あなたの勇気に祝福を
「やあやあ、そこのおにいさん!」
それは、酷く美しい人だった。
一言で表すならば『天使』。
真っ白な服、真っ白な髪、真っ白な瞳。
頭から爪の先まで純白の天使は、手に持った旗の石突をかつりとコンクリートに突き立てた。
風もなく星もない夜。青白い雪が降る寒い夜。
背後から声が聞こえたのだ。
破れたフェンス越しに、天使は手を差し出す。
なんの曇りもない、晴天のような笑顔で。
「ちょっとお話、しませんか?」
酷く不釣り合いな地獄で、男は天使に出会った。
どこからともなく現れた男性とも女性とも、はたまた少年とも少女とも言い表せない人物。
男は廃墟ビルの屋上の縁に、彼もしくは彼女と並んで座っていた。
「どうしたんですか、こんな場所で。危ないですよ」
有無を言わさず隣に座って来た人が言うのか、と言い返しそうになる。
だが、初対面の相手にそんなことを言う気力などない。
面倒な奴に捕まった、と男は自分の不運を嘆いた。
「えへへ、ごめんなさい。おにいさんが心配で……」
────人間はここから落ちたら死んじゃうじゃないですか。
十三階建てのオフィスビル。
高さ四十メートルはゆうに越し、落下してしまえば一溜まりもないだろう。
平常な人間なら、一歩踏み出せば落ちてしまいそうなビルの縁に座るだなんてできやしない。
下を見下ろすだけで腰が抜ける者だっているのだ。
こんなことができるのは、『死んでもいい』と生を諦めているものくらい────だと、いうのに。
この天使は躊躇いなく男の隣に座った。
破れたフェンスを乗り越えて、恐怖の欠片も見せずに。
少し離れた場所に見えるのは、サイケデリックなネオンライト。
午前十二時を回ったというのに、人々は未だ街に出歩いている。
『眠らない街』とも形容されるあの辺りは、今日も賑わっているらしい。
二人のいる廃墟ビルは中心街から離れており、人通りは少ない。
態々そんな時間を選んだのだから、当然でもあるのだが。
廃墟となってから随分時間が立っているのか、侵入は容易かった。
施錠もされておらず、朽ちた内装から分かる通り人の気配など到底ない。
一人で終わるつもりだったのに、天使はどうしてここへやって来たのだろう。
そんな不満と疑問と共に溜息を吐いた。
「何となくですよ」
「……あ、え?」
口に出してしまっていたのか。
驚いて横を向くと、天使は男を見つめていた。
「何となく、わたしはここ来たのです。
あなたと出会えたのはただの偶然にしか過ぎません。
ええ、そうです。偶然なのですよ、御剣朱羽さん」
「……なんで、名前」
天使は人差し指を唇に添え、優しく言葉を紡ぐ。
「わたし、心が読めるんです。
誰も、わたしに隠し事はできません」
何色にも染まらない純白が、心臓を掴んで離さない。
天使の白く細長く、靭やかな指が朱羽の手に触れた。
────だから、教えてください。
あなたがここに来た理由、あなたがあなたが命を投げ捨てようとする理由を。
切っ掛けは二か月ほど前のことだ。
いつも通り同僚や上司から押し付けられた膨大な量の仕事を熟そうと、朱羽はパソコンと向き合っていた。
エンターキーをかたりと押して、最後の一行を書き終える。
そうして、不備が無いか確認している時だった。
「御剣」
頭上から自分の名前を吐き捨てるように呼ばれる。
中年の男性、このコンビニの店長である男だ。
顰めっ面で、苛立ちを隠さずに腕を組んで仁王立ちしている。
特に何か問題を起こした覚えも無く、心当たりなど何一つ無かった。
寧ろ、呼び出されるのは自分以外のものなのではないか。
若しくは、またいつもの『ストレス解消』だろうか。
漠然とした不安を抱えて、ふらつく足で立ち上がった。
朱羽の頭の天辺から爪先の先まで、塵を見るように見下す。
何度も繰り返されたそれを、一々気にするような余裕は朱羽には無かった。
悪態と溜息交じりに彼が話したのは、耳を疑うような内容であった。
