垣根の上に立つ 十六
数日後、ディアーヌと共にイザベラ王女と彼女の護衛、ミラグロス・パラシオスとフィデル・ガルシアがリオン伯爵邸を訪ねてきた。
突然やって来た隣国の王女に伯爵邸は大騒ぎで、使用人たちは意味もなく廊下やその辺の部屋をバタバタと動き回った。
ウォルクと家政婦のマチルダが指揮を執って彼らを通常通りの職務に戻したが、全員通常よりも浮足立っている。
客間のソファセットにはイザベラ王女とディアーヌ、セイラムが座り、ミラグロスとフィデル、ラディウス、バスティアンはソファセットのそばに立ち、部屋の隅にはウォルクとゼアラルが控えた。
「ごめんなさいね、急に押しかけて」
イザベラ王女が申し訳なさそうにセイラムに言った。
彼らは本当に、事前のお伺いや先触れなどもなしで、突然やって来たのだ。
「いえ、大丈夫ですよ、王女殿下。……少々、いや、かなり驚きましたが」
「わかったことを急いで知らせようと思ったのよ」
「わかったこと……? 犯人についてですか?」
「ええ」
イザベラ王女は傍らに立っているミラグロスに目配せした。ミラグロスが一歩前に出て一礼する。
「私の実家に手紙を送り、保管されている記録を兄たちに調べてもらいました。三百年前の魔女狩りに関する資料を全てです」
「ど、どうもありがとう。大変だったろうに」
「……いえ」
素っ気なく首を振り、ミラグロスは持っていた手帳を開く。
「記録には『クリストフ・ボルツ』という人物の名前が残っています。彼は私の先祖たちによって捕らえられ、異端審問という名の拷問にかけられましたが、その後処刑されたという記録はなし。おそらく、何らかの方法で逃亡したものと推測されます」
「逃亡……できたのか?」
「我々も万能ではありませんので」
クリストフ・ボルツ。
ボルツの術式に関係していると思しき人物は魔女狩りに遭い――それからどうなったのだろう。
「犯人はこのクリストフ・ボルツなんでしょうか?」
ディアーヌの質問にセイラムは首を傾げた。
「そうかもしれないしそうでないかもしれない。術式は本人だけのものではないし、弟子は師匠の術式を好んで使う。ボルツ本人か、あるいは縁者か……」
犯人がクリストフ・ボルツ本人であるとすれば、彼は理に触れて時を止めてしまったのかもしれない。
「犯人がボルツだとして、貴族たちを襲う動機は一体何だろう? この間ラディウスが言ったように、否定派の者を片付けたら、魔術師にとって安全な世の中になると思っているのだろうか?」
セイラムは深く考え込んだ。
ミラグロスは構わず続きを読み上げる。
「クリストフ・ボルツはバレンティア南西にあるサウセ州で捕らえられたようです。それ以前はカメリア州に住んでいたとか」
「カメリア州はバレンティアの西部だったな?」
「ええ、そうです。魔女狩りから逃れるために移動してきたのでしょう。捕らえられた後異端審問を受け、その後おそらく逃亡。……彼と一緒に魔女が一人捕らえられています」
「魔女?」
ミラグロスは頷く。
「名前はベアトリス・オルテガ。彼女はサウセ州の州都郊外の広場で火刑に処せられています」
「一緒に捕らえられたということは、ベアトリスという人はボルツと行動を共にしていたのか? それとも偶然?」
「わかりません。知り合いだったのなら、何故一緒に逃げなかったのでしょう?」
「逃げられなかったのだ」
突然割り込んできた知らない男の声に、セイラムは腰を浮かせた。同時にウォルクが走り出し、窓から飛び出す。
客間の外の庭園に、いつの間にか男が一人いた。
