垣根の上に立つ 十九
「お前、昼間言っていたな。今のうちに否定派の者たちに、魔術師の魔術師たる証を知らしめておいた方がいい、と教えてくれた者がいる、と。魔術師に対する恐れが彼らの中にあれば、簡単に手出しはしてこないだろう、と」
「ああ、言ったな」
不敵に笑いながらボルツが返事をする。まだまだ余裕がありそうだ。
「教えてくれた者とはいったい誰だ?」
セイラムには予感があった。そして、それは現実となる。
「どこのものかは知らんが、デュ・コロワと名乗っていたな。今時珍しい、長髪の男だ」
セイラムは歯が軋むほど食いしばった。
いったい何なんだ、デュ・コロワは! ラブレー男爵を唆し、ボルツも唆し、挙句魔術師と非魔術師との間に軋轢を生もうとしている。
デュ・コロワはこの世界の敵なのだ。
セイラムは改めてそう強く確信した。
「そいつの言うことに耳を貸したのは間違いだ。デュ・コロワはどうやら、この世界に混乱を生じさせようとしている。そのためにお前を利用したのだろう」
「何だと?」
セイラムは強い口調で言った。
「お前のやり方では、無関係な魔術師まで疑われてしまう。誰も彼もが全ての魔術師を怪しみ、疑心暗鬼は新たな災厄を齎すかもしれない。魔術師に対する恐れは、やがて彼らを暴力に駆り立てるだろう。否定派の者を押さえつけたら、魔術師にとって安全で平和な世界になると、本当に思っているのか? それは大きな間違いだ! 強すぎる締め付けはいずれ大きな反発を呼ぶぞ! 魔術師と民との間に遺恨があってはいけないんだ!」
「黙れ! このままいけば確実にかつてのような魔女狩りが繰り返される! そうなってからでは遅いのだ!」
三百年前、魔女狩りが起こった背景にはルビロ王国とバレンティア王国との戦争があった。戦争で情勢が不安定になり、そこから生じた人々の不安が魔術師に向いたのだ。
ランバルド連邦とリスベニア王国はしょっちゅう戦争をしていて、そのたびに国境線が書き変わっているが、それはもはや日常茶飯事だ。
つまるところ、今の世界情勢は安定している。魔女狩りが起こる理由などない。
「ボルツ! お前がそう主張する根拠は何だ!? 何故魔女狩りが再び起きると言い切れる!?」
青と暗い緑色の魔力がぶつかり合っている境目で激しいスパークが起きた。セイラムとボルツの皮膚を仄青い電光が走りチリチリとした痛みを齎す。
「それもデュ・コロワが教えてくれた! 近いうちに混乱が生じると! かつての戦争など比べ物にならないほどの混乱が! それらは全て魔術師の所為にされるとな!」
瞬間、セイラムはセント・ルースで死んだオーブリーとの会話を思い出した。
――魔力の法則そのものを使えることがどれほど素晴らしいことなのか、全然わかっていない! リオン伯爵、お前はこの世界の理を、律を変えることができるんだぞ!
――それが目的なのか、お前たちの? 理を変えるために魔法を使える者が欲しかったのか?
