垣根の上に立つ 八
「お、王女殿下……?」
「あなたが次期国王ですって? どこからそんな妄言が飛び出してきたのかしら? そもそもランベール伯爵家に王位継承権はないはずよ。それとも、王位の簒奪でも考えているの?」
「い、いえ、そんなことは……」
「では、何故? 何故自分が王位継承者だなんて勘違いをしているのかしら? ことと次第によってはルビロ国王陛下に報告申し上げなくては」
「おっお待ちください!」
ジョゼフは焦って大声を上げた。
「妄言などではありません! ルイ王太子殿下は未だ幼く、まだまだ頼りにはなりません。そこで、私が代わりに……」
「代わりに? ルイ王太子殿下が幼いと言っても、御年十歳。あと数年もすればご立派に成長されるわ。それに、今もうすでに公務を立派にこなしておいでよ。頼りにならないですって? どこを見て言っているの?」
ジョゼフは何か言おうと口をパクパクさせた。だが、何か言う暇を与えずイザベラ王女は畳みかける。
「それに、あなたより高位の元王族の貴族は他にもいるでしょう? なぜ彼らを飛び越えてあなたがしゃしゃり出ているの?」
「う……あ……それは……」
言葉に詰まったジョゼフに、イザベラ王女は大きなため息をつく。その溜息にエルシーの溜息が重なった。
「私、自分の婚約者がここまでお馬鹿さんだったなんて知らなかったわ」
エルシーが笑顔で暴言を吐いた。
「お望み通り私とあなたの婚約は破棄としましょう。なるべく早いうちに……明日にでも、あなたのお父様のところに文書を持っていくわ。伯爵邸にいてくださるよう伝えておいてちょうだい」
商売第一、御家大事のエルシーに婚約者に対する情はもはや残ってはいない。あるのは馬鹿の巻き添えを喰らいたくないという思いだけだ。
ジョゼフの望んだとおりの展開になったのだが、エルシーに主導権を握られたのが気に喰わなかったらしい。
「何だと?」
ジョゼフは険しい表情でエルシーを睨みつけた。
「貴様、どの立場でものを言っている? 俺に命令するなど、無礼な!」
怒鳴るジョゼフをアリーシャが宥めた。
「落ち着いて、ジョゼフ。大丈夫よ。彼女はそのうち貧乏になるんだから!」
「……ふん、それもそうだな。財産を全て我が家に譲渡したうえに、婚約破棄の慰謝料も払わねばならないのだからな!」
はっ、と、ジョゼフは何かを閃いた顔になった。
「王女殿下! 如何でしょう、私にお怒りの様子ですので、お詫びのしるしに何か贈り物をさせてください! あの女――エルシーの実家は手広く商売をしているのです。王女殿下のお望みの品を手に入れさせましょう!」
イザベラ王女はうんざりした顔になった。
「いい加減にしてちょうだい。あなたからの贈り物なんて死んでも受け取りたくないわ」
威厳を湛えた冷たい目に、ジョゼフとアリーシャはたじろぐ。
「覚悟なさい、って私言ったわよね? 今日中に、あなたたちの父親に正式に抗議文を送らせてもらいますから」
「お、王女殿下……」
ジョゼフは混乱していた。今まで全てにおいてお前は正しいと言われて育ってきたのだ。なぜ自分が責められているのか、わけがわからなかった。
実際には、事あるごとにジョゼフが王家と親戚関係にあることを持ちだしてくるため、ご機嫌取りのために肯定されていただけなのだが、ジョゼフはそれを知らなかった。
「王女様!」
ジョゼフの隣でアリーシャが大声を上げた。
「あの、本当にごめんなさい! 突然私ごときが……男爵家の者なんかが話しかけて、迷惑でしたよね! もう許可なく話しかけないようにしますから!」
イザベラ王女が何故怒っているのか、全く分かっていない様子のアリーシャに、イザベラ王女は不快感を隠さず言った。