黒いローブ姿で、年の頃は四十代から五十代。白髪交じりの濃い茶色の髪をしている。
セイラムは懐から杖を取り出し構えた。
ラディウスとバスティアンも杖を構える。
フィデルとミラグロスはイザベラ王女の前に出てそれぞれ武器を構えた。
「お前……」
セイラムが目を見開いて呟く。男は顔を上げてこちらを見た。暗い青色の瞳がセイラムを、そして他の者たちを見回す。
「驚いたな、まさかお前がリオン伯爵とは」
セイラムは苦いものを飲み込んだような顔をした。
「伯爵、知り合いですか?」
ディアーヌの問いにセイラムは曖昧に頷いた。
「知り合い、と言えるほどの仲ではない。パブで一度、一緒に飲んだだけだ。まさか、お前が……」
「そうだ」
男は頷いた。
「私の名はクリストフ・ボルツ、だ」
その言葉にセイラムたちは警戒を強めた。
「……何の用だ?」
そう問うと、男――ボルツは微かに笑った。
「ロケットペンダントを返してもらいに来た」
セイラムは視線でウォルクに下がるように指示する。その上で自分は庭に出た。
「ロケットペンダントを返す前に、色々と聞きたいことがあるのだが」
その言葉にボルツは以外にも素直に頷いた。
「良いだろう」
「では……」
「伯爵」
早速色々聞こうとしたセイラムをボルツは遮った。
「この邸では客人に茶の一つも出さないのかね?」
招かれざる客のくせに図々しいな、と思ったが、セイラムは顔に出さずウォルクに指示を出した。
「……客人の席とお茶を」
「よろしいのですか?」
困惑した表情のウォルクに、セイラムは答える。
「少なくとも、今すぐ攻撃しようという気はないようだ。だが、警戒は怠るな」
「……わかりました」
ウォルクの指示で、新しい椅子とティーカップが用意された。
椅子を持ってきたピエールがどこに置くか迷っていると、イザベラ王女が声をかけた。
「その椅子をこちらへ」
示したのは王女のすぐ隣。さすがにフィデルとミラグロスが慌てた。
「殿下!?」
「危険です!」
「大丈夫よ」
有無を言わせぬ笑みに、二人は黙る。
二人は知らない。イザベラ王女が心の中で『……たぶん』と付け加えたことを。
ボルツはイザベラ王女に一礼し――思っていた以上にちゃんとしたボウ・アンド・スクレープだった――席に着いた。王女も会釈を返す。
紅茶を一口飲んで、ボルツは口を開いた。
「ベアトリスが何故逃げなかったのか。それは、度重なる拷問で傷つき、疲れ果てていたからだ。私でさえ、一人で逃げるのがやっとだった。とても彼女まで連れてはいけなかった……」
ボルツは苦しそうな表情を浮かべた。
後悔と深い悲しみが彼の心を蝕んでいるのがよくわかった。その思いを抱えたまま三百年生きてきたのだ、この男は。
「パラシオス家に遺恨がある、というのは、やはり、魔女狩りか?」
セイラムが問うと、ボルツはセイラムを一瞬見て、ミラグロスに目を向けた。
「そうだ。パラシオス家はバレンティア国王の命令で捕らえた魔術師たちを拷問していた。無意味な拷問を。……魔術師たちは王に叛意ありと疑われて捕らえられ、裁かれたのだが、そんな事実はどこにもない。ないものをあると言わせるのが彼らの仕事だった」
ミラグロスを見る目は先日とは違って静かだった。
「今でもあの時受けた仕打ちを許すことはできない。かと言って、その娘に責任を取らせたいわけではない」
複雑そうに話すボルツに、セイラムは問うた。
「お前はベアトリスを見捨てたのか?」
「違う!!」
ボルツは鬼のような形相で否定した。
「必ず戻ってきて助けだすつもりだった! だが、間に合わなかったのだ……私の味方は誰もおらず、身の安全を贖おうにも金がなかった。有力な貴族に金を払えば安全を買えたんだ。だが、それもできず、とうとう……」
