side.A 前編
「主人、あの少年はここで雇っているのかい。もしそうなら、いくらで譲ってもらえますか」
一階にある食堂の奥のテーブル席で紙幣を数えていた宿屋の主人は、アンブロージョの顔を怪訝に見上げた。
アンブロージョが訪れたのは王都からほど遠く、闇のエルフが住む闇穴スヴァルトアールヴヘイムの近辺にある村だ。以前は闇穴の方角から流れる大きな川があった。その川沿いにいくつもの集落があったが、いつの間にか水源が枯れ果てるのと同時に、住処を変える者が増え、集落は消えた。国境となる北西側に鬱蒼とした山々が広がる他は、ただただ荒野に囲まれた辺境の土地である。
大昔よりその山々には、蛇の頭に二本の長い角を持つ大きな魔獣が住み着いていた。ウォームと呼ばれるその魔獣は凶暴な性格で、時に村の者や旅行者などを襲うため、月が沈み周囲が暗くなる頃には村を囲うよう建てられた防壁の外には出ないように言われているほどだ。だが、その骨や内臓は貴重な薬として、皮や爪などは武器武具の材料として加工されることが多く、高値で取引されるものだった。アンブロージョは剣の手入れで使用する、ウォームの皮を求めてやって来たのだ。
「少年って……ガンナのことか。きれいな顔してるからお客さん以外にもそう言ってくるやついるけれど、売り物じゃあないよ。そんなことしたらうちの女たちに怒られちまう。腕っ節もあるから、下手に手ぇ出したらこっぴどくやられるぜ」
ああいう顔が好きならファイーナがいいと思うよ、男じゃないと駄目だってんなら困るけど、と言い、どうするかと視線を向ける主人に、アンブロージョは慌てて首を横に振った。彼は数えていた紙幣を小さな持ち運びできる金庫に片付け、帳簿をつけながら残念そうに肩を竦めた。通常の宿泊客も受け入れているが、娼館でもあるこの宿屋には数名の娼婦が働いている。カウンター席にいる客に酒や軽食を出している女がファイーナなのか、おじさま気が変わったら教えてねえ、とカウンター越しにさっぱりとした笑みを浮かべて言う。明るい金髪の長い髪を後ろに縛り、目元と頬にささやかに化粧を施している飾り気のない女性だが、凜とした雰囲気の美しい女性だった。
「あいつはもっと小さい頃、うちの女たちがどこからか拾ってきたんだよ。そのまま二階に住み着いてるけど、自分の食い扶持は自分で稼ぐってのがうちのルールだからさ、ウォームは生きたまま捕まえれば金になるから山に入って猟をしたり、あとは困った客がいたら用心棒代わりになってくれたり……」
「そうか……それでは彼の剣は我流…」
あの悪魔には、天賦の才があるのだ。その剣の一振りを見た瞬間、そう思った。ただ、彼の剣は過酷な環境で自身の身を守り、生計を立て生きていくための手段でしかないことが残念であった。無尽蔵にも感じられる魔力のコントロールを身に付け、荒削りとも思えるその剣が洗練された時を想像し、ふと戦慄を覚える。彼はおそらく、自分を超える存在になるだろう――と一度そのことに気付いてしまったら、アンブロージョは居ても立ってもいられなかった。これまで多くの弟子をとったが、これほど自身の手で育てたいと思った者は初めてだった。
「私は、あの子の剣の腕に惚れたんだ。王都に一緒に来てもらえないだろうかな……」
思わず呟いた王都という言葉に、宿屋の主人は興味を引かれたらしい。帳簿を閉じて、少し身を乗り出すようにしてアンブロージョの顔を見上げる。
「お客さん、もしかして王都のお偉いさんか何かか。こんな辺鄙な村までよくもまあ……ああ、ウォームの皮の買い付けって言っていたっけね」
「ええ、ついでにウォームの生態も気になって、山を散策していたところで彼を見付けたんだ。王都に来てもらえたらと声を掛けたけど断られてしまった」