――我々はこの世界を変えようとしている。そのために強い精霊との契約が必要なわけだが、伯爵、お前一人がいれば事足りるかもしれん……
世界を変える。
それはすなわち、新たな混乱を生み出すことに繋がるのかもしれない。
セイラムは冷静に問いかけた。
「混乱が起きる、その根拠は? 何が切っ掛けで起きるというんだ? デュ・コロワは何と言っていた?」
セイラムの言葉に、ボルツは何度か瞬いた。
徐々に顔が困惑に歪む。
「どうしたんだ?」
どこか呆然とした顔でボルツは答えた。
「根拠、は、聞いていない…………なのに、なぜ私はあの男の言葉を信じ込んだんだ?」
ボルツの魔力に揺らぎが見えたため、セイラムも自分の魔力を制御し弱める。ぶつかり合っていた術式が、どちらからともなく解けて消えた。
片手で顔を覆ったボルツに、セイラムは話しかける。
「デュ・コロワの言葉をなぜか盲目的に信じ込んでしまうような、何か洗脳の術式でも使われたのかもしれないな。でなければ、お前ほどの魔術師がそんな曖昧な言葉で動くわけがない」
ボルツは指の隙間からセイラムを見る。
「デュ・コロワはお前に否定派の貴族を殺させるつもりだったのかもしれない。それにより、より魔術師への怒りを増幅させようとしていたのだろう。だが、お前は一人も殺さなかった……」
「ああ」
ボルツは苦笑した。
「怖がらせて魔術師を恐れさせたいだけで、殺すつもりはなかった……だが」
ボルツはセイラムを睨んだ。
「今の世の中が再び魔女狩りの時代に近付いているのは事実。不穏の芽は早めに摘んでおいた方がいい。人の心を変えるのは容易ではないからな」
セイラムは眉間にしわを寄せた。
「だからと言って押さえつけるのは間違っている。さっきも言っただろう。否定派の者を押さえつければいいとでも? 抑圧すればするほど反発も大きくなる。それよりも相互理解を深めることの方が重要だ」
セイラムはアルマン・クルーゾー伯爵との会話を思い起こした。
魔術師は信用しない、ときっぱり言った彼だったが、その理由は、魔術師は得体が知れない、胡散臭い、そして恐ろしい、という何とも曖昧なものだった。
魔術師に対する漠然とした不安。それが彼を否定派にさせているのだ。
何が恐ろしいのか分からない。だが何かが怖い。
ただそれだけ。
ただそれだけ、が魔女狩りのような災厄を引き起こすのだ。
セイラムが以前ちょっとだけ調べたところ、否定派のほとんどがクルーゾー伯爵と同じ考えを持っていた。
人は自分に理解できないもの、よく知らないものに対して恐れを抱く。魔術師を恐ろしいというのなら、それは魔術師の事を良く知らないからだ。
で、あれば、もっと魔術師について知ってもらうことができればこの問題はいくらか解決する。
もちろん、漠然とした不安だけで否定派になった者だけではないことも知っている。
ハンゲイト侯爵は過去に魔術師によって被害を受けたから否定派になった。そういった者は他にもいる。
ハンゲイト侯爵のような被害者の心を変えることは簡単ではない。だが、クルーゾー伯爵のような者であれば、相互理解を深めれば……魔術師や魔術のこと、そして精霊についてもっとよく知ってもらえれば、魔術師と否定派の対立はほぼ解決できるだろう。
希望的観測だし、どれほどの年月がかかるかわからないが。
――きっと変えられる。君と俺なら。世界も、何もかも。
ふと、セイラムは懐かしい声を思い起こした。
眼裏に過る在りし日の姿。ゆるく波打つ漆黒の髪、星空のような煌めく瞳。
床に倒れ伏すセイラムの両親の向こうで満足げに笑う幼馴染。
「相互理解? いったい何年かかると思っている。それよりも、いい加減に決着を付けよう。私のロケットを返せ!」
ボルツが杖を振りかぶった。セイラムも慌てて構える。
「ダカンの術式第四十四番、『絶ゆることなく逆巻く怒濤、厄災が目覚める海鳴の轟き』!」
大量の水が現れ持ちあがり、セイラムに向かって一気に押し寄せた。
「ケストナーの術式第百七番、『金剛の天の櫓、湧き熾れ紅蓮の鉄壁』!」
セイラムは盾を展開した。だが、ボルツの魔術はセイラムと相性の悪い水属性。しかもセイラムは咄嗟に火属性の術式を使ってしまった。
水を押し止めていられたのはほんの束の間、あっという間に押し込まれ、追い詰められる。
