垣根の上に立つ 十二
「……こいつ、いつの間に」
「叩き起こしますか?」
「いや、いい。放っておこう」
一瞬セイラムの額に青筋が浮いたが、気を取り直し次のページを捲ろうとした。
「私は読めるぞ」
スキアの放ったひと言にセイラムは勢いよく振り返り、結果首筋を痛めた。
「痛った!」
「セイラム様!?」
慌てて駆け寄るウォルクに、セイラムは大丈夫だ、と手振りで示した。
「読めるのか、スキア? 何と書いてあるんだ?」
セイラムに言われてスキアは前書に目を落とす。
「……『荊の王冠、被る魔女。其は永久の花の女王。龗を従え九原に起つ』、だ」
「荊の、王冠……。龗……?」
「龗は古い言葉で竜神のことだ」
竜神。
セイラムは一瞬居眠りするゼアラルを見た。
何か引っかかる。
だが、何が引っかかっているのか分からない。
考えても仕方がない、と、セイラムは頭を振ってこの件をいったん横に置き、ページを捲った。
一巻には初代リオン伯爵ヴァレリーがいつどのようにして生を受け、王家から離れてリオン伯爵家を創設したかが書かれていた。彼の出生前後の状況、幼少期、少年期、青年期、臣籍降下を経て結婚、子供が生まれ、老いて死ぬまでが淡々と書かれている。
「父親は当時の国王エセルバート一世。母親は側室の一人、ロザベラ・フロレンティア。ヴァレリーは十八歳の時に臣籍降下し伯爵に叙せられた……ロザベラ妃はその五年前にすでに死去していたのか」
ぴくり。
ゼアラルの瞼が一瞬震えたが、それに気付く者はいなかった。
「その後の彼の人生は平穏そのものだ。大きな事件、戦争などはなし。いたって普通に生きて、六十七歳で死去。当時としては長生きした方だろう。爵位はその十年ほど前にすでに息子に継承されている」
「竜像がいつ預けられたのかは書いてありませんね」
「そうだな。だが別の書物にははっきりとおよそ七百年前と書かれている。前後の記述からするとうちが創設されたのとほぼ同じタイミングだから、ヴァレリーが竜像を預かったのは間違いないだろう。史書に記載するまでもない些末なことだったんだろうか」
溜息をつきながらセイラムは史書の一巻を閉じた。
「結局花の魔女との繋がりは何も分からなかったな」
「……だ」
突然声が割り込んだ。見ると、居眠りをしていたはずのゼアラルがぱっちり目を開けセイラムを見ている。
「今何か言ったか?」
「母親だ、と言った」
「母親? 何のことだ?」
「お前の先祖と花の魔女との繋がりを探しているんだろう?」
「そうだが」
ゼアラルは立ち上がり、セイラムを見下ろした。実に悔しいがゼアラルの方が背が高い。かなり。
「花の魔女はお前の先祖の母親だ。あの女が姿を消したのは国王の側室になり子を宿したからだ」
セイラムはぽかんと口を開け、ゼアラルの言葉を頭の中で反芻した。
「ちょっっっと待て、母親? 花の魔女はヴァレリーの母親なのか? では僕は彼女の末裔ということになるのか!?」
「そうだ」
伝説の魔女が自分の先祖であり、悪竜を倒した英雄。以前のセイラムならその事実に純粋に興奮し、はしゃいだことだろう。
だが、ここ最近の出来事――悪竜の復活、彼との契約、デュ・コロワの意味深な言葉、etc――がそれを阻む。
巧妙に仕組まれた気味の悪い何かがここでも感じられた。
「花の魔女の真名は伝わっていない。ロザベラ・フロレンティアというのがそうなのか」
するとゼアラルは首を傾げた。
「いや、俺と戦った時はフロレンティアではなくフローレンスと名乗っていたが」
「改名したのか?」
「知らん。あの女が側室になった時、俺はすでに封印されていたからな」
「ちょっと待て。封印されていたのに彼女が側室になったことを何故知っているんだ?」