へえ、と頷き、あいつはなんて言っていた、と主人は言う。興味がないと言われたと正直に伝えれば、主人は鼻を鳴らすように息を吐き、おかしそうに笑った。嫌味でなく、当然そうだろうなとでも言うような素直な笑みだ。
「……もしあいつが売り物だったら、いくら出すつもりだったんだい?」
そっと声を落とした主人に、アンブロージョは向かいの椅子に腰を下ろし、真意を探るようにその目を見詰めた。もともとウォームの皮の他、麻酔薬の調達のためにもある程度の金額は準備している。足りなければ、常に身に付けているペンダントを出したって良い――月明かりでは緑色に見え、ランプの明かりの下ではワイン色などの赤味を帯び、見る度に色調変化に富む希少石はとても高価なものだ。アンブロージョはそれらを引っくるめて出しても良いと思っていた。
「言い値を出しますよ。それだけの価値がある――協力していただけますか」
ふ、と主人の目の色が変わる。だがその返事を聞く前に、当のガンナが食堂にやって来たのを見て、アンブロージョはそちらへ視線を移した。
ガンナはカウンター席の客たちと雑談を交わし、ファイーナに包みをひとつ差し出した。
「ヴラソヴナがレバーと、あと尻尾の部分をくれたよ。あとでみんなで食べよう、アレーシャやニーナたちも好きだろ」
「今日捕ってきたやつね、尻尾はあとで焼いてあげる。こっちは血抜きしておくわ。こんなに大きいと、食べきれないわね」
ファイーナが受け取った包みの中身を覗いて、笑顔になる。小柄なガンナと、彼よりも少し背の高いファイーナの容姿が似通っていることから、会話する二名はまるで姉弟のようだった。ガンナはこの宿屋で育ったというのだから、あながち間違いでもない。アンブロージョはそんな風に思いながら、あまり肉付きの良いものとは言えない華奢な背を見詰める。しっかりと体を作り鍛えれば、見栄えするだろうとも思った。
ふいに、振り向いたその目と目が合う――ガンナは見定めるように目を細め、少しむすっとしながらアンブロージョのもとにやって来る。
「アンタ、何でヴラソヴナの店に行かなかったんだ? あそこの店が一番加工が丁寧で腕が良いよ、それ以外だと状態の良いやつは残ってないんだ」
捕らえたウォームを捌き、商品として加工する店について、山で出会った時にもガンナから勧められた店のことだ。村の中でもウォームを一番高く買い取ってもらえるため、ガンナは毎回その店を利用しているようだった。先程捕獲したウォームを引き渡してきたのだろう、その際に店に客が来たのか聞いたらしい。アンブロージョはその店に立ち寄るよりも先に、宿屋の主人に交渉するため戻ってきたのだった。どうにかして、この年若い悪魔を王都に連れて帰りたいと思ったのだ。
「ガンナ、この方はお前を買いたいんだってよ」
宿屋の主人が傍に立つガンナを見上げ、静かに言う。はあ? と怒気を含む声を出して、ガンナが不愉快そうに眉を吊り上げた。
「アンタ、皮の買い付けに来たんじゃなかったのかよ。……いつも俺で商売するなって言ってるだろ、クジマ。ゲロが出る」
ガンナはきれいな顔を顰め、不快感を隠さず舌打ちをした。透明感のある琥珀色の瞳が鋭く光り、宿屋の主人クジマとアンブロージョを睨み付けた。
「俺の商売の話じゃない、お前のその腕を見込んで、だ。お前は剣の才能があるそうだよ」
ガンナは胸の前で腕を組み、何も言わない。
「王都に行けば、もっといい暮らしができるだろう。ここでチマチマ稼ぐよりずっと良いさ」
「別にそんなもの興味ない。面倒事はごめんだよ。話は終わりだ」
ぷい、と顔を背けて、ガンナはいくつか客室のある二階に上がってしまった。クジマの呼び掛けには返事もない。
