垣根の上に立つ 幕間・一
ロイズ王立学院に編入したディアーヌは、同級生のエルシーと、ほぼ同時期に留学してきた隣国のイザベラ王女と親しくなる。
学院内で傍若無人に振る舞うエルシーの婚約者ジョゼフと、彼の浮気相手アリーシャを退けたことで三人の仲はより深まる。
その頃、王都では精霊・魔術師否定派の貴族が連続して襲撃され、重傷を負わされるという事件が発生。セイラムが調査にあたるが、犯人は過去に、イザベラ王女の母国であるバレンティア王国に因縁があった。
男はいつものパブで一杯飲んでいた。
愛する者を失ってからというもの、生きることが億劫になり食事もろくにとらず酒に走る日々が続いた。
今はそんな状態は脱したものの、無気力な日々は三百年間続いていた。
外の通りを行き交う人を、見るともなしに窓越しに見る。
ふと、誰かの泣き言が聞こえてきた。
「本当にひどいんですよぅ、うちの若様は」
年季の入った飴色の家具。温かみのある照明。カウンターにずらりと並ぶ椅子の一つにその青年は座り、カウンターに突っ伏してマスターに愚痴をこぼしていた。
身なりはきちんとしている。おそらく、どこかのお屋敷に勤める使用人と言ったところだろう。
かなり聞こし召しているようで、顔が赤い。男が見ている前で、青年は新たにウイスキーを一杯注文した。
思わず口を出す。
「あんまり飲み過ぎると身体に悪いぞ、若いの。酒よりも、何か食べたらどうだ?」
自分のことを棚に上げているな、と自嘲しながら、男は自分のグラスを持って青年の隣に移動した。
「奢ってやろう、何が食べたい?」
そう訊くと、青年は鼻をぐずぐずと啜りながら、温かいシチューを所望した。男は青年に変わってマスターに注文する。
いくらも待たずに青年の前にシチューが出された。
湯気の上がるシチューを、青年はふうふう吹いて冷ましながら食べる。
男は青年を観察した。
そばかすと幼さの残る顔。まだ十代か、二十歳を過ぎたばかりかもしれない。
人参のような赤毛に灰色がかった青い瞳。
学校を出て就職したばかり、と言ったところだろうか。
「落ち着いたかね?」
頃合いを見て声をかけると、青年はこくりと頷いた。
「は、はい。あの、ありがとうございます……」
「気にするな。……何があったのか、聞いても?」
「はい……」
青年も誰かに聞いてほしかったのだろう。男が尋ねると、堰を切ったように自分から話し出した。
曰く、今自分が勤めているお屋敷は王家の血を引く貴族様の屋敷で、旦那様と奥様は大らかで良い人なのだが、長男が難のある人物で、自分を王位継承者だと思い込んでおり、態度も横柄、人使いも荒い、おまけに差別的な人物で、特に魔術師が嫌いだという。
「婚約者がいらっしゃるんですよ。傾きかけていた当家を立て直すための資金を出して下さった方のお嬢さんだそうで。でも若様はそのお嬢さんを邪険にして、別の女性と浮気をしているんです」
「見下げた男だな、その若様は」
「ええ、婚約者のお嬢さんは本当にお優しくってお綺麗で、俺にも気さくに声をかけてくださって……浮気相手の女性の方は若様みたいに人使いが荒くてかなり我儘な人ですがね」
何であんなのが良いんだろう、と、青年は首を傾げた。
「今日も、若様と浮気相手に無理難題を吹っ掛けられて……」
「無理難題?」
青年は俯いた。
「バレンティア王国のイザベラ王女殿下が今度留学して来るでしょう? 彼女のために作られた薔薇、『プリンセス・イザベラ』と同じ色のドレスを作るのが、貴族のご令嬢たちの間で流行っているんです。その薔薇色のドレスを作りたいから仕立て屋を呼べ、と。それは良いんですけど、王都で一番有名な仕立て屋、シャーリー・クレマンを今すぐ呼べ、と仰るんです」
「シャーリー・クレマン……俺でも名前を知っているぞ。貴婦人たちから絶大な人気と信頼を得ている人気ナンバーワンの仕立て屋だな?」
「そうです。大人気のあまり、常に予約は何か月も先までいっぱいで、王妃様も順番待ちをしているんですよ。なのに、今すぐ呼べ、なんて。無理に決まってますよ」
青年は別の仕立て屋を呼んでは、と勧めたのだが、若様と浮気相手は聞く耳持たず、結局青年はシャーリー・クレマンの店まで走った。結果はやはりと言うべきか、予約でいっぱいであることを理由に断られてしまった。
ミス・クレマンは、代わりに信頼する別の仕立て屋を紹介してくれたのだが、当然若様はそれでは納得せず、激怒して、クレマンを呼ぶまで帰ってくるな! と青年を邸から叩き出そうとした。