ボルツの瞳から涙が零れ落ちた。
セイラムは、彼の言葉に嘘はない、と感じた。
穏やかに話し合いができるかも、とセイラムは期待したが、次の瞬間、ボルツは強い怒りを全身から立ち上らせた。
「私たちはただ、魔術の研究をしながら、穏やかに、普通に暮らしたかっただけなのだ……なのに、全てが打ち壊された……そして今、再びあの時代に近付きつつある。伯爵、お前には感じられないか? 世界が再び魔術師に背を向けつつあることに」
問われてセイラムは少し考える。ボルツの言うことが分からないわけではない。大いなる流れは再び魔術師迫害の時代に向かいつつあると、セイラムもそう感じていた。
「……だから、否定派の貴族たちを先に叩いておこうと、そう考えたのか? だとしたらそれは逆効果だ。彼らは魔術師への不信感を募らせ、完全に敵視している。お前のやっていることは魔術師を窮地に陥れることに成り兼ねない。今すぐにやめるんだ」
ボルツはセイラムを睨みつけた。
「……教えてくれた者がいるのだ。今のうちに否定派の者たちに、我々魔術師の魔術師たる証を知らしめておいた方がいい、と。私も同感だ。魔術師に対する恐れが彼らの中にあれば、簡単に手出しはしてこないだろう。恐れてもらわねば困る故、命までは奪わない。だが、恐怖は刻み込ませてもらう」
「恐怖は長くは続かない。次に来るのは魔術師に対する怒りだ。さっきも言ったが、お前のやっていることは逆効果なんだ。今すぐにやめてくれ」
ボルツは不愉快そうに眉間にしわを寄せた。
「伯爵、お前は自分が安全なところにいるからそんな生温いことが言えるのだ」
「安全だと? どういうことだ?」
セイラムも眉をしかめる。
「知れたこと。お前は貴族だ。いざとなったら貴族の側につくのだろう。卑怯な蝙蝠のように」
言われたことにセイラムは頭に血を上らせた。
「ふざけるな!」
セイラムは激高した。珍しい姿にウォルクが身動ぎ、ラディウスとバスティアンも肩を揺らす。
「僕は貴族で、魔術師だ。生まれ持った属性は変えられない。そして、どちらか片方を切り捨てることも僕はしない。できない。僕は魔術師と非魔術師を繋ぐ架け橋でありたいんだ。非魔術師が魔術師を恐れない、迫害しない世界を創りたい。そのためには相互理解が必要だ。なのに、お前が両者の溝を深めている! 僕のこれまでの努力をお前が台無しにしつつあるんだ!」
強い怒りに魔力が漏れ出す。
陽炎のような青い揺らめきがセイラムの身体から立ち上った。
部屋の調度品ががたがたと震える。ティーカップの中の紅茶がゆらりと波打った。
同時にボルツの身体からも苔のような色の揺らめきが立ち上る。
「話は終わりだ、伯爵」
低い声でボルツが言った。
「お前ならわかってくれると思ったが、残念だ」
「僕も残念だ」
セイラムも怒りを押し殺しながら言葉を返した。
「僕は貴族で魔術師だ。どちらかの都合が悪くなったらもう片方に逃げる……そんな中途半端な覚悟で爵位を継いだわけではないし、魔術師をやっているわけではない」
ボルツは肩を竦めた。
「お前の志は素晴らしい。だが、再び魔術師が迫害されるようになった時、果たしてそのままでいられるのか?」
「知るか」
セイラムの即答にボルツは瞠目した。
「その時になってみなければ分からない。だが、多分僕は最後まで足掻くだろう。相互理解のために」
「やはりお前とは分かり合えないようだ」
ボルツは顔を歪めて笑った。
「対症療法では意味がない。この問題に必要な答えは原因療法だ。否定派を排除すれば問題は解決する」
