忘れる程度に記憶して
人は忘れる生き物だ。
忘れることができない記憶は悲しい出来事くらいのもので、時は多くの記憶をおぼろげにかき消していく。時の積み重ねこそ生きた証なのに、薄れていってしまうとは、なんと虚しいことか。
しかしそんな虚しさも結局は忘れてしまうのだから、嘆く必要はないのかもしれない。
「はるの」
後ろから声が聞こえたけれど、自分に向けられているとは思わなかった。
しかしその声は後ろから大きく止まることなく届くので、ふと、はるのという言葉に考えを巡らせると、どくっと記憶がよみがえり落ち着きを失う。
長いこと思い出すことのなかったこと。忘れていたけれど思い出せるということは、なかったことではない確かな記憶。
はるの。それは僕を呼ぶあだ名。他の誰も呼ばない、たった一人の人が僕を呼ぶときに使っていた名前。
僕が恐る恐る振り返ると、肩に付きそうなさらさらの髪が印象的な男が柔らかく笑っていた。切れ長の澄んだ目とシャープな顎。血色のない陶器のような白い肌。歌舞伎の女形が似合いそうな男。
僕は反射的に危険を感じて逃げ出した。とにかく駅に向かい走った。
あの男は、たどだ。間違いなくたどだ。何しに会いに来たんだ。恐怖で振り返ることもせず、全力で駅へ走った。
いつものように電車に乗る。昨日と変わらない今日のはずが崩れ落ちていく。
たどのことを考えずにはいられない。
たどと出会ったのは高二の時だ。
僕が高校受験をする際、優先したことは身の丈にあった学力と通いやすい立地という二つだけだった。それを満たし受かった高校は、別段悪くはなかったが男子の比率が少ないことに少々驚いた。制服が可愛いとか料理研究部やチアリーディング部が有名とかで、女子に人気のある高校だったらしい。
そんなことは露知らず入学したので、友達が限られてしまった。クラスにいる男子は少数でそれがひとかたまりのグループとして、友達となったからだ。
それでもそこそこ楽しく過ごせたのは、学力や親の経済力が似通った者たちは、価値観のずれが少なかったからなのかもしれない。
二年になる時クラス替えがあった。
クラスが替わろうと男子が少ないことに変わりはなく、必然的にひとかたまりの集団になる。その中にたどはいた。
やや中性的な顔つきで大人しそうな印象だった。女子とも友達のように話しているのをよく見かけた。そんなところが、なんとなく鼻に付きすかした野郎と決めつけていた僕は、たどと個人的に親しくすることはなかった。特に親しくなる機会もなかったわけだが。
しかし美術の授業の時、互いの肖像画を描く課題で僕らはペアを組まされた。やる気のない僕は、資料集のピカソの泣く女を真似て、たどの顔を似非キュビズム的に仕上げていた。そんないい加減な僕をよそに、たどが描いた僕の絵は、僕そのものだった。
今まで自分の顔を描いてもらったことなんてなかったし、こんなにもリアルに描いてもらえたのが嬉しく興奮してしまった。
「すげぇ、これ完璧に俺じゃん。田所すげぇ上手いのな。感動するわ、プロみたいだな」
僕の大きな声にクラス中が集まる。
「田所くん、コンクール常連なんだから授業で本気出すのずるい」とか「私も描いてほしいな」とか女子がはやし立てていた。
当のたどは、言葉は発せず困ったように笑っていた。
授業が終わり先生に絵を提出したあとで、たどに声をかけた。
「なぁ、さっきの俺の肖像画さぁ、田所のサイン入れて俺にくれよ」
「えっ」
戸惑った顔に見えたので慌てて取り繕う。
「あっ、いや、ごめん。純粋に上手いから欲しいなぁって思って。あと将来画家になったら、すげぇ高額になるかもしれないって思ったからさ」
たどは端正な顔を崩しながら大笑いした。
「ありがとう、はるのくん。そんな風に褒めてもらったの、久しぶりなんだ」
「あー、おう」
久しぶりとは、どういうことなのだろう。昔から絵が上手く期待され、更なる高みを目指さねばならず、今は褒めてもらえないということなのだろうか。
才能がある人間をうらやましいと思うが、なまじ人より少しばかりの才能は、逆に本人を苦しめるものに思えなくもない。
ただ、絵の話より聞き捨てならないことがあった。
「俺の名前はるのじゃねーよ」
「えっ」
「はるやだよ」
「そうなんだ、ごめんなさい。野っていう字は、のじゃなくて、やなんだね。みんな、はるって呼んでるから気が付かなくて」
「いいよ、全然」
「でも、はるのくんって呼んでもいい?」
「なんで」
「はるのっていう画家がいて、尊敬してるんだ」
「ふーん」
そんな画家を僕が知るよしもないけれど、なんだかたどが嬉しそうなので、変なあだ名を快諾した。
