第13話 思い出と理想
夢の中で、これは現実ではないと認識できる者は少ない。イグジスもまたそうであった。百年以上住んでいる我が家の柱や壁に、傷が殆どなくても。朽ちたせいで体重をかけた際に粉々に壊れ、捨てるしかなかった椅子が、新品同様の姿で部屋に置かれていても。そこに、死んだ妻が腰かけていても。
「お帰りなさい」
病で臥せる前の、健康的な肌色。読書中だったのか、手には本を持っている。タイトルは滲んで、上手く読み取れなかった。
イグジスは笑顔を浮かべ、ただいまと告げる。毎日ずっと繰り返していたように、自然な動作で彼女の前で足を止め、後ろ手に持っていた花束を差し出す。
「私の愛しの花嫁にこれを」
「まあ……綺麗ね。花屋で買ってきたの?」
「記念日には、こうして花を贈るものだと聞いたからな。意味は永遠の愛だそうだ。私達にぴったりだろう」
赤い花だ。そう、確か花びらが沢山あるものを。何本でどんな意味があるのか、店員に教えてもらった。包装紙は花に合いそうな色を、自分で選んだ。
彼女の細い指先が、花束を受け取る。匂いを嗅ぐように顔に近付け──それは手からすり抜けていく。他ならぬ本人が、床へ落としたから。
ぐしゃりと踏みつけられ、歪んだ花びら。花よりも赤い口紅の色が、やけに鮮明で。だから、だろうか。あまりにくっきりと、唇の動きが読み取れて。
「私は、大嫌いよ」
言葉の棘が、深々と突き刺さった。
※※※
明滅する視界。頭痛と吐き気が、覚醒直後のイグジスをじくじくと苛む。ベッドから起き上がろうとして、視界に入った赤色に言葉を失う。
「ああ、起きたのか」
赤色の短髪が、たなびいて。見慣れた表情に心配のいろを混ぜ、ジナが顔を覗き込んでくる。
「顔色が真っ青だぞ。気分が悪いのか」
「……、死んだ妻と、仲睦まじい会話をしただけだ」
「魂があの世へ逝きかけたみたいだな」
小さなタオルを片手に、彼女は冗談とも本気とも取れるコメントをした。どうやら自分はあの危険な薬を飲んで気絶した後、宿屋へ運ばれたらしい。
ジナは散策から戻り事情を把握したのち、昏睡中の上司を案じて傍に居てくれたのだろう。或いは、無防備に気絶中だった自分を護衛してくれていたのか。言葉や態度は時折容赦がないのに、こうやってこちらを一直線に気にかけてくれるのが、隠し切れない程伝わってくる。
そういう、そういう所が……本当に頼りになる副団長だ、と脳内で結論付けた。
「それより君の方はどうだった。ファルファラの新たな愛人となるのは反対だぞ」
「お前は私の父親か」
ジナは呆れながらベッドサイド付近の椅子に座る。それから一拍おいて、にやりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「ファルファラとは、楽しく会話させてもらったよ。お前の過去話とかをたっぷりとな。幸せ家族計画を手書きで作っていた、とか」
イグジスは顔を顰めて、潰れた声を出した。黒歴史を他者から赤裸々に明かされるとどんな気分になるのか、身をもって知る羽目になった。あんな未熟で粗雑な計画表を提出したのがバレてしまうとは。今ならもっと資産運用とか、マイホームの詳しい間取りなどを付け加えた、綿密な計画表を作り上げてみせるのに。いっそマグマの海に沈みたい、と頭を押さえて呻く。
気を取り直すべく、がばりと半身を起こして真面目くさった表情を副団長へと向けた。
「過去より未来に着目すべきではないか。例えば、新たな幸せ家族計画とか」
「現実を見ろ」
タオルを顔に叩きつけられる。ありがたく頂戴して、痛みが響く額へと押し当てた。きつく目を閉じて、先程の夢から目を背けようとする。
ただの夢だ。なのに、どうしてこうも、心に突き刺さったままなのだろう。
「私の、結婚観は……そんなにおかしいか」
「何だ今更」
本当に、今更だった。今までだって散々団員達にからかわれて、あの夫連中にも微妙な反応をされて。妻にも……いや、彼女とはうまくいっていたはず、だ。
「まあ、あれだけ気軽に求婚する割に、やけに凝り固まった結婚理想像があるな、とは思っていたな」
頭痛が酷い。ベッドに横たわりたくなるのを堪え、ジナの言葉から連想した過去を引き摺り出そうとする。そうすれば、別の過去から意識を背けられるから。