「……あいつが嫌だってんなら仕方ないね。お客さん、残念ながら協力はできません」
クジマは微かに残念そうな顔をしていたが、アンブロージョに向き直るとそれだけ告げ、金庫や帳簿をまとめて立ち上がった。
残されたアンブロージョはふと、遠巻きにやり取りを眺めていたらしい常連客やファイーナの視線に気付いた。アンブロージョが視線を向けると客たちは慌てて顔を背けるが、ファイーナは不安そうな顔付きでアンブロージョを窺い見ていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ジョットー、君の最後の弟子は面白い悪魔だね」
木々の緑が深く濃くなり、目が覚めるような鮮やかな色味の花々が満開になる――長閑な春の日和から、心地良く汗ばむ程度の初夏の気配に変化した魔王の庭で、王は愉快そうに笑った。先代の命でアンブロージョが世話係として付いていた悪魔は、幼い頃の名残で今でも変わらぬ愛称でアンブロージョを呼ぶが、立派に成長し、冥界の王を務めている。
「こちらに連れてくるのに三年掛かり、こちらに来てそろそろ二年経つ、か……あのような辺境の地に毎週のように通って、一体何の用事があるのかと思っていたよ」
「信頼関係は一朝一夕で築けるものではありません。あの宿屋の主人や女性たちにも、大分世話になったものです」
「……君の執念深さには、私もあの子に同情するね」
「ですがそのお陰で、私は生涯かけたすべてを明け渡すことのできる相手を手に入れたのです。陛下、それはとても幸福なことでしょう?」
「そうだね、お陰でヴィンセントも唯一無二の知己を得た訳だ。ガンナは彼のことを皇太子として特別扱いしないから、気が楽なんだろうな」
木の葉が風に揺れるような小さな笑みを溢し、王は気持ち良いほどの青空に浮かぶ満月を見上げた。眩しげに目を細め、だがほっと安堵したような穏やかな表情をしていた。
ガンナを王都に連れてきてすぐに、彼を皇太子付きの護衛兼世話係に推薦したのはアンブロージョだ。ガンナとヴィンセントの年齢は正確には十ほど離れているものの、それでも王宮に仕える多くの悪魔の中では一番年齢が近く、親しみやすいと思ったのだ。また、自身の目の届く範囲であり、王宮での生活や振る舞いを直に学ぶことができる良い環境だと思ったからだ。多くの貴族や高級官僚は、身元の不確かなガンナを王宮に迎え入れることに強く反発していたが、魔王の判断は柔軟だった。これまでも何名か皇太子の世話係はいたがなかなか相性が合わず、短期間で担当を変えることが続いたことも一因だろう。王は皇太子の気難しい気質を理解していたが、やはり心配もしていたようだ。
ガンナは村の宿屋では一番の年少のようだったが、生来の面倒見の良さか、宿屋の女たちの対応を真似ているのか、年下のヴィンセントへの接し方に始めから不安はなかった。王都や王宮内の事情などヴィンセントから学ぶことも多いようで、興味深そうに話を聞いている姿を見掛ける。良い関係性を築けているのだろうと、アンブロージョは思った。
「フォシェーンの名もくれてやるのだろう」
「そうすれば身分だ何だと言う貴族たちもうるさい口を閉ざすでしょう」
ガンナはろくに魔法も知らなかったが、今では奇怪な古代魔術も理解して使いこなしている。アンブロージョが持つ知識では足りず、王の協力を得て冥界のあちこちから古い文献を集めたこともあった。歴史的な部分では、文化局や情報局長官からもよく講義を受けたものだ。これまで学習する機会に恵まれなかったためか、ガンナは貪欲で教えれば教えただけ吸収する。物事の本質を見極めるのが上手く、器用なのだ。魔力コントロールは絶妙で、彼の才能は剣だけではないのだと思った。