その日をきっかけに、僕らは仲良くなった。僕は皆が呼んでいるように田所のことをたどと呼んだ。
共通の話題はないけれど、互いに知らない世界を教え合うようで楽しかった。
例えば僕は漫画やゲームの世界を広げ、たどは美術や小説の世界を広げてくれた。
僕らは互いに一番の親友のようなものではなかったが、大切な友達でありその距離感が心地よかった。
僕は時々、たどのモデルをつとめることがあった。たど自身がきれいな顔なので自画像を描いた方が、いいのではと聞くと、はるのの身体や顔の比率は黄金比なんだとか言いくるめられ、西日の強く差す美術室に二人静かに時を過ごした。
そのときは、きまってたどがポツポツと自分のことを話した。モデルをしている僕が退屈しないよう気を遣っていたのかもしれない。
小さな病院を経営してる田所家は、三兄弟でたどは末っ子だ。二人の兄とは少し年が離れていて、二人とも優秀で優しいそうだ。
一番上の兄は医者として働いていて、二番目の兄も医大に通っている。たどは末っ子だから、比較的自由に育てられているらしく、医者になることも強要されていない。
「僕は恵まれていると思う。優秀な兄たちのおかけで医者になるっていうプレッシャーはない。それどころか、なりたかったら目指してもいいという選択の余地さえ与えられた。更に目指したいものがないなら、経営を学んで病院の事務方に就けばいいと、将来の不安さえない。でも、恵まれていることがイコール幸せにはならない。例えば絵だって、本気でやらせてはくれないんだ。絵を職業にするのは、難しいだろうって多くの人が思う。きっと僕だって目指したところで、挫折して上手くいかないだろう。親もそう考えるから、絵の道に進む話は一切しない。あくまで趣味。もし本当に才能があるなら、趣味からでも花を咲かせるだろうから、むやみにリスクのある道には進ませない。それはすごく正しい。でも何かにつけてそうだと、僕の思考は両親によって形成された、現実的で無難な道しか選べないものになっていく気がするんだ。まぁ、そんなの贅沢って言われたらそれまでなんだけど、なんか味気なくて」
たどは視線を窓に向ける。
「だから、はるのが美術の授業のとき、僕の絵にサインをいれてほしいって冗談でも言ってくれたことが、嬉しかったと同時に羨ましかった。僕は野球が上手い子を見てもプロ野球選手になれるなんて思えない、歌が上手い子を見ても歌手にはなれないと思う。僕はいつもどこかで夢を馬鹿にしてる。両親に植え付けられた思考のせいで。でもそれも結局、自分の不甲斐なさを両親のせいにしたいだけなのかもしれない」
どんな話を聞いていても、僕は同じことを思った。たどは繊細だなと。
物事の捉え方や考え方が複雑すぎて、僕の浅ささや楽天さが格好悪く思えるときさえあった。それをたどに伝えると、はるのはそういうところが魅力なんだと恥ずかしげもなく言ってくれた。
高三になるときには、クラス替えがなかった。
たどや他の友人との関係性は変わらぬまま日常と化した。
僕の思考は相変わらずだったので、進路は無難な大学に決めていた。やりたいことがないので、大学で見つかればいいという極めて短絡的な選択だったが、親も教師も反対するものはいなかった。
たどは近くの大学で経営を学ぶと思っていたが、東京の美大に決めたらしい。
親に大反対されたが、東京に住む叔父の元で暮らし卒業後は帰ってくるという条件で、なんとか押しきったそうだ。
受験が近づくにつれ、友人と過ごす時間は減った。たどとの美術室での時間も、いつの間にかなくなっていた。慌ただしく殺伐とした嫌な日々だった。
僕はそれなりに勉強しそれなりの大学に合格した。たども希望の美大に合格した。
卒業がせまっているのに、それを実感できずふわふわと日々を過ごした。最高に楽しかった高校生活とは言えないけれども、終わるときに悪くなかったなと寂しく思う。つまりは充分、幸福な高校生活だった。
卒業式の日。
退屈な式を終えて、教室に戻る。未来への希望や不安、今日までの思い出、繰り返された高校生活の終焉。そこには色々な感情があって、陽と陰がまぜこぜになった空気が漂った。
クラス内で挨拶をして、解散となった。別のクラスも解散していたので、教室や廊下は混沌としていた。
多くの女子たちが今生の別れのように、泣いていた。僕ら男子は案外さっぱりと三々五々に帰っていった。
たどに別れを言おうとしたが、姿が見えなかった。女子とも仲がよかったから、この混沌の中に埋もれてしまったのかもしれない。
なんだか寂しさと虚しさが急に込み上げてきて、美術室に向かった。