「あなたはまず礼儀を学び直しなさい……いいえ、その猫を被った演技を止めなさい」
ぎくり、とアリーシャは身体を震わせた。
恐る恐る王女の様子を窺う。その、何もかもわかっていると言っているような視線に、アリーシャは今度こそ顔を青くした。
アリーシャの馬鹿っぽい言動は全て演技だ。
全ては、将来豪華で何の不自由もない暮らしをするために。
元々、自分の家よりもいい家柄の貴族家に嫁いで悠々自適な暮らしをするのが目的でジョゼフに近づいたのだ。
ジョゼフ・ランベールは顔がよく、家柄も良く、適度に馬鹿だったので。
そして、こちらも適度に馬鹿を装っていた方がジョゼフを操りやすかったので、同じ程度の馬鹿を演じた。
だが、アリーシャはこの瞬間、隣にいる馬鹿を見限ることを決意した。
ジョゼフが破滅しようがしまいがアリーシャにとってはどうでもいいことだが、巻き込まれるのは御免だ。
出来れば王家やそれに準ずる貴族家に嫁ぐか、より気ままな愛人として贅沢な暮らしをしたい。そのために王家と親戚関係にあるジョゼフに近付いたのに、これでは台無しだ。
アリーシャは、あまりにも簡単にジョゼフに取り入ることができたので、イザベラ王女も簡単に攻略できると思っていた。
取り入ってから、意外とできる女であるところを見せて頼りになると思われ、信頼を勝ち取り重用される。
ジョゼフにもイザベラ王女にも大事にされ、自分の将来は安泰で薔薇色になる。なんて簡単なんだとそう考えていた。
だが、アリーシャはそもそも頭の出来があまり良くなかった。
誰かが彼女の計画を聞いていたら、『そんなガバガバな作戦が上手くいくわけがない』と言ってくれただろう。
そして案の定、アリーシャの計画は全くうまくいかなかった。
だからさっさとジョゼフを見限り離れることにした。新しい男を見つけなければならないから。
アリーシャはぽろぽろと涙を零し始めた。
「わっ、私、ただ、ジョゼフの言うことは全部正しいことだと思って……だっていつだってジョゼフは真面目で正直で正義の味方だったし、だからジョゼフが『自分はやがてこの国の王になる』って言った時だって、それはきっと事実なんだって思って……」
全部本当のことだ。
ただ、ジョゼフがお馬鹿さんであることを、良いように利用していただけで。
「でも、ジョゼフ、私、最近あなたのことが信じられなくなってきたの……」
「あ、アリーシャ!? 何を言うんだ!?」
涙で瞳を潤ませながらアリーシャは言った。
「だって、私、あなたに一度も『好きだ』とか『愛してる』とか、言ってもらったことがないわ」
ぐぅ、とジョゼフが呻いた。
言っていなかったのはエルシーと婚約していたからだ。浮気はまずい。初めは確かにそう思っていた。
だが、最近はすっかり言った気になって、勝手に想いは通じ合っていると思い込んでいた。
「だから私、ジョゼフは私のことを本当の恋人とは思っていないんだと、そう思って……」
ぐすぐすと鼻を啜りながら泣くアリーシャに、ジョゼフは焦りながら言った。
「すっすまない、アリーシャ! とっくに言った気になっていたんだ! 今改めて言おう、お前を愛している!」
「ジョゼフ……」
アリーシャは熱っぽい目でジョゼフを見つめ、ふいに目を逸らした。
「ごめんなさい、もう遅いわ……」
「アリーシャ!!?」
愕然とした顔で動きを止めるジョゼフ。
アリーシャはうまくいった、と思った。これなら自分も被害者として見てもらえると。
ディアーヌは、うまく逃げたな、と思っていた。エルシーもイザベラ王女もだ。
誰もが、彼女が罪を逃れるためにこんな茶番劇を演じたのだとわかっていた。
実際、彼女の発言は全て事実なのだろう。嘘は一つも言わず、真実のみを言ってうまく自分も被害者であるかのように持って行った。
