side.I
「しばらく長い旅に出ようと思ってるんだ」
庭に植えた種がようやく芽を出したとか、近所のパン屋の新作はなかなか良い味だとか、明日は一日雨になるから雨戸を閉めておこうだとか、そういった話と同じように、私の主人はふと思い付いたように言った。皺のある温かい手で私の頭を撫でながら、君はついていけない所だよ、とも言う。
それなら留守の間は私がこの屋敷を守るのね――主人の痩せた膝の上に頬を擦りつけて横になったまま見上げると、澄んだ琥珀色の目がじっと私を見ている。大丈夫よ心配しないで、帰る日がわかったら必ず手紙を送って、そう強請れば主人は撫でる手を止めずに頷く。
「でもやっぱり君だけだと心配だから、私の代わりにこの屋敷に住んでくれる者をお願いしておいた。君のこともちゃんと伝えてあるよ。優しい奴だ」
この屋敷は魔力を巡らせていないとすぐに朽ちてしまうから、と呟いて、主人は顔を上げて天井を仰いだ。太く立派な柱が、吹き抜けの天井を支えている。高い位置に作られた複数の窓から月明かりが差し込み、きらきらと壁や床に反射した。部屋に揃えられた木製の家具は古いものばかりだが、色濃く艶々としている。長閑で時に退屈で、そっと包み込まれるような安心感がある。私、好きよ、あなたの気配で満ちているこの空間――頭を撫でる手に額を押し付けてそう告げれば、琥珀色の目がまたじっと私を見て笑った。
主人の言っていた男がやって来たのは、主人が出掛けて三日経った頃だ。屋敷を支える柱や壁のあちこちから軋む音が聞こえ始め、地下水脈が枯れたのか蛇口を捻っても水が出ず、焦茶色で艶々していた柱が急に色褪せてしまったことに気付いた時だった。風の流れが滞ってしまったように、重たく体に纏わりつく部屋の空気に息苦しくなって、体が痺れ冷えていく。きしきしと悲鳴のような音を立てる天井は、もしかしたらこのまま崩れ落ちてしまうのではないかと恐ろしかった。男は軋む扉を強引に開けて部屋に入ってくると、周囲を見渡して、悪い、少し遅かったようだな、と呟いた。そうして、床に寝そべったまま身動きが取れないでいた私の目の前にしゃがみ込み、私を覗き込んだ。
「お前がアイリーンだな、ジョットーから聞いている」
ガンナと名乗った男は一度だけ私の額を撫でると、私を腕に抱えて立ち上がり、部屋の中央にある一番太い柱へ手を当てた。その手に力が込められるのがわかる。そして、ふ、と一瞬で重たい空気が霧散し、晴々しさが満ちる――朽ちかけていたものが、息を吹き返したようだった。不思議と清々しい気配に、私はガンナの腕の中で体を丸めたまま、彼の顎先を見上げた。その顎を引き、ガンナが私を見る。彼の手も腕も、私の主人のように皺々で細いものではないのに、琥珀色の目とその眼差しの温かさは同じようだった。あなた、ここに住むのでしょう、そう言えばガンナには正しく伝わったらしい。口を噤み、何かを考える素振りを見せてから、ガンナは苦笑いを浮かべた。少し草臥れた笑みだった。
「そう頼まれたからな。……嫌か?」
仕方ないわね、主人が帰ってくるまでなら良いわよ。私ひとりじゃ屋敷の手入れが大変だもの――ふうん、と聞いているのかいないのかわからない返事をしながら、ガンナは私を抱えたまま庭を見渡せるサンルームへ足を進めた。私はこのサンルームの寝椅子で寝そべるのが好きだった。主人もそうだ。庭はさほど広くなく、一見鬱蒼と無秩序に植物が生えているように見えるが、主人がすべて計算して新たな種を蒔き、植え替え、長年手入れをしていた。手前に小さな野菜畑を造ったのはここ数年のことだった。
「ハーブが多いな」
あら、トマトも人参もあるわよ、サラダにして食べるの。奥のオリーブの木は古いけど毎年実がなるし、鳥や野うさぎたちに花や実を食べられないように見張るのも大変なんだから。
いつの間にか温まった体を伸ばし、ガンナの腕から寝椅子に飛び移る。柔らかなクッションに着地して、傍に立つガンナを見上げる。改めてその黄色いふわふわした頭の先から爪先まで確認しても、私の主人とは似ているように見えない。だが、ガンナの静かで――それでいて強力な魔力に満ちた頑強で温かな気配はどこか懐かしく、不思議と安心できて心地良い。彼のことを優しい奴だと言っていた主人の気配と似ている。
それじゃあ屋敷の中が問題ないか、見回りに行きましょう。ガンナの部屋をどうするのかも考えなくちゃならないし、今日から大忙しよ。寝椅子から降りて、ガンナを振り返る。ぼうっと庭を眺めているその背中を急かし、サンルームを出た。