美術室の扉を開けようとしたとき、鍵がかかっているかもと不安になった。しかし扉は開いた。そこにたどがいた。
僕は安心して嬉しくなる。
「ここにいたのかよ。女子の群れに埋もれたのかと思った」
「はるのにはお世話になったから、きちんと挨拶しなきゃと思ってここで待ってた」
「俺がここに来るとはかぎらないだろう」
「でも来た」
たどが笑う。
ここでモデルをしていた時は、いつも放課後だった。最後にモデルをしたのはいつだっただろう。もう思い出せないくらい遠い記憶のようだ。
笑顔が消えたたどが言う。
「東京の美大に行くのやめればよかった」
「なんで」
「はるのに会えなくなるから」
「いつでも会えるよ」
自分でそう言ったものの、もう淡々とした日常の中では会えなくなる。会おうとしなければ会えない。それがこんなにも寂しいなんて、自分でも驚く。
たどの美しい横顔。寂しそうに泣き出しそうだ。
僕だってまた明日も会いたい。生活の延長線上にいてほしい。
どうして人は、離れたり失ったりするときに大切さを痛感するのか。
どうして一緒にいるときは楽しさに気を取られ、かけがえのなさに気づけないのか。
僕はたどを見つめる。
視線が交わる。
たどの顔が徐々に近づく。
たどが目を閉じる。
唇が触れる。
冷たい唇。
たどが目を開け、顔を離す。
たどは黙っている。どんな言葉を待っている?何を言えばいい?わからない。どうすればいいのかわからない。
僕は逃げ出した。美術室を飛び出し、全力で学校から逃げ出した。校舎を出て一度振り返ったが、たどは追いかけては来なかった。
その日の夜、僕は限界まで考えた。
たどを好きなのかと。僕には高一から高二の始めころまで彼女がいた。紛れもなく僕は女子が好きだ。
でもたどを悲しませたくない。笑っていてほしい。
そもそも性別という認識は複雑だ。
例えば公共のトイレやお風呂は、同性でひとくくりになっている。そこに不快感はないとされる。しかしどうしてそこに不快感は存在しないのだろうか。女同士はよくて男はだめ。
わからない。本能と倫理の問題か。いやもっと単純にたどを好きかだ。好きだけど恋愛なのか。付き合ってみればわかるのか。
いや、もう会えないんだ。逃げ出した僕を追いかけて来なかった。もう別に考える必要もないか。忘れよう。今さら考えても仕方ない。忘れよう。
そして僕は、たどを過去にした。それきり会うこともなかったので、記憶は勝手に薄れていった。
なのに、どうして今更会いに来たんだ。
その日、仕事にまったく集中できなかった。とんでもないミスをしていても気づけないのではというほど、心が乱れていた。それでもなんとか一日を終えた。
しかし家に帰るのが怖かった。また、たどがいるのではないか。びくびくしながら退社する。
最寄り駅から自宅まで、普段と違う道で帰ろかと考えながら、とぼとぼといつも通りの道を歩いているときだった。
「はるの」
後ろからたどの声がした。心臓が跳ね上がる。あぁ、もう逃げられない。立ち向かうしかない。
僕は振り返り睨みつけながら言う。
「たど何の用だ。過去のことをネタに金でもゆすりにきたか」
声が震えているのが自分でもわかった。
たどは、驚いた顔をした。そして困ったように申し訳なさそうに言う。
「はるの、ごめんね。そうか。突然現れたらそんな妄想も膨らむよね。でも全然違うんだ」
その様子から自分が何か大きな思い違いをしているのだと気付く。
「僕の話聞いてくれる?」
一気に高校時代の繊細で美しいたどを思い出した。
僕らは近くの公園のベンチに腰を下ろす。
「はるの、驚かせてごめんね。魂胆なんか何もない。ただ会いに来ただけなんだ」
申し訳なさそうなたどを見て、こちらはより一層申し訳なくなる。
「俺の方こそとんだ失礼を」
「いや、突然現れたのが悪かったんだ。この前久しぶりに実家に帰ってね。それではるののこと思い出して会いたくなった」
「高校卒業して美大に行ったんだよな」
「うん。でもすぐに辞めてしまった。やっぱり親の思った通り、夢は多くの人間を挫折させるだけだった。僕の絵なんか才能の欠片もなかったよ。でも東京で色んな人に出会えて、色んな生き方を知った。そして自分に自信を持つことができた。だから男性が好きってことも後ろめたく思わなくなった。ちなみに今はパトーナーと北海道で牧場をやっているんだ」
当たり前だけれど、たどにはたどの時間が流れていた。その時間が濃密で様々な経験をしてきているようで、なんだか遠い人に感じる。
「そのパートナーが、実家に帰ることを勧めてきてね。親が生きている間に会っておくべきだって。親とは美大を辞めたときに喧嘩別れして以来、一度も会っていなくて気が進まなかったんだけれど、会いに行ったんだ。パートナーと一緒に。どうなったと思う?」
