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3 遠い記憶――――佐知子



 見覚えがある、どころか、いまだに身体に染み付いている道順を駆け抜けて、私は目的の家へと走った。


 背後から、雨の降り始めに感じる独特の匂いとも気配ともつかないような空気が追いかけてくる。

 抱えた袋からは、走るごとにふわり、ふわりと桃の甘い香りが立ち上ってくる。


 額に汗がにじんでくるのを感じる。

 ああ、夏だ。

 そんな、どうしようもない感慨が浮かんだ。


 私の心はいつしか、あの夏に戻ってゆく。


 いつも桃を剥いてくれる優しい手には、深い皺が刻まれていた。

 低く穏やかな声。


『好きなだけ食べなさい。若い子はたんと食べないと』


 その同じ言葉に背中を押されて、はち切れそうなほど素麺を食べた後でさえ、数切れの冷たい桃がするりと胃の腑に収まっていくのが、不思議だった。

 あの素麺。もう、何年も食べていない。つけ汁に茄子と油揚げが入っていて、刻んだ茗荷と葱を浮かべて麺をつけると、いくらでも食べられそうなくらいおいしかった。冷蔵庫に入っていためんつゆは、母がいつも買っているものと同じ銘柄だったのに、自分で作ろうと思い立って何度やってみても、あの味は作れなかった。


『俺、桃よりスイカが好きなんだけど』


 ふてくされたような言葉と裏腹に、私の倍以上の桃をひょいひょいと口に運ぶ長い指のことも。その、指についた果汁をぺろりとなめとる行儀の悪い仕草も、昨日のことのように思い出せる。


『ずるい。リョウトばっかり、五切れも食べて』


 半泣きの私に、からかうような余裕綽々の笑みを向けてくる六歳上の彼は、途方もなく大人に見えた。当時私は十一歳。彼は高校二年生だったはずだ。今から思えば、彼だって十分にお子様な年齢だったのだが。


『悔しかったら、サチもさっさと食べたら良かったじゃん』


 そう言われて、悔しくて悔しくて、地団駄を踏んだのを覚えている。


『違うもん。あたしが食べたいんじゃないもん。リョウトがおばあちゃんとカズ兄の分まで食べちゃったから怒ってるの!』


 皿にはもう、たった一切れしか残っていない。


『何だよそれ。兄貴は『カズ兄』で、俺は呼び捨てとかなめてんだろ、サチ』


 彼は険悪な色を瞳にうかべて言った。

 返事もせずにぷいっとそっぽを向いた私に彼は苛立った口調で重ねた。


『だいたい、リョウトじゃねえだろ。先生って呼べよ』

『うるさいっ。家庭教師はカズ兄が良かった。だって、リョウトはすぐ怒るんだもん! 桃だって本当は好きなくせに、おばあちゃんに文句ばっかり言って』


 売り言葉に買い言葉で言い返した私の頭を、優しく撫でてくれたのは、ほんのり桃の香りがする、あの皺だらけの手だった。


『いいんだよ、さっちゃん。桃はちゃあんと、二つ買ってあるんだから。おばあちゃんは、カズトが帰ってきたら一緒に食べるから、さっちゃんが欲しかったらこの桃は食べちゃいな』


 そう言われて、さすがに無理だったのでそう言ったら、おばあちゃんもリョウトも大笑いした。また子ども扱いだ。悔しくて涙ぐんだら、おばあちゃんは、今度は私の頬をそっと撫でてくれた。


『さっちゃんは優しいね。かわいいほっぺたは、綺麗な桃色。本当に桃みたい。こんな素直じゃない憎まれ口を叩く男ばっかりじゃあ、おばあちゃん、つまんないよ。女の孫も欲しかったねえ。さっちゃん、おばあちゃんの孫にならないかい』


 そう言ってくれたのが嬉しくて、二つ返事でうなずいたのを覚えている。


『なるなる! 約束ね。おばあちゃんは、サチのおばあちゃん!』

 

 そう言うと、おばあちゃんはぎゅっと抱きしめて、ぐりぐりと私の頭をなでてくれた。


『よし、さっちゃんはいい子だねえ。じゃあ、さっちゃんの先生は、リョウトでもいいかい。おばあちゃんに免じて許してあげてよ』

『もう。しょうがないなあ。よろしくね、リョウトセンセ!』


 私の生意気な軽口に、リョウトがいーっとしかめっ面をしたのも、もう十年以上も前なのに、昨日のことのようだ。


 あの頃の私にとって、お隣のおばあちゃんとリョウトとカズ兄は、実際の家族よりも家族のような存在だった。いつも憎まれ口を叩いていたけれど、リョウトが実にこまごまと私の世話を焼いてくれていたのも、本当はそのときにもう、ちゃんと知ってもいたのだ。それを認めるのが癪だという反抗心から、素直にお礼が言えなかっただけで。



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