薔薇色の人生 十七
「嫌!! 放して! 誰か!!」
聞こえた悲鳴にセイラムは足を速めた。
――間に合うか?
――間に合わないかもしれない。
焦りばかりが募り、足が縺れそうになる。
「あっ」
転びそうになったセイラムを、両側からウォルクとゼアラルが腕を掴んで支えた。
「おい、お嬢さん」
「だからお前いい加減に」
「あの店、『パラディ』のチョコレートケーキを後で用意しろ」
「は?」
セイラムが問い返す間もなく、ゼアラルの姿が消えた。
「なっ、ゼアラル!?」
「あいつ、どこに行った!?」
セイラムとウォルクが戸惑い足を緩めたその時、前方から派手な破壊音が聞こえた。
壁、床、あらゆるものが破壊され、結果生じた轟音が。
緩めた足をもう一度フル回転させ、セイラムとウォルクは破壊音が聞こえた劇場に駆け込んだ。遅れてピエールとバート警部らも続く。
劇場内はもうもうと土煙と砂埃が立ち込めていた。
「何だっ、これはっ!? げほっ」
大声を出した拍子に埃を吸い込んでしまい、セイラムは咽た。隣でウォルクは取り出したハンカチで鼻と口を抑えている。
「げほげほっ、くそっ、『風よ』!」
杖を振ると風が起こり、土煙と砂埃をゆっくりと押し流し始めた。
煙が晴れるとそこには瓦礫の山と竜形に戻ったゼアラルの小山のような巨体があった。よく見るとゼアラルの足元にはラブレーが倒れており、少し離れたところでは精霊が立ち竦んでいる。そして、ゼアラルのごつい手の中にはグローリアの華奢な身体があった。
「せ、セイラム様……」
ウォルクの声に彼の方を見ると、ウォルクは天井を見上げていた。つられて見上げると星空と月が見えた。
「……は?」
天井に巨大な穴が開いている。
しばし思考が迷子になり、今日の夕飯は何食べたんだっけ、などと取り留めも関係もないことを考えてしまったが、すぐに思考が追いつき、同時にあの穴を開けたのが誰なのかを悟る。
ゼアラルが屋根も天井も突き破って突っ込んだのだ。
いくら廃墟とは言え管理している者がいる以上、きっちり責任は取らねばならないだろう。セイラムが。
ゼアラルはどうせ謝罪などしないだろうし。
ちょっと気が遠くなりかけたが、ゼアラルの手の中で身じろいだグローリアを見てセイラムは駆け寄った。
「ゼアラル、後で覚えておけ! グローリア嬢! 無事かっ!?」
グローリアは意識が朦朧とした様子だったが、セイラムの声にはっきりと目を開け、自分が巨大な竜の手の中にいることを知って顔を引き攣らせた。
「はっ、伯爵!? こ、これは一体何ですのッ?」
驚きのあまりところどころ声がひっくり返っている。
「驚かせて申し訳ない、この竜は味方です……一応」
セイラムの手を借り、グローリアはゼアラルの手から床に降りた。ふらついてはいるがしっかりと自分の足で立っている。大きな怪我はないようだ。
「グローリア嬢、下がってください。ウォルク、頼む」
グローリアをウォルクに預け、セイラムは杖を構えた。セイラムの目線の先にはよろよろと立ち上がるラブレーの姿がある。
「り、竜だと……? 馬鹿な、竜は孤高の存在……故に人間と契約するものはほとんどいないと聞いている……」
身構えながらも愕然としている様子のラブレーにセイラムは意地悪く言った。
「その変わり者がこいつだ。こいつは竜種の中でも最強クラスだぞ。観念しろ、お前に勝ち目はない」
虎の威を狩るようで何となく嫌だが、ここはゼアラルを利用して場を収めようとセイラムはゼアラルの前肢を軽く叩いた。ゼアラルは低い唸り声を上げラブレーと精霊を威嚇する。
立ち竦んでいる精霊は虚ろな表情が一転、畏れと敬愛が混ざったような表情をしていた。暗かった瞳に光が宿っている。セント・ルースの海岸でアエスが見せた表情とどこか似ていた。
「我らが王よ……」
精霊が発した声はどこか恍惚としていた。見た目は女のようだが声は低く掠れ、男のように聞こえる。
「俺を“王”と呼ぶか」
ゼアラルの声はどこか嬉しげだ。と、彼の姿が飴細工のようにぐにゃりと歪み縮んで、すぐに人形に戻った。その顔はいわゆる『ドヤ顔』をしている。
「愛い奴」
ゼアラルがにやりと悪そうな笑みを浮かべながら言った一言に、精霊は顔を輝かせた。陰気な見た目と相まって実に不気味だ。
一方ラブレーはそんな精霊の様子を見て焦りを募らせていた。目の前にいるセイラムは魔術師としてもそこそこ知られた存在であるし、セイラムの横にいる竜は自分と契約している精霊よりもはるかに上位だ。
どうあがいても勝ち目はない。
勝機を求めて周囲を見廻したラブレーは、ふと見覚えのある少年がいることに気付いた。
「お前……フレデリク・ノックワースの息子……!」
ピエールはびくりと体を震わせた。
がっちりと視線が合う。
あの時の恐怖を思い出し身体がどんどん冷たくなった。
「ピエール!」
セイラムに名を呼ばれてピエールはハッと我に返る。
――自分はもうあの時の無力で何も知らない子供じゃない。
ピエールは歯を食いしばってラブレーを睨み返した。
「あの時、父さんと母さんは俺とミシェルを置き去りにしてどこかに行っちまった! お前、父さんと母さんをどうしたんだ!! 父さんと母さんはどこにいる!?」
