垣根の上に立つ 二十二
クリストフ・ボルツは王都警察附属病院に入院していた。
ジョゼフによってつけられた切り傷は思いのほか深く、医療魔術によって止血はしたとはいえ、何十針も縫われ、医師から絶対安静を命じられていた。
このため、取り調べは事件から十日も経ってからようやく行われた。
セイラムもその前日にようやく引き籠りをやめたため、この取り調べに立ち会うことができた。
取り調べ立ち合いの当日、リオン伯爵邸でひと悶着があった。
なんと、余計な気を回したウォルクがセイラムにドレスを用意していたのだ。
セイラムの母、マリー・ローズが着ていたもので、象牙色のドレスの上にブルーグレーの上着を合わせたものだ。派手過ぎず地味すぎず、飾りも少なく動きやすい。
だが、セイラムは全力で断った。
ドレスを着ることを断固拒否し、いつもの服を用意させる。
謝りつつもどことなくほっとした表情で、ウォルクはすぐに男性用の衣服を用意した。
しわ一つない白いシャツ、深い緑色のネクタイ、暗いブラウンのベストに黒の上着とズボン。ダークグレーのコート。
多少サイズが合わなくとも、いつもの格好でセイラムはウォルクとゼアラルを従えて馬車に乗り込んだ。
ゼアラルはにやにやしながらセイラムを見ている。
「何か言いたいことでもあるのか?」
イライラしながら聞くと、ゼアラルはますますにやにやを深めた。
「何故ドレスを着ないんだ、お嬢さん?」
「そんなに殴られたいのか?」
セイラムは拳を握り締めたが、ふとある考えが頭を掠めて拳をほどいた。
「ゼアラル、一つ聞くが、お前が出会った時からずっと、何度文句を言っても僕のことを『お嬢さん』と呼び続けていたのは、もしかして僕が本当は女だということを知っていたからなのか?」
そう尋ねると、ゼアラルはにやにやではない普通の笑顔を作った。
「大正解」
セイラムはしかめっ面になった。それはもう盛大に、綺麗な顔を歪めゼアラルを睨みつけた。
「くそっ」
笑みを深めたゼアラルは実に愉快そうに爆笑した。ウォルクはゼアラルの脇腹を肘で小突いて笑うのを止めさせる。
「いい加減にしろ。それより、セイラム様が本当は女だということを知っていただと? 何故わかったんだ?」
「俺ほどの存在であれば、見ればすぐにわかる。あの娘のところの一角獣には分からんだろうが」
一角獣とはディアーヌと契約している高位精霊のアエスのことだ。
アエスほどの精霊にも分からないことがゼアラルには分かる。その事実は、ゼアラルがそんじょ其処らの精霊とは違うということを示していた。
セイラムは深い溜息をついた。なんだかものすごくイライラするし、まだ朝なのに疲れを感じる。
それがゼアラルのせいなのか、それとも突然の身体の変化から来るメンタルの不調なのか、わからないまま馬車は王都警察附属病院に到着した。
クリストフ・ボルツの取り調べは彼が入院している病室で行なわれた。
ベッドと机、椅子が一脚、それと小さな戸棚があるだけの簡素な部屋で、バート警部とスパイサー刑事により取り調べが行なわれ、セイラムと司法大臣であるハンゲイト侯爵が立ち会った。
魔術師否定派であるハンゲイト侯爵が立ち会うことで厄介なことになりはしないかと内心ヒヤヒヤしていたが、意外にもハンゲイト侯爵は静かだった。
セイラムが女性に変化していることに気付いた時は、さすがに動揺していたが。
「リオン伯爵!? こ、これは一体……?」
「……色々と複雑な事情があるので、後で説明します。とりあえずボルツ、お前、余計なことをしてくれやがって……」
その一言でボルツは何かを察したのだろう。すまん、と素直に頭を下げた。
取り調べは思っていたよりもスムーズに進んだ。
ボルツは静かに自分の過去を語り、何故犯行に至ったのかを語ってくれた。
三百年前の魔女狩り。奪われた恋人。魔術師否定派が勢力を拡大していることへの危惧。
途中セイラムが、ボルツが何者かによって洗脳、あるいはそれに近い状態だった可能性について話す。
それを聞いてバート警部もハンゲイト侯爵もかなり難しい顔になった。
一通りの取り調べが終わり、セイラムはハンゲイト侯爵と共に病室を出る。
