垣根の上に立つ 一
セント・ルースでの一件の後、声を取り戻したディアーヌの貴族令嬢としての教育は急ピッチで進められた。
特に、声がない時はできなかった話し方や発音の練習。
ディアーヌはルビロ王国南部の出身であるためわずかに南部訛りがあるのだ。
コテコテに訛っていないのは母エリザベートの教育のおかげだろう。このため話し方を標準語に矯正するのはスムーズに進んだ。
一年ほど前、スカーフィア女侯爵に『平民として育った姪に礼儀作法を教えて欲しい』と
頼まれた教師は、大変な仕事になることを覚悟したが、実際は思っていた以上に楽だった。
ディアーヌは言動の端々に荒さはあるが、基本的なマナーはきちんと知っていた。
姿勢は美しいし歩く時も足音はほとんど立てない。テーブルマナーは経験不足からくる失敗は多々あったが、食べる時に音は立てないしナイフとフォークはきちんと扱えている。
書く文字も流麗で美しかった。
これらは全て母から教わったのだと、ディアーヌは嬉しそうに話した。
ディアーヌの母はスカーフィア侯爵家の令嬢だった。自分が教わってきたことを娘にも教えたのだ。将来きっと娘の役に立つだろうと思ってのことだろう。
夏の終わりに受けた、ロイズ王立学院への編入試験の結果が見事合格であるという通知が届き、スカーフィア女侯爵はディアーヌの編入準備を大急ぎで進めた。
学院の新学年は九月から始まるため、ディアーヌはちょうどいいタイミングで編入することになる。
学院と契約している仕立て屋に行って新しい制服を作り、鞄や筆記具も買い揃えた。鞄は無難なデザインだがしっかりとした造りの質の良いものだ。
間もなく届いた真新しい制服に袖を通したディアーヌは期待に胸を膨らませた。
金釦の付いた黒いジャケットに灰色のベスト。白いブラウスの襟元には薄紅色の小花の刺繍が施された黒いリボンを結ぶ。
スカートは濃紺で膝下まで丈があるものだ。ストッキングは肌色か黒という指定があったので、ディアーヌは黒を選んだ。幼い頃お転婆だったせいで膝などに少し目立つ痣などがあるのだ。肌色のストッキングだと透けてしまうかもしれない。
足元は黒色でショート丈の編み上げブーツを履くことにした。
そしてジャケットの胸には学年を意味する数字の刻まれた金色のバッジ。ディアーヌは五年生なのでデザイン化された数字の『5』が刻まれている。
すべて身に着け伯母に披露すると、伯母は涙ぐんでディアーヌを抱きしめてくれた。
「よく似合っていてよ、ディアーヌ。リーザがロイズに入学した時のことを思い出すわ」
スカーフィア女侯爵――シンシアは懐かしむように目を細めた。
「ありがとうございます、伯母様」
そこに、シンシアの息子たち――双子のディジアスとティニアスが顔を覗かせた。
「わぁ、よく似合ってるよ、ディアーヌ」
「編入日は来週だっけ? 楽しみだなぁ」
「僕たちが校内を案内してあげるからね」
「見たいところどこにでも連れて行ってあげるよ」
ぽんぽんと交互に喋る双子たち。二人もロイズ王立学院の生徒だ。歳はディアーヌより二つ下の十四歳。母親譲りの金髪に青い瞳の、将来確実におモテになること間違いなしの整った顔立ち。
そして大変よく回る口。
頭の回転も速いため、よく意地の悪い上級生をやり込めているそうだ。
「あなたたち、何です、女性が着替え中の部屋に入ってきて! あっちに行ってなさい!」
母親に叱られた双子たちは陰でペロリと舌を出しながら反論する。
「着替えがもう終わっているのはちゃんと確認したよ」
「そうだよ、僕たちだってさすがに着替えの最中に入ったりしないさ」
「それならこちらが呼ぶまで待っていればいいでしょう!」
母親に叱りつけられ双子はすたこらさっさと逃げ出した。
何故かはわからないが、ディアーヌは双子たちに気に入られている。ディアーヌが声を失い筆談しかできなかった時もぽんぽんと左右から交互にテンポよく話しかけられ返事に困ったものだ。返事を書いていたのでは間に合わない。だが書く以外に返事をする術を持っていなかったので、とにかく早く、それでいて丁寧に書くよう心掛けた。
後になって手話や指文字というものの存在を知り、もっと早く知りたかった、と悔しい思いをした。
「ごめんなさいね、ディアーヌ。あの子たちったら……」
