薔薇色の人生 四
遺体安置所から出て地上に戻ったセイラムたちは、王都警察本部の正面玄関でスパイサー刑事と別れた。
初夏の日差しと晴れた空、青々と茂った樹々の葉のコントラストが目に眩しい。
外に出て歩き出そうとした時、セイラムは突然呼び止められた。
「リオン伯爵!」
呼び止めたのはバート警部だった。
でかくて丸い腹を揺らしながら駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、バート警部? 何か用でも?」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
体型から察せられるとおり、バート警部は運動が得意ではない。彼の息が静まるのを待ってセイラムはもう一度声をかけた。
「バート警部、何か用かな?」
「はぁ、はぁ、す、すみません、伯爵」
バート警部はポケットから取り出したハンカチーフで額の汗をぬぐい、息を整えてからようやく口を開いた。
「実はですな、つい先ほどモリエラ市警のブルワー警部から連絡があったんですよ。伯爵に伝言を頼まれまして」
ブルワー警部。
セント・ルースに向かう途中の汽車で謎の男たち――オーブリーの部下たちに襲撃された後、捕らえた男たちを逮捕連行してくれた警部だ。バート警部とは反対で、細身のスマートな体格に立派な口髭を生やしている。
「ブルワー警部か。何だろう? 捕らえた男たちについては組合が介入して引き受けてくれることになっていたはずだが、何か不手際でもあったのか?」
「いえ、それが、それがですな、捕らえた男たちが全員死んだ、と」
セイラムは言葉を失った。ウォルクも驚愕の表情で固まっている。ゼアラルのみどこ吹く風といった様子でバート警部を見下ろしていた。
初夏の風が吹き抜ける。
「死んだ? 全員!? どういうことだ?」
「ブルワー警部が言うには、組合から派遣されてきた魔術師と、男たちの身柄引き渡しについての手続きをしている最中に突然、く、首が落ちたそうです。男たち全員の首が」
「首……」
「落ちた首の付け根には禍々しい紋様の魔法円が描かれていたそうです。遠隔操作で首を落とすなり何なりする類の術式ではないか、とのことです。遺体は組合が引き取るとか」
「……同じだな、セント・ルースの海岸で死んだ者たちと」
「セイラム様、確か海岸で死んだ者たちは、特定の条件を満たす――例えば自分たちの情報を喋ると発動する術式で死んだのでしたね?」
ウォルクの問いにセイラムは答えた。
「ああ、そうだ。だが、今回はそれとは違う。海岸の時と同じ術式がモリエラで死んだ者たちにも仕掛けられていたとして、それはおそらくオーブリーが仕掛けたものだろうから、奴が死んだ時点で奴の術式は解除されているはずだ。特別な方法を使えば死んだ後も術式の効果を継続できるが、奴はそんなことしていないだろう。何故なら奴はあそこで自分が死ぬなんて思っていなかっただろうからな」
「では……」
「もう一つ、別の誰かが男たちに術式を仕掛けていて、それを遠隔で発動させたんだろう。おそらく、オーブリーの仲間の誰かが、自分たちの組織とやらのことを喋られたら困るから」
汗ばむような陽気なのに、なぜか寒気を感じた。人の命を簡単に奪える者たちがセイラムを狙っているかもしれないのだ。
深刻な顔をして黙り込んだ二人に、バート警部は声をかけた。
「お、お二人とも、何か危ないことに首を突っ込んでいるのですかな?」
「……僕たちの方が首を突っ込んだんじゃない、向こうから僕たちを巻き込んできたんだ。僕たちは被害者だ、被害者」
「そ、そうですか、それならよかった! いや、よくないか。とにかく、何かお役に立てることがありましたら仰ってください」
「ああ、ありがとう、バート警部」
セイラムはそう言って微笑んだ。
「さて、私はそろそろ戻らなければ。実は会議を抜け出してきているのですよ。では、失敬」
バート警部はセイラムたちに会釈をして警察本部内に戻って行った。それを見送り、セイラムたちは歩き出す。十数メートル離れたところに待機させていた馬車まで戻ると、御者のエドアルドが扉を開けてくれた。だが、セイラムは乗ろうとしてぴたりと動きを止めた。
「セイラム様?」
動きを止めた主人にエドアルドは遠慮がちに声をかけた。
「セイラム様、どうなさったのですか?」
後ろからウォルクも声をかけた。
セイラムはくるりと馬車に背を向けた。持っていた杖――魔術に使う杖ではなく紳士の必需品である杖だ――の先端が地面の石畳に当たりカツンと音を立てた。
「すまない、エドアルド。少し歩きたい気分なんだ。そうだな……東六番地区のロイズ王立学院の近くまで先に行って、そこで待っていてくれないか?」
「わかりました。ロイズ王立学院ですね? 正門前の広場で待ちます」
「ああ、頼む」
エドアルドは頷くとすぐに馬車の御者台に乗り、馬の尻に鞭を一発喰らわせて走り去った。
「セイラム様? どうなさったんですか?」
「歩きたい気分なんだ。悪いな、付き合わせて」
「いえ、それは構いませんが……」
セイラムは自分を案ずるような顔のウォルクに曖昧に微笑みかけた。
「少し考え事をしたいんだ。さあ、行こう」
そう言ってすたすたと歩きだす。その後をウォルクとゼアラルが続いた。
「おい、あいつはどこに向かっているんだ?」
「あいつと呼ぶなといっただろう。一応うちの屋敷には向かっているぞ」
セイラムの後ろでウォルクとゼアラルが会話する。ゼアラルには何度も従者としてのマナーなどを教えているのだが、セイラムを主人だとは思っていないし敬うつもりもないようだ。
「おい、あの建物には見覚えがあるぞ。駅だろう?」
「そうだ。コルレクス駅だ。この間来たばかりだろう?」
賑わいを見せるコルレクス駅前を通り過ぎ、三人は南六番地区に入った。セイラムは前を見続けたまま振り向かず喋らずひたすら歩いている。
考えるのはセント・ルースでの出来事と死んだ男たちのこと、そして自分自身のことだ。
オーブリーに捕らえられ、彼の作り出した異空間に閉じ込められていた時に考えたことを思い起こす。
――オーブリーの所属している組織とは?