「僕はそうは思わない。……この議論は無意味だ、さっきから平行線しか辿っていない」
「そうだな、もう終わりにしよう」
ボルツは紅茶を飲み干し、静かに立ち上がった。
セイラムも立ち上がる。
二人は無言で伯爵邸の庭に移動し、向き合って杖を構えた。ラディウスとバスティアンも、音もなく窓のそばに移動し、杖を構える。
沈黙。
風が吹き抜ける。
そして、いきなり激突した。
「ボルツの術式第九十二番、『死せる夜の香、毒の風。汝は嘆き悲しみ息の根を止めるだろう』!」
「リオンの術式第三十五番、『怒りを糧に燃え尽きよ、紅蓮の顎と虚飾の刃』!」
闇色の風と紅蓮の炎がぶつかり合って渦を巻き、爆発的に燃え上がった。ラディウスとバスティアンは咄嗟に結界を張り、邸を守る。
「うおおぉぉぉい!!?」
「っ伯爵!」
強大な魔力と魔力のぶつかり合いに押されそうになりながら、二人は必死に結界を張った。いつの間にか姿を現したアエスがそれに加勢する。
「もう少し踏ん張れ、魔術師」
「どちら様あああぁぁァ!!?」
ラディウスの絶叫に答えず、アエスは振り返った。
「ディアーヌ! 王女を連れて下がれ!」
「アエス!」
ディアーヌは一瞬だけ迷い、すぐにイザベラ王女を抱きかかえて後ろに下がった。フィデルとミラグロスもイザベラ王女をディアーヌごと抱きかかえて、守る体勢を取る。四人の前にウォルクが立った。ゼアラルは客間の隅で傍観している。
爆炎が四散した。間髪入れずに次の術式を二人は紡ぐ。
「リオンの術式第五十一番、『燃える銀河の足音、巨星の圧力の前に爆ぜて潰れろ』!」
「ボルツの術式第二百十番、『大いなる犠牲と崩落。其は王の息吹が起こす暴風』!」
力が爆ぜた。
爆風はラディウスたちの結界に阻まれて屋内には届かないが、びりびりとした震えがディアーヌの肌を走った。
「こっ、これ、外に影響は……」
「大丈夫です、敷地に結界が張られていますので」
答えたのはウォルクだ。さすがに心配そうな顔でセイラムを見つめている。
廊下では駆け付けた使用人たちが頭を抱えて床に伏せていた。一番手前にいるのはピエールだ。
青と苔色の魔力はぶつかり合い――そもそもが火属性と風属性だ。相乗効果で魔力は大きく膨れ上がった。
そして。
大爆発。
耳をつんざく轟音。
ラディウスとバスティアンとアエスの結界が持たなかったのだ。
全員咄嗟にその場に伏せたが、その上に容赦なく爆炎が襲い掛かる――はずだった。
肌を焼く灼熱が感じられず、ラディウスはそっと顔を上げた。
見下ろしてきた青緑色の瞳と視線が合った。
いつの間にかゼアラルが彼らの前に出て結界を張っていたのだ。
「悪竜!?」
ラディウスの驚きの声に、バスティアンも顔を上げる。
爆発の瞬間結界を放棄してディアーヌを守りに行ったアエスは、微かに悦びの感情を顔に出した。
「伯爵!?」
スキアが客間に飛び込んできた。強大な魔力のぶつかり合いに、近づくことを躊躇っていたのだ。
伏せていた者たちは徐々に身を起こし、あたりを窺った。スキアはディアーヌを介助する。イザベラ王女もフィデルとミラグロスの手を借りて起き上がった。
「セイラム様!」
ウォルクが叫んで庭に飛び出した。見ると、セイラムが倒れている。
「あいつがいない!」
バスティアンが叫んだ。言葉通り、ボルツが姿を消していた。
ウォルクはセイラムに駆け寄り、ぐったりと力の抜けた身体を抱き起した。
「しっかりしてください!」
意識のない様子のセイラムを見て、ピエールが『医者を呼んできます!』と走り出した。