薔薇色の人生 十九
「セイラム様!!」
はっと目を開くと、目の前には心配と焦燥を顔に張り付けたウォルクがいた。いや、セイラムがウォルクの腕の中にいた。
そのまま周りを見ると、すぐそばにピエールとグローリアが、少し離れたところにゼアラルがいる。バート警部と警官らは、セイラムと精霊の一騎打ちが始まった時に、魔術合戦に巻き込まれてはかなわぬとばかりに劇場の外に退避していたが、今は入り口から顔を覗かせ様子を窺っていた。
振り向くと精霊が床に倒れ込み、ラブレーがそれに縋り付いていた。
「…………どうなったんだ?」
「セイラム様が倒れ込むと同時に、精霊にもセイラム様の魔力がぶつかったのです。なので相打ちの状態ですね」
「そうか……」
ラブレーは精霊に縋り付いてすすり泣いていた。
「スカーレット……スカーレット……起きてくれ、スカーレット……」
ふと、精霊が身じろぎ目を開けた。ラブレーは歓喜の声を上げたが、精霊は起き上がるとラブレーではなくセイラムをじっと見つめた。
その目には驚きの色があった。
魔力の衝突による影響で、セイラムが精霊の過去を視たように、精霊もセイラムの過去を視ていた。
血に染まったどこかの部屋。
血溜まりの中に倒れている男女。よく見ると、二人の顔は……特に女の方はセイラムによく似ていた。
その前に立つ幼いセイラムのか細い背中。
倒れている男女の向こうにいるもう一人の少年。
粗末な身なりで、セイラムより少し年下の少年だ。顔はどういうわけか認識できない。
その少年の両手は血塗れだった。男女の死に関わっていることは間違いないだろう。
少年は男女の死体を跨ぎ越してセイラムの前までやってくると、血塗れの両手でセイラムを抱きしめた。
そして、何事か囁いてそっと離れ、姿を消した――
大切な家族を失ったというのに、セイラムは我を失わずずっと現実にいる。
この違いは一体何なのだろう……?
リオン伯爵とガスパール。なぜこうも違ってしまったのか。
その答えは精霊には分からなかった。
「スカーレット! 大丈夫なのか?」
ラブレーの声に精霊は無言で振り向いた。
ラブレーの死人のような顔色、やつれ疲れ果てた顔つき、目の下の濃い隈、こけた頬。身体の方もやせ細っている。
だがその目だけは力が漲っていた。
「スカーレット、立ってくれ! さあ、もう一度行こう! あと一息で伯爵を倒せるはずだ! 二人で行こう、スカーレット! 新たな世界へ! そしてもう一度やり直すんだ!!」
精霊はどうしようもない空しさを感じて、無言のまま首を横に振った。
「……スカーレット?」
ラブレーの戸惑った声。
セイラムはその様子を黙って見つめる。
精霊の目から涙が零れた。
「違う……」
「スカーレット? どうしたというんだ?」
精霊は再び首を振った。
「違う、ガスパール。我は、我の名はスカーレットではない……。もう本当の名も本当の姿も忘れてしまった……。我の名は一体何だった……?」
疲れ果てた虚ろな表情で涙を零す精霊に、ラブレーは戸惑いの声を上げる。
「スカーレット、何を言うんだ! お前はスカーレットじゃないか!」
「ガスパール……」
精霊は舞台を指差した。
「では、あれは?」
舞台には布に包まれた本物のスカーレットの遺体があった。
「え、あ、え……?」
目の前にいるスカーレットと遺体のスカーレット。
スカーレットは生きている。いや、スカーレットは死んだはずだ……ほら、あそこに遺体がある。なら、今ここに、目の前にいて自分を支えてくれているスカーレットは……?