――なぜ、どうやって世界を変えようとしているのか?
――そもそもなぜ自分は“魔法”が使えるのか? 五賢者や、他の力ある魔術師たちは誰一人として使えないのに、なぜ自分にだけ?
――その“魔法”もできることは限られている。“魔法”についてセイラムが知っていること、理解していることは少ない。よく知らないものを使いこなすことはできない。
――今のセイラムにはごく単純な“魔法”しか使えない。何という無用の長物だろう。
――どうすれば“魔法”を使いこなせるようになる?
そう、“魔法”をもっと使いこなすことができれば。できていたら。
捕まるという失態を犯すこともなかっただろう。ウォルクに怪我をさせることもなかった。死人も出さずに済んだかもしれない。
たらればの話ばかりを考えている自分に嫌気がさし、セイラムは首を振った。
やはり一度、師匠である紅炎の魔女クリムゾニカ・ケストナーに会って相談する必要がある。
だが彼女は保護した怪我人の看病に忙しいようだし、そもそもその怪我人もセイラムが目覚めさせたゼアラルに原因があるらしい。そしてゼアラルのことをセイラムはクリムゾニカにまだ直接伝えられていないのだ。
非常に気まずい。次に会う時なんと言って謝ろう。
「……さま、セイラム様!」
突然名前を呼ばれ、セイラムは我に返った。振り返ると、どこかの店に入ろうとしているゼアラルと、彼の首根っこを掴んで引き留めようとしているウォルクの姿が目に入った。
「すまない、どうしたんだ?」
二人のところに戻ると、ウォルクが顔をしかめながら言った。
「こいつが、この菓子店が気になるようで……申し訳ありませんが少し入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないが」
「おい、放せ! 執事!」
「うるさい、騒ぐな!」
ようやく解放されたゼアラルは浮かれた足取りで菓子店に入って行った。慌ててウォルクが後を追う。
外から店内を覗き込むとそこは量り売りの店のようで、壁一面に作り付けの棚が並び、棚にはどでかい瓶がずらりと並んでいた。瓶には色とりどりのキャンディやゼリービーンズ、一口サイズのクッキーやキャラメル、チョコレートが詰め込まれている。
色ごとに分けられたキャンディは見ているだけでも楽しいし、クッキーはバター風味、ココア味、チョコチップ、メレンゲクッキーやスノーボールなど種類も豊富だ。
もちろんチョコレートも全て一口大で様々なものが用意されている。丸いミルクチョコ、ハートの形のピンクのチョコ、砕いたナッツが散らされたもの、ココアの粉をまぶしたトリュフ、チョコレートでコーティングされたドライフルーツ、チョコクリームが中に入ったマシュマロ、一口サイズのブラウニーもある。
店が用意した紙袋にお菓子を入れていき、会計時に重さを量って重量に応じた金額を払うシステムだ。
ゼアラルは早速紙袋にお菓子を詰め込んでいた。しかもチョコレートばかりを選んでいる。どれだけチョコが好きなのだろう。
「おい、十グラムで一アリアンだからな。考えて買え。そもそもお前財布は持っているのか?」
「持ってない」
「は!? どうして持ってこないんだ!? 先に給料をいくらか前払いしてやっただろう!?」
大の男がお菓子の前で口論しているのを子供たちとその保護者が遠巻きに見ている。彼らが逃げないのはウォルクとゼアラルが顔立ちの整ったイイ男だからだろうか。服装も執事らしいきちんとした身なりと従僕のお仕着せだ。身元がしっかりしていそうだから怪しまれないのだろう。
なかなか愉快な光景にセイラムは笑みをこぼした。
ちなみに、アリアンは鉄貨だ。四アリアンで一ドミオン銅貨になる。
菓子店のドアから十数メートル離れたところに大きな街路樹が立っている。日差しを避けるべくセイラムは木の下に移動した。ここなら菓子店から出るとすぐ目に入る。ウォルクも見つけやすいだろう。
どうなることかと思ったが、ゼアラルとは結構うまくやれている。と思っている。
彼の封印が解かれてからまだ十日ほどしか経っていないが、今のところ彼が何かを破壊しようとしたことはないし、ちゃんと言って聞かせればそれなりにこちらの命令を聞いてくれる。