────お前の仕事の成績が奮わないから、上からこの店舗が睨まれている。
おかしい。
反射的に言い返してしまいそうなほど、彼の指摘は的外れだった。
誰もが見た通り、朱羽は仕事をきちんと熟しているし、他人の仕事だって受け持っている。
何年も同じように働いていても、今までそんなことを一度言われた試しはない。
何かの間違いではないか、と。
しかし、彼の見せた書類にははっきりと零に等しい朱羽の成績が刻まれていた。
ああ、嵌められた。
朱羽が事態に気付いたことを察すれば、店長は底意地の悪そうなにやついた顔をした。
いつもより押し付ける仕事が多かったのはこのためか。
二週間ほど大量に抱えていた仕事の理由を、朱羽は今やっと理解した。
だが、もう遅い。
今更気付いたところで何も変えられない。
この店に朱羽の味方など誰一人としていないのだ。
深夜のコンビニエンスストアには、客どころか店員すら朱羽以外にいない。
そもそも、他に誰か居たとしても、反論してくれる者も支持してくれる者もいない。
いるのは、彼を陥れようとするものだけ。
朱羽は『嫌われ者』であったのだ。
目の前の男の視線は、朱羽がある一言を発するのを待っているようだった。
彼にとっては『朱羽が責任を取って自主的に辞めた』とした方が外聞がいい。
『気に入らない店員が居たからクビにした』などと知られれば、本部から店への評価がどうなるかは想像に容易く、客からの評判も落ちてしまう可能性もある。
しかし、認めてしまえば朱羽は立ち行かなくなる。
十八を迎えたとはいえ、まだ未成年である彼を雇ってくれる店など少ないのだ。
ましてや、朱羽はある欠陥を抱えている。
再就職が難航することは確実だ。
だが、ここで否定しても同様の手口で繰り返されるだけなのは分かりきっている。
誰も彼も朱羽を必要としていないのだから、切り捨てるのは簡単なのだ。
初めから、取れる選択肢は一つに決まっていた。
腰から直角になるように頭を下げる。
────すみません、私の責任です。
逆らう手もあっただろう。
今までの悪行を訴える手もあっただろう。
恐らく、行動を起こせば朱羽の正当性は主張できる。
それほどまでに、彼らは非行に走っていた。
だが、朱羽は『戦わないこと』を選んだ。
『勇気』が無かったから、またあんな目に合うかもしれないのが怖かったから。
諦めて、糸を斬ることにした。
渦巻く感情を抑えつけて、蓋をする。
不思議と涙は流れなかった。
理不尽に慣れてしまったからだろうか。
男は嗤って、朱羽が退職することを受け入れた。
そこからは驚くほど潤滑に事が進んだ。
同僚に挨拶しても軽く流され、アルバイトであるため退職届を出す必要もない。
最低賃金を下回った給料もきちんと支払われた。
────潮時、か。
思わず呟いた独り言は、年の瀬が近付いた冬空に吸い込まれて消えていった。
そして二ヶ月後、二月十四日。
朱羽は真夜中の空に飛び込もうとしていた。
その目論見は、未だ純白の天使に妨げられてしまっているのだが。
決行日を、世間一般が愛やらチョコレートやらで賑わっているこの日にしたのは唯の偶然である。
近々一番大雪となる夜、というのが今夜であっただけである。
他意は一切ない────とも、言い切れない。
何も知らず幸せに生きる人々が笑い合い、抱き合い、『愛』を確かめ合っている。
それに嫉妬しているのは確かであった。
朱羽は生まれてこの方、誰かに愛されるという経験など一度も無かった。
望まれて生まれた子でないから、はたまた五体満足で生まれて来れなかったからか。
蔑まれ疎まれ、一人孤独に歩んで来た道のりに、愛を謳う人々なぞ眩しくて仕方がない。
一人になると、いつも片側の暗闇から声が聞こえた。
────どうしてボクを生んだの?
幼い自分の声が、何度も何度も脳裏に響く。
同時に何度も何度も繰り返されるのだ。
────わたしだって生みたくて生んだわけじゃない、こんな失敗作!
