side.B 後編
ベルタがその屋敷に立ち入ることを許されたのは、王宮を出てひと月ほど経ってからだった。それまで、ボストンバッグ一つで気ままにホテルなどの宿泊所を転々としていたガンナだが、ようやく腰を落ち着ける気になったらしい。その間もベルタにだけ留守番をさせて、ガンナ独りであちこち出掛けていたことも不満だったが、それもすべてお終いである。
王都からの道すがら、ベルタは馬車の窓から見える山間部の長閑な景色を眺め、土や葉のにおいを吸い込み、冷えた空気に身を縮こませた。町自体はさほど大きくないが、中心部には多くの店や住宅が立ち並び、住人も多いようだった。その賑わいを横目に、馬車は小高い丘の麓へ向かった。
馬車が停まったのは、淡い茶色の外壁に赤褐色の窓枠が嵌め込まれた建物の前だった。木々の隙間から、鋭い三角屋根の上の方に明かり取りの窓が見える。窓の数も多いが、ある程度の大きさもあり、ベルタは出入りしやすそうな窓だと思った。大きな屋敷ではないがあちこちに細かな装飾が施されていて、丁寧に手入れされていたようだった。玄関の扉には美しいステンドガラスが埋め込まれており、特に目を引く。鬱蒼と草が生い茂っているが、庭もある。王宮での生活とは異なり不安もあったが、周囲の静かな環境は好ましく、ベルタは俄然この引っ越しに前向きになれた――ただ、まさか先住者がいるとは思ってもみなかったし、その世話を命じられるとも思わなかった。それは小さな黒猫で、ベルタを明らかに警戒していた。
「ベルタ、お前が色々教えてあげなさい。まだ力のコントロールが下手くそだけど、練習すればすぐに慣れるだろう」
ガンナは気安くそう言ったが、アイリーンという名の黒猫は幼く、自身の魔力さえ上手に扱うことができていない。そもそも魔物でありながらその自覚もなく、たいへんな世間知らずだった。それでいて気が強く生意気で、手に負えない。アンブロージョから言葉は教えてもらっていたようだが、彼はそれ以外のことは何も教えなかったのか、とベルタは思った。アイリーン自身はアンブロージョのためにこの屋敷の管理をしていたと言ったがそれは口先だけで、アンブロージョがアイリーンの分も含めて食事の準備や掃除、洗濯などの家事を行なっていたようだ。アイリーンは何もしなくとも温かな食事にありつけ、暖かな住処で安全を保障されていた。使い魔としては、まったくもって最悪である。
「あの子猫はアンブロージョ先生の使い魔じゃないの? それならなんで先生はアイリーンみたいな何もできない子猫を飼っていたのかしら」
癇癪を起こして庭に飛び出ていったアイリーンを放置して、ベルタはガンナに不満を告げた。ガンナは二階のひと部屋を自身の寝室兼書斎にするらしく、残された家具の配置を変え、壁際の棚に本を並べていた。ガンナの足元にいくつか散らばっている本は、おそらく要らないもののようだった。ベルタは床に落とされた本を見て、あとでまとめて箱に入れておこうと思った。
「さあ、独りでいるより良かったんじゃないのか」
「独りだと寂しいから? 先生には他にも使い魔がいたでしょう」
アンブロージョが王宮に勤めている頃は、ベルタと同じ大蝙蝠の他、鳥や狼など様々な魔物を使役していた。病で死んだベルタの祖母を含め、アンブロージョと契約している使い魔は優秀な者ばかりだった。だが、この屋敷に隠居してからはどのような生活をしていたのかベルタもわからない。
「王宮から出た時に、大抵の使い魔との契約を切ったはずだよ。みんな、当時の護衛官に引き継いだんじゃなかったかな」
ガンナは棚に並べた本の背を順に眺めて、満足したらしい。木目が美しいアンティークの書斎机も気に入ったようで、四つある引き出しにはそれぞれインクやペン、手紙の類を収納していた。そうして機嫌の良さそうな顔をして、ガンナは部屋の隅にあるベッドに腰を下ろした。そのまま、ベルタが制止する前に剥き出しのマットレスに横になる――マットレスは埃を払い、しばらく壁に立てかけて風を通していたのだが、いつの間に元に戻したのかと思う。
「やだ、これから新しいシーツをつけるのよ! どいてよ!」
ベルタは悲鳴を上げてガンナの腕を引っ張り、余計なことをされる前に何とか部屋から追い出した。
もともと二階の部屋の一部は吹き抜けになっていて、一階のリビングを見下ろすことができる。ぶつぶつと文句を言いながら階段を下りていくガンナの後ろ姿を見下ろし、ベルタは吐息をついた。アイリーンの世話も大変だが、マイペースで暢気なガンナの世話も大変である。
この屋敷に引っ越してきたその日は、最低限の寝床と食事場所を確保するために一階のリビングとサンルームを掃除した。サンルームにある寝椅子は古いものだが頑丈で状態が良く、ガンナが横になっても問題なさそうだったからだ。屋敷の掃除や整理が済み、ベッドの準備ができるまではそこで休んでもらえば良いと思ったのだ。寝椅子に使われているベルベットの布地は濃紺の落ち着いた色合いで派手過ぎず、肌触りも良い。もともとその寝椅子を寝床にしていたらしいアイリーンは不服そうだったが、ベルタも絶対に譲らなかった。ベルタとアイリーンの言い争いにうんざりしたガンナが、床に寝るから良いと言い張ったのを宥めるのも面倒だった。自分の主人を床で寝かせるなど、言語道断である。ベルタは未熟でまだまだ扱える魔術も限りがあるが、これまで日常生活においてガンナを困らせたことはないし、それを自負している。だから余計、なんとも思っていなさそうなガンナの発言に苛立ちを感じたが、いつまでも腹を立ててはいられない。翌日は浴室やキッチンなどの水回りを整理し、その後ようやく二階の掃除に手をつけたのだ。
「今晩からはこの部屋で眠れるから、待ってて」
「はいはい――気が済んだら下りておいで。一旦お茶にしよう」
ベルタの呼び掛けにそう返事をしながら、リビングの片隅にあるキッチンで黒いケトルに水を入れ、中央の小さなストーブの上に乗せる。パチンと一度指を鳴らしてストーブに火を点けると、ガンナはサンルームの寝椅子に移動した。
「なによう、気が済んだらって、ガンナのためにやってるのにさ」
んもう、と小言をこぼし、ベルタはストーブの煙突が、リビングから高い天井まで伸びているのを下から上へと見上げた。キッチンにある調理用の炉の手入れと一緒に、煙突の手入れも済ませているからストーブの使用は問題ない。薪にも簡単に燃え尽きないよう魔法を掛けてあった。火を熾せば暖められた空気が屋敷全体に行き渡り、屋根の一番尖った部分やあえて剥き出しのままの梁の辺りも暖まる。ここ数日、一番太い梁にぶら下がって眠っていたベルタは、明け方の急激な冷え込みを思い出した。新しいシーツを敷き、毛布や掛布を丁寧に重ねてベッドを整える。今晩からはガンナのベッドの中か、もしくはストーブの火を残したまま眠って良いか聞いてみようと思った。