垣根の上に立つ 九
数日後、ディアーヌとエルシー、イザベラ王女はスカーフィア侯爵邸で三人だけのささやかなお茶会を開催していた。
秋の花が咲く侯爵邸の庭にテーブルと椅子を設置し、温かい紅茶と焼き菓子やサンドイッチ、果物を摘まみながらお喋りを楽しんでいた。
話題はもっぱら先日のジョゼフ・ランベールたちのことだ。
「とりあえず、当分の間、穏やかな日々が遅れそうね」
濃紺の布地に金色のレースのドレスを着たイザベラ王女がすっきりとした顔で言う。とても晴れやかな顔色だ。
「ええ、本当に! 学院がとても静かになって、過ごしやすくなりましたわ」
淡いオレンジ色のドレスを着たエルシーが晴れ晴れとした顔で頷いた。詰まった襟元には白いレースが重ねられている。髪にはドレスと同じ色のリボンを飾っていた。
「エルシーは長年被害を受け続けてきたものね。そう言えば、アレとの婚約は正式に破棄になったのよね?」
そう尋ねるディアーヌは琥珀色のドレスを着ている。胸元には白薔薇の生花。髪には白いレースのリボンをカチューシャのように巻いていた。
「ええ、なかなか愉快な話し合いだったわ」
エルシーは上機嫌でその話し合いを思い起こした。
***
学院で騒ぎを起こしたあの日の翌日、アークレー子爵はすぐにランベール伯爵父子を自邸に呼び出した。
父親に引き摺られてやって来たジョゼフはこれ以上ないぐらい不機嫌だった。それはそうだ、サラザール公爵とスカーフィア女侯爵から抗議文が送りつけられ、父親には叱られ母親には泣かれ、昨日はめちゃくちゃだったのだから。
だがそれを、ジョゼフは自分の責任ではないと思っていた。
不機嫌なままアークレー子爵邸の客間に入り、着席する。
「ランベール伯爵、早速本題に入らせていただきたい。貴公のご子息によるイザベラ王女殿下への無礼な振る舞い、男爵令嬢との不貞、平民を見下す態度、王位の簒奪を目論んでいるとも取れる発言。とても見過ごすことはできません。よって、ご子息と我が娘との婚約を……」
「ま、待ってくれ、アークレー子爵! すまなかった! この通り、謝罪する! 息子にも反省させるから、どうか、婚約破棄だけは……」
「父上! 何を言うのです!? こんな女との婚約など、もはや継続は不可能! さっさと破棄してやりましょう!」
「ジョゼフ!?」
婚約破棄になりかけている原因が自分にあると、まったく理解できていない様子の息子に、ランベール伯爵は目を剥いて驚いた。
アークレー子爵は、ジョゼフの態度と発言に強い怒りを覚え、額に青筋を浮かべる。
「ランベール伯爵令息、私の娘が君にいったい何をしたというのかね?」
アークレー子爵の問いかけに、ジョゼフは乱暴に言い返した。
「それは貴公の娘に聞くがいい! 俺はあいつに多大な迷惑をかけられているんだからな!」
「ジョゼフ!」
叫んだのはジョゼフの父親、ランベール伯爵だった。
「エルシー嬢がお前にいったい何をしたと言うのだ!? 迷惑をかけているのはこちらだというのに!」
「父上、何を言っているのです!? あいつの我儘のせいで俺は望まぬ婚約を強いられ、金に物を言わせて我がランベール伯爵家に圧力をかけてきたのですよ!?」
その瞬間客間はしぃんと静まった。
ランベール伯爵の唖然とした顔がエルシーの目に入る。
アークレー子爵は顔を引き攣らせていた。頬がぴくぴくと痙攣している。
エルシーは実に穏やかな顔で微笑んだ。面白がっている自分を自覚していた。
「お……お前……、まさか、この婚約をエルシー嬢の方から持ちかけてきたと思っているのか……?」
「そうに決まっているではありませんか! でなければ、あんな女と婚約など……!」
「ならばお望み通りこの婚約は破棄しましょう」
低い声で吐き捨てるように言ったのはアークレー子爵だった。
「よろしいですな、ランベール伯爵?」
「いや……ま、待ってくれ……」
脂汗を掻くランベール伯爵。
その父親の心など全く汲み取らず、ジョゼフは笑いながら頷いた。
「ああ、いいとも! そんな女、こちらから願い下げだからな! 父上、俺はイザベラ王女殿下に謝罪と、改めて俺との婚約を申し込もうと……」
にこにこしながら新しい――滅茶苦茶な思考回路が生み出した滅茶苦茶な――プランを披露しかけたジョゼフだったが、父親の渾身の右ストレートを喰らい吹っ飛ぶこととなった。
「ブっっ!?」
殴り飛ばされてしばらく起き上がれずにいたジョゼフだが、鼻血を垂らしながら――絨毯が汚れてエルシーは眉間にしわを寄せた――なんとか身を起こし、床から父親を見上げた。
「なっ、ちっ父上!? 何をするんですか!?」
「何を、だと!? お前は自分が何をしでかしたのか全く分かっていないのか!? アークレー子爵令嬢との婚約が破談となれば、我が家はお仕舞いなのだぞ!」
「は? え? どういう……?」
本気で分かっていない様子のジョゼフに、アークレー子爵が口を出した。
「君は勘違いしているようだが、君と娘との婚約は君の父上から頼まれてのことだ。娘の我儘ではなく、そちらから頼み込まれて私が承諾したんだよ」
「え……?」
本気でポカンとするジョゼフをランベール伯爵が怒鳴りつけた。