ピエールの問いに、ラブレーは顔に酷薄な笑みを浮かべて応えた。
「死んだ」
ピエールの息が止まる。
「死んだよ、あの夫婦は。あの石の在処を最期まで言わなかったからだ」
セイラムは口を覆った。ピエールとミシェルを引き取ってから、セイラムも実は秘かに二人の両親の行方を捜していたのだ。情報がほとんどなく捜索は難航していたが、ラブレーの言うことが事実なら最悪の結末だ。
「嘘だ」
ピエールの呟きをラブレーは笑い飛ばした。
「嘘ではない。私が殺したんだ。二人の遺体は我が家の井戸の中に放り込んだ。今もあそこにある」
「嘘だ!!」
「嘘ではない!! お前こそ答えろ! あの石をどこにやった!? フレデリクもその妻もあの石を持っていなかった! あの石! やはりあの石がなければ!!」
「うるさいっ! 石なんか知らない!! 何なんだよ石、石って!!」
ピエールは大声で叫んでラブレーに駆け寄ろうとした。拳を握り締め、殴りかかるつもりだ。が、ウォルクが腕を掴んで引き留めた。
「落ち着けピエール!」
「放してください! あいつが! 父さんと母さんが!!」
「ピエール!」
ウォルクを振り払おうと暴れるピエールの肩をセイラムは掴んだ。
「ピエール」
静かな紫水晶の瞳が涙を浮かべる水色の瞳をひたと見つめる。
「待ってろ。落とし前をつけさせてやる」
セイラムの瞳には紫色の炎が灯っていた。それを見たピエールはいつもと違うセイラムの雰囲気に動きを止める。
常に冷静なセイラム。今もそう見えるが、付き合いの長いウォルクには主が激怒しているのが分かった。ゼアラルは面白そうにその様子を見ている。
「もういい加減諦めろ、ラブレー。組合も僕も決してお前を許さない」
セイラムの魔力が膨れ上がった。セント・ルースでの一件でセイラムの魔力は大幅に向上し五賢者に匹敵するほどになったのだ。未だその強大な魔力をうまく扱えず持て余しているのだが、今は強い怒りによって感覚が研ぎ澄まされ、逆に制御できている。
おまけにセイラムの後ろにはゼアラルが控えている。
ラブレーはゼアラルが悪竜であることなど知る由もないが、自分と契約している精霊よりもはるかに強いことは雰囲気からわかっていた。
どう見てもラブレーに勝ち目はない。
だが、ガスパール・ラブレー男爵はそこで諦めなかった。もはや執念だ。
「スカーレット! 戻れ!」
ラブレーの上げた大声にグローリアは肩を揺らして驚いた。
――死体に向かって『戻れ』ですって? まさか、あの死体、動くの?
だが、動いたのは精霊だった。すっと滑るように動きラブレーの隣に立つ。
「全力を出せ。限界まで魔法世界から魔力を引き出すのだ!」
「……無茶を……対価は計り知れない……」
「対価なら何でもやる! 私の片腕を持って行け!」
「ガスパール……」
なりふり構わない様子のラブレーに、スカーレットと呼ばれた精霊は悲しそうな顔をした。
「伯爵」
グローリアは後ろからそっとセイラムに話しかけた。
「何です?」
セイラムは顔をラブレーの方に向けたまま返答する。
「あの方、自分の奥方を生き返らせたいらしいんですの。病で亡くなったって。あちらに……」
グローリアはかろうじて無事に残っている舞台の端を手で示した。
「寝かされている御遺体がそうですわ。お名前はスカーレットです」
セイラムが目をやると、確かに人間くらいの大きさの布包みがある。周りには大きな瓶と大量の宝石。瓶の中身は……何やら赤いものが詰まっている。
「そうか、自分の奥方を……」
セイラムは一瞬痛ましい顔をした。だがすぐに厳しい顔に戻る。
「だが、理を曲げて良い理由にはならない。どんな理由があろうと死を覆してはならないんだ。何故なら」
セイラムはちょっとだけ死んだ両親のことを想った。優しかった両親。温かな笑顔。二度と戻ることはない。戻って欲しいと願ってはならない。どんなに惜しくとも。どんなに恋しくとも。
「死だけは絶対でなければならないからだ」
不老となった例外が存在してしまうこの世界で、死だけは絶対でなければならない。五賢者たちも自死はできないが生きている以上いつかは死ぬだろう。
生と死は表裏一体。片方が無くなれば必然的にもう片方も失われる。死なない生き物がいるとしたらそいつはもう生きてはいないのだ。
人は必ず死ぬ。そして、死んだ者は生き返らない。それがこの世界の絶対の律だ。
セイラムの言葉に、ラブレーの顔が徐々に醜く歪んでいく。自分でもわかっているのだろう。理を曲げようとしているのを。それがどういう意味を持つのかを。
理を曲げたものにはもれなく罰が下される。それが五賢者のように永い生を生きることになるのか、それとも雷にでも打たれてひどい死に方をすることになるのか、それは精霊王のみぞ知る、と言ったところだろう。
理を曲げることへの恐れと愛する者を生き返らせたいという野望。正義と悪徳。その二つで板挟みになっている。ラブレーはそれを自覚していた。自覚してなお、望みを叶えようとしている。
「黙れ、お前に何がわかる!? スカーレットは私の全てだった! 私の命そのものなんだ!!」
拳を震わせ口から唾を飛ばし、ラブレーは吠えた。
「もうすぐスカーレットは生き返る! 以前のように微笑んでくれる! すべてが元通りになるんだ!!」