飲み込まれようとしたその時、大量の水が霧散した。
「なっ」
「何だと!?」
覚えのある魔力を感じてセイラムが振り向くと、アエスとディアーヌ、おまけにイザベラ王女とフィデル、ミラグロスがいた。
水をどうにかしたのは十中八九アエスだろう。
「何故ここに?」
半ば呆然としながらセイラムが問うと、ディアーヌが少し困った顔で悪びれなく言った。
「ごめんなさい、伯爵のお屋敷の花瓶の水にアエスの耳を残しておいたの」
つまり、花瓶の水を通して伯爵邸の音や声を聞いていたということだ。
「あー……」
油断も隙もありゃしない。おそらく、セイラムやボルツの動向が気になってのことだろう。通常なら他人の家の物音を盗み聞きするなど褒められたことではないが、今回ばかりは助かった。
「助かった、ありがとう。だが、次からは止めてくれ」
「わかっていますわ」
ディアーヌはにっこりと微笑んだ。その食えない笑顔。彼女の伯母にそっくりだ。
一方、ボルツはイザベラ王女と向かい合っていた。黒髪の姫君の後ろには、二人の従者が寄り添っている。
臙脂色のレースの装飾がついたクリーム色のドレスをまとったイザベラ王女は、扇子を片手に尊大な様子でボルツを見ていた。その美しい弓型の眉はしかめられている。
「あなた、つい先日伯爵に対してこう言ったわね。伯爵は卑怯な蝙蝠のようだ、と」
少々ニュアンスが違うが、確かに言った覚えのあるボルツは頷いた。
「伯爵が貴族だから、普段は魔術師側でも、いざとなったら貴族の側につくことができるから。貴方はそう思ったのでしょう?」
「それがどうした」
ボルツの無礼な物言いにも臆することなく、イザベラ王女は言葉を続ける。
「よく見なさい。彼が本当に卑怯な人間だと思う? 無礼千万極まりないジョゼフ・ランベール伯爵令息のために知らせを受けてすぐに駆けつけて、無礼者たちのためにあなたと戦う伯爵が、卑怯な人間に見えて?」
言われて、ボルツは伯爵を見た。ディアーヌに寄り添われ支えられたセイラムの格好はひどいものだ。
早朝に知らせを受けて駆け付けたため、着ているのはシャツとズボンと上着だけ。タイをつける暇がなかったのだ。シャツの下からは包帯が覗いている。前日の戦いで負った怪我の治療のためのものだ。
しかもその包帯は先程の戦いで千切れたり解けたりしているし、新たな傷もできている。
その姿は都合が悪くなると保身に走るような卑怯者には到底見えない。
――僕は貴族で、魔術師だ。生まれ持った属性は変えられない。そして、どちらか片方を切り捨てることも僕はしない。
――僕は魔術師と非魔術師を繋ぐ架け橋でありたいんだ。非魔術師が魔術師を恐れない、迫害しない世界を創りたい。そのためには相互理解が必要だ。
――なのに、お前が両者の溝を深めている! 僕のこれまでの努力をお前が台無しにしつつあるんだ……
セイラムの言葉を思い起こしたボルツは悔しさと恥じる気持ちから唇を噛んだ。
若い者が未来を見ているのに、自分は立ち止まり過去に拘り振り返り続けている。
「リオン伯爵」
ボルツは杖を降ろした。真っ直ぐセイラムを見つめる。
セイラムも杖を降ろし、ボルツを見た。二人の顔は穏やかだ。
「お前なら、変えられるのか? 否定派を」
「わからない。だが、努力はする」
セイラムの真剣な眼差しに、ボルツはふっと息を吐いた。
この若者に任せてみてもいいのかもしれない。
賭けてみるか。魔術師の未来を。
もう二度と、自分たちのようなひどい経験を今の魔術師たちが味わうような、そんなひどい未来が来ぬように。
ボルツから完全に闘志が消えたのを見て、セイラムは上着の内ポケットに手をやった。
取り出したのはボルツのロケットペンダントだ。
それを手に、セイラムはスタスタとボルツに近付き、『手を出せ』と言った。ボルツの出した右手にロケットペンダントを落とす。
「遅くなったがそれを返す」
「……勝負はついていないぞ」
セイラムは肩を竦めた。
「僕を倒せたら、なんて言ったが、元々返すつもりだったんだ。黙って受け取れ」
ボルツは受け取ったロケットの蓋を開いた。
中には美しい黒髪の女性の肖像画。
「……ベアトリス……」
愛しい人の名を呟き、ボルツは肖像画にそっと唇を落とした。