騒ぎを聞きつけた旦那様が息子を叱り飛ばし、浮気相手を邸から叩き出してくれたため事なきを得たのだが、青年は逆ギレした若様に、その後も一日中無茶を押し付けられたのだという。
「ひどい話だな。王妃様が大人しく順番を守っているというのに、自分たちは許されると思っているのか?」
「ええ、たぶん……」
「その若様は、何か勘違いしているのかもしれないな」
青年の反対隣りにいた人物が口を挟んできた。
女性と見まごう程美しい顔立ちの、おそらく貴族の男だ。濃いグレーのラウンジスーツに青いクラヴァット。傍らには黒塗りの杖。
青みがかった黒髪に、紫水晶のような瞳が印象的だ。
見たところ、年齢は青年と同じぐらい。どこかの貴族の子息だろうか。
「自分を王位継承者だと思い込んでいる、というのも問題だが、王族であれば無理が通ると思っているらしいのも問題だ。貴族は特権階級だが、だからこそ弁えなくては反感を買うことになる。王侯貴族が平民よりも恵まれた暮らしをしていられるのは、平民よりも重い責任を担っているからだ。君のところの我儘放題な若様は、何か重責を担っているのか?」
「いえ、若様はまだ学生の身分で、国政には携わっておられませんし、領地の経営なども旦那様がやっておられます。むしろ若様は、領地経営など人に任せておけばいいのに、と仰っていて……」
「領地経営を人任せにしようという奴に、国を任せたくはないな」
男がそう言うと、貴族の男も頷いた。
「同感だ。そんな者に国の舵取りは到底できない。君のところの旦那様はこの馬鹿息子のことをどう思っているんだ?」
「さあ……僕には分かりません。でも、当家には若様より優秀な弟君がおられるんです」
「ならひと安心、かもな」
貴族の男は自分のグラスを空にすると、マスターにおかわりを注文した。すぐに振り返って、『何かの縁だ、一杯ご馳走しよう』と言いながら微笑む。
男はその言葉に甘えてアブサンを、青年はエールを注文した。
「ところで君、先ほど言っていた、『若様は差別的な人で、特に魔術師が嫌い』というのは?」
貴族の男の言葉に、男はそう言えば、と思い出す。自分もそれについて訊こうと思っていたのだ。
何故なら男は魔術師だから。
「その、若様は我々庶民のことを見下すんです。露骨に。馬鹿にしてもいるし。旦那様と奥様、それに二番目の若様はそんなことはないんですけどね。あと、魔術師がお嫌いで……過去に魔術師に何かされたってわけではないらしいんですけど」
「大した理由もなく魔術師を嫌うものは多い。得体が知れない、とか、理念や行動が理解できない、とか。若様もそうなんだろう」
男が残念そうに言うと、貴族の男も頷いた。
「残念な話だ。魔術師には尊敬できる人物が数多くいるのに。……そう言えば、君は魔術師が苦手ではなさそうだな?」
「え、ええ。実は兄が魔術師でして。子供の頃にとある高名な魔術師の元に弟子入りしたのです」
少しだけ誇らしそうに、ややはにかみながら青年は言う。
「ほう、高名な魔術師……誰なのか聞いても?」
男が尋ねると、青年は頷きながら答えた。
「薬花姫、と呼ばれている方です」
「……それは、すごい」
貴族の男は、思わず、と言った様子で感嘆の声を上げた。
薬花姫、シャルリーヌ・バイエは魔術師の中でも薬学の権威として知られており、魔術師だけではなく非魔術師――医師や薬剤師――の弟子も取っていることで有名だ。
かなり若く見えるが、実年齢は見た目の二十倍ほどになるという。
「兄は薬花姫に弟子入りして以来、自分で育てた薬草や香草で作った薬やお茶を土産に年に数回帰ってくるんです。美肌になるお茶とか、お通じが良くなるお茶とか、疲労回復に効くお茶とか、それから……頭痛薬や熱冷ましや傷薬や……とにかく、色んな薬を作ってくれて、両親も姉たちも大助かりだと言ってます」
自慢げな顔で語る青年に、男たちも思わず微笑んだ。だが、青年はすぐに顔を曇らせる。
「魔術師を嫌っている若様のことが、正直に言って腹立たしいです。でも、僕が何か言うと若様は怒るでしょうし、僕には何もできません」
「そう思っていてくれているだけで十分だ」
男は青年の背を軽く叩いた。
「ああ、彼の言う通りだ」
貴族の男も微笑んで、もう一杯どうだとおかわりを促してきた。
酒はもう十分、と、男はシチューを、青年はひき肉のパイを、貴族の男は実は自分はあまり酒に強くないのだ、と笑って、男と同じくシチューを頼んだ。
久々に楽しい時間を、男は過ごした。