垣根の上に立つ 二十一
「きっと変えられる。君と俺なら。世界も……何もかも」
セイラムは懐かしい声を聞いた気がして目を覚ました。
眼裏に過る在りし日の姿。ゆるく波打つ漆黒の髪、星空のような煌めく瞳。
床に倒れ伏すセイラムの両親の向こうで満足げに笑う幼馴染。
それらの光景を記憶の奥に押しやり、セイラムはベッドに寝たまま周囲を見た。
自分の寝室だ。
窓のカーテンの隙間からは明るい陽光が差し込んでいる。最後の記憶が早朝のまだ暗い時間だった。今はその数時間後の昼間なのか、それとも丸一日眠っていたのか……?
起き上がって首を振る。なんだか身体が熱っぽいし、だるい。ひどく疲れているようだ。
ベッドから降りようとしてセイラムは違和感を覚えてよろめき、尻もちをついた。
「っ痛ぅ……あれ?」
いつもと身体の感覚が違うことに気付く。
何だかいつもよりベッドが大きい気がする。
だから足を降ろした時、床との距離を見誤ってよろけたのだ。
セイラムは自分の身体を見下ろした。
すぐに違和感を覚えて立ち上がる。
部屋の隅にある姿見の前に行き、かけてあった布を払い落とした。
鏡に映る自分の姿は昨日までとは違っていた。
髪が淡い金色に変化している。
元から細身だった身体が更に細くなっている。
更に、どこか丸みを帯びているように思える。
セイラムは自分の手を見た。
昨日までは華奢に見えても骨ばった男の手をしていた。それが、白魚の手と呼んでも差し支えないような、白く滑らかな手になっている。
セイラムは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
慌てて自分の全身をまさぐる。
ないはずのものがあり、あるはずのものがない。
セイラムは絶叫した。
「セイラム様!」
悲鳴を聞いていの一番に飛び込んできたのはウォルクだった。
鏡の前で呆然としている主を何とかベッドに座らせ、続いて飛び込んできた家政婦のマチルダに温かい紅茶を用意するように頼む。
「セイラム様、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか! ボルツは一体僕に何をしたんだ!」
パン、と手を叩く音がしてセイラムとウォルクは振り返った。
振り返った先――部屋の入り口に豪奢な赤の巻き毛の美女、紅炎の魔女クリムゾニカ・ケストナーがいた。
「……クリムゾニカ? 何故ここに……?」
呆然とするセイラムの元に、クリムゾニカはヒールの音も高らかに近寄ると、じっと見下ろした。
その顔は無表情のように見えるが、どこか悲しむような、懐かしむような、複雑な色をしていた。
徐にクリムゾニカは手を伸ばし、セイラムの髪を撫でた。
「……オスカーと同じ色ね」
オスカー。
セイラムの父親の名前だ。そう言えば、父もこんな髪色をしていた。
「クリムゾニカ」
セイラムは真っ直ぐ師匠を見上げた。
「僕にいったい何が起きたのか、教えてくれないか?」
「もちろん。でも、長くなるわ。まずは着替えて、何か食べたら? あなた、丸一日眠っていたのよ」
では今は翌日の朝なのか。セイラムは納得して頷いた。
すぐにウォルクが着替えを用意する。だが、その手伝いは紅茶を持ってきたマチルダに任せて自分は出て行ってしまった。
「……? ウォルク?」
頭に疑問符を浮かべるセイラムに、マチルダは困ったような顔で言う。
「今セイラム様は女性なんですよ。さすがに男であるウォルクさんが手伝うわけにはいかないでしょう?」
「え……あぁ、そうか」
寂しい、と思った。
急に態度や扱いを変えられたことが無性に寂しいと感じた。
マチルダに洗顔を手伝ってもらい、シャツを着る前に胸にさらしを巻いてもらう。
クリムゾニカほどのボリュームはないが、今までなかったものがあるというのはかなり邪魔だし戸惑う。
そして、股間にあったはずのものがないのもショックが大きい。
ぐるぐると落ち込みながらズボンを履き、タイを締めてベストと上着を着る。
「……やはり、サイズが合いませんね」
「そうだな。身長はさほど変わっていないのに、肩幅や腰回りがこんなに違うのか」
