5 隣家の住人――――佐知子
おばあちゃんと、リョウトと、カズ兄は、私の隣の家に住んでいた。
どういう事情だったのかはよく知らない。だが、兄弟の両親に当たる人たちは、そこには住んでいないようだった。
私の家もちょっとした事情持ちで、家にいるのが気づまりだった私は、おばあちゃんが優しいのをいいことに、学校が終わって家に帰ってくると何かと口実をつけては隣の家に上がりこんでいた。
事情と言っても、大したことではない。ごくありふれた話だ。両親の関係が完全に冷え切っていて、その頃、母が離婚に向けて父に隠れて準備を進めていたのだ。
カズ兄は大学生だったけれど忙しいらしくて、私のいる間に帰ってくることはめったになかった。その分、顔を合わせたときにはずいぶんと甘やかしてくれた。お姫様扱いが嬉しくて、私はもちろん「カズ兄、大好き!」と公言していた。
けれど、実際に、本当にこまめに私の面倒を見ていたのは、リョウトの方である。
ぶっきらぼうではあったけれど、勉強はよく見てくれていた。事情を聞いた母が、正式に彼に私の家庭教師を依頼するほど、丁寧で的確な教えぶりだった。間違っているところは遠慮会釈なく指摘するが、分かるまで根気よく付き合ってくれる。ひたすら私に甘いばあちゃんやカズ兄だったら見逃しそうな小さなミスまで丁寧にフォローして、直してくれた。
勉強が終われば、テレビゲームにも付き合ってくれた。やはり遠慮会釈も手加減もなく、落ちものパズルゲームでもレーシングゲームでもシューティングゲームでも、ぼこぼこに負かされたが、下手にリョウトに手加減されていたら、察した私はかんしゃくを起こしてへそを曲げただろう。
当時の私は、とにかく背伸びがしたくて、おばあちゃんにかわいがられるのは辛うじて許せたけれど、リョウトに子ども扱いされるのは絶対に嫌だった。何かにつけて、敵うわけがないことで張り合っては、一人前の口を叩いていた。
そんな小生意気なガキだった私を、彼はぶっきらぼうな態度ながらもずっと構い続けてくれた。
母と父が諸々のいさかいや手続きに忙殺されて、私に向ける注意が完全に枯渇していた時、私がふわふわと落ち着かない状態にもならず、成績も落さなかったのは、もっぱら、おばあちゃんとリョウトのおかげだったのである。
先生か。
どうにも息が切れて、走るのを諦め、早足で歩きながら、心の中で呟いた。
リョウトを先生と呼ぶなんて、絶対に悔しいとあの頃は思っていた。
今は、「先生」としか呼びようがない。
売れっ子の作家先生と、駆け出しの編集者なのだから。
リョウトは、私が、あの時のサチだと気がついているのだろうか。
正直、全くそんな気がしなかった。
気づいていたら、何か言ってくれてもいいようなものだ。
だが、いつも彼は泰然とした無関心な態度である。これは、全く気がついていないと結論せざるを得ないだろう。
十一歳と十七歳では全然違う。
でも、二十三歳と二十九歳なら。
そんな、バカみたいな期待は、出会って数分でもろくも消え失せた。
一ミリも気がついてない。反応、ゼロ。
そりゃあ、右輪佐知子がデラフエンテ佐知子になってたら、一見、気がつかないかもしれない。義父の名字、圧が強すぎる。
でも。佐知子という名前と顔を結び付けたら分かってもらえるのではと、儚い希望を持っていたのだ。
私は、坂崎菱人が匂坂遼都になったって、著者の顔写真を出していなくたって、その、書かれた文章で彼に気がついたのに。
十二年越しのこじらせた初恋ってやつは、なかなかに厄介なものなのだと、身に染みて実感させられたのだった。
一瞬出会って、すれ違って終わり、だったら、いっそ潔く諦めもついたかもしれない。
けれど、何をどう思ったのか、ちょうど担当編集者の辞意を聞かされた直後だったという彼は、後任に私を指名した。
思い出してくれたのかと、淡い期待を再び抱いたけれど、それも空しく終わった。
打ち合わせは常に事務的で端的。よけいなことはほとんど言わないし、緊張しながら切り出した私の世間話は全て黙殺される。なぜ、私を担当に指名したのかも、聞かされずじまいだった。ましてや、昔の事を持ち出して、私のことを覚えていらっしゃいますか、なんて、とてもじゃないけど聞けない雰囲気だった。
それまで出す作品は全てヒット作となりながらも、比較的遅い出版ペースで知られていた彼は、しかし、そのころから急に創作意欲に火がついたらしい。この一年半の間に、複数の出版社から次々と短編を発表して、そのどれもが高い評価を得た。その半数以上を扱った私の勤め先が、近く、ハードカバーの短編集を刊行することになっている。
それは、ほぼ右も左も分かっていない新人というおよそ似つかわしくない時期で、彼の担当に指名された私の、初めての形に残るまとまった仕事でもあった。
もちろん、それが自分の実力によるものだというみっともない勘違いはしていないつもりだ。
編集部の先輩たちはみんな心配して、陰でサポートしてくれていた。
界隈では「リョウト先生」は気難しいので有名だった。私が彼の希望で抜擢された噂を聞いた他社の編集者などは、いびりやすいから新人を指名したんじゃないか、とか、見た目が好みだったから目をつけたんじゃないかとか、それが本当ならパワハラやセクハラだろうとツッコミを入れたくなるようなことまで言っていたらしい。
だが、結局のところその芳しくない評判も、彼の作品が立て続けに発表され、そのどれもが高いクオリティだったことで、自然と立ち消えた。結局、新人編集者のできることなんて、ほとんど、編集部と作家の間の使い走りに毛が生えた程度のことばかりだったというのに、逆に、私に『猛獣使い』の異名までつけられてしまったのは心外なのだが。
単行本にまでこぎつけられたのは、先輩たちのサポートもさることながら、ぶっきらぼうで無愛想で、何を考えているかわからないけれど、とにかく必要なことは明確に要求し、締め切りは数度破りつつもデッドラインまでにはかならず原稿を書き上げて、私と私の勤め先に渡し続けてくれた、「リョウト先生」のおかげだった。
彼が昨日付けで編集部に送ってよこした原稿が、その短編集の掉尾を飾る、書き下ろしの中編なのである。
そして、これが、私が彼の作品に携われる、最後の仕事になるはずだった。
それを決めたのは私自身だ。それでも、そう思うと、切られるような寂しさを胸の奥に感じた。