「世話になった人間の夫婦を、参考にしたんだ」
故郷からほど近い所にあった一軒家に住んでいた、老夫婦だった。見慣れぬ若い少年が、一人で森を歩いていたのを心配したのだろう。子供はみんな独り立ちして退屈していたんだ、と家に招かれた。勢いに乗って掟を破って集落を出た後だったから、人と関わるべからず、という掟を破る罪悪感も大分薄れていた。ありがたく申し出を受け入れ、暫し世話になった。
沢山の話を聞いた。数百人以上が集まって暮らす、賑やかな街。古い地図には載っていない、様々な国。狭い集落では聞いたことのない、新鮮な世界の話だった。
そして会話は老夫婦の日常や、馴れ初めにまで至った。ただの親同士の紹介で、いやあんたが祭りで口説いてきたのが最初だよ、とばしばし背中を叩き、笑い合う光景。不便ながらも満ち足りた、平穏な二人の生活。
「これこそ私の理想だ、と思った」
「隠居生活を理想にしたのか……」
ジナは額に手を当てて、はあと息を大きくつく。それから、前から思ってたんだがな、とどこか言い辛そうに口を開き直した。
「お前は惚れた相手と結婚したいのか、それとも単に、幸せな結婚生活を送りたいのか?」
「どちらも同じではないか。夫となったからには、妻を愛するよう努めるからな」
打算にまみれ、冷え切った夫婦も数多くいることくらい知っている。それでも一度契った以上、死ぬまで愛を誓うべき。それが結婚という契約ではないか。
かつて掟に従順であったように、それはイグジスにとって当然の考え方であった。澄んだ目で返答してみせた男へ、ジナは先程より更に大きなため息をついた。
「お前はいっそ、ファルファラの旦那になって恋愛観を叩きこまれる方がいいんじゃないか」
「拷問を薦めないでくれ。そもそも私は唯一の妻と結婚したいのであって」
言葉の途中で、口の動きが止まる。突然立ち上がったジナが、ベッドサイドに腰かけてきたのだ。すぐ傍の重みに、シーツが歪む。明るく揺らめく赤い瞳は、目を背けたくなるほど眩しかった。
夢が揺り起こされる。視界がぶれる。記憶が、霞む。
「この際だから、言っておく」
「……君も、私が嫌いか」
「はあ? 何言ってるんだ。相当重症だな」
普段より随分としおらしいイグジスを前に、呆れたような声を上げられる。揺れる頭を強引に押され、ベッドに身体が沈んだ。
「ジナ、行為の誘いなら結婚をしてからで」
「こういう時に変な勘繰りをするな! 調子が悪いなら寝てろ!」
タオル越しにぺちん、と額が叩かれる。音のわりに全然痛くない。確かに、的外れな予想だったのだろう。ベッドサイドに腰かけたまま、こちらを眺める眼差しからは、下心などまるで感じない。額を撫でる手つきには、凍えている子供を温めるような優しさがあった。
触れられている部分が、やけに心地よくて。指を振り払わずそのままでいると、ぽつぽつと声が降ってきた。
「お前のどうしようもない求婚癖は少し、いや凄くどうかと思うが。馬鹿みたいに大真面目な所とか、人の長所を見つけて褒めるのが得意な所とか、人好きで親近感が湧きやすい所とか、真っ当に頼りになる部分とか、良い所だって沢山あるだろ。……尊敬、尊敬だぞ。尊敬だからな」
やけに尊敬を強調された。そうでなければ、これは愛の告白、といつもの流れになっていただろう。それにしても、内容を聞いていると、褒め過ぎではなかろうかという気もしてくる。自分はそんなに立派ではない。ただ、そうあるべきという理性に従っていただけだ。
それともジナは、落ち込んでいる相手にはこうやっていつも優しく褒めて労っているのだろうか。イグジスには滅多にそういう態度を見せないだけで。
そうだとしたら、それは……、上司として、どう思うべき、なのだろう。
「だから、尊敬する団長へ警告しておく。本当にお前が幸せな結婚をしたいなら、あまり理想と理屈で感情をねじ伏せようとするな」
指の体温が、そっと離れてゆく。それを引き留めそうになって、タオルを顔からのけて起き上がった頃には、彼女は既に扉の前まで辿り着いていた。
去り際に振り返られる。先程までの柔らかな気配が幻であったかのように、ジナはいつも通りの調子で言った。
「このままだと、お前はきっと誰とも、愛し合えない」
記憶の棘が、扉の閉まる音と重なり貫いた。