決定的に『何か』が崩れた瞬間が。
願い続けた、あると信じ続けていた『幸福』を否定された瞬間が。
それも、今日で終わり。
惰性だけで生きてきた日々がやっと終わる。
ずっと、ずっとずっと苦しんで藻掻いて。
それでも、諦めきれなかった世界をやっと諦められる。
親愛も友愛も、ありとあらゆる愛と幸福の存在しないこの人生。
欠片の勇気をもって幕を下ろす────はず、だったのに。
どうして貴方は、終わりを迎えさせてくれないのだろう。
冷えた身体をぎゅっと抱き締められた。
温度は無く、人形に抱かれているような心地である。
しかし、確かにそこには『暖かさ』があった。
「……苦しかったでしょう、怖かったでしょう」
泣き喚く子どもをあやすように、天使は耳元で囁いた。
「その選択に至るまであなたが悩み続けたことを、わたしは知っています。
苦しくて、怖くて、それでも生きようと努力していたことも知っています」
天使の言葉がするりと心に溶けていく。
まるで雪のようなその言葉が、枯れていた湖を潤していく。
「よく、頑張りましたね」
それは、朱羽が求めて止まなかった言葉であった。
視界が滲んだ。頬を雫が伝った。
降り注ぐ雪の一粒、ではない。
これは正真正銘、涙である。
疾うの昔に枯れ果てた涙の源泉が、天使の慈愛により蘇ったのだ。
得ることの無かった『愛』、初めての『愛』。
空っぽな心に注がれる愛が、酷く暖かい。
満たされていく、充ち足りていく。
思い残すことは、もう無かった。
天使の腕の中から抜け出して、涙を拭いながら朱羽は立ち上がる。
「……キミは、『来世』があると思う?」
「来世……ですか」
雪の振り続ける空を見上げて、天使に問い掛けた。
来世、生まれ変わった先の人生。
数々の人々が『在れ』と願った空想。
「オレはあると思うんだ」
朱羽は来世を望んでいた。
来世でならば、幸せな日々が訪れると信じていたから。
「だって残酷すぎるだろ?」
────こんな地獄のような世界しかないなんて。
ある人は滑稽な夢想だと嗤うだろう。
ある人は遂に狂ったかと軽蔑するだろう。
それでも朱羽は夢を見る、夢に狂う。
そして、一人孤独に求め続けるのだ。
「来世のオレはきっと幸せで、愛されている!
こんな世界で生き続けたのも、そのためだったんだ!」
自分に言い聞かせるように叫びながら、天に向かって手を伸ばした。
ひらひらと舞い落ちる雪片。
掌に落ちた大粒のそれは、三十六度の熱で儚く消えてしまう。
朱羽の人生はこの雪のように儚く、ちっぽけなものであった。
しかし、だ。
ぎゅっと手を握り締める。
融けた雪の後には水が残っていた。
確かに、そこにある。
雪が融けて水となるように、朱羽も自分ではない何かに変わりたいのだ。
ただ融けて消えるのではなく、水になるように。
雪の日を選んだのは死体の腐敗を遅らせるためと、願掛けのためだった。
「……逝くのですね」
「ああ、もう決めたんだ」
そう答えた朱羽に、天使は悲しそうに目を伏せた。
眼下に広がる街は、まるで星空のよう。
真っ黒な空に、ネオンライトという星が散らばっている。
躊躇いも、恐怖もない。
何も、気にかけることは無かった。
「ならば、わたしも務めを果たしましょう」
「……務め?」
座り込んでいた天使がゆっくりと腰を上げ、朱羽に並び立つ。
そして────その足を一歩前に出した。
通常ならば、天使の身体は重力に従って地面に真っ逆さまに落下するだろう。
手足を投げ出し、風に煽られ、成すすべもなく叩き付けられる。
しかし、そうはならなかった。
高度は依然として朱羽と同等であり、下がることはない。
天使は、宙に浮いていたのだ。
「幻覚……じゃないな」
「はい。確かにわたしは、この世界に存在しています」
やはり、キミは人じゃなかったんだ。
心の中で、朱羽は呟いた。
踵まで伸びた髪と手に持った旗を揺らして、天使は再び手を差し出す。
「さあ行きましょう、天に!」
「……ああ!」
朱羽が手を取ると、不思議と身体が浮いた。
身体の周りだけ無重力になったようだ。
二人は手を繋いで、天に向けて上昇し始める。
「なあ、どこまで行くんだ?!」
「行けるとこまで、です!」
既に街は豆粒ほどで、街よりも雲の方が近かった。
酸素が薄くなっていくのが分かる。
だが、不思議と息苦しいとは思わなかった。
段々と近付いてくる厚い雲。
東京に大雪を降らせるそれが、二人の行く手を阻んでいる。
