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6 夏の夜、窓際で――――菱人


 高台のこの家からは、二階に上がれば遠く広がる市街地の先まで見渡せる。彼方の山並みがけぶったように一部分、淡い色になっていた。雨柱だ。風にわずかに湿気が混ざり始める。風向きからして、ほどなくこの辺りも降り始めるだろう。


 それまでに彼女がここにたどり着くかどうか、微妙なところだった。


 傘をもって迎えに出ようか。まだ降りだしてもいないのに大げさか。この季節だ、折り畳み傘のひとつくらい、バッグに入れているかもしれないし。


 俺は軽くため息をつくと、ガラス窓を閉めて施錠した。ガラス越しの風景は、水彩画のようにわずかににじんで見える。ガラス自体が古いもので、表面にわずかな凹凸があるのだ。

 二階のこの部屋は窓の立て付けがあまりよくない。本降りの雨に強い風が重なると、窓枠の隙間から雨が降り込んでしまうことがあった。この天気では、施錠までして、しっかり固定しておかないといけない。


 物心ついたときから住んでいるこの古い家には、色々な思い出があちこちに染み付いている。それをどこか疎ましく思い、独り暮らしでもして離れてしまいたいと、漠然と思い描いたことは何度もある。だが、祖母がこの家を手放すと言い出したとき、驚くほど強い言葉で反対したのは俺自身だった。

 その瞬間になって、急にぞっとするような不安を覚えたのだ。


 ここを離れてしまえば、彼女と俺を繋いでいた消えそうな細い糸が途切れてしまうような気がした。もう、ただ一人残った隣家の住人、彼女の父親も引っ越して数年たち、音信不通の彼女がこの土地を訪れる可能性なんてほとんどないことは分かっていたが、それでも、ここを離れるのは嫌だった。


 普通に引っ越す彼女を見送っていたのであれば、そんな風に思うことはなかったかもしれない。隣の家に面白い女の子がいたっけな、と時折思い出すだけだっただろう。あるいは、連絡先を聞いて、時々、からかいがてらメールかメッセージでも送っていたかもしれない。


 だが、彼女が姿を消したのは本当に突然だった。

 その前夜のことを、はっきりと覚えているくらいに、その出来事は俺の中によくわからないながら、何かの爪痕を残したのだった。


   ◇


 あの日も蒸し暑くて、夕方から時折、激しい雨が降っていた。

 夕食ができたのにサチが食卓に来ないので、どうせまた本か漫画に没頭して時間を忘れているのだろうと、俺は家の中を探した。

 ちょうど、この二階の部屋で彼女を見つけたのだ。


 彼女は灯りも点けないで窓のそばに放心したように座っていた。


『どうした、サチ。飯だぞ』


 俺が声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。

 そのときの表情。

 カラスと対峙していた時と同じくらい、今でも忘れられない眼差しだった。


 何かを諦めたような、ぽっかりと虚ろなような、それでいて、本人にもどうしようもない生命力だけが奥底から涌いて、涙になって溢れだしているような。

 そう。あのとき、サチは確かに泣いていた。声もあげずに。

 俺はぎょっとした。


『どうした』

『別に』

『別にってことないだろう』


 サチはため息をついた。


『悔しいの。……お父さん、夏休みに朝霧ユニコーンランドに連れていってくれるって言ったのに、約束忘れてて、絶対いけなくなっちゃったから』


 直観的にそれは嘘だと分かった。遊園地に連れて行ってもらえないというのは本当だろう。サチの話を聞く限り、隣家の主人は父親としての責任感がほとんど存在しなさそうなタイプの困った大人だった。だが、サチが泣いていたのは、そんないつも通りのよくあることが理由ではないはずだ。そんなことで、あんな表情で一人で泣くなんて全く腑に落ちなかった。


 サチは生意気なこともしょっちゅう言うし、祖母や兄にはすぐに甘ったれる面もあったが、実際には周囲の感情を繊細に読み取り、気をつかう子でもあった。相手が心配しそうなこと、嫌がりそうなことは、すっと止める分別があった。

