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4 カラスと陰口――――菱人

 再会した瞬間に、すぐにわかった。

 名字は変わっていたけれど、その顔、仕草、声。もちろん、佐知子、という名前も。


 彼女は隣の家に住んでいた、小さな女の子だ。祖母のお気に入りで、しょっちゅう家に入り浸っていた。一時期、彼女の母親に頼まれて家庭教師のアルバイトをしていたこともある。


 気が合う遊び相手というにはあまりに年が離れていた。だが、彼女は勘がよくて口が達者だった。からかっても、すぐに泣いたりしないで、反抗心丸出しで言い返してくる。精一杯自分を大きく見せようとしている小型犬みたいで面白い。教えたことはすぐ覚える飲み込みのよさも、構い甲斐があった。


 でも、今にして思えば、一番印象に残っていたのは、時折彼女が見せる小学生とは思えないほど激しい眼差しだった。


 一度、学校帰りの彼女の後を追うように、小さな猫がついてきてしまったことがあった。ひどくやせて、毛並みも悪かった。何らかの事情で母猫とはぐれたか、育児放棄されてしまった仔猫だろう。


『家では飼えないんだよ。お父さんが猫嫌いだから』


 半泣きで繰り返し猫に言っていた姿を思い出す。ちょうどこちらも学校帰りだった俺は、困り顔で必死に猫に話しかけるサチがちょっと面白くて、あえて声をかけずに少し離れて後ろを歩いていた。


 当惑したような彼女の様子が豹変したのはその次の瞬間だった。


 さっと黒い大きな影が一人と一匹の上に急降下したのだ。


 彼女はとっさに仔猫におおいかぶさって、かばった。

 狩りを邪魔された大きな黒い鳥は、があとしわがれた声をあげて、サチに向かって威嚇するように大きく羽を広げた。


 営巣期のカラスだ。気性が荒い。俺が慌てて追い払おうと駆け寄ったときだった。


『この時代遅れのごみ袋鳥めっ! 黒なんてもうとっくの昔に違法なんだから! あんたの胃袋なんかに、この子は絶対に入れさせないんだからね!』


 立ち上がって大声で無茶苦茶な啖呵を切ると、サチはとっさに取り出した棒のようなものを両手で握って、先端をぴたっとカラスに向けた。見様見真似の正眼の構えか。サチだって怖いだろうに、その姿勢からは、一歩も引く気配は見えなかった。


 カラスもまた引かなかった。再び、大きく翼を広げた。


『うわあああっ! あっちいけーっ!』


 サチは叫んで、手に持った何かを振り回した。


『サチっ! 危ない!』


 カラスを刺激したら、手ひどく攻撃される危険がある。

 俺は手に持っていた通学かばんを振りかざして、急いでサチとカラスの間に割って入った。


 割り込んできた俺の顔とサチの顔、背後の仔猫。カラスはそのずる賢そうな眼差しで、等分に眺めたように感じられた。冷静に計算したのだろう、多勢に無勢を悟ったように、漆黒の鳥はちょんちょんと後ろに跳びすさると、バサッと翼を羽ばたかせて飛び去った。