まったくもう、と呆れたように溜息をつくシンシアに、ディアーヌは首を横に振った。
「私は気にしていませんわ、伯母様」
「あなたはもう少し気にしなさい。それよりも……」
シンシアは真面目な顔をしてディアーヌを見た。
「あなたに一つ頼みたいことがあるのよ」
「頼みたいこと……? 何でしょうか? 私にできることでしたら何でもします」
「本当? よかったわ。そんなに難しいことじゃないのよ」
シンシアはにこにこと笑いながらとんでもない爆弾を投下した。
「近々ロイズ王立学院に留学してくるバレンティア王国のイザベラ王女の友人になって欲しいの」
一瞬の沈黙、静寂。
ディアーヌの耳は確かにその言葉を聞き取ったが、頭が理解することをちょっとだけ拒んだ。
「伯母様、今なんて仰ったの? もう一度言っていただけます?」
冷や汗をかきながらディアーヌは伯母に問い返した。
「バレンティア王国の、イザベラ王女の、友人になって欲しいのよ。王女も見知らぬ異国で心細い思いをしているでしょうし、歳の近い話し相手がいた方が早くこの国に慣れるでしょう?」
いやいやいや、心細い? 一人で留学してくる度胸のある人が? そもそも王族なんだから度胸は人一倍あるだろう。心臓に毛ぐらい生えているはずだ。
歳の近い話し相手なら他にもいるだろう。それこそロイズ王立学院の生徒とか――と考えたところでディアーヌはふと気付いた。
相手は一国の王女殿下なのだ。しかも、父である国王に溺愛されそれはそれは大事にされている、と聞く。そんな掌中の珠とも言うべき大事な王女を安心して任せられる人物など少ないだろう。下手な者に任せたのでは国際問題になる。
バレンティア王国はルビロ王国の最重要同盟国なのだ。万が一のことがあった場合、三百年前のように両国の間で戦になってしまうかもしれない。
外務大臣である伯母はあれこれ考えて最終的に姪であるディアーヌなら信頼できると判断し任せることにしたのだ。
果たして自分に――つい一年前まで平民として、治安のあまり良くない港町の、しかも娼館で暮らしていた自分にこの大役が務まるのだろうか。
ものすごく不安だったが、お世話になっている身で拒否するのは心苦しいし、伯母がディアーヌなら大丈夫だと判断したのだ。
いっちょやったるか、とディアーヌは自分を奮い立たせた。
「わかりました、伯母様。王女殿下と仲良くなれるよう全力を尽くします」
「引き受けてくれるのね! ありがとうディアーヌ!」
シンシアはディアーヌを優しく抱きしめた。彼女は事あるごとにディアーヌを抱きしめてくれる。ディアーヌの死んだ母親の代わりになろうとしているのかもしれない。
伯母からは優しく甘い香りがした。
母の匂いにどこか似ていた。
安心できる匂いに包まれながら、ディアーヌは自分の人生が思いもよらぬ方向を向いてきたことに秘かに焦燥感のようなものを感じていた。
***
イザベラ王女が留学して来るのは、予定では十月の初めになっている。それまでの約一か月間でとりあえず学院に馴染まなければならない。
セント・ルースから戻った直後からディアーヌは伯母から外出を控えるよう言われていた。若い女性ばかりを狙った連続殺人事件が起こっていたためだ。
キャラハン子爵令嬢が殺されたと聞いて、それまで対岸の火事、高みの見物を決め込んでいた貴族たちに激震が走ったそうだ。
主だった貴族たちは自分の娘の外出を禁じ、護衛を追加で雇うなどした。
ディアーヌには契約したアエスという高位精霊が憑いている。並の魔術師なら相手にならないほど強い精霊だが、それでも伯母は心配し、なるべく外に出ないよう言ってきた。特に外出しなければならない用もなかったので、ディアーヌは大人しく侯爵邸に籠り、編入試験に向けた勉強や、刺繍などをして過ごしていた。
刺繍も母から教わったものの一つだ。こつこつと細かい作業をするのが案外向いていたらしく、引き籠っている間にディアーヌの刺繍の腕はみるみるうちに上達した。今では立派な特技の一つだ。
今後は自己紹介の場で『特技は水泳と賭け事です』なんて言うわけにはいかないから、新しい特技が増えたのはありがたかった。
事件が解決したのはそれから間もなくだった。
ディアーヌの声を取り戻してくれたリオン伯爵が事件を解決に導き、犯人を捕らえたそうだ。