と、いうのに天使は止まろうとしない。
朱羽の頭の中に、とある一つの考えが浮かんだ。
「もしかして……」
「その通り、突っ込みますよ!」
「嘘だろ?!」
この天使は、乱層雲に突っ込むと言っているのだ。
「飛行機でも滅茶苦茶揺れるんだぞ、死ぬわ!」
「元々死ぬつもりだったのでしょう!」
「それはそうだが、限度ってもんがあるだろ!」
「ごちゃごちゃうるさいですよ!」
朱羽の静止の声も聞かず、天使は更に加速していく。
ああもうどうにでもなれ、そう叫びながら二人は雲に突っ込んだ。
朱羽は数年前に図書館で見た『極限状態への対処法』という本の一頁、『空中に投げ出された時』の対処法を思い浮かべる。
まず、自分は必ず生き残るという心を持とう。
次に両脚を揃えて、踵を上空に向け、膝を抱えて落下に備え────『落下』じゃなくて『上昇』してるわ、意味ねーじゃん。
一気に現実に引き戻される。
神様なんて一ミリも信じちゃいないが、取り敢えず今だけは助けてくれ。
切実に。
そんなことを考えているうちに、ふっと加速が止まり、手が離された。
「え?」
「あ、やばい」
目を瞑っていたことで停止する用意もできていなかった身体が、慣性そのままに投げ出された。
驚いて目を見開く。
いつの間にか抜けていた雲の上には満天の星が輝いていており、手を伸ばせば届いてしまいそうだ。
こうやって綺麗な星を見上げるのはいつ振りだろう。
いつの間にかそんな余裕も無くなっていた。
ずっと下を向いて生きていて、上を向くことなんてなかったから。
狭まっていく天とは反対に天使との距離は徐々に開いていく。
が、天使に取ってそれは構うほどもない距離らしく、一瞬にして朱羽は受け止められた。
「ごめんなさい、完全に失念していました。
物理法則無視していると、偶にこうなっちゃうんですよね」
「人外め……」
ジェットコースターとはこのようなものなのだろうか。
ジェットコースターどころか、遊園地にも行ったことのない朱羽にとって新鮮だったのだ。
猫のように掴まれた首根っこを離してもらい、改めて周囲を見渡した。
朱羽と天使、二人ぼっちの世界。
まるで、御伽噺に登場する『天国』だ。
足元には雲が一面に広がっており、地上を見ることはできない。
反対に、雲を越えたことで星月を遮るものがいないから、空は夜だとは思えないほど眩しい。
そんな世界が地平線────雲平線と言うべきだろうか────の先まで続いている。
「どうです、綺麗でしょう?」
空を見上げる朱羽に、天使は問い掛けた。
しかし、言葉は返されない。
言わなくても分かるだろう、と態度で示すだけだ。
どうやら、彼は片時も星々から目を離したくないようである。
長い静寂の後、朱羽の片目が伏せられた。
「……とても、美しかった。
両眼で見られないのは残念だけど」
空の右眼、それを覆い尽くす眼帯に手を触れる。
あるべき場所に、あるべきものが無い。
朱羽が生まれ際に落としてしまったもの、それは己の右目だった。
欠落した右目、『失敗作』と呼ばれた理由の一つ。
だが、それでもこの美しい空を見上げることはできる。
星々を眺めることはできる。
それは、疑いようのない幸福だった。
苦しかなかった十八年間。
愛を求め、幸福を求め、最期まで手に入れられなかった。
しかし、今はもう違う。
朱羽は今確かに『愛』を手に入れ、そして『幸福』なのである。
どれだけ蔑まれようとも、苛まれようとも。
誰もが意味と価値を見出せなかったとしても。
その旅路は決して『無意味』でも『無価値』ではない。
確かに『意味』と『価値』があったのだ。
振り返ると、それを合図として天使は左手に持っていた旗を大振りに薙いだ。
始まるは死にゆく者への葬送。
そして、門出への祝福。
「────我が主の名に掛けて、我に与えられし使命を果たしましょう」
光が辺りを包んだ。
「あなたの生に祝福を、あなたの死に祝福を。
あなたの門出に祝福を」
視界を埋め尽くしていた光の粒子が、朱羽の目の前に収縮し始める。
「光はいつもあなたの隣で、あなたを導くでしょう」
球状となったそれは、天使の声に応じて複雑な紋様をその身に宿していく。
「────あなたの行く先に愛と幸福があらんことを!」
天使が竿頭を天に向けると、光が朱羽の身体に吸い込まれていく。
暖かくて、明るくて。
想いが魂に刻まれていく。
餞別は終わりだ、とでも言うように天使は旗を下ろした。
穢れのない純白の瞳で、朱羽を真っ直ぐ見つめている。