『大丈夫か』


 俺が振り返ると、サチは地面にぺたんとへたりこんでいた。


『怪我ないか』


 尋ねた俺に、彼女は左手を差し出した。


『擦りむいた。血が出た』


 小指の第二関節あたりに、小さな擦り傷ができている。


『カラスか?』

『違う。猫を守ろうとして、そこのブロック塀にこすって……』


 最後まで言いきれずに、サチは、うわああん、と声をあげて泣き出してしまった。

 ついさっきまで勇ましく大きな野鳥に立ち向かっていた女の子とは思えない。でも、少しだけ、わかる気がした。

 とっさに身体が動いてカラスに対抗したものの、怖くて仕方なかったのだろう。一難去って、緊張の糸が切れたに違いない。


 サチの右手にぎゅっと握られていたものに、そこでようやく俺は気がついた。それは、音楽の授業で使っているとおぼしきリコーダーだった。

 よくもまあ、こんな武器で立ち向かったものだ。


『ほら帰るぞ』


 そう言った俺に、サチはしゃくりあげながら首を横に振った。


『立てない』


 足に力が入らないと言う。本当に全力をかけて、戦っていたのだ。


『おんぶしてやるから、ほら』


 俺が背中を向けると、普段意地っ張りな彼女にしては珍しく、素直によじ登ってきた。

 思ったよりずしっと重い。

 もう六年生なのだ、ということを、その瞬間に妙に意識した。


 サチをおぶって仔猫を抱えるといういささか不便な姿勢で、家までの百メートルほどを歩いた。


 驚いて玄関先まで出てきた祖母が、サチを褒め称えつつ小さな擦り傷を消毒してばんそうこうを巻くのを、俺は膝の上で猫をあやしながら見るともなく見ていた。

 目の前の女の子が、隣の家のチビさんではなく、確実に、強い意思をもった一人の人間になっていく瞬間に立ち会っているような厳粛な気持ちを抱えながら。


 猫は結局、祖母の年下の友人で、飼っていた猫をしばらく前に亡くして気落ちしていた女性が、縁を感じて引き取ることになった。


 彼女と母親が隣の家から姿を消したのは、その数ヵ月後だった。


 それから十年あまり。

 すっかり大人になって、彼女は俺の前に再び姿を現した。


 ある雑誌の創刊何周年かの記念に行われた立食パーティーで、文芸出版部の編集長の後ろに付き従って挨拶にきたのだ。顔を見て、あれ、と思った。その瞬間はそれでも半信半疑だったが、編集長が、うちの部の新人です、と紹介してくれた。彼女は緊張しきった様子で、上司に倣うようにぴょこんと頭をさげ、名刺を差し出した。それで名前を知って、ひょっとしてという予想は、確信に変わった。

 だが、名刺は受け取ったものの、個人的な会話を交わす余裕など、そのときにはなかった。


 そのパーティーの席上でたまたま、編集長から当時担当だった編集者が退職することを聞かされた。サチを見かけた直後だった俺は、何気なく少し離れたところで何か作業をしていた彼女を指差したのだった。


『後任、彼女はどうですか』


 編集長は驚いたようだったが、旧知の仲だと言うのは俺も何となく照れ臭くて、知らぬ振りを押し通した。

 サチが自分から話してからでもいいだろう。

 だがその後、パーティーの席上で、俺は少々不愉快な会話を小耳に挟むことになる。


『文芸出版部の新人見たか。カーリーヘアの女の子』


 背後からふいに、その声は耳に飛び込んできた。即座に、サチのことだ、と気がついた。

 少々下衆な笑い声が応じる。


『向月社が顔で採る方針にしたのは意外だったなあ。ハーフだろ』


 サチは九州出身だという母親譲りの、健康的な小麦色の肌に彫りの深い顔立ちをしていた。子どもの頃、右輪佐知子と名乗っていた時から知っている俺はそのときまで意識していなかったのだが、確かに、名刺に印刷されていた、『デラフエンテ佐知子』という名前とセットになると、まるでラテン系外国人と日本人の両親の間に生まれた子のようにも見えるのだった。


 それにしても、ダイバーシティに人一倍敏感であるべき出版業界で仕事をしながら、未だに『ハーフ』なんて言葉を使う人間がいるなんて、と、むっとしかけたところで、俺はさらに耳を疑う発言を聞く羽目に陥った。


『意外って言うかさ。どこでも一人くらいは必要なんじゃないの、顔面要員。あの子ならスタイルもいいし、多少気むずかしい作家でも鼻の下を伸ばすんじゃね』

『美人は得だよなあ。仕事できるかどうかじゃないもんな』


 違いない、と笑う声が重なった。気の置けない親しい間柄で話していて、気が緩んだのだろう。こっそり振り返ると、男ばかり数人のグループだった。そのうちの一人は、以前どこかの雑誌社で顔を会わせたことのあるフリーライターだと気がついた。一緒にいる人間も雰囲気が似た面々ばかりだった。フリーライター仲間といったところか。


 次の瞬間、俺は先程の自分がしでかしたことの意味に気がついて肝が冷えた。


 つまり俺が、何の実績もないサチを担当に指名すれば、サチはこういう勘繰りを受けるということなのだ。実力もないのに、見た目で仕事にありついた女。俺が、彼女とは旧知の関係なのだと言ったところで、それは何の益にもならない。実力もないのに見た目とコネで仕事にありついた女、になるだけだ。

 彼女の美貌は確かに他人の目を惹くものだった。それが手の届かないものであるとなれば、異性同性を問わずやっかみ混じりの視線を向けられそうなほど際立っていた。本人にその自覚は一切なさそうだったが。


 いっそ、編集長にもう一度話して提案を撤回しようか。


 そう思いもしたのだが、それもまた癪だった。


 あの、カラスに立ち向かっていたサチの瞳を思い出す。

 彼女があの瞳をまだ持っているなら、きっと、いい仕事をするはずだ。そして、一瞬顔を合わせただけではあったが、その賭けは決して分が悪いものではないように思われた。


 だが、万が一にも、色仕掛けだとかコネで引き立てられたとか周りから思われるのはまずい。彼女のキャリアは今やっと始まったところなのだ。変な色眼鏡で見られるスタートから巻き返すのは大変な労力が必要なはずだ。そんな逆境に置かれたところで、サチならいつかきっとやり遂げるにせよ。


 彼女が自分で周囲の人間に言うならそれは構わない。だが、俺の方から旧知の関係を匂わせることも、彼女を特別扱いしていると思われそうなことも一切するまい、と、そのとき俺は心に誓ったのだった。そしてそれ以外で、彼女が悪評の被害を被らないために俺に出来るのは、なるべく質の高い作品を、彼女を通じて向月社に渡し続けることだけだった。




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