垣根の上に立つ 幕間・二
男は瞠目した。
パブに一杯ひっかけに行ったら、いつぞやのように青年がカウンターに突っ伏して泣き言を言いながらやけ酒を煽っていたからだ。
慌てて駆け寄り、青年の手からグラスをひったくる。
「おい、君。一体どうしたというんだ? また例の若様に泣かされたのか?」
青年は酒と涙でぐしゃぐしゃになった顔で男を見上げ、以前一杯おごってくれた人物だと思い出すや否や、本格的に泣き出した。
男は店員に水を頼み、出てきたそれを青年に飲ませた。
「ずびばぜん……、ずびっ、ありがとうございます……」
「構わない。今日は一体どうしたんだ?」
水を飲み干し、男が差し出したハンカチで顔を拭いて、青年はようやく落ち着いた。
「ええ、あなたの言う通り、若様なんですよぅ」
思い出すと泣けてくるのか、青年の目に涙が浮かぶ。
怒りや憤り、悔しさなどが入り混じった涙だ。
「先日、若様は婚約者とその父親に婚約破棄を言い渡されたんです。多額の慰謝料を払うことになって……おまけに、その婚約者の家に多額の資金援助をしてもらっていたんですが、それも全部返さなくてはならなくなって……」
「資金援助?」
「元々当家は羽振りがよくなかったんです。旦那様に領地経営の才能が無くて、そのせいで。でも、婚約者の家が援助をしてくれたおかげで当家は立ち直り、使用人も増えて、おかげで僕も雇ってもらえたんですけど……」
「クビになりそうなのか?」
青年は首を横に振った。
「いえ、もう辞めてきました」
「は?」
男が顎を落とすと、青年はちょっとだけ笑った。
「提供してもらった資金の返済と慰謝料の支払いで、あの家は間違いなく傾きます。今後はこれまでのように大勢の使用人を雇っておくことはできなくなるかもしれない、とうちの執事に言われました。若い者は退職金を出せる今のうちに辞めて、新しい仕事を探せ、と」
「そうか」
男は静かに頷いた。この青年、思った以上に冷静だ。
「おまけに、若様は通われている学院で、こともあろうに留学してきたバレンティア王国のイザベラ王女に無礼な振る舞いをしたそうで、バレンティア大使と外務大臣から厳重な抗議が来たそうです」
青年は項垂れた。
「あの家ははっきり言っておしまいです。わかっていないのは若様だけです。この期に及んで自分は悪くない、と言っているんです。旦那様と奥様にあれほど叱られたのに、未だに自分は次期国王だなどと言って……ずっと怒鳴り散らして僕たち使用人に当たってくるんです」
青年は言葉を切って水を一口飲んだ。男がお代わりを頼んでおいたのだが、青年は気付いていないようだった。
青年の目に涙が浮かんだ。
「ぼっ僕があんなに泣いていたのは、若様に兄や両親を侮辱されたからなんです。魔術師などまともな人間じゃない、育てた親もまともではない、俺が王になったら魔術師を全員奴隷階級にして、逆らうものはみんな火炙りにしてやる、と、そう言われて……」
男の心に暗い炎が灯った。
その炎はかつての怒りと絶望を思い起こさせた。
若様とやらが王になることなどあり得ないだろうが、そういう思想の者が貴族――支配層の中にいるというのは大問題だ。
男の中のリストに名前が一つ書き足された。
男の暗い眼差しには気付かず、青年はもう一杯水を飲み、満足してほっと息を漏らした。
「そう言えば、先日のあの貴族らしき人は今日は来ていないんですね」
そう言いながら青年は店内をきょろきょろと見回す。
「そのようだな。何だ、私より彼に会いたいのか?」
「いえ、そんな! もちろんあなたにも会いたいと思ってましたよ! でも……」
青年は慌てて首を振った。その直後に少し遠い目をする。
「綺麗な人だったな、と思って」
その言葉に、男は先日会った貴族の男の姿を思い浮かべた。
青みを帯びた艶やかな黒髪、紫水晶のような瞳。顔も小作りで色白で、最初に見た時男装の麗人かと思った。
――いや。
ふと思ったことを男は心の内に仕舞い込んだ。
これはここで言うべきではないし、この青年には関わりのないことだ。
「あっ」
青年が声を上げたので、あの貴族の男が来たのかと思って男は顔を上げた。だが、誰もいない。
「何だ?」
「あ、いえ、すみません。あの貴族の方に近いうちにまた会えたら、雇ってくれそうなお宅を紹介してもらえないかな、と」
「……お前は本当にしっかりしているな」
男は苦笑しながらアブサンを一口飲んだ。