ズボンのウエストはゆるゆるだし、肩回りもぶかぶかだ。ついでに言うなら、シャツも袖が余っていて、ともすればいわゆる萌え袖のようになりそうだ。
「仕立て直しが必要ですね」
「いや、まだ元に戻れないとは決まってない。しばらくは様子見だ」
着替え終わるとすぐに食堂に降りる。
席に着いてふと時計を見ると、午前九時を回ったところだった。
食欲がないためスープだけを出してもらう。
ことことと野菜を煮込んだスープはチキンの出汁が効いていておいしかった。
セイラムが食べ終わるのを見計らって、クリムゾニカが姿を現し、給仕をしていたウォルクに紅茶を二つ、セイラムの部屋に持ってくるように命じた。
「ここから先はあなたと私、二人だけで話しましょう。ウォルクや他の人に伝えるかどうかはあなたが決めなさい」
「……わかった」
クリムゾニカと共に自室に戻り、ティーセットを用意したウォルクが退室したのを確認して、セイラムは口を開いた。
「説明してくれ。どうして僕が女になったのか。ボルツは、僕が知らないうちに何か魔術をかけられていた、と言った。そして、あの時僕の中から出て行った魔力は、クリムゾニカ、あなたのものだ」
クリムゾニカは先ほども見せた複雑な色の表情を浮かべながら口火を切る。
「まず、あなたは生まれた時女だったの」
「は?」
開口一番そんなことを言われて、セイラムは顎を落とした。
「女? 僕が?」
「ええ、そう。だから、女になったんじゃなくて、女に戻ったのよ」
「戻った…………」
困惑にセイラムは眉を寄せた。
「でも、僕の身体は僕の知る限りずっと男だった。それは……」
「私が魔術であなたの性別を変えたのよ。貴方が生まれたまさにその時に」
困惑と共に激しい怒りが湧きあがる。それと、微かな悲しみも。
「何故! なぜそんなことを!」
激昂して立ち上がったセイラムに、クリムゾニカは座るよう命じた。
「聞きなさい」
セイラムは大人しく着席する。
「今から話すことは国家機密レベルの話よ。ウォルクたちに伝えるのなら、そこのところもよく考えた上で伝えなさい」
その言葉にセイラムは内心首を傾げた。しがない伯爵家の自分の身に、そんな重大な秘密があるのか?
「あなたは花の魔女の末裔なの。彼女の血を引く唯一の子孫」
クリムゾニカの言葉にセイラムは頷いた。
「知っている。初代リオン伯爵ヴァレリーの母親が花の魔女なんだろう?」
「その通り。知ってたのね」
「うちの史書を読んだんだ」
「そう……」
クリムゾニカは紅茶を一口飲み、唇を湿らせた。
「花の魔女ことロザベラ・フローレンスはね、かつて精霊王とある契約を交わしたの」
「精霊王と!? 彼の神聖存在は人の前に姿を現すことはないと聞いているが……」
驚くセイラムをクリムゾニカは軽くたしなめる。
「ロザベラは世界の調和を保つための存在、調停者だったの。調停者の前になら精霊王は姿を現すから」
「なるほど……それで、その契約とは?」
その契約の内容が、セイラムの性別変更に深く関わっているのだろう。セイラムはそう勘を働かせた。
だが。
「残念だけど、契約については言えないわ。私も全てを知っているわけではないから」
「そんな……いや、わかった。では、その契約と僕の性別が変えられたことと、どういう関わりがあるんだ? あと、髪の色も」
ショックを受けたが、セイラムは即座に頭を切り替えた。国家機密だというのなら、全部話せないのも無理はない。だが、いずれは話してもらいたい。他ならぬセイラム自身のことなのだし。
「まず、あなたの身体に流れているロザベラの血。それそのものが契約書なの。そして、あなたとその契約は、ロザベラが作り出したある機構の一部に組み込まれている」
「機構……? 一体それは」
何だ、と聞こうとして、セイラムは思い出す。
――天秤の調和はいかにして保たれるか。
――彼女は実に厄介な機構を遺した。おかげで何もかもがうまくいかない……悪竜のことも、それに、精霊王も……
デュ・コロワも機構について言っていた。一体何なのだろう、機構とは?
