12 エピローグ 雨上がりの夕空――――佐知子
二人でわーわー言い合いながらどうにかタオルとドライヤーを使って乾かした、まだ少々湿っぽいスーツをもう一度着て、私はその古い家を出た。
そのままお暇するつもりだったのに、当たり前のようにリョウトも雪駄をつっかけて玄関の引き戸に施錠すると、私に並んだ。普段履きが雪駄って、文豪か。
「駅まで送る」
ぶっきらぼうに言われて、うなずく。本当に、あの頃のままだ。
「さっきの話だけど」
「さっきの?」
「漬物石」
思わず赤面してしまった。もう、雨に降られてからは勢いで、なるようになれ、と、普段だったらまずしないような行動、言わないようなことを言った自覚はある。そのくらいの思い切りがなければ、多分、超えられなかった壁ではあるけど。
「ゆっくりでいいだろ。サチの言ってくれたことは正直すごく嬉しいけど、お前が記憶の中で俺を空前絶後に美化していて、改めて一緒にいてみたら思ってたのと違う、ってことだってあるかもしれない」
「うーん」
こちらは一年半、そのつもりで見てきた。それはないと思う。でも、リョウトにはリョウトの気持ちの動きがあるだろう。
「こっちは、サチより6つもおっさんだしさ。学生のうちからこんな仕事していて、社会常識とかあんまないし。仕事じゃなくて会ってみたらがっかりするかも」
ちょっぴり照れくさそうに、そっぽを向きながら言う。
「そういうこと気にするんだ」
「書いてる本と本人の中身は全然違うし」
ふきだしてしまった。確かに。どこか暗い影を秘めつつも、ちょっぴり自堕落で甘え上手でわがままなヒーローは、すごく魅力的だけどリョウト本人とはあまり似ていない。
「どっちかっていうと、カズ兄みたいな人だよねえ」
「やっぱバレてたか」
リョウトは苦笑して肩をすくめた。
「今までできなかったことを一つずつ一緒にやっていって、それで友だちがちょうどいいって思えばそれでいいし、でも、そうじゃなければ」
彼はそこで言葉を切った。
ちらっと横目で見ると、ものすごく困った顔で、口元に手をやっている。頬が赤い。
うん。この『そうじゃなければ』は、前向きに聞いておいていいやつだよね。
「じゃあ、したいことがある」
「何?」
「北海道から戻ってきたら、おばあちゃんに会いに行きたい。今まで会いに来られなかったことを謝って、それから」
リョウトは首をかしげた。
「それから?」
「ナスと油揚げのおそうめんの、麺つゆの隠し味を知りたいの。どうやっても再現できなくって」
「出た、食いしん坊」
リョウトは軽く身体を折るようにして肩をふるわせた。大声で笑うことがめったにない彼の、最大限の笑いの表現なのだ。
懐かしくて、嬉しくて、胸がいっぱいになりそうだ。
「俺もあるよ、したいこと」
今度は私が首をかしげる番だった。
「高校生みたいだけど。朝霧ユニコーンランド、一回ちゃんと一緒に行っておきたい。ユニランも他の遊園地も、あの時行けなかったのにって思っちゃうからどうしても気が進まなくて、ずっと避けてたけど、遊園地のシーンもそろそろ書けるようになりたいんだよなあ」
何かのインタビューで苦手なものを聞かれて、遊園地と答えていたな、と思い出した。
あれって、そういう意味だったのか。
そんな風に思っていてくれたのか。
それだけで十分だ、と思った。十一年の前の私に言ってやりたい気がした。
一人じゃない。それがどんな形でも、リョウトは心のなかに私の場所をずっと作ってくれていた。
「大事に想ってもらうって、嬉しいものなんだね」
へらへらと緩んでしまった頬を押さえつつそう答えると、彼はものすごい勢いで私を振り返った。
「ば、おま……」
わあ。耳まで赤い。私はくすくす笑った。
「さすが、リョウト先生。ロマンチスト」
家並みを抜けて、先ほどは雨の中、必死で駆け上がった階段のところまできた。
南東向きに開けた視界には、もう、雨雲もすっかり去って洗いたての夕空が広がっている。紫がかった青の天に、少しちぎれたように残った綿雲は、桃のようにほんのりと残照で染まっていた。
街並みの家々には、明かりが次第に灯りはじめている。
「ロマンチストだと言われようがなんだろうが、俺には俺のペースとやり方があるんだ」
ふてくされたような口調で、私より一歩先に階段を下りながら彼が言う。
「だから、ここから始めていいか」
彼は一段下の階段から、振り返ってすっと私に手を差し出した。
「おかえり、サチ。帰ってきてくれて、本当に嬉しい」