馬鹿ではあるが愚かではない。
ジョゼフは馬鹿以外の何者でもないが。
「あら、じゃああなた、ジョゼフ様と付き合っていたわけではないというの? 私、あなたとジョゼフ様が今にも口付けしそうな至近距離で見つめ合ったり抱き合ったりしているのを何度も見ているのだけれど。どうなの、モラン男爵令嬢?」
エルシーの問いにアリーシャは焦った。
「そ、それはジョゼフが、その」
「ジョゼフが? 何かしら?」
意地悪そうに問いかけるエルシーに、アリーシャは一瞬逡巡し、口を開く。
「ジョゼフが、無理矢理……」
「アリーシャ!?」
信じられない、といった表情のジョゼフを無視して、アリーシャは言葉を続けた。
「そうよ、だって、ジョゼフは次の国王になる人だと思っていたから、逆らえるわけがないでしょう!?」
ジョゼフはショックのあまりさらに青い顔になった。アリーシャとは両思いだと思っていたからだ。
それがこんな裏切りのような発言をされて、ショックで言葉も出ない。
「上手く逃げたわね……」
ディアーヌがぼそりと呟いた言葉に、イザベラ王女とエルシー、フィデルとミラグロスは頷いた。
うまく行ったとほくそ笑んでいるアリーシャに、イザベラ王女は厳しい声をかけた。
「今の言葉が真実だとしても、あなたの数々の無礼が帳消しになるわけではないわ。覚悟しておくことね」
その言葉にアリーシャは鬼のような形相になった。
「なっ何でよ! 私、謝ったじゃない! それに私は被害者で……」
「被害者? どこが? あなた、嬉々として自ら私の友人たちに暴言を吐いていたじゃない。それに、周りを見てごらんなさい。誰も貴方が被害者だとは思っていないわよ」
促されて周りを見たアリーシャは、居合わせた者たちの冷たい視線を浴びて震えた。
アリーシャは、自分は学院の人気者なんだと思っていた。だって美少女だし、男性たちはみんな自分をかわいいと言って褒めてくれるし、自分のおねだりを何だって聞いてくれるから。
だが、この場にいる者たちがそう思っていないことはもはや明白だった。
「う……う……あ……」
唇を戦慄かせながらアリーシャは呻き、イザベラ王女、エルシー、ディアーヌを順番に見回し、ディアーヌをぎろりと睨みつけた。
「覚えてなさいよ!! 庶民の分際で!」
そしてその場から走り去った。
ジョゼフを置き去りにして。
置いて行かれたジョゼフはがっくりと項垂れたと思うとすぐに顔を上げ、同じようにディアーヌを睨みつけるとこちらも捨て台詞を吐いた。
「貴様……ただで済むと思うなよ、庶民風情が……」
そしてこちらも足早に食堂を出て行った。
後には何とも言えない空気と疲れた表情のディアーヌたちが残った。
「ディアーヌ」
イザベラ王女が静かにディアーヌを呼んだ。
「……何でしょう」
疲れた表情でディアーヌが振り返ると、イザベラ王女は黒い瞳を怒りに燃やしていた。
「何なのかしら、あの二人は。ねえ、遠慮しなくていいわよね? あの二人、反省する気がないみたいだし。それなら私だってその気でやってやるわ」
ディアーヌは『もうどうにでもなーれ』という気分で頷いた。
「あらまあ、大変なことになったわね」
のんびりした口調で話しながらエルシーが近寄ってきた。口調はのんびりだが表情は険しい。
そこに、ジゼルとセリーヌ、それからスカーフィア侯爵家の双子たちが駆け寄ってきた。
「ディアーヌ」
双子のどちらか……おそらくディジアスがディアーヌに声をかける。
「ディジー、ティニー、ごめんなさい。勝手に家名を使ってしまったわ」
「それは別に問題ないよ。君も侯爵家の人間じゃないか」
「そうだよ。変な遠慮はいらないよ。それよりあいつら。何、あれ? 阿保なの?」
「阿保じゃなかったら馬鹿だよ」