「一体何なんだ、機構って?」
セイラムの問いに、クリムゾニカは肩を竦めた。
「それについても詳しいことは言えない。と、言うよりも、詳しいことは分からないの。ただ、機構により、リオン伯爵家には代々男子しか生まれないことになっているのよ」
「男子しか……そう言えば、史書を読んだ時、先祖の名前が全て男ばかりだったな。女性は外からうちに嫁いできた人だけだった……」
「ええ、そう。そして、『時が来れば女児が生まれる』、そう予言されていたわ。そして、二十年前、リオン伯爵家初の女児が生まれた」
そう言いながらクリムゾニカはセイラムを見た。
二十年前。
セイラムは今年二十歳だ。
「僕か」
「そう、あなたよ。でもね……」
クリムゾニカは困った顔をして頬に手をやった。
「ロザベラには敵対している存在がいたの。そいつのためにこの機構を作り上げ、自分の子孫を組み込んだ。そして時が満ち、あなたが生まれた。ただ、その敵対存在もかなり力を付けていたの。このままではせっかく生まれた女児が殺されてしまうかもしれない、そう考えた組合は、あなたが成長して十分な力を付けるまで、性別を変えることを決定したのよ。髪の色も、それはある種の目印のようなものなの。だから変えたのよ」
「力を付けるまで……」
セイラムは拳を握り締めた。
「それは、今回のことが無くても、僕が成長し力を付けたら女に戻すつもりだったと、そういうことなのか?」
クリムゾニカを睨むセイラムの瞳は怒りに燃えていた。まるで紫色の炎が灯っているかのようだ。
「そうね、そうなっていたかもしれないわ」
「……そっちの都合で僕の人生を滅茶苦茶にするつもりだったのか?」
「人聞きが悪いわね。もちろん、きちんと説明するつもりだったわよ」
「説明があったとしても、納得できない。……自分の人生を丸ごと変えさせられたんだぞ!」
「あなたの怒りはわかるわ。でもね、こちらにもこれしか手段がなかったの。貴方を守るための……」
「何が守るためだ!」
激昂したセイラムは、すぐに我に返って息を深く吸い込んだ。感情の制御は貴族にとっては必須項目だ。
セイラムが落ち着いたのを見て、クリムゾニカは言葉を続ける。
「誓っていうけど、これは本当にあなたを守るためだったの。貴方を害するつもりはこれっぽっちもなかったわ。これだけは信じてちょうだい」
「……わかった、信じよう」
ものすごく不服そうに、眉をしかめて言うセイラムに、クリムゾニカは苦笑する。
「一つ聞きたいんだが」
「何?」
「何故僕の性別を変える必要があったんだ? 危険が迫っているのなら、清幽城など、敵が簡単に入れないようなところで保護するだけでもよかったのでは?」
そう、性別を変えるなんて面倒くさいことをするよりもそっちの方が簡単だ。多少の不便を強いられることになるだろうし、セイラムは貴族でリオン伯爵家の長子だからそっち関係の方が面倒くさいだろうが。
「……それに関しても言えないわ」
再びセイラムは激しい怒りを覚えた。何なんだ、言えないって! 全部説明してくれるんじゃないのか!
だがその怒りは、クリムゾニカの心底困った、という顔を見てすぐに萎んだ。
「最後にもう一つ聞きたいんだが」
「何かしら?」
「……もう一度、僕を男に変えることはできるか?」
セイラムの問いに、クリムゾニカは静かに首を横に振った。
「いいえ、無理よ。これは生まれたばかりの赤ん坊だったからできたこと。身体が柔く脆いからこそ、私の魔力をすんなり受け入れ、身体に馴染み、変化を柔軟に受け入れられたの。今はもう無理よ。貴方は成長し、魔力がとても強くなった。今だと私の魔力とあなたの魔力とで反発が起きるわ」
それに、思春期も終わってるしね、とクリムゾニカは続けた。第二次性徴が終わった今となっては、性別変更の術式は肉体の方が強く反発してしまうのだそうだ。
「……そうか。わかった、もういい。事情は大体理解した」
口ではわかった、と言っても、頭では納得した、と思っても、セイラムの中の怒りは強かった。
人生を歪められたのだ。これから普通に生きて家格の合う貴族家から嫁を貰い、子供を作って暮らしていくと思っていたのに。
「申し訳ないが、もう帰ってくれ」
セイラムがそう言うと、クリムゾニカはすぐに立ち上がった。
「わかったわ。また会いに来るから……最近新しい弟子を取ったのよ。今度あなたにも紹介するわ」
「ああ」
クリムゾニカが退出すると、セイラムは自室に引き籠った。
様子を見に来たウォルクに、「しばらく誰にも会わない」と告げ、数日間徹底的に引き籠った。
その引き籠り期間にセイラムはあることに気付いた。
先日の虫干しの際に書庫から持ち出した神聖文字の書物。セイラムにはほとんど読めず、タイトルはスキアが教えてくれた――『神の足音と聖女の歌声』と書いてあるらしい――のだが、それが読めるのだ。
母語であるルビロ語と同じくらいすらすらと読める。内容は神――精霊王の起こした奇跡とその経緯について、だった。著者は何と高位の精霊らしい。
困惑しながらセイラムは史書の一巻を引っ張り出した。
一巻の表紙を捲る。前書の部分に神聖文字で数行の文が書かれていた。
『荊の王冠、被る魔女。其は永久の花の女王。龗を従え九原に起つ』
昨日まではほとんど読めなかったそれが嘘のようにすらすらと読める。
「何故だ」
驚愕に声が震えた。
読み解こうとしなくても自然に読むことができる。
魂に、細胞に刻み込まれた記憶がそうさせているのだ。
――いったい誰の記憶が?
セイラムは、自分が以前とは何か違うものになってしまったのだと自覚した。