 俺に問われて、とっさに、いかにも子どもらしくて心配する必要なんてなさそうな理由をでっち上げたのだろう。だが、その時の俺には、それ以上彼女に突っ込んで尋ねることができなかった。そのくらい危うい雰囲気が彼女にはあった。


『ばあちゃんが、配膳手伝ってくれって。俺はここの窓の錠を閉めていくから』


 サチは反射的に窓枠に視線を走らせて、錠を探したが、俺は重ねて促した。とにかく、こんなところで一人にしておいていい状態ではなさそうだ、と感じたのだ。


『手を洗って、ばあちゃんの方、手伝って。この錠は古すぎて普通には閉まらない。コツがあるんだ。ここは俺がやっていくから』


 声もなくこくりとうなずいて、サチは部屋を出ていった。


 俺は窓の錠に手を伸ばしながら、ふと、ずっと以前に窓際に下げたまま忘れていたてるてる坊主がわずかに揺れているのに目を止めた。ぽつんと座っているようだったが、もしかして、俺がこの部屋に上がってくる直前、サチは窓から外を見ていたのかもしれない。何か嫌なことでもあったのか、と、何気なく庭先を見下ろして、次の瞬間、固まる羽目になった。


 カズトだった。


 珍しく早く帰宅したのはいい。だが、こんな往来からすぐのところで、自動車で送ってきてくれた女性と熱い抱擁を交わすなんて、あの野郎何を考えていやがる。


 サチは多分、あれを見てしまったのだ。

 まだ小学生とはいえ、もう六年生、でもある。

 まさに多感な時期に、これはいかんだろう。


 ろくでなしの兄に憤慨しながら、俺は力任せにゆがんだ窓枠に窓を押し付けつつ、スクリュー錠を回した。そうしながらも、幼い顔だちに、大人の女性のように見知らぬ表情を浮かべていた彼女のことが頭から離れなかった。


 サチはサチなりに、幼いながらも本気で兄のことが好きだったのだろうか。叶いそうかどうかなんて、結局、関係ない。恋は向こうから来るものだから。


 いつも、リョウトは意地悪! カズ兄大好き! と公言してはばからなかったけれど、それには、見た目以上に一人前の思慕が混ざっていたのだろうか。


 口の中に苦いものが広がった。


 才能もあって、弁舌さわやか。女にもモテて、ルックスもまあいい。その上、高校時代に知り合ったネット仲間と一緒にベンチャー企業を興して、その事業を着実に軌道に乗せているカズトは、確かに、少女らしい憧れを寄せるには申し分のない相手に思われた。だからこそ、ヤツのその夜の振る舞いは、本人は何も知らなかったとはいえ、最低のくそ野郎だと評するにふさわしかったと思う。

 誰から見ても自慢の兄だろうと言われるが、家の中では、彼は基本、王様の振る舞いである。ひどく気前のいいところもあるが、少々上から目線だし、マイペース過ぎて暴君じみたところもある。そんな兄は、三つ年下の俺にとって誇らしいと同時に少し煙たい存在でもあった。


 だが、その時ほど、兄に対して腹を立てたことはなかったと思う。


 サチに何と言ってフォローしてやったものか、でも、下手なことを言ってはよけい傷口を広げそうだし、と、その晩は眠れなかった。


 次の日、部活を終えて帰宅すると、母娘はもう隣家を離れた後だった。祖母によると、バンが来てさほど多くない荷物を積みこんだと思うと、あっという間に出ていってしまったという。

 俺の一日分の煩悶は完全に宙づりになって、腹の底にぽっかりと穴が開いたような感覚と、あの日部活の帰りにチケットショップで気まぐれに買った、朝霧ユニコーンランドのペアチケットだけが残った。


 しばらくたって、祖母に、彼女の母親からハガキが届いた。非礼を詫びつつ、急遽、離婚調停中の夫から身を隠さなければいけない事態になった、と告げていた。


 腹の底の穴は、何日たっても、何か月過ぎてももうつろに空いたままで、その時になってようやく、バカで鈍感な俺は、お隣の小さな女の子が、自分にとってどんなに大事な存在になっていたかに気がついたのだった。


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