「ありがとう」
ただ一言、天使への感謝を伝える。
その五音に溢れるような想いを込めて。
慈愛に満ちた笑顔を最後に、天使の姿が掻き消える。
途端、朱羽の身体は地上に向けて落下し始めた。
成層圏から対流圏に、何もない空から雲に。
轟々鳴る風の音、肌を刺す冷気。
通常なら耐え難いそれらをいにも返さず、ちっぽけな青年の身体は徐々に墜ちていく。
天地が逆転した世界の中、青年は目蓋を閉じる。
暗闇の中に、愛と幸福を描きながら。
気が付けば、青年は壁に寄り掛かって眠っていた。
空から降り注ぐ雪、極寒の中何故こんなところにいるのだろう。
早く家に帰らなければ、と立ち上がり思考が止まった。
そして、頭が疑問が埋め尽くされる。
『自分の家はどこなのだろう』、と。
幾ら記憶を掘り返そうとも、その答えが出ることはない。
そもそも、『自分が誰か』すら分からない。
名前も記憶も、何一つとして思い出せない。憶えていないのだ。
周囲を見渡すと、背後には解体されたビルの跡地。
正面はコンクリートの壁。
左右は人っ子一人いない道。
僅かな街灯が仄かに足元の雪を照らすだけで、辺り一面真っ暗闇だ。
青年は行く宛もなく、立ち往生してしまう。
自己の存在意義も分からず、何もできない。
凍える風だけが吹き荒れる。
そんな時だった。
薄い膜を突き抜けたような感覚。
驚いて周りを見渡そうとすると、足元にどさりと何かが吹き飛んできた。
「……は、何?」
慌てて見れば、それは『人』。
黒衣を身に纏った小柄な人物だ。
全身から血を流し、くたりと力を抜いている。
破れた衣服と血液が凄惨を物語っていた。
あまりにも異常な光景に、脳が警鐘を打ち鳴らす。
ここに居ては危ない、と本能が訴え掛けている。
「……何がどうなってんだ?!」
何も分からぬまま、直感的に青年は動く。
黒衣の身体を持ち上げて、共にその場から遠ざかろうとした。
しかし、逃げ出すにしては。
彼の行動は少しばかり遅すぎたのだ。
鞭が空を斬るような音が頭上を通っていく。
振り返れば、淡い電光が醜悪な輪郭を照らし出していた。
喩えるならば、触手を生やした巨大な蛞蝓。
全身に渡って存在する口のような器官からは、明らかに毒である黒の液体が垂らされ、足を模した触手が蠢いている。
触手の先には鋭い棘が幾つもあり、茨のよう。
有に十メートルを超える体長の怪物。
人間が到底叶わない、常識を超えた存在。
触手の一振りでさえ生命を奪える悪魔が、そこに居たのだ。
呼吸が早くなる。
肺が急速に膨らみ、収縮する感触がはっきり伝わってくる。
緊張が筋肉を拘束している。
怪物から目を離せず、固まる青年。
恐怖に身体が縛り付けられている。
踵を返して逃げ出そうにも身体が動かない。
瞳孔の開いた目でじっと怪物を見つめ続けることしかできないのだ。
もし目を離したならば、その瞬間に殺される。
腕の中に抱えた黒衣が、のそりと動いた。
満身創痍だというのに、青年を守ろうとその小さな背中に隠そうとする。
「駄目だ! その身体じゃ────」
「それでも」
大粒の汗と血を全身から滴らせ、黒衣は立ち上がる。
「それでも私は、戦わなければいけないの。
この世界に生きる人たちが幸せでいられるように」
だから、貴方は早く逃げて。
まだ年若い少女の声だ。
しかし、その言葉に込められた想いは、ただ十数年生きた子どものものではない。
確かに戦場に生き、幸福を願う戦士のものだった。
止められない、止めちゃいけない。
それは、彼女の想いを否定することになる。
青年には、彼女がこのまま死にゆくのを眺めることしかできない。
隣に立って戦う勇気も、背を向けて逃げ出す勇気もない青年には。
少女は今にも倒れそうだ。
満身創痍で、命の灯火も消えかかっている。
けれど、意志は強く燃え盛っている。
少女が何か呟くと、鮮やかな赤が辺りを照らした。
炎で形作られた剣。
彼女はそれを手に怪物に立ち向かう。
結果は見えていた。
もうまともに動けない少女は、あの触手を掻い潜って怪物本体に傷を付けることができない。
剣を振るっても防がれ、手痛い反撃を受ける。
圧倒的に手数が足りないのだ。
それは、少女も理解していた。
だが、解決できる方法などないのだ。
援軍が来るならば、とは思いつつもそれまで耐えることができない。
持って、あと二分。
精一杯の力で踏み込み、剣を振るう。
あの青年が逃げる時間を稼げれば、それで良い。