「その通りだ。お前、封印されていたというのにやけに詳しいじゃないか」
黙って話を聞いていたウォルクも思わず口を挟む。他ならぬ大事な主人に関することだ。この話が真実なのか駄法螺なのか慎重に見極めねばならない。
「封印された後、何度か話しかけられた。あの女は他人の意識下に出入りすることができる」
「意識下に……」
高位の魔術師の中には他人の意識下に出入りできる者がいることは知られた話だ。五賢者たちは全員できるらしいし、他にもできる者は数名いる。
封印されている対象にまでそれができるのかどうかは知らないが、花の魔女は七百年前当時最強と謳われた魔術師だ。できても何ら不思議ではない。むしろできて当然なのかもしれない。
「なるほどな……。それならお前が自分の封印後のことを知っていても不思議ではない。だが、なぜ彼女はわざわざお前にそんなことを教えたんだ? 自分が側室になったことを。それに、彼女が国王の側室になったことが何故後世に伝わっていないんだ?」
セイラムがそうゼアラルに尋ねると、ゼアラルは眉間に盛大にしわを寄せた。今までにないくらい不機嫌そうな顔だ。
「知らん」
ゼアラルはひと言そう言い残して、書斎を出て行った。
止める間もなく出て行くゼアラルを見送って、セイラムは溜息をついた。
「ウォルク、この史書を全て僕の部屋に運んでくれ」
「わかりました……大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「あまり顔色が良くありません」
気遣う声と潜めた眉。こいつは本当に男前だな、と思いながらセイラムは頷いた。
「大丈夫だ。ただ少し混乱しているだけだ。心配はいらない」
「……そうですか」
心配そうな顔のままウォルクは七冊の史書をひとまとめにした。
「本当なのでしょうか。セイラム様が伝説の魔女の末裔だなんて。いまいち信じられません」
「僕もだ。……ゼアラルの言葉を全て信じたわけじゃない。だが、ゼアラルは花の魔女と浅からぬ縁がある。ある程度は信用できるだろう」
よくわからないのは、何故悪竜を倒した英雄とも言うべき花の魔女の存在が完全に歴史から消えてしまったのか。世界を救った英雄なのだ、物語にして語り継いだり、劇を作ったり、吟遊詩人に詠わせてもいいものだろうに。
いや、唯一歌い継がれているものがある。あの童歌だ。だがあの歌も花の魔女ではなく悪竜に主体が置かれている。
そして、デュ・コロワの言っていた“彼女”と言うのが花の魔女のことだとしたら、彼女は一体何を遺したというのか。“機構”とは?
――天秤の調和はいかにして保たれるか。
デュ・コロワの言う“天秤”とは一体何なのだろうか?
思案するセイラムにじっと控えていたスキアが声をかけた。
「私は信じるぞ、伯爵。あなたが彼女の末裔だということを」
「スキア?」
静かな顔でスキアは言う。
「あの悪竜が……我らが王があなたと契約している……そのことが何よりの証左だと思う」
***
あの日以来釈然としないものを抱えたまま、セイラムは日々を過ごしていた。
アルデリカから王都ソルブリオに帰還した翌日の午前、セイラムは呼び出しに応じて黄昏宮に参内した。
中央宮にある国王の執務室。そこには難しい顔をした宰相サングラント公爵と司法大臣ハンゲイト侯爵、軍務大臣シンクレア公爵がいた。
遅れて国王が入室し、席に着く。それを見届けてからセイラムたちも着席した。
「皆」
部屋を見渡し国王ハンス二世が口を開く。
「すでに聞き及んでいると思うが、近ごろ貴族たちが何者かに襲撃される事件が起こっている。いずれも命までは取られていないが、皆重傷だ。しかも」
国王は険しい顔で言葉を切った。
「襲われたのは精霊・魔術師否定派の者たちだ。そして、どうやら犯人は魔術師らしい」