だが、誰しも一つくらいは苦手なことがある――体質によるものか、ガンナは意外にも魔薬や毒薬の類いに弱く、訓練用の毒薬でも耐性を得ることはできなかった。もとより魔物の多くは毒を持っており、ウォームは爪や牙に毒がある。これまでその毒性に困ったことはなかったのか聞くと、一度ウォームにやられた怪我で死にかけたことがあるという。しばらくの間クジマから薬代が高くついたと嫌味を言われて面倒だったとも言っていた。それからは山に入る時には怪我を負わないよう、ウォームの攻撃を食らわないよう徹底していたようだ。その話を聞いて以来アンブロージョは、これまでと同じように不用意に怪我を負わないこと、他者から差し出されたものは口に入れないことを事あるごとにガンナに言い含めた。政治の場には、権謀術数に長けた者が多い――その者たちは自身に有利になるよう、または保身に走り、障害になる者を排除することに躊躇しない。まだアンブロージョの他に後ろ盾になる者がいないガンナにとっては、周囲への警戒は必須であった。
「いずれ彼の仕事振りは多くの者に認められます、必ず皇太子殿下の力になれる。その時にくだらないことで邪魔をされたくありませんからね」
「うん、……君もとても楽しそうで良かった」
王がしみじみと呟いた言葉に、アンブロージョはふと口を閉ざした。確かに、ガンナを見付けてからこれまで、わくわくと心躍るような気持ちで満たされている。アンブロージョが一心に伝えたことがガンナの中で明確な形となって、彼の血肉となっていくことが分かるのだ。毎日が充実していた。
「楽しそう、ですか……ええ、そうですね、楽しくて仕方ない。陛下、私はどうも年甲斐もなく浮かれているようです」
多くの弟子たちが責任ある役職につき王宮での勤めを果たす中で、何ともなく自身の役目は終えたと思っていた頃が懐かしい。それにどこか寂しさも感じていたからか、アンブロージョは今が心底楽しいのだと思った。王は静かに、優しく微笑んでいた。
「ご機嫌よう、アンブロージョ先生」
人間でいえば五、六歳に見える少女が緊張した面持ちで丁寧に膝を曲げ、礼をする。私室にやって来た少女の隣に立つ妙齢の女性はアンブロージョの使い魔であり、少女の祖母にあたる者だ。変身術や結界術などの魔術に秀で、飛行能力にも長けた聡明な大蝙蝠だ。
ベルタと名付けられた少女は祖母の才能を引き継いだのか、幼いながら使い魔としての素質は十分である。もう少し体が成長し、魔力コントロールが安定すれば、魔王の護衛官である別の悪魔と契約をする予定だった。
「アンブロージョ様、本当によろしいのですか? ベルタは優秀な子ですが、まだ一人前とは言えません。ガンナ様をお守りするには力不足かと」
「確かに、君のような経験豊かな者が付いてくれるなら安心だけどね、マリア」
ガンナにも自身と同じようにいざという時に相談できるような、信用できる使い魔が傍らにいた方が良い。アンブロージョはそんな風に思い付いてから、自身が使役している使い魔も含め、様々な魔物を吟味していた。魔物それぞれの特性によって攻撃や防御などに特化しており、何を重視するべきか迷ったものだ。
「でも、私が求めているのはあの子の護衛ではないよ。共に闘い、共に影響し合い成長し、時に寄り添ってくれる存在だ」
ベルタの肩に手を置き、彼女を見詰めるマリアは静かに瞬きを繰り返した。二名の透徹とした眼差しが、アンブロージョを見る。
「それではアンブロージョ先生、ベルタはそのお申し出、謹んでお受けいたします」
緊張した面持ちは変わらないが、その目には揺れ動くことのない覚悟と力強さが宿っている――やはり、間違いはなかったようだと感じ、アンブロージョは大きく頷いた。