切り上げた剣を上段から振り下ろし────失敗したと後悔した。
一瞬の判断ミス。
人相手であれば、特に問題は無い。
振り下ろす速度も、威力も悪い評価は付かない。
問題だったのは、今日の敵は『人』ではなく『怪物』であったことだ。
がら空きの胴体に刺々しい触手が食い込んだ。
引き裂かれると同時に、後方に身体が吹き飛ぶ。
雪の積もったアスファルトに何度か身体を打ち付けて、転がった。
上手く息が吸えない。
意識が段々遠退いてしまう。
まだ終われないのに、まだ死ねないのに。
指先一つ動きやしない。
死が近付いてくる。
甚振ろうと、喰らおうと、怪物は触手の先を少女に向けた。
時間がゆっくり流れていく。
自分が死ぬ瞬間を見せつけられるように。
神様というものは、随分悪趣味らしい。
「……は、は」
絶望的な状況。
笑うしかなかった。
しかし、ただ殺されてやれるほど、少女は潔くない。
自爆して触手の一本や二本は持って行かせてもらおう。
そして、死を覚悟した────はず、だった。
来るべき痛みも、衝撃も何もかも来ない。
恐る恐る目を開けると、誰かが自分の前に立っている。
それと同時に、突如半透明の盾が現れていることに気付いた。
「……どう、して」
「オレもよく分からない」
でも、絶対に君を死なせたくなかった。
助けたかったんだ。
少女が守るべき人民。
その一人である青年が、少女を守るために脅威に立ち向かっている。
確かに青年は怪物に怯えていた。
人間では到底敵わない圧倒的な力、全てを捻り潰す強大な力に。
しかし、青年は逃げなかった。
逃げれなかったのもあるが、逃げたくなかったのだ。
少女を犠牲にして逃げられるほど、青年は強くない。
誰かの死を抱えて生きることなどできない。
だから、立ち向かうことにした。
蛮勇だと、無鉄砲だと嘲笑われたとしても、自分の心に嘘を吐きたくない。
『少女を助けたい』、それは紛れもない自分の本心なのだ。
暗闇に煌めく純白の右目。
人ならざる輝きを宿す青年。
少女は彼に救われ今も尚生きているという事実に高揚し、そして落胆した。
まだ、戦いは終わっていない。
最終的な目標は、あれを倒すことだ。
退くことは許されない。
放っておけば確実に被害が出るし、何より少女より強い者は殆どいない。
だが、援軍が来るまで耐え切ることは、恐らくできない。
現に、半透明の盾には薄く罅が入り始めている。
割れるのも時間の問題だろう。
「……喩え攻撃を防いでも、あいつを倒せなきゃ意味がない。
私たちの運命はもう決まって────」
「多分、それは大丈夫だ」
少女が疑問を呈する暇もなく、爆音が轟いた。
一条の閃光が怪物を貫く。
劈く断末魔が上げられた。
ぼろぼろと光に分解され、消滅していく怪物。
矢のようにも見えた閃光は、たった一撃で怪物を消し飛ばしたのだ。
「……え?」
「おお、凄い」
「嘘でしょ、どうなってるの?!
っていうか何処から……!」
狼狽える少女に、青年はある方向を指差した。
「あっちの方から飛んできた……と思う。
殆ど勘だけど」
示されたのは北東の遥か上空。
一見何もないように見える空だ。
しかし、少女の“眼”は確かにそれを捉えていた。
踝まで伸びた純白の髪。
汚れ一つないローブを身に纏い、浮世離れした美貌を持っている。
手には大型の弓が携えられており、尋常ではない《神秘》が宿っているようだ。
純白の隻眼が少女を射抜く。
今、少女の生殺与奪の権はあれに握られている。
少女は、あれが何なのかを知っていた。
自身の所属する組織、《世界神秘管理機関》。
そして、もう一つの組織、《神秘探求協会》が追い求める《遺物》の内一つ。
────《人造天使》。
千年前、ある魔術師によって造られた十の遺物を宿す人形。
そして、多くの人々を死へ誘ったもの。
何故、そのような存在が日本に居て、尚且つ少女たちを救ったのか。
その理由は、どう考えても隣の青年だ。
資料において、天使は両眼が揃っていた。
が、現在は右眼を伏せている。
十中八九、青年に右眼を譲渡したからだ。
そもそも、彼が出したあの盾は天使の持つ遺物の一つのはず。
それごとこの青年に分け与えたのだろう。
少女は混乱していた。
怪物に殺されかけ満身創痍のところを、世界規模で指名手配されている危険人物に救われ、更にその縁者と共にそれに見つめられている。
情報過多だったのだ。
「も」
「も?」
「もう嫌だー!!
私寝る!!!!