ラブレーの中に明確な矛盾が生じた。
これまでは、矛盾が生じたとしても曖昧なものだったため、脳が勝手に補完してくれていたが、今回ばかりはそうはいかなかった。
「あ……あ……あ……」
ラブレーは頭を抱え、蹲った。ひどい頭痛が襲い、たまらずその場に嘔吐する。
咳き込むラブレーの背を精霊が擦った。
「スカーレット! スカーレット!! スカーレット!!!」
絶叫するラブレーの背に今度は精霊が縋りついた。
「すまない、ガスパール! すまない!! 我では無理だった! お前を救うことはできない! 償うことすら我にはできない! もう、無理だ、疲れた……」
そのまま二人がすすり泣く声だけが劇場内に響いた。
セイラムは立ち上がり、杖を片手に歩きだした。
「セイラム様!」
「大丈夫だ」
心配するウォルクを制しセイラムは真っ直ぐ二人に近づき声をかけた。
「ラブレー」
蹲っていたラブレーが起き上がった。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。一緒に振り向いた精霊も似たような状態だった。
「ラブレー、いい加減に愛する者の死を受け入れるんだ。じゃないとスカーレットはいつまでも安らかに眠ることができないだろう。ちゃんと彼岸に送ってやれ」
セイラムの言葉にラブレーは瞠目した。
その時、風が吹いた。
風はゼアラルが開けた大穴か、もしくは建物の劣化によりできた亀裂に触れ、女のすすり泣きの声のような音を立てた。
「……スカーレット?」
ラブレーにはこの音がスカーレットの声に聞こえたようだ。
迷子の子供のような声でラブレーは妻の名を呼び、再び泣き出した。
「すまない、スカーレット……すまない……。君をちゃんと送って上げられなくて、すまない……!」
先ほどまでの絶望しきった慟哭とは打って変わって静かな涙が彼の頬を伝った。
***
「ガスパール・ラブレー男爵、十一人の女性を殺害した容疑、並びに公務執行妨害、グローリア・イヴリン・キャラハン子爵令嬢誘拐、更に、ノックワース夫妻とその周辺の者たちの殺害容疑であなたを逮捕する」
つい先ほどまでとは別人のように大人しくなったラブレーは、バート警部によって手錠をかけられた。
精霊の方はセイラムが茨の蔓で拘束し、セイラムの知らせを受けて組合が派遣した魔術師――なんと白亜の魔女、オクタヴィア・リヴァルタがやって来た――が茨の上から更に精霊用の拘束具を着けさせて組合に連れて帰った。
ラブレーと精霊、両方の取り調べにセイラムも参加した。
ラブレーは六年ほど前に亡くなった最愛の妻、スカーレットの死を受け入れられず、デュ・コロワと名乗る男から死者を蘇らせる方法を聞き、それに縋ったのだそうだ。
デュ・コロワの名前が出たことにセイラムは顔をしかめた。
精霊はラブレーが幼少の頃から遊び友達として親しくしていたのだそうだ。ラブレーと共に過ごし、ラブレーの成長に合わせて自分も姿を変え、いつかラブレーの寿命が尽きるまでそばにいるつもりだったそうだ。
スカーレットが亡くなりラブレーが心を病んでしまった時、精霊はラブレーを元気付けるためにスカーレットの姿に化けたのだが、それがラブレーの心に止めを刺してしまった。精霊をスカーレットだと思い込み、同時に死んだスカーレットを蘇らせるために奔走し始めた。
矛盾が上手いこと彼の中で同居していたが、ついに耐え切れなくなり現実に戻され、ようやく彼女の死を受け入れたのだ。
憑き物が落ちたかのようにラブレーは大人しくなった。独房の中でセイラムが差し入れたスカーレットの写真を暇さえあれば見つめている。その眼差しは驚くほど穏やかで優しかった。
東十番地区にあるラブレー男爵邸の庭の井戸からは男女二人分の白骨化した遺体が見つかった。一緒に発見された持ち物から、ピエールとミシェルの両親、フレデリクとエミリー・ノックワース夫妻の遺体であることが分かった。
数日後にピエールを喪主として簡素な葬儀が行われた。葬儀の手配はセイラムとウォルクが手伝った。
二人は静かに泣いていた。おそらく、心のどこかでもう両親には会えないと覚悟していたのだろう。取り乱すこともなく、ただ静かに涙を零していた。
グローリア・イヴリン・キャラハン子爵令嬢は事情聴取の後無事に自宅に戻り、両親と涙の再開を果たした。婚約者であるカミーユ・アトウッド伯爵令息も駆け付け、二人は硬く抱き合って無事を喜び合った。
グローリアが子爵邸に戻った後、キャラハン子爵夫妻はグローリアの案内で彼女の部屋を見に行った。
グローリアが説明した通り、その部屋は殺風景で物が少なかった。ワードローブも彼女が言った通り地味で冴えないドレスばかりで、暗い色のものが多かった。おまけに数も少ない。
反対にミレイユの部屋は可愛らしいもので溢れかえっていた。宝石箱はブローチやネックレス、耳飾りなどが収まりきらずに溢れ、ワードローブも色鮮やかで美しいドレスが数えきれないほどあった。
娘二人の持ち物の差にキャラハン子爵夫妻はがっくりと項垂れ、グローリアに涙ながらに謝罪した。
いつの間にかこんなに差がついていたことに二人は本気で気付いていなかったのだ。
改めてミレイユの魔性っぷりが恐ろしくなる。
彼女は姉を貶めたかったのだろうか? それともそんな意図はなくただ甘えていただけだったのだろうか?