全員が一様に険しい顔をする。
「リオン伯爵」
「はっ!」
国王に呼ばれ、セイラムは立ち上がった。
「この事件の調査と犯人の捕縛もしくは排除を命じる。速やかな事件解決を私は望む。組合と協力して事に当たれ。すでに組合には話を通してある」
「承りました」
セイラムは恭しく一礼した。
「シンクレア公爵とハンゲイト侯爵は事件と被害者らの情報、並びに今後狙われるかもしれない貴族の情報をリオン伯爵に提供するように」
「畏まりました」
二人の大臣も立ち上がって一礼した。
「それから、つい先日スカーフィア侯爵邸の前で襲撃事件が起こった。女侯爵らが犯人の姿を目撃している」
「わかりました。後ほどスカーフィア女侯爵を訪ねてみます」
セイラムはすぐに仕事に取り掛かった。まずシンクレア公爵とハンゲイト侯爵の部屋に行き、彼らがまとめてくれた資料を受け取る。
シンクレア公爵からは事件現場と被害者に関する情報を、ハンゲイト侯爵からは否定派の貴族に関する情報を――ぶつぶつと小言を言われながら――受け取った。
被害者はすでに十一名。全員が重傷だが死んではいない。
セイラムは、被害者の名前の一番初めに、サー・マーカス・フォールの名前があることに気付いた。
確か、ミレイユ・キャラハン子爵令嬢の葬儀の時にスカーフィア女侯爵が彼について話していた。
東二番地区で何者かに襲われ負傷。重傷だが命に別状はなし。
サー・マーカスが精霊・魔術師否定派であるため、犯人は魔術師なのではないか、とスカーフィア女侯爵は話していた。
セイラムは深い溜息をつく。
「……頭の痛い話だ」
否定派の連中のところに魔術師である自分が話を聞きに行かなければならないのか、と思うとなんだか憂鬱だ。
否定派の者を相手にするのは苦ではない。話し合うことで相互理解を深め、垣根をなくすチャンスだと思っているから。
ただ、確実に批判や文句が飛んでくるのが少々面倒くさいだけで。
兎にも角にも、命じられたのだからやらなければならない。
セイラムは組合に連絡を取り、この事件に関わっている魔術師について調べるよう要請した。
自分は被害者の元を回って話を聞く。
被害者は全員精霊・魔術師否定派であるため、セイラムに対してはあまり好意的ではなかったが、全員協力的だった。
犯人はおそらく魔術師だと思われると聞いて、早く捕まえてくれ、と、そのためならば協力は惜しまない、と、そう言ってきたのだ。
同時に嫌味や魔術を否定することも言われたが、セイラムにとっては日常茶飯だ。右から左へと聞き流し、サクサクと聴取を済ませる。
被害者らは全員犯人の姿を見ていなかった。背後からいきなり襲われ、気が付いたら負傷して昏倒していた、とか、気が付いたら病院にいた、とか、そんな感じだ。
ただ、六月に襲われた準男爵サー・マーカス・フォールのみ、逃げていく犯人の後ろ姿を見ていた。
黒いローブを纏った人物。
地面に倒れ込み、そこから見上げていたため、体格はよくわからず、犯人の性別もよくわからない、と。
そして手口も不明。
犯人は魔術師ではないか、と言われているため、現場に魔力の残滓が残されていないか、組合に依頼して調べてもらうこともできたはずだが、それはされていなかった。
何故なら、この事件を担当していた警部――バート警部の同輩――が魔術師否定派で魔術師と関わり合うのが嫌だったから、らしい。
その担当者は現在事件の捜査を外された。職務怠慢だと上から大層叱られたらしい。代わって、ラブレーの件が片付いたばかりのバート警部が担当に就いた。捜査の遅れを取り戻すべく、忙しくしているそうだ。
そして、つい先日スカーフィア侯爵邸前で襲撃事件があった。
セイラムは翌日、その時の被害者、アルマン・クルーゾー伯爵に会いに行った。