おやすみ!!!!!!」
絶叫の後、即座に限界だった少女は眠った。
「は?」
青年は理解できなかった。当たり前である。
「ちょっと待って寝ないでオレ何も分からないんだけど?!」
目を閉じた少女を揺する。
しかし、安らかに寝息を立てたまま少女は起きない。
呼吸をしているということは生きているのだろうが、この極寒の中放置してしまえばそれこそ死んでしまう。
しかし、青年には頼れる者はいない。
唯一の人間はこの少女だけだったのだ。
少女を抱きかかえつつ、青年は精一杯頭を回転させた。
怪我をしているのだから病院に行くべきだろう。
だが、場所が分からない。
救急車を呼ぶべきだろう。
だが、連絡手段がない。
周辺に住むものに救援を求めるべきだろう。
だが、こんな状態の成人男性と未成年女性が真夜中に二人などまともに取り合ってもらえない。
八方塞がり、打つ手無し。
絶望的な状況である。
「どうすればいいんだよ……!」
「────それならば、先ずその少女から手を離していただこうか」
突然、女性の声と共にかちゃりと後頭部に硬いものが押し付けられる。
先程見渡した周囲には人影なんて一つも無かった。
であれば、この女性はどこから現れたのだろう。
青年は心臓が口から飛び出るほどに驚きつつも、声を出すことはできなかった。
本能的に後頭部に押し付けられたものの危険性を理解していたからだ。
「従わないなら撃つ」
更に強く押し付けられるそれ。
『撃つ』という言葉から推測すると、銃火器の類だろうか。
撃たれれば一溜まりもない。
女性の要請に従い青年は少女から手を離し、無害を表現するために両手を上げた。
そして、彼女の認識の誤りを解こうとする。
「多分、というか絶対に勘違いされてると思うんですけど……」
「ほう、『勘違い』とな?
私の目には不審な男が少女に乱暴を働こうと……いや、働いているようにしか見えないのだが」
深夜。
傷付きはだけた少女とそれに触れる男。
周りに人気は一切なく、しかも灯りもない。
状況証拠は揃っていた。
「……でも、本当にやってないんです。
オレは偶々通りがかっただけで!」
「こんな深夜に、こんなところにか?
《結界》だって張ってある。
常人なら入れないはずだが」
「……けっかい?」
けっかい、結界だろうか。
なんだそれ、そんなもん無かったが。
いや、しかし。
青年が記憶を思い返すと、そういえば何か膜のようなものを通ったような気がしていた。
まさか、あれが結界というものだったのだろうか。
「……限りなく白に近いグレー、といったところか。
取り敢えず本部まで同行願おう」
女性が何かを呟くと、青年の身体が不可視の縄に縛られる。
手は後ろに回され、両腕両脚が拘束されている。
「……マジですか」
「マジもマジだ。
お前のような者を放って置けるほど私は呑気ではなくてな」
少女を抱きかかえると、女性は青年の首根っこを掴んだ。
「オレこのまま引き摺られていくんですか?!」
「そんな面倒なことするわけ無いだろう。翔ぶさ」
「……跳ぶ?」
女性が一歩足を踏み出す。
瞬間、景色が変化した。
雪の積もった灰色の街から、白を貴重とした屋内へと。
周囲には、少女や女性が纏う黒衣のデザインをそのままに白へ変えた服を着た者が三人を見つめている。
「特級リーラ・フリードリヒ、一級日極茜。
両名帰還した。
……安心しろ、寝ているだけだ」
その言葉を革切りに、白服たちは動き出した。
茜と言うらしい少女をリーラという女性から受け取り、どこかへ走り出していく。
「リーラさん、現場の回復は?」
「無論終わっている。
ただ、報告書を書く前にこいつの取り調べをしなければならん」
リーラがそういえば、目を逸らしていたであろう人々の視線が一気に青年に集まった。
「……どなた、なんです?」
「現場にいた不審者だ」
「……そうですか」
面倒臭いことになってるなこれ、と溜息を吐いて青年を見る男性。
ここに居ても何も出来ないから、と他数人に声を掛けて彼らは部屋を去っていく。
「……取り調べって何をするんです?」
「お前の事情を根掘り葉掘り聞くだけだが」
「……それを答えられない場合って……」
「強制的に頭を見させてもらう」
「うわー! この人怖いよー!!」
助けを求める青年の声は、ただ虚しく響くのみ。
誰も助けてくれることは無かった。
三人が空間を飛び越えあの道から消えたことを確認すると、天使はその場を飛び去った。
「……あそこまで不幸体質だとは……想定外ですね」
つい数時間前に空の旅を共にした青年の顔を思い浮かべ、耐え切れず笑いを溢した。
彼の思考を誘導していた霊を祓い、未練をできるだけ取り除いた後、彼の記憶を奪った。