そのお手柄話を聞きに伯爵邸に遊びに行きたかったが、伯爵も何やら忙しい様子だし、ディアーヌ自身も編入試験の準備などがあり、セント・ルースから戻って以来伯爵には会えず仕舞いだった。
――学院生活が落ち着いたら会いたいって手紙に書いてみようかな。
手紙はちょくちょく出していた。近況報告やちょっとした愚痴、伯母に連れて行かれたお茶会で他の貴婦人たちがディアーヌを侮って仕掛けてきたちょっとした意地悪とそれをいかに回避したか。そんなことを書いていたが、会いに行きたいとは一度も書いていなかった。
――連続殺人事件の犯人の裁判も終わったし、たぶん今が絶好のタイミングだと思うのよね。私も無事に学院に入れたし。
編入二日目の登校中、侯爵家の馬車に揺られながらディアーヌはそんなことを考えていた。馬車には双子も一緒に乗っている。
それからアエスも。
セント・ルースでの一件の後、リオン伯爵立会いの下ディアーヌとアエスは正式な契約を交わした。それまで契約だと思っていたものはただの口約束でしかなく、アエスには実はディアーヌを守る義務はなかったのだと知った時は心底驚いた。
口約束で自分を守り、今後も守り続けてくれるつもりだったのだ、この精霊は。
人が好いにも程がある。そうは見えないが。
学院では、姿を消した状態でつかず離れずの位置からディアーヌを守ってくれるらしい。
今は双子に強請られて手のひらの上で水を様々な形に変えて見せている。
荒々しい竜から伸びをする猫、かと思えば美しい薔薇の花に、水は次々に形を変え、その度に双子は目を輝かせて喜ぶ。
アエスが正式にディアーヌの守護者になってから、双子たちはアエスに対して遠慮が無くなった。元来の人懐っこさでぐいぐいと近寄り、魔術を見せてくれと強請るのだ。
アエスは困った顔で最初こそ伯母に助けを求め伯母も双子たちを止めてくれたが、双子たちはしつこかった。自分たちの好奇心が満たされるまでアエスに付き纏い話しかけ続ける。
アエスは悟った。
下手に拒否するよりも二人の好奇心を満たしてやった方が後々楽だということを。
なので今では強請られたら簡単な魔術をさっさと見せてやることにしているようだ。
馬車はロイズ王立学院の正門前の広場に到着した。他にも馬車が何台か停まり、生徒を降ろしている。
「ディジー、ティニー、着いたわよ。降りる支度をして」
「もう着いたの?」
「最近着くの早くない?」
「あなたたちがアエスに夢中になっているから、時間が経つのが早く感じるだけよ。さ、行きましょ」
二人に鞄を持たせると、タイミングよく御者が馬車の扉を開けてくれた。
アエスがさっと降り、ディアーヌに手を差し伸べる。
「ありがとう」
ディアーヌはアエスの手を取って軽いステップで馬車から降りた。その後双子たちが我先にと飛び出してくる。
「危ないわよ、二人とも!」
「大丈夫だよ、ディアーヌ!」
「じゃあお先に! また放課後に迎えに行くよ!」
双子たちは言いながらバタバタと正門の中に駆け込んで行った。
「元気ねえ。あんなに急がなくてもいいのに」
「……昨日、まだやっていない課題があるから、登校してから教室でやると言っていたが」
「あらまぁ」
ディアーヌは呆れた声を出した。あんなに伯母に言われていたのに結局やらなかったのだ、あの双子は。
御者に帰りの迎えを頼み、ディアーヌは正門を潜った。正門の内側には庭園が広がり、草木の緑が朝の日差しに映えている。
アエスはいつの間にか姿を消していた。気配は感じられるので、見えないだけですぐそばにいるのだろう。
ディアーヌは胸元にそっと手をやった。
ディアーヌの母、エリザベートが死ぬ直前にディアーヌに手渡した大粒の真珠玉がアエスの魂の欠片だと知ったのは正式な契約を交わした後だ。そんな大事なものだとは露知らず、ディアーヌは簡単に布に包んで小箱に仕舞うだけの扱いをしていたため、知った時は冷や汗をかいた。
――知っていたら鍵の付いた金庫にでも入れていたのに!
そう言ったら、『仕舞い込まずに持ち歩いてくれ』と言われたので、今は薄い布で作った小さな巾着に入れ、紐を通して首から下げている。
落としはしないかヒヤヒヤだが、万が一落としてもアエスには在処がわかるらしいのでひと安心……なのか?
今も胸元に下げているそれに制服の布越しにそっと触れ、ディアーヌは校舎の正面玄関に入った。




