9 雨に駆ける――――佐知子
雨は数分おきに激しくなったり弱まったりしていた。
私は腕時計と空模様とを交互に見比べた。
約束の時間はもう少し過ぎてしまっている。
青果店に入る前に電話したから、この雨のせいで到着が遅れていることくらいは察しているだろう。だが、目上の相手を訪ねる社会人のマナーとして、現在の私の状況は最悪である。濡れ鼠か、大幅な遅刻かの二択。
どちらがマシか、しばらく逡巡した。
とにかく連絡を入れよう、と、まともな意識がようやく顔を覗かせて、聞いていた唯一の電話番号である自宅の固定電話に掛けたが、数コールで留守番電話機能に切り替わってしまった。先ほどはつながったし、まさか、訪問の約束時間直前に外出するとは思えないのだが、広いあの家の、電話のコール音が聞こえないようなところで何か用事をしているのだろうか。
さて、どうしたものか。
意気地無し。礼儀がどうとか気にしているふりをして、本当は、逃げ出したくなっているだけのくせに、とささやく心の声が刺さる。
話をしなければ、これまでのままでいられる。
ちょっと変わった新人の編集者と仕事をしたな、という淡い思い出を彼に残して、異動というごく自然な流れで距離をとれるだろう。
片想いの天秤は私の側に大きく傾きすぎている。こんな重たいものをぶつけて、関係が無傷でいられるだろうか、という黒い雲が内心を覆いつくしていく。彼にとっては子どもの頃のことなんて、もう遠い過去の思い出にすぎないかもしれない。私が彼と彼の作品に救われただなんて、そんな重たいものを渡されても、荷物になるだけかもしれない。
この期に及んで、そんなことを考えている自分にもうんざりしてしまった。
いつからこんな、怖がりで逃げ腰で、チャレンジしない人間になったんだろう。
ぱっと空が一瞬光った。十秒ほどしてから、がらんとシャッターを勢いよく下ろしたときのような音が響いて雷が落ちたのがわかる。三キロくらい先か。先ほどよりも近づいているような気がした。
ええい、うるさい。いつまでもこんなところでじっとしているわけにはいかない。
意気地無しの自分も、それにうんざりしている自分も嫌いだ。ここまで来て、私が本当に聞きたかった質問をしない選択なんてありえない。それこそ、一生後悔する。
答えを聞くのは本当に怖い。それでも、行かなくちゃ。
となれば、行動あるのみだった。
私は一瞬雨が弱まった隙を見計らって、桃は左手でしっかりとスーツの上着の下に抱え込みつつ、右手を庇のように目の上にかかげて水滴をよけながら、走り出した。
ほんの数十歩走ったところで、弱まっていたはずの雨がまた急に強くなった。今日ここまでで一番激しい降り方と言ってもいいくらいの土砂降りだ。
「嘘でしょ、ツイてない」
思わずひとりごちた。あっという間に、髪もスーツも重く湿っていく。もうこうなってしまったら、戻る選択肢なんてない。進むしかない。
私は知らず笑いだしていた。
走る。
足元で水が跳ね返る。
頬を雨水が伝う。
一度は雨宿りしながら整えた呼吸がどんどん上がっていって、はあはあと荒く耳につく。
その隙間をつくように、込み上げてくる笑いが止まらなくなる。
なんでこんな、馬鹿馬鹿しいことしてるんだろう。
仕事でお世話になる、目上の人の家を訪ねるのに。
これじゃあ完全に濡れ鼠だ。なんたる非常識。
ううん。
違う。
あの人は、リョウト先生じゃない。
お隣のお兄ちゃんのリョウトだ。
私はまだまだ子どもで、今日は個人的な賭けに負けたのを返しに行くだけなんだ。
そう言えば、そもそもの最初から、彼はそう言っていたのだ。あの時、彼はもうとっくに、気がついていたんじゃないだろうか。私と同じで、言わないで黙っていただけで。
今日彼を訪ねるのは、私が編集者のデラフエンテじゃなくて、お隣のサチだから。仕事じゃなくて純粋に、会いたいから。伝えたいから。
そんなシンプルなことに気がつくのに、こんなに時間がかかるなんて。
伝えられた言葉をどうするかは彼の問題で、私がうだうだこんなところで悩んでいたって仕方がないのだ。彼は言葉のプロなんだから、きっと、重たすぎる何かだって漬物石ぐらいの役には立ててくれるだろう。
あと少し。小高い丘の斜面に段状に広がっている、古い住宅地の坂道を蹴る。
心臓がばくばくと胸郭の内で荒れ狂っている。
歩行者のために設置されている、近道の階段を駆け上がる。登りきったその先、あの角を曲がれば、見えるはずだ――。
手をかざして目を守ろうとしても、水は髪から額へと伝って、視界を曇らせた。
曲がった瞬間に、思いもよらないほど近くに人影があって、私は息をのんだ。
ぶつかる!
慌てて身体をひねる。
運動神経は決して悪い方ではなかった。だから、その次の瞬間、無様にバランスを崩してしまったのは、ひとえに忙しすぎる社会人生活の中で少々運動不足だったからに他ならない。
「うわっ」
先方も慌てたような声で身をかわしつつ、転びかけた私の二の腕をとっさのように掴んだ。ぐいっと引いてもらって、何とか転倒はまぬがれた。
「すみません、前がよく見えていなくて」
私は頭を下げてから、何とか視界を確保しようと、放してもらった右手でポケットを探り、すでにじっとりと湿っているハンカチで軽く目元を押さえた。
ふと気づくと、左手はしっかり桃を抱えたままだった。転ばなくて本当に良かった。転んでいたら、桃はつぶれてしまったかもしれない。
「こんな天気に、何やってんだ、サチ」
ひどく不機嫌そうな声に、慌てて瞬きする。
ようやく焦点を結んだ私の視界には、傘をさしたリョウトが険しい表情をこちらに向けていた。
……あれ。今。聞き間違いだろうか。
「あの、リョウト……先生。覚えていらっしゃったんですか?」
一瞬彼は、キツネにつままれたように呆然と目を見開いた。
「まさか、今の今まで、俺がまるっきり覚えていなかった、気づいていなかったとでも思っていたのか? 君がお隣の右輪さんちの子だったってことに?」
「てっきり」
私がうなずいた次の瞬間の、彼の憮然とした表情は、多分、一生忘れることができないだろう。私は先ほどの笑いの発作に再び襲われた。