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8 青天の霹靂――――菱人

 ばらばらとトタン屋根に雨が当たる音で、物思いからふと我に返った。

 もう降ってきた。


 彼女はまだ来ない。どこかで雨に降りこめられて立ち往生してしまったのだろう。駅からの道のりは限られているし、隣家に住んでいたのだから、迷ったとも考えにくかった。


 やはり傘を持って、様子を見に出ようか、と思ったところで、ふいに電話が鳴った。受話器を上げると、歯切れのいいアルトの挨拶から切り出される。


 サチの上司、俺がデビューした時にお世話になった文芸部の編集長だ。


『昨日の原稿、私も拝見しました。素晴らしかったです。装丁の案も、楽しみにしていてくださいね』

「ありがとうございます」

『いい本にします。デラフエンテも気合が入ってます』


 その様子は容易に想像できた。俺は急いで話を切り上げなければと思っていたのも一瞬忘れて、思わず頬を緩めてしまった。だが、この電話はそんな世間話をするために掛かってきたのではないはずだ。


「編集長のご用向きはなんでしょうか?」


 端的に尋ねると、母親ほどの年齢になるベテラン編集者の微苦笑が電話線の向こうからほのかに伝わってきた。


『相変わらず、単刀直入ですね。お時間を無駄にしてもいけませんので、手短に致します。担当させていただいているデラフエンテですが、先生の単行本を発刊する一連の仕事に区切りが着いたところで、他部署に異動することになりました』


 がつんと何かで殴られたように感じて、俺は思わず息を止めてしまった。


 なぜだ。俺のぶっきらぼうな態度や気まぐれな行動に、愛想をつかしたということなのか。それとも、気を付けたつもりだったが、良くない噂が変な風に流れて問題にされたのか。


 俺自身は、今までのどの編集者よりも彼女とは上手くやれていると思っていただけにその言葉は衝撃だった。青天の霹靂という単語がふと頭をかすめる。外の天気に触発されたのでもないだろうが。


「そうですか。……決定事項ですか?」


 内心の泡立ち荒れ狂う海のような動揺とは裏腹に、その言葉は自分の耳にも冷たく響いた。


『正式な辞令はまだこれからですが、内示が出て、本人も同意しています』

「彼女の希望で?」


 編集長は明るい声で応じた。


『入社当初から、翻訳書編集部からぜひ欲しいと希望が出ていたんですよ。うちでも十分な仕事をしてくれていると思っていますが、あちらも彼女の能力を存分に活かせる部門の一つです。社から提案をしましたが、最終的には彼女の希望を尊重するとも伝えて相談した結果です』


 確かに、十年以上の海外経験がある上に、アメリカの大学を好成績で卒業している彼女だ。そもそも、その経歴を見込まれての採用だったのだろう。


 俺のわがままは、彼女のキャリアを寄り道させただけだったのかもしれない。


 その思いが胸に苦く広がれば広がるほど、彼女を担当に、と願った自分の行動を「わがまま」だと理解していたつもりでも、それなりに実績を積んできた自分の担当になれば彼女の手助けになる、とどこかで思いあがっていたのだと思い知らされた。周囲のやっかみを買うかもしれないが、彼女にとってそれ自体は悪い話ではない、と思い込んでいたのだ。


 とんでもない押し付けだ。

 俺はおろかで、尊大な道化だったというわけか。


 彼女は真面目で、仕事に関わるどんな頼み事も、全力で叶えてくれようとした。意見を求めたときも、彼女なりの感性を発揮して、率直に思ったことを伝えてくれた。あらゆる経験から貪欲に仕事を学ぼうとしていた。その真っすぐな姿勢に、生き生きした仕草や話しぶりに、俺自身も気がついていなかった古い感情や想念の引き出しが沢山開いて、それが、ここ一年半の創作ペースに好影響を与えてくれていたことには、俺自身も気がついていた。


 だが、この仕事上の関係で特筆すべき利益を得ていたのは、俺の方だけだったということなのか。


 それは、立場の違いを思えば別に悪いことでもおかしいことでもないはずなのに、俺はその事実を認めようとは一切してこなかったし、今、それを突きつけられて、傷ついたような、裏切られたような気持ちになっている。


 何と滑稽なことか。


 俺はわずかにかすれた声を押し出すようにして言った。


「分かりました。この本が、一年半の彼女の実績としても良い評価となるように、こちらも全力で努めさせていただきます」

『あら、先生に案じていただけるなんて、デラフエンテも果報者ですね。あの子、面白いでしょう。先生の元でたくさん勉強させていただきましたわ。どうか、最後までよろしくお願いします』


 編集長はのんきな声でころころと笑った。


 外の雨はますますひどくなっている。


「ちょうど、その彼女と打ち合わせの約束で、今、待っているところなんです」

「え?」


 話を切り上げようとしたところで怪訝そうに聞き返されて、俺は言葉を止めた。


『デラフエンテが、先生のところに伺うことになっているんですか?』

「はい」


 当惑しながらうなずくと、電話の向こうではなにやらパソコンの操作をするような音が聞こえた。


『失礼しました。共有している彼女のスケジュールに入っていなかったもので、驚いてしまって。今日は有休をとっていたんです。先生のところに打ち合わせに伺うんなられっきとした業務ですから、ちゃんと出勤でつけてあげないと。後で連絡してみますね』

「はい。では、用件がお済みでしたら、これで」


 俺が半ば強引に話を切り上げると、最低限の礼儀として、はあい、と編集長が返事をするのを待って電話を切った。

 この初老の女性編集者は、穏やかでのんびりした話しぶりとは裏腹にとんでもなく観察眼の鋭い人なので、接するときにはいつも緊張する。特に、これだけ動揺しているときに、長く会話を続けたい相手ではなかった。


 それより何より、とにかく彼女に会わなくては。


 焦る気持ちそのままに俺はとりあえずスマホと鍵と傘を掴んで、ばらばらと音を立てる雨の中に踏み出した。



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