだろう。歩み寄ろうとしても、両者の間に横たわる亀裂を目の当たりにするばかりだった。
自分の結婚生活と彼女のそれは、根本的に合わないのだろうか。種族の違いによるものか、それとも、ただ自分に原因があるのか。ならば、どこが駄目なのか。それが分からない。夫として妻を一途に、誠実に愛して尽くすよう努める事の、何が問題なのだろう。
傷一つなかった花びらは踏みにじられ、瑞々しく美しかったかたちを殆ど留めてはいなかった。
※※※
不吉な気配が色濃く漂う部屋。土気色の肌。濁った瞳。死の淵を前にして、横たわった妻は歪な笑みを浮かべた。
「貴方なんて、呪われてしまえばいいんだわ」
「……そうか」
呪詛の言葉を、ただ飲み込む。妻がそう望むなら、そうあるべきなのだろう。大人しく相槌をつくだけの夫に、妻はくしゃりと顔を歪ませる。まるで、傷つけられたのは自分であるかのように。
「違う、……違うの。貴方なんて、私を忘れてしまえばいいんだわ。とっとと他の女と、もっと幸せになればいいのよ」
何が違うのだろう、と思った。それは確かに呪いだ。契っておきながら別の女性と幸せになる、などと。
「それはできない。誓った以上、私は今後妻を娶らず、君を死ぬまで愛する」
「……子孫繁栄って使命があるって、前に言ってたくせに」
「夫としての誓いをより優先したいだけだ」
「やめてよ、最期までそんな事言わないで!」
喋りすぎては体に障る、とイグジスが何度気遣っても、彼女は口を閉じる気配がなかった。涙を滲ませ、弱々しく咳き込みながらも、感情を吐き捨てるのをやめようとしない。
イグジスはとうとう諫めるのをやめ、小さく息をついてから口を開き直した。
「再婚するにしても、喪に服す期間はあるべきだ」
「なら一年後にでも、私より好きな子と結婚しなさいよ。勝手にして頂戴」
「了承した。では、百年後に」
彼女は一瞬呆気に取られてから、聞き取れぬほどの小さな声で、何かを呟いた。色の失せた頬を、涙がぼろぼろと流れてゆく。先程手を振り払われたのが脳裏によぎって、持ち上げかけた手を降ろす。自分に触れられるのは嫌なのかもしれない、と思ったから。
枕元のすぐ近くから、決して触れないようにして。イグジスは優しげに囁いた。
「今は君が妻であり、愛すべき存在だ。君は、私の愛が不快だったかもしれないが……」
「うそつき」
弱々しい声音が、弁明を刺し貫く。乾いた笑みを浮かべ、かつて愛を誓い合った女性は言い放った。
「私の事なんて、一度も愛してくれなかったくせに」