二人並んで歩きながら、疲れたのかハンゲイト侯爵は深い溜息をついた。
「……三百年も前の怒りを今ぶつけられても困るんだがな」
「同感です」
そこは素直に同意する。自分が生まれてもいない時代の責任を負わされても、知るか、としか言えないし。
「ところで、リオン伯爵。そろそろ教えてくれないかね、何故女性になっているのか」
厳しい顔だ。
ハンゲイト侯爵は否定派なだけあって魔術が嫌いだ。かつて魔術師のせいで故郷を破壊され、甚大な被害が出たためなのだが、今はセイラムのために怒っているようだった。
複雑な人だ、とセイラムは思う。
魔術に関わる全てを嫌ってくれたら、彼のためにも楽でいいのに、魔術と関係ないところでは普通に接してくれるのだ。
そして今も、セイラムの身に尋常ならざることが起きたことを純粋に心配してくれている。
「話せば長くなりますが……」
と前置きして、セイラムは話せるところだけ簡単に話した。
即ち、本来女性として生まれたのだが、魔術関係のちょっとした問題のせいで性別を男に変えられたため男として育ち、先日、自分に魔術がかけられていることを見抜いたボルツが純度一〇〇パーセントの善意からその術式を解いてしまい、女性に戻った、と。
ちなみに、同じ内容をウォルクにも話してある。セイラムが全てを話してくれているわけではないことをウォルクは見抜いていたが、色々察して何も聞かないでいてくれた。
話を聞き終わったハンゲイト侯爵はちょっと哀れんだ目でセイラムを見た。
「もう男性には戻れないのかね?」
「ええ、難しいそうです。……腹はくくりました。今後は女性として生きて行きます」
「そうか、残念だ。私の親戚の娘で君と年回りが合う者がいたのだが」
セイラムは思わず咽た。何も飲んでいないのに。
もう良い歳なのだし、親戚や付き合いのある貴族家からそういう話もいくつか来ていたが、まだ早い、と断っていた。
だが、あまり付き合いのなかったハンゲイト侯爵からそういう話が出てくるとは思ってもいなかったのだ。
「大丈夫かね?」
「え、ええ。まさかハンゲイト侯爵からそういう話が出てくるとは思いませんでした」
「ふん、心外だな。君が魔術師であるということを除けば家柄も良いし、王家とも近い間柄だし、かなりの優良物件だからな、親戚の娘にとっては」
「僕はあなたの嫌いな魔術師ですよ。生まれてくる子供にも魔力が宿るかも」
「そこが唯一の問題なんだ。だから君と親戚の娘との縁談を積極的には進めなかった。それよりも、明日の王宮での件には君も参加するのかね?」
王宮での件。
「ああ、ジョゼフ・ランベール伯爵令息の件ですね? もちろん、参加しますよ」
「そうか……皆、君を見たら驚くだろうな」
「……ええ。気が重い」
ジョゼフ・ランベールはあの後いったん王都警察本部で拘留されていたが、二日前に王宮内の地下牢に移された。明日の取り調べ――国王陛下臨席での取り調べのためだ。
ジョゼフがやったことは全て国王陛下に報告されている。ジョゼフが友人を盾にしようとしたことや、すでに戦意を失ったボルツを切りつけ重傷を負わせたこと。何より、イザベラ王女を盾にしようとしたことが問題視された。
他国の王女を盾にするなど、国際問題待ったなしだ。
現に、イザベラ王女の叔父で、駐ルビロ・バレンティア特命全権大使――バレンティア国王の実弟――であるサラザール公爵は怒髪天を衝く勢いで激怒しているそうだ。
明日、王宮には国王、王后両陛下と宰相サングラント公爵、サラザール公爵、ハンゲイト侯爵、外務大臣スカーフィア女侯爵、そしてランベール伯爵始め、今回の件に関わった問題児たちとその父親が集まることになっている。そこにセイラムも参加するのだが、彼らにはセイラムが女性になったことはまだ伝えていない。
国王陛下には報告が行っているだろうし、スカーフィア女侯爵あたりもディアーヌから聞いているかもしれないが、明日は確実に皆の度肝を抜くことになるだろう。
「そう気を落とすな。なるようにしかならんだろう」
「ええ……ありがとうございます」
そうは言っても気が重い。重いものは重いのだ。
セイラムはもう一度、こっそり溜息をついた。
***
黄昏宮。
