薔薇色の人生 二十一
「伯爵」
精霊の声に振り向くと、当の精霊はすっきりした顔で真っ直ぐセイラムを見ていた。
「あなたに一つ頼みがある」
「……何だ?」
やや警戒しながら問い返すと、精霊はわずかに微笑んだ。
「私には名がない。長く『スカーレット』と呼ばれ続け、彼女の姿でい続けたせいで本来の姿と名を忘れてしまったのだ。姿はこのままでいいが、名前が無いのは不便で敵わない。新しい名をつけてはくれないか?」
名前。
精霊にとっては重要なものだ。
精霊にとっての名前は自分の形や在り方を縛る呪だ。
名前を失うことは自分そのものを失うことでもある。
だからこの精霊はここまで暴走してしまったのだろうか。
「……構わないが、僕でいいのか?」
「あなたがいいのだ。頼む」
なぜ自分に……?
疑問に思いながらもセイラムは頭をひねった。すぐに一つの名前が思い浮かぶ。幸いセイラムのネーミングセンスは人並みだったし、浮かんだ名前はそう悪いものではなかった。
「……スキア、はどうだ? “影”という意味だ」
精霊は提案された新たな名前に顔を綻ばせた。
「良い名だ。スキア、スキアか……」
新たな名前を何度も呟き、喜びを嚙みしめる様子に、セイラムはほっとする。気に入ってもらえなかったらどうしよう、と、秘かに心配していたのだ。
「もういいか?」
見守っていたデジレが頃合いを見て声をかけた。セイラムが頷くと、デジレと二人の魔女も頷く。
「伯爵、この精霊――スキアはこのままお前の邸に連れて行きそばに置いておけ。然るべき時の備えとして」
デジレの発言にセイラムは目を剥いた。
「えっ、いや、ちょっと待ってください。うちにはラブレーに両親を殺されたノックワース兄妹がいます。スキアをうちに置くのは……」
「何とかせよ」
んな無茶な……!
セイラムは腹の中で黒の爺に対してしこたま文句を言ったが、当然デジレの決定が覆ることはなく、伯爵邸にスキアを連れて帰ることになった。
「セイラム様……?」
あの二人にどう説明しますか?
ウォルクの無言の問いかけにセイラムは頭を抱えながら返事した。
「……うちに着くまでに考えておく」
***
案の定ピエールとミシェルはスキアを伯爵邸に置くことに反対した。
だがその反発は思っていたよりも弱いもので、セイラムが丁寧に説明するとすぐに納得した。警戒はしているようだったが。
「案外あっさり納得したな、ピエール。ミシェルも」
セイラムの言葉にピエールは顔をしかめた。
「反対したってどうせ無駄でしょう? 組合の決定事項なわけですし」
まったくもってその通りだ。
「それに、僕たちはあの男――ラブレーのことはずっと仇だと思ってましたけど、精霊が憑いているなんて知らなかったから、こいつに関しては何とも……思ってなくはないですけど、ラブレーよりはあまり……強い感情はないです」
いつもハキハキ話すピエールだが、何とも歯切れの悪い言い方だ。その顔も複雑そうな表情をしている。
ミシェルは兄の後ろに半分身を隠し、スキアのことを見ている。こちらも複雑そうな、恐れているような顔だ。
「すまないな、二人とも。スキアは今後この屋敷に住むことになるが、無理に関わろうとしなくてもいい。無視してもいいからな」
「……無視はしません。積極的に関わりには行きませんが」
少々不満げな顔でピエールは答えた。
「私も、兄と同じく積極的には……」
ミシェルもピエールに賛同する。こちらは不満というよりは困ったような顔をしている。
「ああ、それでいい」
二人の了承を得たことで話はまとまり、ウォルクは二人を仕事に戻そうとした。だが、部屋を出ようとしたピエールが急に立ち止まり、ミシェルは兄の背中に激突する。
「痛い、お兄ちゃん」
「悪い、ミシェル」
鼻を抑えながらミシェルが先に部屋を出て行く。残ったピエールは改めてセイラムに向き直った。
「セイラム様、後で話があるんですけど」
「話?」
ピエールは何やら真剣な顔をしている。
「わかった。夜にでも僕の部屋に来なさい」
「はい」
失礼します、と言い置いてピエールは部屋を出て行った。
「さて」
最も厄介な仕事を片付けたセイラムは、後ろに控えていたスキアを見た。スキアは清幽城を出る前にぼろ布のような衣装から赤みがかった黒色のシンプルなドレス姿に変わっていた。ぼさぼさの髪も何をどうやったのか綺麗に一つにまとめ、傷んでいたのが嘘のように艶まである。