しかし、そこまでしても彼は不幸体質のまま。
そういう星の元に生まれているのは間違いないが、まさかその性質を殆ど持っていっても余りあるほどだとは思っていなかったのである。
心底呪われた体質だ。
「渡して早速使われるなんて、盾も困ったことでしょう」
槍や剣を渡していたら、彼は守ることができず、あの少女は死んでいた。
盾を渡したことを自画自賛する。
「それにしても、あの子も随分眼が良いようで……」
手を出してしまったのは誤算であったが、出しても分からないだろうという確信があった。
だが、隠蔽を何重にも重ねていたというのに、あの少女はいとも容易く乗り越えてきたのだ。
添加者というものは、どうにも厄介である。
自分が言えた義理ではないのだろうけれども。
幸運だったのは、あの少女が機関所属だったことだろうか。
機関ならば彼を悪いようには扱わないだろうし、彼の面倒だって見てくれるはずだ。
協会の手に渡っていたら、解剖どころか実験対象になりかねない。
そんなことになったら殴り込みを掛けることになってしまう。
協会のトップを締めるのは少々骨が折れるのだ。
あんのクソ老害め。
長年の恨みを込めて、協会本部に大剣でも突き刺してやろうか。
と激情が溢れ出しそうになるも、先に手を出せば自分が悪者になってしまう。
どうせ彼に干渉するだろうから、その時にやればいい。
若い肉体を保とうと躍起になっているあの女の、阿呆みたいに驚いた顔を早く見たい。
そう考えながら天使はとある場所へと降り立った。
「ここからだったら、よく見えますね」
深夜になっても、この都市は明るいままだ。
何があっても、何が起こっても、知らない顔で日常が過ごされる。
彼だって、そんな世界を回す歯車の一つであった。
最下層のとして搾取され続ける哀れな人間。
だが、本来ならば彼はそんな扱いを受けるような立場ではない。
人間の枠組みに組み込めるようなものではないのだ。
これも全て、彼が人として生まれてしまったから。
あの兄妹が生み落としてしまったのが悪かった。
また別の形で生まれていたならば、少しでも神秘を宿して生まれていたならば。
共に永遠に生きることができたというのに。
ままならない現実に嘆くのは、これで何度目なのだろう。
天使は胸を抱えた。
永遠かと思うほどに待ち続けたというのに、今回もその願いが叶わない。
いつまで待ち続ければ良いのだろう。
いつまでこの想いを抱き続ければ良いのだろう。
人のように涙を流すことができないのに、一人前に『心』を持っている自分が嫌だった。
星に手を伸ばす。
けれど、どこまで伸ばしても届かない。
まるで、自分の想いのように。
「ああ、それでも。それでもわたしは────」
────あなたに恋い焦がれてしまうのです。
喩え、届かぬと理解していても。
願いましょう、祝いましょう。
あなたの幸福を、あなたの勇気を。
これから待ち受ける困難とそれを乗り越えるあなたに向けて。
愛知らぬあなたは、いずれ愛を知るでしょう。
八つの愛を見つけ、そして本当の愛を知ったとき。
それがあなたの本当の幸福となるのです。
あなたが選んだ未来。
勇気を胸に飛び出し始まった新しい人生。
この来世がより良いものとなるように。
わたしはいつでもあなたを見守っています。
名も無き天使から愛を込めて。
あなたの勇気に祝福を。
B■■■■■■■ルート
二〇一五年 二月十五日 午前二時頃(二月十四日 午後二十六時)
◇御剣朱羽
次に期待して終わらせた人。
星の巡りが悪い。
◇シュウ
本編中じゃ名前が出せなかった。
よく分からないけど自分の名前って言ったらこれじゃね? という感じで決まった。
記憶喪失中。
なんか盾が出せる、何これ知らんが。
天使の刻印?
添加者?
人造天使の縁者?
兎に角何も分からない。
◇日極茜
強いのにあんまり強く書けなかった人。
怪物は、普通なら瞬殺できる。
ちょっとおかしい女子高校生。
親も兄弟も、親戚も友達も居ない。
居るのは保護者代わりの上司と同僚くらい。
そのうち、シュウと名乗る謎の人物に不思議な感情を覚えることになる。
◇リーラ・フリードリヒ
眼鏡を掛けたクールビューティー巨乳お姉さん。
ドイツ所属なんだけど、特級なので世界中飛び回ってる。
日本は鳥頭の管轄だろうが。
茜を可愛がっている。
《血染めの星》はどうしたって?
世界線が違うからいません。
多分その辺で某御曹司に見初められてる。
◇鳥頭と罵られる男
出したかったけど出せなかった人。
口が悪いだけでめちゃくちゃ良い人。
シュウの面倒を見ることになる。
◇名も無き天使
大昔に造られたお人形。
名前はまだ無い。
とある人をずっと待ってる。
叶うわけないのにね。