巨大な宮殿の壁は淡い黄色、屋根は暗い紺色。ところどころに金の装飾が施されている。
宮殿は東翼、西翼、南翼、北翼と、四棟を結ぶ中央宮の五つの建物で構成されており、関係者は全員、中央宮にある広い謁見の間に通された。
集まったのはまず、ルビロ国王ハンス二世陛下とリディア・アレクサンドリア王后陛下、さらに御年十歳のルイ・シゼル・エドワール王太子殿下。
さらに宰相サングラント公爵、司法大臣ハンゲイト侯爵、外務大臣スカーフィア女侯爵。
今回の件の当事者であるイザベラ王女、ディアーヌ、エルシーとエルシーの父親であるアークレー子爵。
そして、モイーズ・ベイン、ダレル・カドバリー、アリーシャ・モランとその父親たち。
母親譲りのサラサラした黒髪のルイ王太子は、親しくしているセイラムが女性になっていることに父親譲りの碧い瞳を剥いて驚いていた。肩口で切り揃えた黒髪がはらりと顔にかかる。
「どういうことですか? なぜ女性に? もう元には戻らないんですか?」
早口で質問攻めにされ、セイラムは苦笑した。見ると、ディアーヌたちもこちらを注視している。彼女たちは、セイラムが女性に変化したことはその場にいたため知っているが、それ以上のことはまだ知らないのだ。
「後で説明いたしますよ、王太子殿下。一つだけ言えるのは、もう元には戻らないということ、それだけです」
そう言うと、ルイ王太子は悲しげな顔をした。
「気にしないでください。もう腹はくくりましたから」
「そうですか……。困ったことがあったらいつでも言ってくださいね、力になりますから」
「ありがとうございます」
話していると、残りの参加者たちがやって来た。
まず、駐ルビロ・バレンティア特命全権大使であるサラザール公爵が駆け込んできた。
イザベラ王女とどこか似通った顔立ち。黒髪に小麦色の肌、口元には立派な鬚。背が高く、身体もよく鍛えられている。
次にやって来たのは、証人として手錠を付けられたクリストフ・ボルツ。
さらに、セイラムがパブで出会った青年、元ランベール伯爵邸の使用人ロリー。
彼は伯爵邸を辞めた後、新しい仕事を探して職業安定所に通っていたところを今回呼び出された。王都警察の刑事たちが自分を迎えに来たことでかなりビビっているようだ。
そして、ジョゼフ・ランベール伯爵令息とその父親。
ランベール伯爵は青ざめた顔で、大人しく警察官――バート警部とスパイサー刑事――と衛兵に先導されているが、ジョゼフは明らかに苛立った顔だ。手錠をかけられていることや地下牢に入れられたことに対して怒っているのだろう。
まだ自分の立場を理解できていないようだ。
全員が揃ったところで代表してイザベラ王女が、今回の出来事を説明する。ディアーヌとエルシー、セイラムは、差し出がましくない程度にところどころを補足した。
途中、怒ったジョゼフが何度も口を挟んできたが、全て国王が一蹴し、イザベラ王女に最後まで話をさせる。
全てを聞いたハンス国王は頭を押さえて深ぁい溜息をついた。リディア王后とルイ王太子も同様だ。
サングラント公爵は冷静に何かを考え、サラザール公爵は怒りに震えていた。
次に、国王はジョゼフにも今回何があったのか説明させたが、支離滅裂かつセイラムやディアーヌらを罵る言葉と自分を正当化させる言葉ばかりで、とても事実を話しているとは思えなかった。
「まず」
国王はこめかみを揉みながら口を開いた。
「ジョゼフのやらかした問題は、婚約者がありながら他の女性といい仲になり、その婚約者を一方的に悪人に仕立てて婚約破棄を迫り、慰謝料などを取ろうとしたこと。それから、クリストフ・ボルツに襲われた時にイザベラ王女を盾にしようとしたこと。そして、既に投降し、戦意を喪失しているクリストフ・ボルツに攻撃し、重傷を負わせたこと。この三つ、だな?」
「いえ、一番重要なのが抜けています。王位継承権を持たないのに次期国王だなどと法螺を吹き、貴族の風上にも置けぬほどの傍若無人な振る舞いをし、イザベラ王女殿下にも無礼な振る舞いをしたこと。この四つです。ちなみに、ジョゼフの妄想を助長させたのはそこにいるアリーシャ・モラン、モイーズ・ベイン、そして、ダレル・カドバリーです」
セイラムの補足にハンス国王は再び深ぁい溜息をついた。