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その小さな洋館は、この数日で急に古びてこのまま崩壊してしまうのではないかと思うほど、暗鬱とした怖しげな雰囲気が漂っていた。もしかして、住人になにか不幸があったのではないか――と、メリッサは毎日決まった時間に店にやって来て毎日決まったパンを買っていく老人の姿を思い浮かべる。杖をついていたものの、腰も曲がらず良い姿勢で歩く老人の足元には、必ず小さな黒猫がくっついて歩いていた。その姿を見かけなくなって一週間は経つ。ふと思い立って、街の中心部への配達途中に遠回りをして立ち寄ってみると、やはり建物には誰の気配も感じられず、ただこのまま崩れ落ちるのを待っているだけのような寂しさがあった。
「この前メリッサが、廃墟みたいになってしまった屋敷があるって心配していたでしょう。昨日、丘の向こうへ用事があってあの道を通ったの」
いつも必ずプルマンブレッドと季節のフルーツを使用したパイを購入していく常連客が、ふと思い出したように言った。メリッサはカウンターの引き出しに受け取った硬貨をしまい、そうなの、と頷く。
「あれから、いつも来てくれてたおじいさまはいらっしゃらないのよ。やっぱりお亡くなりになったのかしら」
残念な思いでそう呟き、パンを詰めた紙袋を客へ差し出す。
「それはわからないけれど、建物は前のようにすっかりきれいになっていたから、もしかして新しく買い手がついたのかしらと思って」
「まあ、そうなの。次の配達日にまた寄り道してみようかしら」
ひと月に一度か二度注文のある町の中心部への配達では、その日の配達量にもよるが馬車を使うことが多い。馴染みの辻馬車の荷台に出来立てのパンを積み込み、自身もその隅に乗り込んで、朝の早い時間に出掛けるのだ。
朝霧の中で見る町の景色は、また違った趣がある。茶色や橙色、赤色のレンガを使う建物が多く、霧の中でしっとりと土色の塊が影となっていた。月が昇り、明るく晴れれば濡れた土色が乾き、優しい色合いになる。馴染みの客にパンを届け終わり、町に出たついでに自身の買い物も済ませると、メリッサは途中で馬車を降りて丘の麓にある屋敷を目指して歩いた。しっとりと濡れた地面の、木陰にかかる部分は所々ぬかるんでいる。荷物やズボンの裾を汚さないよう乾いた部分を選んで歩きながら、メリッサは自身の店と目指す屋敷の距離を考えた。杖をついた老人と小さな黒猫はこの道を何を思いながら歩いたのかしら、なんてことを思う。
老人はいつも、品のある穏やかな口調でメリッサの店のパンの感想を伝えてくれた。時折、新作のパンを買って味見してくれるのだ。必ず糊のきいた白いシャツに艶のある漆黒のリボンタイを締め、上品な黒い外套を羽織っていた。立ち振る舞いにも颯爽とした軽やかさがあった。店の外で待たせている小さな黒猫を優しげな眼差しで振り返り、彼女もこの店が気に入っているのだと言っていた。老人の視線の先を追うように見れば、店の窓越しに、黒猫の丸い黄色い目と目が合ったような気がした。
その小さな洋館は常連客が言っていた通り、暗鬱とした雰囲気は消え去り、古びた外壁は蘇ったかのようだった。雑草が伸び放題であった庭は小ざっぱりと手入れされており、玄関扉に嵌め込まれたステンドグラスが輝いている。崩れ落ちそうであった屋敷は、住人を得て生き生きとして見えた。柵越しにそれらを眺めて、メリッサはほっと安堵するのと同時に少しだけ寂しさも感じた。
「ベルタもアイリーンも、怪我がなかったのだから良いだろう? 何をそんなに拗ねてるの」
自身の店に戻る道すがら、小さな黒猫を右腕に抱き、左手で少女の手を引くようにして歩く青年とすれ違う。どこか草臥れた、だが優しげな眼差しで、とぼとぼと俯いて歩く少女を見詰めている。少女は何か言いたげにしているが、小さな口を尖らせるように噤んだまま何も言わない。青年は少女の言いたいことがわかっているかのようで、吐息をつくように笑った。年の離れた妹を見守るような、温かさと気安さが感じられた。黒猫は静かに目を閉じて、ぐったり疲れたように尾を揺らし、青年の腕の中で丸まっている。
「帰ったらお茶にしよう、お前たちが食べたがっていたチョコレートケーキも出してあげる」
ふわふわと柔らかな金髪に優しげな顔立ちの青年は、メリッサが様子を伺っていた屋敷の門扉を開け、敷地へ入っていった。子か孫か――魔物の年齢は見た目から判断できないが、青年の佇まいはメリッサが気に掛けていた老人にそっくりだった。きっと老人が青年と同じ年頃であったら、あのような風貌であったかもしれない。そう思えば、じんわりと温かいものが胸に満ちていくような堪らない気持ちになる。寂しさはあるが、そこにはどこか柔らかな喜びもあった。
メリッサは、自身がその場に立ち尽くしたままであったことに気付いた。一度全身の力を抜くように深呼吸をして、荷物を持ち直す。店に戻ってまたパンを焼こう――何ともなしにやる気が湧き出して、メリッサは顔を上げ、ぬかるみの道を進んだ。