2 賭け――――菱人
『これから桃を買って、お宅まで伺います』
電話の向こうに軽く相づちを打って受話器を置いた直後、遠雷が聞こえた。
居間を横切って窓を開け、少し身を屈めて軒端を避けるように空を見上げると、真っ黒い雲が南西の空から急速に広がってきていた。
ひどく落ち着かない気持ちになった。
彼女をここに呼んだのは、ほんの気まぐれがきっかけだった。
どうして、こんなことになっているのか。
そう。始まりの一言は、本当に、衝動的だったのだ。
俺はあの日のやり取りを思い返していた。
◇
周囲の無関心なざわざわした空気が心地よかった。いつも打ち合わせに使う、出版社の最寄り駅前の昔ながらの純喫茶は、八割ほどの席が埋まっていた。
『先生、新作は』
『ほぼ完成している。ここにね』
こめかみを指差した俺に、担当編集者はため息をついた。ふわふわした癖毛が、大げさな肩の動きにつられて柔らかく揺れる。
田舎に住んでいると刺激が少ない。打ち合わせの機会に、町中へ出るのが気分転換になるからと、編集者とはなるべく、会社の近くで会うようにしていた。
最も、彼女に限って言えば、自宅付近に呼び出したくない理由は、他にあったのだけれど。
『まだ、原稿用紙には降りてきていらっしゃらないのですね』
彼女は若手だが、キレがよくて察しのいい子だ。物怖じもしない。旧知の編集者の助手だった当時新人の彼女を、渋る編集長を押し切って自分の担当に付けさせた。その判断自体を後悔したことは未だに一度もない。反省したことならあるけれど。
『お約束は来月の十五日でしたが』
念を押すように首をかしげる彼女は、困ったように眉尻を下げていた。
『そこまでに、初稿は上げるよ』
『お待ちしています。必要な資料や取材がありましたら、手配しますのでいつでもお申し付けください』
几帳面に揃えられた机上の手帳と万年筆に彼女は手を伸ばした。スケジュール管理も連絡もスマホやPCで済ませる時代になったが、彼女は今でも紙の手帳に色々なことを書き留めている。とにかく手帳に記録して、そこからスマホに清書するのだという。
きれいなピーチベージュに塗った形の良い爪と、左手の小指のあたりにくるっと巻かれたばんそうこうがなんともミスマッチだった。
『ケガ?』
指さして尋ねると、いたずらを見つかってしまった子どものようにばつの悪い顔になった。
『かすり傷です。転んだときに手をついて、引っかけてしまって』
指を曲げて隠そうとする。その仕草を見ていると、喉のあたりが妙に乾いたような、いても立ってもいられない気分になった。
『賭けをしようか』
不意に、そんな一言が口をついていた。
『とおっしゃいますと』
『俺の初稿が間に合わなければ、とっておきをプレゼントしよう』
俺が懐から出して机に置いた万年筆と、俺の顔を、彼女は交互に見た。怪訝そうに眉根を寄せている。
<王弟>。イギリスの老舗文房具メーカーが、創業当初から看板商品にしている万年筆の名品だ。
『では、先生の初稿がお約束通りに上がったら?』
『君のポケットマネーから、桃を二つ』
彼女は口をへの字にして考え込んだ。
『そもそも、お約束の通りであれば私は仕事として期日に原稿をお預かりできるはずです。大人と大人の契約ですよ。私のポケットマネーは関係ありませんよね』
当然の理屈である。
『だが俺は子どもなんだ。だからこれは、仕事の話じゃない。俺個人と、君個人の対等な賭けだよ』
『対等とおっしゃるには、賭ける額が違いすぎませんか』
『俺は知っているんだよ。君の会社の給料日はだいたいで二十二日。給料日ほんの一週間前の君の財布から出す桃二個分の代金と、もう俺の手元にあって、これがなければ原稿が書けないというわけでもない、俺にとってはお気に入りだが代えのきく万年筆。対等な賭けと言っていいんじゃないかなあ』
彼女は駆け出しの社会人だ。かたや俺は、大学在学中に何気なく書いて投稿した小説が、ある文芸雑誌の新人賞を取って、それがひょんなきっかけからWEB公開の映画になって以来、とんとん拍子に恋愛小説家への道を歩み出してしまった。二人の間に、六歳という年齢の差以上に経済力の差があるのもまた、事実なのだった。俺自身がそこまでの成功を望んだわけでもないので、居心地が悪いポジションではあったが。
『何だかこじつけっぽくないですか、その説明。しかも、その賭けの勝ち負けはリョウト先生の原稿の進み具合次第で、私にできることは何もありません。先生に一方的に有利です』
『そうとも言えるかもしれない。だが、俺の締め切り破りの実績に関しては君が一番よく知るところだ。俺がいつも通り最初の締め切りに間に合わなければ君は万年筆を手に入れる。珍しく間に合えば、桃を買うことにはなるけど、君の手腕はちゃんと編集長にも評価される。そんなに悪い話ではないと思うけれど』
彼女はむうと渋面を作ったが、やがてうなずいた。
『それで原稿に集中するお手伝いになるのなら、桃二個なんてお安いものです。謹んで乗らせていただきます』
俺はきっちり初稿を仕上げて、締め切りの前日に彼女の会社に届くよう、コピーをバイクメッセンジャーで送った。それから、彼女の会社用のメールアドレスに、締め切り当日、自宅まで賭けの桃を持ってくるようにとメールを送ったのだった。
締め切りは二度伸ばしてもらうもの、締め切りまでは脳内で構想を練る期間、と、どの出版社の担当編集者にも思われてきた俺が、締め切りの前に原稿を送ったのは、これが初めての経験である。
彼女は、最寄り駅に着いたとき、律儀に、自分のスマホから短い連絡をよこした。
それがさっきの電話だ。
サチ。
君は、いつも一瞬だけ物言いたげに俺を見て、それから、プロの編集者の顔で仕事をこなした。決して過去のできごとに触れることはなかった。
君にとっては、あれはもうどうでもいい、ただの古い記憶になっているのだろうか。
それとも、まだ君は――――。