一番ゼアラルの面倒を見ているのがウォルクだ。一応使用人たちのボスでもあるし、セイラムがウォルクに命じたからでもあるのだが。
ウォルクは今ピエールの面倒も見ている。負担を増やしてしまって申し訳ないとは思うが、ついつい頼りにしてしまうのだ。
セイラムはウォルクに特別手当を出すことを真剣に検討しようと、心のメモ帳に書き留めた。
「こんにちは、リオン伯爵」
突然声をかけられ、セイラムが振り向くと、見知らぬ背の高い男がすぐ隣に立っていた。
思わずびくりとする。気配がまったくなかったからだ。
年齢は二十代後半くらいだろうか。もう少しいっているようにも見える。艶のある黒いクラヴァット、黒いベストに黒いフロックコート、ズボンも靴も黒。クラヴァットは紅玉のピンで留められている。
黒いトップハットに光沢のある黒塗りの杖。持ち手の部分は燻した銀だ。
趣味は良いが黒ずくめで何となく怪しく感じる。
それは男の髪が長いからかもしれない。
今の時代、男が髪を長く伸ばすことはほとんどない。一昔前なら男も髪を伸ばし、リボンで縛ったり鏝を使って巻いたりしていたものだが、そんな時代はとっくに終わった。
だが、この男は黒髪を長く伸ばし、黒いリボンで一つに縛っていた。
紅玉のような真紅の瞳がセイラムを見つめている。
「ご機嫌いかがかな?」
舐めるような視線。
何となく蛇のような印象をこの男に感じた。
「どなたですか?」
少し身を引きながらセイラムは男に問い返した。男は答えずにじっとセイラムを見ている。
「あの……?」
「天秤の調和はいかにして保たれるか」
「は?」
男の突拍子もない発言に、セイラムは思わず聞き返した。
「天秤? 何の話です?」
「彼女は実に厄介な機構を遺した。おかげで何もかもがうまくいかない……悪竜のことも、それに、精霊王も……」
悪竜。紛れもなくゼアラルのことだ。彼が何だと言うのか。
精霊王。精霊たちを統べる王。人の前に姿を現すことはほとんどなく、“調停者”と呼ばれる特別な魔術師の前にのみ姿を見せるという。
「オーブリーのことはそれなりに評価していたんだが、彼は自分を過大評価しすぎた……残念だ」
男の発言にセイラムは一気に警戒を強めた。
「お前は何者だ?」
セイラムは男を睨みつけた。紫の瞳と真紅の瞳が交わる。
「オーブリーは、あれは愚かだっただろう? 自分の能力を過信して、君を手に入れるなど簡単だと言っていた。だから死んだわけだが。……だが悪竜が復活するとは完全に想定外だった。オーブリーにとっても、私にとってもだ」
男はにたりと笑った。セイラムは何故か鎌首をもたげた蛇を連想した。要するに、笑っているのに不気味さを感じたのだ。
目が笑っていない。
それに気付いたセイラムは、さらに二歩身を引いた。木陰から出たセイラムの頭上に陽の光が燦々と降り注ぐ。木陰の中に留まっている男とは対照的だった。
「お前は何者だ?」
セイラムはもう一度問うた。
「モリエラ市警に捕まっていた男たちの首を落としたのは私だ」
背筋に寒気が走った。
「何だと? お前が殺したのか? いったい何故?」
「簡単なことだ。我々のことをいろいろ喋られると困るのでね。それに役に立たない者はいらない。君たちが列車から川に落とした男たちももう死んでいるよ。それはオーブリーがやったんだが」
緊張から来る圧迫感にセイラムは喘いだ。
「……僕に何の用だ?」
「ははは、そう脅えなくともいい。今のところ君をどうこうしようとは考えていない。何事にも時機というものが大事だからね」
男はトップハットを取り礼儀正しく一礼した。
「だが、準備がすべて整ったら改めて迎えに来よう。その日までしばしの別れだ、リオン伯爵」
男の足元に光が灯った。光る魔力の粒子が魔法円を描く。
「転移の術式!?」
「予め準備しておいたんだ。これなら発動するのも早いし簡単だろう?」
光が男を包む。
「セイラム様!」
気付いたのか、菓子店からウォルクとゼアラルが飛び出してきた。ゼアラルの腕には特大サイズの紙袋が抱えられている。
「また会おう、リオン伯爵。私の名前はデュ・コロワだ」
その言葉を残し、光と共に男――デュ・コロワは消え去った。