「おそらく後者だろう」
そうセイラムに語ったのはカミーユ・アトウッドだった。ノックワース夫妻の葬儀の数日後にリオン伯爵邸を訪ねてきたのだ。
「ミレイユ嬢にグローリアを貶めてやろうといった考えはなかったように見受けられた。彼女はただ単に甘えていただけだ。周りにいる全ての者たちに。その中でも特にグローリアは、何でも言うことを聞いてくれて特別に甘えさせてくれる存在だった。幼い頃からそうやって育ってきてそれが当然になってしまい、更に子爵夫妻もそれを当然のことと勘違いしてしまったんだ」
「なるほど、そしてグローリア嬢も諦めてしまい、それを良いことに……いや、それにすら気付かずミレイユ嬢はグローリア嬢の持ち物をどんどん強請り奪い取っていった……」
その怒りと不満が最悪の形で爆発したのが、三月の襲撃事件の時なのだろう。
グローリア嬢は現在主治医の紹介でカウンセリングに通い、また神殿にも通って懺悔をしているという。
無理もない。突然襲われ、攫われ、殺されそうになったのだ。
だが、彼女の問題はそれだけではなかった。
妹の死を悲しみ責任を感じている自分と、喜んでいる自分がいることに悩み、半ばノイローゼになっているのだそうだ。
「我々の結婚式はミレイユ嬢の喪が明け、尚且つグローリアの状態が回復してからになる。北部への赴任はそれまで待ってもらえることになった。キャラハン子爵が手を回して下さったんだ」
「そうですか。グローリア嬢の一日も早い回復を祈っています」
結婚式にはぜひ君を招待させてくれ――そう言い置いてカミーユ・アトウッドは帰っていった。
夏が終わるまでにガスパール・ラブレー男爵の裁判は全て終わった。
異例の早さだった。
性急すぎる、と批判の声も上がったが、それ以上にラブレー男爵の極刑を求める声の方が大きかった。
十一名の若い女性、更にノックワース夫妻とその周辺の人たち、会わせて二十名以上が殺されたと新聞各社が報じるや否や世間はラブレー男爵の死刑と速やかな刑の執行を願い、警察署や裁判所の前でデモが行われた。
黒魔術と精霊が関わっていたことは巧妙に隠されたが、魔術師否定派の貴族たちはどこからか情報を手に入れたらしく、連日セイラムに嫌味を言って来て大変煩わしかった。
否定派の貴族たちが裁判官らを急がせたのだろう。
ラブレー男爵は爵位を剥奪され、ラブレー男爵家は取り潰しとなった。殺害現場である男爵邸も近々取り壊される予定だ。今後誰も住みたがらないだろうし。
ガスパール・ラブレー本人には大勢が望んだとおりに死刑が宣告された。彼は控訴しなかったため、その場で死刑が確定し、夏の終わりに刑が執行された。
セイラムもそれに立ち会い、ラブレーの死を見届けた。
ガスパール・ラブレーとその妻スカーレットの遺体はセイラムの特別の計らいにより、ラブレーが幼い頃に過ごした別荘近くの墓地の片隅に、共に埋葬された。
金糸雀座も取り壊しが決まった。こちらは元々の老朽化によるものとゼアラルがぶち抜いた屋根の大穴のせいだ。遠からず崩れるだろうと検分した大工たちが予言したため、国府がようやく重い腰を上げたのだ。
ちなみに取り壊し工事の費用をセイラムがいくらか負担した。屋根の穴を開けたのはリオン伯爵家の使用人であるゼアラルなので。
主が使用人の不始末の責任を取るのは当然のことだ。
――懐にはかなりの打撃だった。