「お前、男性寄りの性別のはずでは……? その姿のままでいいのか?」
スキアは薄く微笑んだ。
「この姿の方がしっくりくる。楽だしな」
「……そうか」
本人がいいのならそれでいい。
「さすがにタダでここに置いてやるわけにはいかない。なので、お前に頼みたい仕事がある」
スキアは頷く。
「わかっている。何でも言ってくれ」
「よし、ついて来い」
セイラムはスキアとウォルクを従えて部屋を出た。向かう先は伯爵邸の地下にある書庫だ。
書庫は暗く、空気は淀み微かに埃と黴のような臭いがした。
ずらりと並ぶ書棚には書物が雑多に詰め込まれ、床にも書物が積み上げられ、書庫全体がひと言でいうなら『とっ散らかった』状態だった。
「……おお」
その散らかりぶりにスキアは思わず声を漏らす。
「お前にはこの地下書庫の整理と管理を頼みたい。……見ての通りの有様なんだ。どうも先々代あたりからこうなって、先代――父はもう諦めていたらしい」
「……なるほど。私の好きなようにやっていいのか?」
「ああ、頼む。とりあえずジャンルや年代などで分けて、どこにどんな書物があるかわかるようにしてくれ」
「わかった。任せてくれ」
やる気満々で袖を捲りだすスキアに、ウォルクが声をかけた。
「何か必要なものがあったらいつでも言ってくれ。道具でも、人手でも」
「ありがとう、執事殿」
すぐにスキアは敷物を所望した。とりあえず書物を外に運び出したいのだ、と。すぐに、書庫と倉庫の並ぶ地下の廊下に敷物が何枚も敷かれ、スキアは書物を運び出す作業に取り掛かった。
何度も往復する姿は今までで一番生き生きとしているようだ。
罪が帳消しになったわけではない。セイラムはスキアにもゼアラルと同じように魔術の行使に関する制限を設けた。自分や誰かの命を守る、という理由以外で人を殺めた場合、声帯と舌を失う、という条件を付けた契約を結んだのだ。
セイラムが生きている限り、スキアはこの条件に縛られる。ゼアラルも、だ。
自分から契約を持ちかけたゼアラルは置いておいて、スキアにはずいぶんと軽い処置になった。
セイラムとて、ラブレーとスキアがやったことを到底許すことはできない。だが、同情してしまうのだ。
セイラムの中で九歳のセイラムが泣いているから。
***
夕食の後、セイラムが部屋で寛いでいると、ピエールが部屋を訪ねてきた。
「それで? 話とは一体何なんだ?」
セイラムがそう促すと、ピエールはズボンのポケットから布で包んだ何かを取り出しセイラムに差し出した。
「これを預かっていただきたいんです」
「……これは?」
受け取ると、何かを包んでいる布は薄汚れたハンカチだった。青いチェックの模様が薄くなって掠れている。
包みを開くと、灰色の小さな石が出てきた。親指と人差し指で作った“〇”くらいの大きさだ。極端な凹凸はなく、やや平たくきれいな丸い形をしている。
「これは、もしや、お前の父親が拾ったという……?」
「ええ、そうです」
「それをどうしてお前が持っているんだ?」
「あの時……両親に置いて行かれた時です。今後の生活をどうするのか考えるために自分の持ち物を見直して、売れるものがあったら売ってお金に代えようと思ったんですけど、鞄の奥底からこれが出てきて……。ラブレーがこの石を狙っていたから、もしこれを奪われたらひどいことが起きるだろうし、その前に僕たちは殺されるだろうと思って。だからずっと隠しておいたんです」
「なるほどな。……これが」
ラブレーが執着していた石。
死者蘇生の禁術に必要なのは十二個の若い女性の心臓と大量の血液、同じく大量の輝く鉱石と特別な石。
ラブレーはこの灰色の小さな石を特別な石だと思っていたようだ。
禁術について詳しく調べてみたが、特別な石がどういったものなのかどこにも書かれていなかった。おそらくこの特別な石こそがこの術式の最重要な要であり、故に記録が抹消されたのだろう。一度巻き戻った経験のある黒の長老が命じたとの噂も聞いた。
あの爺ならやりそうだ。
「見たところ何の変哲もないただの石だな。魔力も感じない。だが、形が整い過ぎている」
「ええ、父の師匠である学者の先生も形が綺麗すぎるって言ってたらしいです。でも、加工したような跡はないって」
「うん、そのようだ」
石を矯めつ眇めつしながらセイラムは答えた。