「ちゃんと説明しただろう! お前は一体何を聞いていたんだ!? 我が家の財政が良くなくてこのままでは破産してしまうから、アークレー子爵に資金援助を申し込み、その一環でお前と子爵令嬢との婚約を結ぶと! この婚約と引き換えにアークレー子爵から多額の資金援助を受けると! 我が家の恩人でもあるアークレー子爵家のお嬢さんを大事にしなさいと私はあれほど言ったのに! 何が子爵令嬢の我儘で迷惑している、だ! 彼女が一体いつお前に迷惑をかけたんだ、言ってみろ!」
「我が娘との婚約が破談になれば、当然だが今まで私がランベール伯爵家のために出した金銭も全て返してもらうことになる。それに、どう考えてもこの婚約破棄は君有責ということになるから、慰謝料も支払ってもらうよ」
ジョゼフはしばらく呆然としていたが、父親とアークレー子爵の話が徐々に脳に浸透し、理解できたらしく、だんだん顔が引き攣り青褪めた。
その光景をエルシーは冷めた目で見ている。
ジョゼフは少し前までの貧乏暮らしを思い出していた。
立派な屋敷はあっても手入れが行き届いておらず廊下や部屋の隅には埃が溜まり、使用人の数も最低限で、身の回りのことは全て自分でしなければならない。
食事も粗末なものだし、甘い菓子などめったに食べられない。
伯爵夫人である母は実家から持ってきた宝石を売却して家計の足しにしたうえ、ドレスも古いものを仕立て直して何度も着ていた。
ジョゼフの服も、父親のものを仕立て直したものだった。色やデザインが好みではなく、何度も不満を訴えたが聞き入れてはもらえなかった。
そんな生活に逆戻りしてしまう。
慌ててジョゼフは自分の潔白を訴えた。
「ちっ、違うんです、父上! か、勘違いです! エルシーに迷惑をかけられただなんて、俺の勘違いでした! なっ、エルシー!」
振り向いて同意を求めるジョゼフをエルシーは氷よりも冷ややかな目で見つめたのち、鼻で笑い飛ばした。
「そうね、ジョゼフ。私はあなたに迷惑なんて何一つかけていないわ。あなたの方が私に迷惑をかけているのよ」
う、と怯んだジョゼフにエルシーは追い打ちをかけた。
「それに、確かあなたとモラン男爵令嬢は、私との婚約破棄にかこつけて、我が家の財産を全部貰う、とか言っていたわよね」
「何だと?」
アークレー子爵は耳を疑い、すぐに鋭い目つきでジョゼフを睨みつけ、深い溜息をついて首を振った。
もはやエルシーとジョゼフとの関係修復は不可能だろう。
例え関係が修復できたとしても、隣国の王女に無礼を働き、子爵家の財産を奪い取ろうなどと考えている者になど大事な娘を嫁がせられるわけがない。
アークレー子爵の反応を見て圧倒的に不利だと悟ったのか、ジョゼフは今度は逆切れと悪足掻きを始めた。
「でっ、出鱈目だ! そいつらが言っていることは全て出鱈目です! 父上! 信じてください! アークレー子爵家の財産を奪うだなんて、そんなことを言った覚えはありません!」
「イザベラ王女殿下が証人になって下さるわ」
ジョゼフはぐうっ、と呻いて黙り込んだ。さすがに王女を敵に回すことはできないし、彼女は正しいことを言うだろう。
婚約破棄を回避するいい方法が思い浮かばず、ジョゼフは脂汗を掻きながら拳を握り込んだ。
アークレー子爵はようやく静かになったジョゼフを見て再び深い溜息をつき、ランベール伯爵に話しかけた。
「ランベール伯爵、もはや娘にご子息に対する愛情は欠片も残っていない様子。私も彼を義息子と呼ぶことはできません」
ランベール伯爵は長い沈黙ののち、苦渋の表情で頷いた。
「…………わかった。この婚約は息子有責で破棄としよう」
「申し訳ない」
「謝るのはこちらの方だ。実に申し訳なかった」
深く頭を下げるランベール伯爵に、アークレー子爵は顔を上げるよう言い、すぐに慰謝料についての話し合いを始めた。
慰謝料の支払いと、アークレー子爵家がランベール伯爵家のために出した多額の資金を、全額耳を揃えて返すこと。
全て一度に支払うことは不可能であるため、利息を付けて分割払いにすること。
これらを素早く取り決めて契約書に署名し、ランベール伯爵は息子を引き摺って帰っていった。
ジョゼフはエルシーとアークレー子爵を睨みつけ、『覚えていろ』とか、『今に見ていろ』などと捨て台詞を吐いて父親に連行されていった。ありきたりすぎて実に詰まらないし、現状を理解できているのかいないのか、彼の頭の具合が心配になる。
ようやく静かになり、エルシーはほっと一息つき、隣に立つ父親と笑い合った。
「すまなかった、エルシー。父さんがこの婚約を受けてしまったから……」
「お父様の所為ではないわ。ちょっとお馬鹿さんだけど、最初は優しかったもの、ジョゼフ様。馬鹿さ加減がエスカレートしてきたのはモラン男爵令嬢と親しくなった一年ほど前からよ」
そう、彼女がジョゼフを良いようにおだて上げた所為でジョゼフの馬鹿さ加減に拍車がかかったのだ。
「お父様、モラン男爵令嬢にも慰謝料を請求しなければいけませんわ。彼女との浮気がそもそもの原因ですもの」
「おお、そうだな。その様に手紙を送ろう」
エルシーは心の底から強い疲労感を感じた。この一年程、アリーシャと親しくなったジョゼフから毎日のように罵倒され続け、心がすっかり疲弊しきっていたのだ。
ようやくジョゼフとの縁が切れることに、エルシーは心から安堵した。