「もしくは間抜けだね。ディアーヌを庶民呼ばわりだなんて」
「王女殿下に対してもあんな無礼な態度を取るなんてね。母様が激怒するよ。あいつ、国王陛下の従弟だろ? 誰が責任を取ることになるの?」
「国王陛下じゃない?」
ぽんぽんと話す双子に口を挟んだのは当のイザベラ王女だった。
「責任を取るのはあの阿保本人よ。もしくは彼の父親かしら」
「ああ、そっか。なるほど、仰る通りですね」
「子供のしたことは親の責任ですもんね」
にこにこと微笑み合う双子とイザベラ王女の姿に、ディアーヌは背筋に寒気が走るのを感じた。
――出会わせてはいけない人たちを出会わせてしまったかも。
エルシーも同じことを考えたようで、二人そろって顔を引き攣らせる。
「あの、ディアーヌさん」
ジゼルの声にディアーヌは振り向いた。
ジゼルとセリーヌは頬を微かに染めていた。
「とても格好よかったです! あのランベール伯爵令息に対して一歩も引かず! むしろ押し返す勢いで!」
「ディアーヌさんのあの勇気と度胸、見習いたいです!」
胸の前で手を組んできらきらとした眼差しでこちらを見る二人に、ディアーヌは遠い目をした。
度胸はセント・ルースでの暮らしの中で実地で鍛えられたものだ。花びらと人魚亭にやって来た横暴な客を追い出したり、客同士のトラブルを仲裁したり、貝を採っている最中に他の漁師とトラブルになったり。
漁師たちはたいてい筋骨隆々で真っ黒に日焼けし、身体のあちこちに刺青を彫っている。つまり大変迫力と威圧感のある見た目をしている。その漁師たちとの縄張り争いや他のトラブルに巻き込まれた時、ディアーヌは一歩も引かなかった。
喧嘩は舐められたらおしまいなのだ。
おかげで『狂犬』などというありがたくない仇名を付けられた。
「お、おほほ……。あまり見習わない方がいいわよ……」
その時、タイミングよく予鈴が鳴った。
「ディアーヌ、エルシー」
イザベラ王女に呼ばれて二人は振り向く。
王女殿下はフィデルとミラグロスを従え尊大に立っていた。
「さっき言ったけれど、放課後、スカーフィア女侯爵に会いたいの。いいかしら?」
「はい、もちろんです。伯母に連絡しておきます」
「あと、エルシー。彼が言っていた、あなたとの婚約がどうとかっていう話も後で聞かせてちょうだい。いいかしら?」
「ええ、もちろんです」
ではまた後で、とディアーヌはイザベラ王女やエルシーらと別れて大急ぎで学院の小間使いたちの控室に行き、近くにいた若い男の小間使いに銅貨を数枚握らせてスカーフィア侯爵邸に使いに走らせ、先ほどの件を報告してもらい、放課後イザベラ王女が面会したいと言っていることを言づけた。
次の休憩時間にその小間使いはディアーヌの元を訪れ、スカーフィア女侯爵からの『夕刻に鈴蘭宮に伺う』との伝言を受け取った。
放課後、イザベラ王女とディアーヌとエルシーは鈴蘭宮で仲良くお茶をした。途中、スカーフィア女侯爵シンシアが合流し、今日の出来事を聞いて怒るわ呆れるわで大層賑やかなお茶会になった。
ランベール伯爵家とモラン男爵家には、イザベラ王女のルビロ王国での保護者である駐ルビロ・バレンティア特命全権大使――バレンティア国王の実弟――であるサラザール公爵と、スカーフィア女侯爵から正式な抗議文が送られ、ランベール伯爵とモラン男爵は飛び上がって驚き、各々の息子と娘に事の次第を問いただしたが、自らを正当化する言葉しか聞けず、鈴蘭宮とスカーフィア侯爵邸に足を運んで詳しい話を聞きだしたのち、我が子を叱り飛ばして、謹慎処分を下した。
ジョゼフとアリーシャは当分の間学院には来られないし、社交界にも出られない。
編入初日にしておかしな連中に絡まれたイザベラ王女は、これで当面静かに過ごせそうだと喜んだ。