「削った痕跡はどこにもない。この形は自然に形成されたもののようだ。……それで、どうしてこれを僕に預けようと?」
「……持っているのが怖くて」
ピエールの顔が少し歪んだ。
「あいつがこの石に執着したから両親や近所の人たちが大勢死んでしまったんです。すごく、怖い。こんな小石が……。それに、今後もしあいつと同じようにこの石を狙ってくる奴がいたらと思うと……」
ピエールの顔がさらに歪んだ。
彼が恐れているのは自分に危害が加えられることではない。妹の身に危険が及ぶことだ。
たった一人残った血のつながった家族。
父親から『頼む』と託されたのだ。
ミシェルだけは何としてでも守らなければならない。
「なるほど、わかった。これは僕が預かろう。金庫に入れて、厳重に保管しておく。金庫には泥棒除けの術式を使ってあるから誰かがこじ開けることは不可能だ。どうだ?」
そう聞くと、ピエールはほっとしたように笑って頷いた。
「それでいいです。ありがとうございます」
***
ピエールに言った通りセイラムは例の石を木の小箱に入れて、合言葉を言わねば蓋が開かないよう封印の術式を施し、更にその小箱を寝室にある金庫に入れた。この金庫は二本の鍵を同時に差し込んで回さねば開かないものだ。おまけに元より泥棒除けの術式が施されており、こじ開けようとした者はもれなく痛い目を見る。
実際、昨年伯爵邸に入った泥棒――緑柱石の竜像を盗み出した泥棒だ――もこの金庫をこじ開けようとして挫折したそうだ。不届き者どもが味わう痛い洗礼は数種類の中からランダムに選ばれるのだが、その泥棒はこじ開けようと何かするたびに皮を剝がされるような痛みを味わったらしい。
この術式を施したのはクリムゾニカなのだが、彼女曰く爪に針を刺されるような痛みを味わえたり、身体に電流を流されるような苦痛を味わえたり、炎に炙られる苦痛を味わえたり、心臓に釘を打ち込まれるような激痛を味わえたりとなかなかバラエティ豊かで楽しめるとのことだ。
頼もしいが自分が体験するのはノーセンキューだし絶対に楽しくない。
ウォルクに立ち会ってもらって二人で小箱を金庫に仕舞い――金庫は二人いないと開けられないので――ウォルクが退出した後セイラムは椅子に深くかけてしばしぼんやりした。
今日一日でいろいろあり過ぎたのだ。
スキアを預かることになったのは正直予想外だった。どうなることかと思ったがあまり心配はいらないようだ。他の使用人たちとはまだ間に壁というか溝があるようだが、それはゼアラルも同じだ。むしろゼアラルよりもうまくやっている気がする。
ぼんやりしていたセイラムはノックの音で現実に引き戻された。
「誰だ?」
しばし沈黙。
「……スキア、だ」
セイラムは頭の中に疑問符を浮かべながら「どうぞ」と返事した。
すぐに扉が開き、滑るようにスキアが入ってくる。本当に、足音もなくすーっと。
「何か用か?」
そう聞いて向かい合ったソファを勧めると、スキアは静かに座った。
「聞きたいことがある」
「聞きたいこと? 何だ?」
スキアは真っ直ぐにセイラムを見た。
「何故、罪人である私を自分の元に置くことに同意したのだ? おまけにずいぶんと待遇もいい。先ほど執事殿から給金についての説明を受けた。給金がもらえるとは思ってもみなかったぞ」
「労働に対する正当な対価を渡すのは当然のことだ。タダで置いてやることはできないとは言ったがタダ働きさせるつもりはない」
「ではガスパールのことは? 伯爵はガスパールのことも気遣ってくれたのだろう? ガスパールにスカーレットの写真を渡したり、二人の遺体を同じ墓に埋葬したり……。一体何故? 我らは罪人なのだぞ」
それに関してはセイラムも少々やりすぎたかな、と思っている。死刑囚に墓を作ってやるなど、反発がないわけではなかったが、最終的に国王陛下からどうにか許可をもぎ取ったのはある思いがあったからだ。
「……僕にも友がいたんだ。ラブレーにとってのお前のような存在が」
脳裏に浮かぶのはセイラムよりも幾分か幼い黒髪の少年。
「幼い頃、転げ回って共に遊んだ」
ゆるく波打つ猫っ毛。
「何でも話せる、心から信頼できる」
満天の星空のような美しい瞳。
「こんな関係が一生続くと思っていた」
血塗れになった両親の向こうで両手を血に染め佇む少年。
振り向いた彼のその満面の笑み。
「無二の親友が」
to be continued...