僕は首を傾げる。
「散々だったよ。まぁ、美大を辞めて連絡もせずにいた息子が久しぶりに帰ってきて、北海道で牧場やってます、パートナーはこちらの男性ですなんて言って歓迎されるわけないんだけどさ」
たどはため息をついた。
「父親は、同性愛を理解するのは難しいって。同性が結婚の対象となったら、その対象がもっと広がるかもしれないって。例えば親族、小さい子ども、何がよくて何が駄目かわからなくなるじゃないかって」
たどの声が涙で詰まる。
何か声をかけたかったけれど僕には何も言えなかった。どうにもならないことは、世の中に溢れている。
少しの間、沈黙が流れた。
たどの横顔は相変わらず、いやあの頃以上にきれいだった。
鼻をすすって、意を決したようにその顔が真っ直ぐこちらを見つめた。
「高校生の頃、僕ははるののことが好きだったんだ。女の子より男の子が好きだと中学生のころから、なんとなく感じていたけど、高校に入ってはっきり気付いたんだ。卒業式の日、美術室でキスしてしまったことすごく後悔した。でもあのときの僕は、はるのの気持ちを確かめずにいられなかった。もしかしたら同じ気持ちかもって思って。すごく怖かったけど。そうしたら、はるのは逃げた。もう本当に、あのときほど時間を戻したいって思ったことはないよ」
逃げ出したことを、今さら猛烈に後悔した。僕は自分の気持ちばかり優先して、たどがどれだけ傷ついていたかを全く気にせず、あろうことか記憶を葬ったのだから。
「たど、ずいぶん遅くなったけど弁解させてもらえるかな」
「弁解だなんて、気持ちを聞かせてもらえるのならむしろ嬉しいよ」
僕は記憶にそっと寄り添いながら話した。
「卒業式の日、たどに別れを言おうとしたけど見つからなくて、美術室に行った。そしたらたどがいたんだ。そのときすごく嬉しかった。でも、もう会えなくなるんだと実感が湧いて、堪らない気持ちになった。それで、たどにキスされて混乱した。俺の恋愛対象は女の子だったから。でも自分でも自分がわからなくなって、逃げ出した。状況を受け止めきれなかったんだ。家に帰ってもずっと考えた。俺はたどが恋愛対象として好きなのかを。結局わからなくて放棄した。悩むのに疲れてしまったんだ」
たどは終始優しい顔で相づちをうっていた。
「俺は今も女性が好きだ。でも今だから言えることだけど、あのとき俺もたどを好きだったよ」
「えっ」
「美術室から逃げ出して学校を出たとき、一度振り返ったんだ。たどは追いかけて来なかった。でももし追いかけてきて、好きだと言われたら断れなかったと思う」
「どうして」
「俺が側にいることで、たどが幸せになれるなら側にいたいと思うから。それにあの頃はまだ高校生だったから、どんな色にも染まっていけたよ」
たどは、ぼろぼろ涙をこぼした。
「あの頃の僕にそんな勇気ないよ」としゃくり上げながら言った。
今だから言える。選ばなかった道だからそう思える。僕はずるい。だけど、今も昔も変わらない気持ちがあった。たどを悲しませたくない。笑っていてほしい。
たどが顔を上げた。
「実家に帰って親とまた喧嘩別れしたあと、パートナーとこの街を歩いたんだ。そしてはるののことを思い出して、とても会いたくなった。昔みたいに話したいっていう気持ちと、はるのはどう生きてるのかなって。もし、生きづらい日々を過ごしていたら、少しは力になれるかもとか考えてしまって」
「俺は高校のころと全然変わってないよ。それなりの大学に行って、地元で就職して彼女と友達とそれなりの日々」
「幸せそうで何よりだ」
「まぁな」
「そっか。なら、あのとき追いかけて、僕たち側に落とし込めばよかった」
「それもよかったかもな。苦しみも多いけど喜びも多そうじゃん」
「まったく、相変わらず楽天的なんだね」
夜風が冷たいけれど、放課後の美術室に戻ったみたいだ。
「会えてよかった」
「うん。そういえば俺の居場所どうやって知ったの?」
「僕には女の子の友達が多いから、高校の頃から繋がっている子もまだいて、その人脈でね」
「なんか腹立つな」
「ふふ」
たどが立ち上がる。風で髪がさらさらとなびく。
「じゃあね」
「おう」
連絡先は聞かない。また友達として繋がることもできるけど、その必要はない。
お互いが選んだ道で、それなりに生きているのなら心配いらない。
たどが手を振り去っていく。僕も手を振り返す。会わなければ、また忘れていくだろう。でも今度はそれでいいと思える。たどが笑っている。その笑顔は、忘れてしまっていても何度でも思い出すことができそうだ。